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2013年4月15日月曜日

中井久夫と楡林達夫


佐々木中の『日本の医者』書評文に行き当たった。この『日本の医者』は、若き日の中井久夫が、筆名(楡林達夫)で書き下ろした『日本の医者』「抵抗的医師とは何か」『病気と人間』の三作を最近まとめたもののようだ。

わたくし自身は「抵抗的医師とは何か」を中心とした断片しか知らないが、「楡林達夫」が中井久夫であることは、氏の親密な弟子筋の医師岩井圭司の発話などから、三年ほど前に窺われた。

佐々木中は「その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思」と書く。「この若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚」とも。「常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める」文体の背後には、この「ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思」を感じ取っていたーー、そう書かれるとき、あるいは「中井久夫がこういう男だ」とされるとき、その簡にして要を得た評言に、これまた慄然とする。


知っていた。知っていた、筈、だった。そうだ-中井久夫がこういう男だということを、われわれはすでに仄かに、彼自身の文章から感じ取っていたのではなかったか。彼の文体は時にあわい甘やかさを香らせて読む者をゆくりなく蕩(とろ)かせる。 陶然とも唖然ともさせてくれる。が、彼の文章は一文たりともそのくっきりと真明(まさや)かな輪郭を張り詰めた抑制を失わない。常に簡潔で静謐であり、叫ばず声を嗄らすことなくゆるやかにまた慄然とその歩みを進める。 
 この日本精神医学最大の理論家にして雅趣と叡智を併せ持つ随筆家は、類ない語学力に支えられて文学や歴史に通暁する碩学でもあり、さらに詩と論文とを問わぬその翻訳の質の高さとそこでも発揮される文体の気品はわれわれを驚嘆させ続けてきた。 
 まず第一にその文字の流れの面にうつろい映える所作の優雅において。だが。ここにいるのは楡林達夫という、三十歳にもならぬ一人の医師である。然るべき理由あってこの筆名で自らを隠した中井久夫である。その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思たるや。 
 それは長く長く中井久夫を読みその軌跡に同伴するを歓びとしてきた者すらをも瞠目させ狼狽させ得る。しかし、繰り返す。われわれはあの高雅なる中井久夫の姿に、密やかにこの若き楡林達夫の燃え立つ瞋恚を感じ取っていたのではないのか。 この、ふつふつと静かに熱さを底に秘めて揺らぐ水面のような、執拗な反抗を止めない微かに慄える怒りを、そしてこの世の正を求めるゆらぎなき意思を。 ―――「胸打たれて絶句する他ない抵抗と闘争の継続」―『日本の医者』中井久夫を読む。『アナレクタ3』佐々木中より)

佐々木中が、中井久夫の書にどういう位置を与えているかは、「佐々木中 白熱の書き下ろしブックガイド40選」を見れば明らかだ。長年の中井久夫ファンの末席に連なるものとして、この佐々木中という男に注目したい。彼の反骨精神は、産経新聞からの依頼原稿を掲載を拒否されたことをめぐる文面からも強くうかがわれる。

「こういう男」たちは少なくなった、あまりにも少なくなったーーそのような感慨を日々抱かざるを得ない現在。

現在に抗して過去を考えること。回帰するためでなく、「願わくば、来たるべき時のために」(ニーチェ)現在に抵抗すること。つまり過去を能動的なものにし、外に出現させながら、ついに何か新しいものが生じ、考えることがたえず思考に到達するように。思考は自分自身の歴史(過去)を考えるのだが、それは思考が考えていること(現在)から自由になり、そしてついには「別の仕方で考えること」(未来)ができるようになるためである。(宇野邦一訳ドゥルーズ『フーコー』「褶曲あるいは思考の内(主体)」)

いやもっと単純にいってもよい。たとえば、大江健三郎が「大知識人」と呼ぶ加藤周一のように(参照:鼎談 加藤周一が考えつづけてきたこと)。

どういう価値を優先するか、その根拠はなぜかということを考えるために必要なのが教養です。それがないと、目的のない能率だけの社会になってしまうでしょう(加藤周一『教養の再生のために』)

いくら頭が良くてもダメなんで、目の前で子供を殺されたら、怒る能力がなければなりません。あるいは、何か一種の感情を生じないとダメです(同『時代との対話』)

…………

中井久夫はかつて『治療文化論』のなかで、「精神科医の自己規定」を、「傭兵」と「売春婦」のようなものとしている。


「苦しい時だけの傭兵だのみ」(……)傭兵が状況をこえることができないのは、精神科医と同じである。時に突然解雇される。決して、秩序回復の日に招待され表彰されることはない。 
 そして信頼できるのは自らの技術と状況把握力のみである。傭兵にもっとも必要とされる資質は「即興能力」ability of improvizationであるという。眼前の状況をとっさに把握し、手持ちの材料だけを用いて、状況から最大のメリットを搾り出す能力ability of exploitationということができる。やま場において、雇い主はもちろん、状況の中にいるひとたちの誰をも頼りにしてはいけないし、できないのである。 
 相似性については、なお尽きないが、とにかく精神科医は、以上のことを「歎き節」ではなく、いうまでもない自明の前提条件として受け容れるものでなくてはならないと私は思う。 
 ビンスヴァンガーに、「きみは二階の陽光をたのしみたまえ、ぼくは地下室で仕事をする」といったフロイトは、この辺りの事情がよくわかっていたのであろう。


もうひとつの、私にしっくりする精神科医像は、売春婦と重なる。 そもそも一日のうちにヘヴィな対人関係を十いくつも結ぶ職業は、売春婦のほかには精神科医以外にざらにあろうとは思われない。 
 患者にとって精神科医はただひとりのひと(少なくとも一時点においては)unique oneである。 
 精神科医にとっては実はそうではない。次のひとを呼び込んだ瞬間に、精神科医は、またそのひとに「ただひとりのひと」として対する。そして、それなりにブロフェッショナルとしてのつとめを果たそうとする。 
 実は客も患者もうすうすはそのことを知っている。知っていて知らないようにふるまうことに、実は、客も患者も、協力している、一種の共謀者である。つくり出されるものは限りなく真物でもあり、フィクションでもある。 
 職業的な自己激励によってつとめを果たしつつも、彼あるいは彼女たち自身は、快楽に身をゆだねてはならない。この禁欲なくば、ただのpromiscuousなひとにすぎない。(アマチュアのカウンセラーに、時に、その対応物をみることがある。) 
 しかし、いっぽうで売春婦にきずつけられて、一生を過まる客もないわけではない。そして売春婦は社会が否認したい存在、しかしなくてはかなわぬ存在である。さらに、母親なり未見の恋びとなりの代用物にすぎない。精神科医の場合もそれほど遠くあるまい。ただ、これを「転移」と呼ぶことがあるだけのちがいである。 
 以上、陰惨なたとえであると思われるかもしれないが、精神科医の自己陶酔ははっきり有害であり、また、精神科医を高しとする患者は医者ばなれできず、結局、かけがえのない生涯を医者の顔を見て送るという不幸から逃れることができない、と私は思う。(P197-198)

…………

以下、中井久夫の「その情熱、その反骨、その孤高、その闘争の意思」を窺うに足る文をいくつか挙げよう。


 中井久夫 『精神科医がものを書くとき』Ⅱより


問題が巨大であって、その中から何が出てくるかわからない時には、一般的対応能力のある人たちの集団を一気に投入して急速に飽和状態にまで持ってくることが決め手であることを私はこの災害(阪神大震災)において学んだ。 
 逆に、「情報を寄越せ」「情報がないと行動できない」という言い分は、一見合理的にみえて、行動しないこと、行動を遅らせることの合理化であることが少なくない。(中井久夫『「阪神大震災後四カ月』)

ボランティア(……)。奈良女子大では、地震と聞いてさっと出発したのは外国人留学生で、日本人学生は、これにはっと気づいて数日後に後を追ったそうである。 
 私は、実は一月二十五日の会議で憤然としたのであった。不眠不休で働いているナース、精神科医たちは、なるほど、働いてはいる。日本ではこういう時に、「限界ですから帰ります」とは言わない。それに、「地震は人を二極に分化する」ということがあって、働く者は猛烈に働き、出てこない者は全然出てこなくなるようである。前者は高揚状態、後者を抑鬱状態といえば、それだけのことであるが、私は神戸大学精神科の諸君を潰したくなかった。しかし、このままでゆけば、ナースと精神科は無傷では済むまいと思われた(実際、精神科は無傷では済まなかった。ナースにも帰郷した人がいる)。むろん、科によっては、その性質上、「することが最初からない」科もある。しかし、看護科、精神科のことを全然わかっていないのではないか。私は一月十九日からナースの指導部と頻繁に情報とを交換していたので、看護科の事情も知っていた。(同)


……九州と青木病院とに賭けようと思った(……)。学会も念頭になかった。(……) 一言にしていえば、まず「九州人の美学」に賭けたということになろうか。この美学によれば、相手が端的に困っている時に「まず会議を開いて」とか「どこそこに連絡して」とか「もっと詳しく情報を寄越してくれ」とか「何をするか言ってくれないと困る」などといわないだろうというのが、私の「九州人美学理解」であった(他地域では必ずいうだろうという偏見もあった)。(同)


現地では精神科はもう間に合っているようだということを厚生省の現地本部は中央へ報告しているが、これは人間の疲労度を知らない話である。最初の三日間というのは大体食料補給無しで頑張れるが、被災地で自己激励してやれるのは三日であり、三日以後になると過剰な自己激励で躁状態になり、ついには躁病になり急に鬱に転じて自殺した人も残念ながらいないわけではない。だいたい三日経つと視野狭窄が起こり、とにかく目の前の仕事をやるというふうになってくる。それで頑張れるのが七日で、七日目になるとやはり士気の低下が目立ってくる。私はこの時に九州の大学にとにかく緊急で着てくれと要請した。どうして九州かというと、九州人はこういう時、理屈をいわないであろう、助けてくれといって断らないだろうというのが私の読みであった。おそらく東京だと大会議を開くのではないかと思った。これはたいへん失礼な推測だがやはりそうであった。九州は「二時間後に送る」「一切の費用は自己負担でやる」「費用は君達に心配かけない」と言ってきた。このことの最大の効果は、とにかく援軍が来る、そう聞くと残ったスタミナを安心して使い果たせるのである。(「災害と危機介入」)


中井久夫『徴候・記憶・外傷』「あとがき」より

私が「ああそうだ」とその世界を生で感じたのは、犯罪被害者死を遂げた人の家族たちとの会合である。犯罪被害者支援の集まりの後の夕食会であった。被害者家族たちの食卓には他の誰も座っていない。一席だけ空いているところに私は座った。 
 その卓だけ明らかに何かが違っていた。新たに被害者になった人たちに対して長く被害者家族でありつづけていた人たちが話しかけていた。今のあなたがたは自分たちがとおってきた道の初めのほうにいる、時間だけが救いだ、被害者同士しかわかりあえない、などなど。 
 それはしめやかな雰囲気などでは全然なかった。家族たちは大声で語り、笑い、ビールの杯を重ねた。それと語る内容との大きな開きが異様であった。それが呼吸に努力を要するほどの「空気の薄さ」を生んだ。隣の卓の学者同士の談話が遠い遠いものに聞こえた。 
 それは「基本的信頼」を失った痛々しい傷跡だった。ふつう、行きあう人間は何ごともなく行きあう。私たちの日常である。たいていはそれ済むのだが、それがいきなりそうでなくなった人たちである。それからその後に来るもの。世界全体ががらりと変わる。 
 考えてみれば、私たちの「基本的信頼」には根拠がない。「そういう保証があるか」というのは、議論において相手の言葉を詰まらせる必殺の技である。神さえそういう保証はしない。私たちは、大地に「揺るがないもの」という基本的信頼を置いて道を歩き、家を建てている。このいわれない仮定が覆ったのが震災被災者である。大西洋岸でのリスボンの地震が、この世はありうる世界の中の最善の世界であるという十八世紀西欧の楽観論哲学をくつがえしている。 
 いくつかの無根拠な基本的信頼にもとづいて私たちは生きている。物理的世界の恒常性も、私たちの心身の健康も、社会的基盤の確実さも、人々の善意も、実際は、それは私たちがお互いに生きてゆくことを可能にしている仮定にすぎない。それが無根拠・無理由のいわれない基本的信頼である。これを疑うことは「杞憂」といわれ、たいていはそれで済む。 
 それは確率の問題である。そして、私たちの寿命の短かさが、重大な犯罪被害に遭う確率、地震、洪水、噴火などに遭う確率を少なくしている。一般に私たちの寿命が短いために運が不平等なのだといえるだろう。無常感は一世にして多くを味わった戦乱の中世に生まれた。 
 しかし、それは第三者の立場に立っての言説である。当人たちも、わが身に起こるまでは「ひとごと」でもあった。犯罪被害者で、「それまではひとごとと思っていたからバチが当ったのだ」と感じておられる方もあった。わが身に起こってはじめて、起こったことは取り消せず、失ったものと時間が呼び戻せないことを身を以て味わう。それは人生の不条理を知り、理不尽を知る「実存的」体験である。 




後半部分を抜書き(一部、割愛)

「ただちには」 
 「情報とは権力である」と、あらためて感じた。課長でも教授でも、それなりの権力者は然るべき情報をバイパスされると「私は聞いていない」と怒るではないか。そして東電は、国民の代表である菅直人前首相にいちばん重要な情報を知らせていなかった。 
 あの時、国家の権力と世界の命運とは日本政府ではなく東電あるいは原子力ムラという国家寄生体に移っていた。菅氏は権力を奪われて孤独であった。海外はすでに恐怖していた。米国は早々に高度の警戒体制に入った。あっというまに放射性物質を含んだ雲が地球を一まわりするのはチェルノブイリで経験済みだった。菅前首相が東電本社に乗り込んだのはよくよくのこととみるべきである。 
 「ただちには人体に有害でない」と聞いた。「ただちには」に、いや「には」にすべてがかかっていたのだ。「ただちに」危険があれば、チェルノブイリを超えて原子爆弾である。なお、爆発直後にどの範囲まで汚染された灰がばらまかれたか、初期に試算がなされていたのに、その図が新聞に掲載されたのは何と9月に入ってからである。


不信の重なり 
 人民がパニックを起さないための配慮か。たしかに権力者に人民への恐怖はある。連合艦隊司令長官山本五十六は、東京が空襲されれば「近衛や自分などは3度ぐらい八つ裂きにされる」と言ったという。だが、それどころか、実際に起こったのは敗戦をお詫びする人民の群れであった。当時の首相は一億が総懺悔せよと言った。 
 今、原発の真実を知らなかったと自分を責める普通の人たちがいる。その気持ちはどこか私にもある。しかし、一億総懺悔に陥ってはなるまい。どこに、当日、秩序を以て行列をつくる国民があるか。こんな治めやすい国があろうかと多くの国の為政者は羨ましく思ったにちがいない。しかし、不信や「なめるな」の思いが積もっていった。風評被害はその延長上にある。 (……) 
 世界は今後、脱核体制に入ってゆくだろう(原発に電力を依存しているフランスも、である。フランスでも爆発が起こった)。フィンランドはいち早く地底深くに放射性廃棄物の処分場を造っているが、ほぼ無害化するまでに10万年かかるという。(原発の)活用年数数十年のために、その数千倍の年数をかける。その時人類がいて、現代の言葉を解するかどうか怪しい。何語で「危険」と書けば伝わるのかわからない、となった。これはジョークではない。