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2010年12月19日日曜日

資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)

◆ジャック=アラン・ミレールのセミネールCommentary On Lacan's Text,       in Reading Seminars I and IIより。

ミレールは、このセミネールで、ラカンの「ファルス」理論のひとつの頂点としても見られることのある『ファルスの意味作用』についてこのように語っている。


【ラカン自身による「欲望」と「欲動」の混同】
ラカンのテクスト「フロイトの<欲動>と精神分析家の欲望について」は、欲動と欲望のあいだの区別を強調することを目的としています。
このテクストは欲動と欲望との区別に充てられています。このテクストはそれら二つを混同してはいけないということを強調しています。ラカン自身、「ファルスの意味作用」(Ecrits)においてこの二つを混同していたのです。

欲望と欲動】

「欲望は<他者>からやってくる、そして享楽は<もの>の側にある」
ラカンがここで強調していることは、シニフィアンの秩序――<他者>であるその場所――と享楽のあいだの区別です。享楽は、セミネールVII『精神分析の倫理』で練り上げられたフロイトの概念である<もの>[das Ding]を経由して、この論文で取り上げられています。 
享楽と欲動については、ミレールは他の場所で次のように述べている。

【享楽と欲望】
フロイトは欲動のgoalaimを区別しています。人は欲動の対象を手にしたり手にしなかったりします――口唇欲動の場合を例にとれば、対象とは食べ物です。しかしそれでもなお、フロイトが言うように、対象そのものは重要ではありません。欲動の対象はこれでもあれでもありえますが、欲動の回路において満足させられるものは同じものとして残り続けます。goalに達しないときですら、aimを実現することができます。それが、享楽です。「(『精神分析の四基本概念』の)文脈と概念」 ジャック=アラン・ミレール


ジジェクも次のように語っている。

終点は最終目的地だが、目標はわれわれがやろうとしていること、すなわち道wayそのものである。ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。ラカン「欲求ー要求ー欲望」、あるいは「欲動」と「目標ー終点」


欲動をあらわすラカンの数学素はどうしてS/Dなのか(ここでのS/は斜線を引かれた主体ということ:引用者)。

第一の答えはこうだ。欲動はその定義からして「部分的」である、すなわちつねに身体の表面の特定の部位―――いわゆる「性感帯」―――と結びついている。ただしその部位は、皮相的な見解とは裏腹に、生物学的に決定されるのではなく、意味作用による身体区分の結果である。つまり、身体表面の特定の部位は、解剖学的な位置によってではなく、身体の象徴ネットワークにどのように取り込まれるかによって、性的な特権をあたえられるのだ。

この事実の決定的証拠は、ヒステリーの症候にしばしば見受けられる現象、すなわち通常は性的になんの意味ももたない身体部位(首、鼻など)が性感帯として機能しはじめるという現象に見出される。

だが、この古典的な説明ではまだ不十分だ。この説明では欲動と要求との密接な関係が見落とされている。欲動とはまさに、欲望の弁証法に取り込まれない、弁証法化に抵抗する要求にほかならない。要求はほとんどつねに弁証法的媒体を含んでいる。われわれは何かを要求する。だが、われわれがこの要求を通じて真に目指しているものは別の何かであり、時にはその要求そのものの否定であることすらある。何かを要求するたびに、かならず一つの疑問が生じる。「私はこれを要求する。だが、それによって本当は何を求めているのか」。反対に、欲動はある特定の要求に固執する。弁証法的策略には絶対的に引っ掛からない「機械的」なしつこさなのである。私は何かを要求する、そして最後までそれに固執する、というわけである。資料:「器官なき身体」と「身体なき器官」、あるいは欲動



ジジェクは上記の文に次のような注をつけている。

この欲動と欲望の関係について、われわれは精神分析の倫理に関するラカンの有名な格言ーーー「自分の欲望を諦めてはいけない」---を少々修正してもよいだろう。欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。「欲望する」ということは、欲動に道を譲ることを意味する。アンティゴネーに従い、「自分の欲望を諦めない」かぎり、われわれは欲望の領域から外へと足を踏み出し、欲望の様相から欲動の様相へと移行するのではないか。(鈴木晶訳)

もっとも享楽には次のような指摘もある。
Encoreにおいて、ラカンは«l’autre jouissance», «une autre que la jouissance phallique», «jouissance radicalement Autre»と表現されているものはjouissance féminineことだとしている(同掲書、p.26-7)。ここでは、「男性器官がにおいて、他者の(器官の)一部の享楽の体験を形成し、それだけでなく他の享楽les autres jouissances」とある。ファロスの享楽にはなしを戻すと、フロイトの『文明と居心地悪さ』において窺うことができるとして、意味は性的だとしても、それは性的ななにかに欠けているものに置き代わるからそうなのだとし、「意味は性的ななにかの反射ではなくそれを代補するsupléerするもの」とされます。「資料:ラカン 想像界 象徴界 現実界の結び目」あるいは、「資料:ラカン「Encore」(1973)をめぐって」





さて、ミレールのセミネールに戻る。フロイトの著作で、欲望が禁止によって設立されているわけだが、ミレールはラカンの「欲望は法に従属している」というテーゼをめぐって次のように語る。

【欲望は法に従属している】
禁止、つまりよく知られた近親相姦の禁止は、何よりもまず、母の欲望[desir de la mere]を満足させることに対する禁止へと形を変えます。それが享楽のシニフィアンの禁止[l'interdir signifiant]についての隠喩であると、ラカンはセミネールVII で既に言及していました。近親相姦の禁止が意味するのは「汝は汝の極上の享楽に到達してはならない」ということです。この物語において反響するのは、享楽それ自体にのしかかったシニフィアンの禁止です。この観点からラカンは、欲望はつねに享楽の禁止に繋がれており、それゆえ欲望の主要なシニフィアンが-φであることを強調しています。欲望はつねに欠如によって設立されます。それゆえに、欲望は法と同じ側にあるのです。

つまり、これが、「欲望は<他者>からやってくるということの意味」である。

【欲動あるいは享楽とはなにか】
欲望と享楽との区別でいえば、欲望は従属したグループです。法を破る諸幻想においてさえ、欲望がある点を越えることはありません。その彼岸にあるのは享楽であり、また享楽で満たされる欲動なのです。

この新たな概念の分割において、享楽は禁止に繋がれてはいません。欲動は禁止についてそれ以上考えることができません。つまり、欲動は禁止については何もしらず、禁止を破ることなど夢にも思わないのです。欲動は自身の性向を追い、つねに満足を得ます。一方、欲望は「彼らは私がそれをすることを望んでいる、したがって私はしたくない」「私はそっちに行くように想定されていない、だから私が行きたいのはそっちなのだ。しかし、最後の最後でそうすることはできなくなるだろう」などと考えて気を重くしています。
言い換えれば、欲望の機能は従属と動揺の両方において現れており、去勢、享楽の去勢に密接に関係したものとして自らを現しています。欲望の主要な記号が-φである理由はこれなのです。

【享楽をさらに具体的に】


享楽を具体化するものは何なのでしょうか? どのようにして享楽はこの弁証法に具体化されるのでしょうか?

ここでのラカンの答えは、享楽はトカゲが自分自身を切断する〔災難にあったときに自らの尻尾を切る〕場合と同じように具現化されるということです。言い換えれば、享楽は失われた対象に受肉化されるのです。そして「利益と損失を含んだ」 それら全ての対象は、ラカンが言うように-φの格納場所[place holders]なのです。

言い換えれば、ここで私たちはa/-φという主要な公式を提供することが出来ます。この公式は、欲望は-φに繋がっており、一方で享楽は対象a に繋がっているということを意味しています。

a ◇jouissance[享楽]
----
-φ ◇desir[欲望]
神話において禁止の形式をとるものは、元来、失われたものです。禁止は失われたものについての神話です。「享楽の垣根における欲望の災難[Mesaventure du desir auxhaies de la jouissance]」 とラカンが上品に呼んでいるのはこれです。欲望が享楽に向かって進もうとするときはいつでも、それはトカゲの尻尾のように落ちます[ca tombe]。これが-φの素晴らしい表現であり、また、対象a の表現でもあることを認めなければなりません。対象a とは、すなわち、空虚を埋める失われた対象です。また、ここで「同一化は欲動を満たすことなしに欲望によって決定される」とラカンが言うとき、フロイトの第二局所論についてのラカンの読みがその真価を発揮します。
欲望と欲動は混同されてはならない二つの異なった秩序なのです。

【対象aと-φ、あるいはファルスの再説明】


a/-φの公式に戻りましょう。まず始めに、-φはシニフィアン体系における欠如、つまり<他者>における欠如を指し示しています。それは享楽の欠如を指し示しています。これは私たちが去勢と呼ぶものであり、ラカンはこれを謎[enigma]とみなしています――主体はしばしばこの謎を避けることによって解決しています。

つぎに、失われた対象がこの〔欠如の〕場所を占めにやってきます。ラカンがシニフィアン体系と享楽のあいだの繋がりとして示しているのはこのことです。この対象は、-φ、つまり去勢によって示されるシニフィアン体系の欠如あるいは-1 に関わる一方で、他方では失われた対象の機能にも関わっています。

後にラカンは去勢に正確な意味を与えています。性的関係の不在について語ることによってこの謎に回答を与えているのです。ラカンはシニフィアン体系に欠けているものに以下のような意味を与えています――欠如しているものは何にもまして両性の関係を符号化することができる諸シニフィアンであり、ファルスのシニフィアンがこれらの欠けている諸シニフィアンの場所にやってくる。ファルスはそのとき性的関係の不在についての覆いとして現われることになる。この謎についての最終的解答ではなく、偽の解答として現われるのである。


【ラカン理論の転換】――「欲望」から「欲動」「幻想」へ

このような〔理論〕構築において、二つの用語が前景に出てきます。象徴的ファルスの機能が消去され、欲望の価値が下がるということが、ラカンの〔理論〕構築において起こるのです。ラカン理論の綿密な練り上げのすべての期間において、ラカンは欲望における生きた機能を支えようとしました。しかし、ひとたび欲動を欲望から区別すると、欲望の価値の引き下げがおこり、ラカンは欲望が依拠する「否定[not]」をとりわけ強調するようになります。そして反対に、享楽を生産する失われた対象に関係した活動としての欲動が本質的なものになり、二次的に幻想が本質的なものになります。

幻想と欲動がラカン理論の中心に移動するのです。特にパスの理論においては、失われた対象への主体の関係の二つの様態として、幻想と欲動が理論の中心となります。

フロイトの著作では幻想について他に何かあるでしょうか? 幻想は満足に関連した意味です。意味の生産と満足の生産は幻想においてもっとも結合されます。この意味において、欲望が価値を落とす一方で、幻想は本質的な用語となるのです。

【袋小路としての欲望と成就されるものとしての欲動】


欲望に本質的なのはその袋小路[impasse]です。この原則は不可能性において見つけられるとラカンは言っています。そして私たちは、この活動は本質的に行き止まりに到達するといいうるでしょう。ラカンが「1967 年の提案[Proposition de 1967]」 で「私たちの袋小路[impasse]〔は〕無意識の主体の袋小路である」と言っていることはおおよそこのようなことです。「私たちの袋小路は欲望の主体の袋小路である」ということも出来るでしょう。主体と欲望が分割される 一方で、主体と欲動は分割されないのです。欲動が袋小路にたどり着くことはありません。

主体は幸福であるとラカンが言い、陽気な様子でコメントしているのはこのことです。存在欠如は欲望の側にあり、それは基本的に-φと書かれます。その一方、欲動の側では、存在欠如は存在しません。フロイトが欲動と呼んだものはつねに成就する活動です。欲動は確かな成功へとつながりますが、その一方で欲望は確かな無意識の形成物へとたどり着きます。つまり、「自分の番を間違った」「鍵をなくした」等の失策行為や言い間違いです。反対に、欲動はその鍵をいつも手の中に持っています。

【まとめ】
主体は主体自身を欲動と、そして欲動の確かな足取りと整列させることが出来るのでしょうか? 幻想の除去という問題は、そして幻想が表現しているスクリーンを横断するという問題は、享楽をむき出しにすることを狙っています。

それはデュシャン[Duchamp]が言うように、 「花嫁は彼女の独身者たちによって裸にさ れて、さえも」なのです。

花嫁とは享楽のことです。人は彼女と結婚できるのでしょうか?

分析の終結の引き伸ばしにおいて、つまり結論に達するのように思えない分析の終結において、主体の失敗の意味の強化が観察されることが時々あります。その極点において、制止であるように思える「私はそれをできない」が強化されることがあるのです。これは存在欠如[manque-a-etre]の悪化[exasperation=憤激]であり、望むものになることの失敗[manque-a-etre]の悪化であり、またなりたいと望んだものになることの失敗[manque-a-etre]の悪化です。それは同一化と欲望の最後の連関を示しています。

花嫁は彼女の独身者たちによって裸にされて、さえも。誰が花嫁を裸にするよう望んだのでしょうか? 誰が享楽を裸にするよう望んだのでしょうか? 〔基本的〕幻想の下にある享楽を誰が発見しようと望んだのでしょうか?

二人の独身者が存在します。つまり、分析主体と分析家です。ラカンは彼の「フロイトの<欲動>について」を「精神分析家の欲望」をもって完結させるにあたって、享楽を裸にするよう望むのは分析家という独身者なのだと言っています。つまり、分析家の欲望は主体の享楽を裸にすることであり、一方で幻想として知られる欲動の誤認によってのみ主体の欲望は維持されるのです.


※参照: 欲動と原トラウマ