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2012年6月3日日曜日

追悼をめぐって


あの事故をなかったように、朝日(新聞)の読者に向け、気楽に音楽の話をすることなんて、ぼくにはできない。かといって、この現実に立ち向かう力は、ぼくにはもうない。

――これが最後の寄稿となっているが(昨年の6月)詳しいことは分らない。

吉田秀和逝く、そして最後に残した言葉より)


合掌

…………

直木三十五氏が逝くなって、新聞雑誌に、氏の生前の思い出や逸話の類が充満した。氏の人間的魅力のしからしむる処だろう。氏が大変魅力ある人物であったという世の定評を僕も信じているが、ああいう類の文章をいくつも読んでいると、お葬式の延長みた様な気がして来て、なんとなく愉快でない。なんだい、これでは直木という男、まるで人間的魅力を広告する為に刻苦精励して来た様にみえるじゃないか、そういう臍の曲がった感さえ覚える。逝くなって作品の他なんにも残っていない今こそ、直木氏の真価が問われはじめる時であり、作家は仕事の他、結局救われる道はないものだ、という動かし難い事実に想いをいたすべき時だ。ときっぱり言いたいが、こういう微妙な問題にはいろいろと疑いが湧き上がって来ていけない。(小林秀雄「林房雄の「青年」」『作家の顔』所収)

少し前上記の小林文を使って蓮實重彦の文体模写練習をしてそのままうっちゃっておいた文を今この機会に若干の手直してをして掲載し自らの恥としよう。

いまさら語るべき人が語っていないなどと嘆いてみせるほど新聞社の弔文執筆者の選別眼にあらぬ期待を寄せていたわけでもないし、そもそも語るべき心ある人物は追悼の合唱隊に加わらないように依頼を固辞するのが最低限の礼儀と心得ているのかもしれず、他にいつでもすげ替えのできる便利な人材として選ばれた故人とは何一つ貴重な過去を共有したこともないらしいどこかの文学者だか評論家だかの類がここぞとばかりに自らの内的感性の鋭敏さを誇示するかの如き意気込みで思い出話に耽りかえって、逆にその鋭敏さの確信こそが自らの凡庸さの叙事詩をかたちづくっていることに不感症であるという二重の凡庸さに犯された弔文に呆れかえるほどウブでもないつもりだが、そこではあいかわらず故人にふさわしく弔辞が綴られるのでなくただひたすら読者の期待にふさわしい思い出や逸話の類を充満させたもっぱら大衆の趣味に阿るばかりの文が綴られており、しかもそのメロドラマを読んで感激してしまったらしい輩、生前の彼の文章をほんの一行さえまともに受けとめたことのなさそうな連中までが、ただ名前を知っているということのみでかけがえのない喪失などと声高にさけびつつ大合唱をくり拡げのを眺めていると慇懃無礼なお葬式の延長のような気がしてきて毎度のことながらあまり愉快でないのはたしかだ。まあこういった感慨を抱くのを臍曲がりというわけであるが、逝くなって作品の他はなんにも残っていない今こそ彼の真価が問われるときだなどと紋切型を呟いてみせるつもりもなく、あれはひたすら大往生なのであって長いあいだ有難うございましたといっておけば済むことだ。それにもかかわらずあたかもマルセル・プルーストの小説の主人公の親友サン・ルー侯爵が部下の退却を掩護していた最中に戦死した、その知らせをうけた主人公の傍らの家政婦フランソワーズが「お鼻がまっ二つに割れて、お顔がまるつぶれだったそうでございますからねえ」と大袈裟に嘆きながら目に涙でいっぱいにして「その涙を通して、百姓女の残酷な好奇心」をのぞかせる態様を模倣するかの如き囀りがそこら辺りに氾濫しているのを目の当たりにすると相も変わらず溜息が出てしまう。もちろんその嘆息をこうやって批判的に書き綴ろうとする当書き手の魂胆には彼らを嘲笑してみせることで自分の立場を相対的に高めようとする彼らと似たような凡庸な精神が作用しているのに違いなく、要するにほとんどそっくり彼らの精神と共鳴しているらしき自らの凡庸さが改めて痛ましく思われる。

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ところで昨年10月号の「水牛だより」に高橋悠治のこんな文が掲載されていたのを思い出す。いま冒頭だけ貼り付けておこう。

ひさしぶりに鎌倉の吉田秀和さんを訪ねて、自伝を書かないのかと訊かれた。いまは日本の外で日本の音楽家たちについて知りたい人たちも 出てきた、日本語を読める研究者たちもいる。でも武満のほかにあまり資料がない。そうかもしれない。これから書こうとしているのは、でも そのためではない。 いままでは個人的なことを書かないようにしてきた。記録もとっておかなかった。いま薄れていく記憶が失われないうちに、いくつか書き留 めておいてもいいかもしれない、音楽について語り合った人たちのことを、いまはもうない場所のことを。そこであったことと、いま思い出される姿のあいだには、時間が「反省」の薄膜をかけている。くりかえし書いたこともある。それでも思い出すたびに、ちがうかたちで現れる。( だれ、どこ  高橋悠治