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2010年12月17日金曜日

「ヒステリーのディスクール」、あるいは「サントーム」

前回、意図的に「ヒステリーの言説」として書いてみたわけだが、つまりは「情報」「コミュニケーション」を持ち上げる連中、糞食らえ、という暴言に近い言葉を吐いてみたわけだが……。ラカン「四つの言説」から「サントーム」へ、あるいは「文学」の顕揚

ここで、すこし、知る人ぞ知る、各々有能な精神分析家であり、ラカン理論の解釈者でもある、向井雅明氏と藤田博史氏の間の一騒動の原因となったらしい、向井雅明氏のコラムの文章を引用してみよう。(東京精神分析サークルコラム)
このコラムの最後に「発言すること」という記事を書いた。そこでアラン・バディウーから聞いた毛沢東のエピソードについて触れ、グループを発展させるために自由連想法を応用するように提案した。だがあまり理解されなかったようだ。それどころか毛沢東主義などのレッテルまで貼られる始末である。そういえば、かつてバディウも、同じような決めつけをされたことを思い出す。
 批判のひとつは、グループにおいては分析の場でなされるような、自由連想的な作業はできない、というものであった。分析において分析主体analysantは自由連想の作業をするのであるが、グループにおいて同じようなことはできないというのである。だがラカンは、「教育の場において私は分析主体analysantとして在る」と述べている。教育の場、すなわち自ら設立したグループのなかでも分析主体として作業すると言っているのだ。
 分析主体analysantとして在るというのは、まず分析家analysteとしてではないということである。つまり相手に作業をさせるのではなく、自分自身が作業するのだ。それはまた支配者という、他人に何かを命令する立場でもない。四つのディスクールにしたがって大学のディスクールを取りあげると、知を携えてそれを誰かに教え込む者としてでもないのだ。
 分析主体として在るということは、ヒステリー的な分裂した主体として自由連想の作業のなかで知を見つけ出していこうと振る舞うことである。
 分析のセッションのなかでは作業は分析家への転移下でなされる。ではグループの中の作業において転移は成立するのであろうか。ラカンはグループにおいての「分析作業」では、転移が向けられるような分析家は存在しないが、グループが転移の支持として作用すべきである考える。それをラカンは「作業の転移」transfert de travailと呼ぶ。たとえばラカンの言うグループは、軍隊のように、グループの主導者のような人にたいして転移が成立するというものではない。もし、指導者に転移をおこして行動するようなスタイルを採るなら、分析的グループを他のものとを区別することはできない。こうした「作業の転移」によってのみ分析グループの中での作業が可能になるのだ。
 ラカンは、知を発見していく分析主体はヒステリー的存在である、と述べている。精神分析の主体、「ヒステリー的主体」は科学から排除された主体であり、科学のディスクールはヒステリーのディスクールと共通しているということを踏まえれば、知を追求するという立場としてヒステリーがやって来るというのは何らふしぎではない。この点からするとラカンが知を発見していくために分析主体=ヒステリーとして在るというのはうなずける。
 私は精神分析のためのグループはおよそグループらしくないものでなければならないと言っている。それは分析家は分析の場ではあらゆる理想の機能を停止させなければならないからだ。そのために他のグループのように制度とか規則、または固有名詞を前面に出すことはできないのだ。そこでは、各自が自由にものを言い、考えて、新しい知を構築していかなければならない。既存の組織のあり方をスライドして当てはめ、そこに安住することに意味はない。新しい知を構築する作業を地道に続けていき、獲得された知を蓄積していくことで、初めて精神分析はこの地に根付き、何か新しい息吹をもたらすことが可能になるだろう。


つまり、向井氏の、ラカンの引用によれば、教育の場では、《ラカンは、「教育の場において私は分析主体analysantとして在る」と述べている。教育の場、すなわち自ら設立したグループのなかでも分析主体として作業すると言っている》らしい。つまり、むしろ「患者」のポジションにたっており、セミネールの参加者のほうが「分析医」である、と。さらに言えば、ラカンはセミネールの聴講者に転移しており、聴講者はそれを分析する、と。

このあたりと、最晩年の「サントーム」「ララング」概念をどう考えていったらよいのか……、少なくともラカンの上記の主張は、その概念を生み出す以前のものだろうが、ラカンが「ヒステリーの主体=無意識の主体」として聴衆たちに、彼を「分析=読み取る」ように言っていたというのは、とても示唆的である。決して「知の主体」としてではなかったのだ、もちろん、そう受け取らざるを得ない言説もあるだろうが。

さらに最晩年のラカンは「無意識の主体」、つまり意味の領域の円環のなかの言説から「非・意味」の領域へ飛翔しようとする。―――「シニフィアンからシーニュ(記号)への移行と同様の、<他者>から<一者>への移行」としてのサントームへ。

「サントーム」が非・意味の「シーニュ」として語るということであれば、それを聴くものは、「芸術作品」に向かうもののようにして、われわれはドゥルーズが『プルーストとシーニュ』の決定的な追補「アンチロゴスまたは文学機械」の章で述べるように、「アンチロゴス」に依拠しなくてはならない。(ある何ものかの言語化―――中井久夫、プルースト、樫村晴香、バルトなどをめぐって)


意味を発見すべき器官でありオルガノンであるロゴスに対して、機械であり機械装置であるアンチロゴスが対立する。そしてこのアンチロゴスの意味(あなたが望むすべてのもの)は、単に機能のみに依拠するのであり、そしてその機能は、分離された部分に依存する。現代の芸術作品には、意味の問題はない、使用の問題があるだけである。

プルースト自身の言葉も引用してみよう。
……なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった、というよりも、むしろそれは、特有の快楽を私にあたえるのでこれまでつねに別格の形で私の探求の目的になっていたもの、すなわち甲の存在にも乙の存在にも共通であるような点、といったほうがよかった。そんなもの、そんな点を認めるとき、はじめて私の精神は、突然よろこびにあふれて獲物を追いかけはじめるのだが、しかしそのときに追いかけているものは―――たとえば、さまざまな場所にもさまざまな時にも共通する、ヴェルデュランのサロンの同一性といったものは―――なかば深まったところ、物の表面それ自体からかなたの、すこし奥へ後退したところにあるのであった。そして、それまでの私の精神といえば、たとえ私自身、表面活発に話していても―――その生気がかえって精神の全面的な鈍磨を他の人々に被いかくしていて―――そのかげで精神は眠っていたのであった。したがって、精神が深い点に到達するとき、存在の、表面的な、模写的な魅力は、私の興味からそれてしまうというわけだ、というのも、女の腹の艶やかな皮膚の下に、それを蝕む内臓の疾患を見ぬく外科医のように、もはや私はそのような表面の魅力にとどまる能力をもたなくなるからだった。

さらに。
文字を一連のシンボルと考えてから、初めて表音文字を使用するような民族とは反対の方向に、私の生活の歩みは進んだ。長い年月の間、ひとびとが進んで彼に与える、直接的な発言の中にだけ、ひとびとの真の生活と思想とを探求しようとしていた私は、彼らがそうしないので、真理の理性的で分析的な表現ではないような証拠にだけ重要性を与えるようになった。ことばそれ自体は、困惑したひとの顔の充血のように、あるいはまた突然の沈黙のように解釈されてのみ、私に教えるものがあった。

ここでのプルーストは、すでにラカニアンである。すくなくともフロイト主義者である。このプルーストやドゥルーズの目指すもの、そのままラカンの「サントーム」と近似性があるのかどうかは、わからない。

※前回、「情報」「コミュニケーション」を持ち上げる連中の批判をしたのだが、そうはいっても現代のテクノロジーの達成をまったく無視したらいいわけではない。たとえばかつて柄谷行人は次のように語っている。<創作(ポイエーシス)/説明するということ、あるいはクリエーター/批評家>

人間が作ったものと自然が作ったものの差異はなにかという問いは、それ自体歴史的である。実際この問いが生じるのは、またテクネーの意味が問われるのは、きまってテクノロジーが飛躍的に発展するときである。(……)サンボリストたちの問題意識は、19世紀のテクノロジーに密接に関係するのである。今日において、構造主義は、いうまでもなく、コンピューター・サイエンスの所産である。逆に、現代のテクノロジーに無関係にみえるような哲学者の言説においても、本質的にこの関係が存する。たとえば、ジャック・デリダがアルシエクリチェールについて語るとき、分子生物学が遺伝子をエクリチュールとしてみているという事実の上である。

このことは何を意味するのだろうか。第一に、われわれはもはや伝統的な用語によって語るべきではなく、すくなくとも現代のテクノロジーの達成を前提としておかねばならない。さもなければ、それはわれわれを伝統的な思考の圏内に閉じこめてしまうだろう。だが、同時に、われわれは歴史的な過去に遡行しなければならない。それは、現代のテクノロジーが与えている「問題」が、そのなかで解かれるべきものであるどころか、一つの反復的な症候にすぎないことを知っておくべきだからだ。さらに、もっと重要なことは、われわれの問いが、我々自身の説明できない所与の環境のなかで与えられているのだということ、したがってそれは普遍的でもなければ最終的でもないということを心得ておくことである。