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2010年12月12日日曜日

「ファルス」と「享楽」をめぐって (向井雅明)

向井雅明「精神分析と心理学」より抜粋( 『I.R.S.―ジャック・ラカン研究―』第 1号,2002)


子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。

母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまし母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる

だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。

ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。

これは何を意味するのであろう。子供が母親の前にいるとき母親の目が子供だけに向き、欲望の対象が子どもだけであれば子どもはその貪欲な口の中で押しつぶされてしまう。このときに子供の外にも母親の関心を引くものがあれば、母親の欲望が「他のもの」(Autre)にも向いていれば、子供は母親のファルスに全面的に同一化する必要ななくなり、母親に飲み込まれることを逃れることができる。その「他のもの」が子どもを救ってくれるのだ。この「他のもの」が父親である。だがこの父親は現実に存在する父親ではない。ひとつの隠喩である。

隠喩とはひとつのシニフィアンを別のシニフィアンで置き換えるものだとするなら、ここにはひとつの隠喩が認められる。母親の欲望を何らかのシニフィアンで表すと、もうひとつのシニフィアンであるこの「他のもの」は前者の代わりに来るのであるからひとつの隠喩である。そしてこの隠喩はワニの口、すなわち母親の語る言葉の中に認められるもので、子どもにとってそれは母親の欲望を満足させる秘密、ファルスを意味するものである。有名なラカンの父の名の公式がここに認められる。



だが、そんな父親はいるのだろうか、と向井氏は問い、フロイトのエディプス・コンプレックス論の説明をしているがここでは割愛。なおオイディプス神話と原父殺し神話の非対称性については、ジジェクの説明箇所をリンクしておく。この点については、向井氏は、ジジェクの解釈とほぼ同じといってよい。ドゥルーズのラカン「オイディプス化」反論の弱さ (ジジェク)
……このようなしだいで父親殺しは、実は父親の支配力をより強くするという結果を生むこととなる。ラカンはそれゆえに、フロイトは結局父親を救っているのだと言う。フロイトはこのような父親から超自我を考え、彼の第二の局所論の中心的な審級として置いた。

貪欲なワニの口のような母の欲望につっかえ棒をしてくれる父親は、母の口から語られたパロールの中にあるゆえにサンボリックな父親だと言える。不確定な父は確実な母の言葉によって確定されるのだ。ではこの父親と、原始集落の神話的な父親の間にはどのような関係があるのだろう。

父の名はひとつのシニフィアンであって、現実的な父親の姿は取っていない、母親の前で無力な子ども、つまり有効なファルスを持たずに途方に暮れている子どもにとって、どこかにファルスを持つ父がいるんだよという証となる印である。子どもはそれによって母親の世界から解放される。母親を満足させるためにもう直接母親に対峙する必要はなくなり、ファルスを探して外の世界に向かえるのだ。子どもにとってはそれは救世主の印である。このとき、まさに手のつけられない母親の欲望を満足させるものを持っている父親というのは、フロイトが『トーテムとタブー』に描いたような父親である。そこでは父親はすべての女性を独占して享受していたのであり、すべての女性に満足を与えられる能力を持っていた。このような父親が実際に存在するかどうかは別にして、父の名の存在からこのような父親を想像するのはまったく自然である。そしてフロイトはそこから『トーテムとタブー』を書いたのだ。

彼は神話のかたちをとった一般的な理論としてこの父親像を創りだしたが、われわれすべて何らかのかたちで理想的な父親を創りあげている。それは決して父親という外見を取らなくても、たとえばおばあさんの姿を取っていても良い。各自は自分たちの置かれた状況の中で様々な要素を組み合わせて理想的な父親を創る。フロイトは自分の患者の中にそのような父親像を認めたのであろう。フロイトはそのエッセンスを描こうとしたのだ。この父親はイマジネールな父親である。


この父親が上で述べた支配者として愛される力強い父親に相当する。そしてこの父親が超自我となりわれわれを支配するようになる。超自我形成においてフロイトはエディプス・コンプレックスが破壊され消滅すると言うが、実際は完全に消滅するわけではなであろう。抑圧され無意識に残り、抑圧されたものの回帰を伴って症状形成をなすことになる。たとえば、エディプス的な父親殺しのファンタスムは常にあらわれ、ある父親像を葬ったところで次々と新しい父親像が生まれるし、禁じられた母親はしばしば愛する女性の背後に隠れている。超自我には父親への愛が向けられ、その父親から叩かれることは父親に愛されているという意味となり、超自我にいじめられて悦ぶという道徳的マゾヒズムが成立する。また、超自我は欲動断念をせまり、それに従うとその禁止した欲動の力を己の内に吸い取りますます強い罪責感をわれわれに押しつける峻厳な姿をとり、同時に不可能なことを強要し「享楽せよ」という命令を出のだ。

この超自我の「享楽せよ」と言う命令はおそらく母親的な「享楽への意志」を引き継いでいるのであろう。この理想的な父親は一方ではその理想によってわれわれをむち打つが、もう一方ではわれわれはこの理想にたいして不満をぶちまける。私をこんなにしたのはお父さんのせいだ、お母さんのせいだというわけである。キリストも十字架の上で父よどうして私を見捨てるのだと嘆いている。これがフロイトの言う文化における不満(居心地の悪さである。

※この最後の超自我の「享楽せよ」という命令は、別に「母なる超自我maternal superego」という呼び名があり、後期ラカンは、欲望から、欲動へ、あるいは享楽へ理論の重点が移動する。つまりは、フロイトの「死の欲動」にかかわってくるわけだ。