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2013年4月22日月曜日

共感の共同体

街中を歩くのは少なくなったけれど
それでもふた月に一度くらいは野暮用で出る
すると今でも昔馴染みの
シクロやバイクタクシーのあんちゃん
煙草売りのねえちゃん
新聞売りのおっさん
に声をかけられたり握手されたり
もう十八年まえからの知りあいの生き残りだね
当時二十だったらもう四十だな、やつら
「おい、どうやって日本人って見わけるんだ」
若い女の旅行者の話だけどね
「韓国でも中国の女の子でも似たようなもんだろ」
日本の乙女を「白ぶた」って呼んでる奴もいるんだけど
「痩せてる連中もいるだろ?」
背中がまるいとか、服が違うとかなんとかいうんだけど
オープンカフェなんかで座っているんをみると
まるわかりだっていうんだよな
首を立てに何度もふって頷きあって話してるってんだってさ
韓国や中国の女はそんな仕草が少ないらしい
共感の共同体」の住民ってわけかね
「事を荒立てる」かわりに、
「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先している」
ってことかね

たとえば日本の陰湿な「いじめ」ってのは
まずは「孤立化」させる、つまり仲間はずれにするってことだからね
あいかわらず村社会の住人たちの村八分の振舞いだね
怨恨の時代っていうのも、村のなかで仲間同士のはずなのに
なぜか、村社会における自分地位が低くて満足していない
いまではあきらかに「新たな階級格差」の泥沼で身動きとれなくなっている
そこから来るのが大きな理由のひとつだろうよ


島国根性ってのは昔から言われてきたのだけれど
いまだ他に比類を見ない国民さ
わが国が歴史時代に踏入った時期 は、必ずしも古くありませんが、二千年ちかくのあいだ、外国から全面 的な侵略や永続する征服をうけたことは、此度の敗戦まで一度もなかっ たためか、民族の生活の連続性、一貫性では、他に比類を見ないようで す。アジアやヨーロッパ大陸の多くの国々に見られるように、異なった 宗教を持つ異民族が新たな征服者として或る時期からその国の歴史と文 化を全く別物にしてしまうような変動は見られなかったので、源平の合戦も、応仁の乱も、みな同じ言葉を話す人間同士の争いです。 (中村光夫『知識階級』)


日本の誇る「共感」の作家村上春樹の小説が世界中で売れてんだから
いまでは日本だけの話とは言い難いけどね

蓮實重彦に言わせればこんな具合さ、
村上春樹の長篇のほとんどは、作者の感性と読者の感性とが、ときには彼らのそれに酷似した作中人物の感性によって共鳴しあい、それぞれが、ともに、同じ共同体の同じ時代を生きつつあるという安心感において連帯しあっているという意味で、「交通」を排した読まれ方に安住する言葉からなっているといってよい。その限りにおいてそれはよくできた物語だといえようし、その連帯に亀裂を走らせることなく、共同体のあり方そのものについて何がしかを告げもするだろう……(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)
この文は、そのまま「共感の共同体」の作家村上春樹と読めるだろ?
レイシズムってのも、
同じ共同体の同じ時代を生きつつあるという安心感において連帯しあっている
「交通」を排した人間が引き起こすのだろうよ

世界中、「メタ・レイシスト」の跳梁跋扈さ
村上春樹がそれに一役買ってるなんてことはないにしろ
心性は村上春樹世界に席捲されつつあるんじゃないか

浅田)……伝統的なレイシズムは、自民族を上位に置き、ユダヤ人ならユダヤ人を下位の存在として排除する。たとえば、クロード・レヴィ=ストロースの構造人類学は、どの民族の文化も固有の意味をもった構造であり、そのかぎりで等価である、という立場から、そのような自民族中心主義、とりわけヨーロッパ中心主義を批判した。

そのレヴィ=ストロースが、最近では、さまざまな文化の混合は人類の知的キャパシティを縮小させ、種としての生存能力さえ低めることになりかねないから、さまざまな文化の間の距離を維持して、全体としての多様性を保つべきだと、しきりに強調する。つまるところは、フランスはフランス、日本は日本の伝統文化を大切にしよう、というわけです。

もちろん、人類学者がエキゾティックな文化の保存を訴えるのは、博物学者が珍しい種の保存を訴えるのと同じことで、それらがなくなればかれらは失業してしまいますからね(笑)。

しかも、こういう見方からすると、文化的な差異を一元化しようとする試みは「自然」な反発を引き起こし、人種的・民族的な紛争を引き起こしかねないということになる。つまり、すべての人間の同等性を強調する抽象的な反レイシズムは、実はレイシズムを煽り立てるばかりなのであり、レイシズムを避けたかったら、そういう抽象的な反レイシズムを避けなければならない、というわけです。

これが、レイシズムと抽象的な反レイシズムの対立を超えた真の反レイシズムであると称するメタ・レイシズムですね。

ーー「スラヴォイ・ジジェクとの対話」『「歴史の終わり」と世紀末の世界』(浅田彰)

あるいはこんな話もあるね
谷川俊太郎と穂村弘の対談(「文芸」2009年夏)だけれども

穂村)僕は詩には共感(シンパシー)と驚異(ワンダー)という二つの要素があると思っていて、いわゆる一般の読者や世間というのは圧倒的にシンパシー重視なんです。何かを読んだ時、まずそこに共感をみようとするし、シンパシーを寄せようとする。でも詩歌の第一義的な力はワンダーの方である。僕は思うんだけれど、(中略)実際にはそれは難解な暗喩性とリンクしていることが多いから、「え、ワンダー? 何それ」みたいになってしまう。

詩だけではない、「芸術」一般の力とはまずは「驚き」、「絶句」なのであって
ドゥルーズのいうアンタンシテ(強度)といってもよいけど
「知」だってそうさ
そこに「距離のバトス」が生まれる

《人と人、階級と階級を隔てる深淵、種々のタイプの多様性、自分自身でありたい、卓越したものでありたいという意志、わたしが〈距離のパトス〉と呼ぶものは、あらゆる「強い」時代の特徴である》(ニーチェ『偶像の黄昏』)

気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいとは異なる外部の力学
共感とは異質のある種の齟齬感
同調からくる納得ではにわかに処理しかねる違和感
親密さではなく、むしろそれをこばんでいるかにみえる隔たり

――1999年4月12日 東京大学総長 蓮彦の式辞からだけど
こうもあるな
微妙ではありながらも何かが決定的に違っている対象を前にしたときの驚きは、齟齬感や、違和感や、隔たりの意識を煽りたてる対象への深い敬意を前提にしております。知性のみなぎる環境としての大学は、このように、知性をふと逡巡させかねない驚きをとどめた環境でもあります。

ところで、ニーチェの同情批判というのは
「同情=共苦 Mitleid」で「共感」とは違うのだけれど
「自他の間に存する距離を忘れぬ心づかい」というのは
「共感」批判としても通用するね
わたしが同情心の持ち主たちを非難するのは、彼らが、恥じらいの気持、畏敬の念、自他の間に存する距離を忘れぬ心づかいというものを、とかく失いがちであり、同情がたちまち賤民のにおいを放って、不作法と見分けがつかなくなるからである。(ニーチェ『この人を見よ』)

もっともこうやってしきりに「共感」に反吐を書き連ねる人間とは
フロイト曰くはこうでね

…他人に対する一連の非難は、同様な内容をもった、一連の自己非難の存在を予想させるのである。個々の非難を、それを語った当人に戻してみることこそ、必要なのである。自己非難から自分を守るために、他人に対して同じ非難をあびせるこのやり方は、何かこばみがたい自動的なものがある。その典型は、子供の「しっぺい返し」にみられる。すなわち、子供を嘘つきとして責めると、即座に、「お前こそ嘘つきだ」という答が返ってくる。大人なら、相手の非難をいい返そうとする場合、相手の本当の弱点を探し求めており、同一の内容を繰り返すことには主眼をおかないであろう。パラノイアでは、このような他人への非難の投影は、内容を変更することなく行われ、したがってまた現実から遊離しており、妄想形成の過程として顕にされるのである。

ドラの自分の父に対する非難も、後で個々についてしめすように、ぜんぜん同一の内容をもった自己非難に「裏打ちされ」、「二重にされ」ていた。……(フロイト『あるヒステリー患者の分析の断片』(症例ドラ))



つまり「共感」に囚われていることが多いのさ
吉田秀和はこういっているらしいね
《ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。》(   神崎繁『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』より)

この伝でいくと
ニーチェの同情批判だけでなく
ルサンチマン批判
アンチ・キリストなど
 たぶんニーチェが繰り返し批判する対象は
それらへの誘惑に苦しんだせいだということになるね

アンチ・キリスト? 最後にはカトリック信仰に
回帰するなんて話だってあるさ

異教について… そして円環について …そして自然の本性について …そして、つまり「永劫回帰」については …とにかく、あのプロテスタントの息子ニーチェの、ルー・アンドレアス –サロメへの興味深い打明け話がある …でまかせなんかじゃない、特に彼女、この女性に対しては。「わたしたちは彼の変身のことについて話てしたのですが、その会話の途中でニーチェが半ばふざけてある日この明言したことがありました。『そうなんだ、こうしてレースが始まる、で、それはどこを走るのか? 道の全行程が踏破されたとき、人はどこを走るのか? すべての組み合わせが使い尽されるとき、彼はどうなる? きっと信仰に戻るのではないか? たぶんカトリック信仰に?』そしてニーチェは低い声でこうつけ加えると、彼にこの考えを吹き込んでいた底意を明かしました。『いずれにしろ、円環の完了は、不動状態への回帰よりもはるかにずっとありそうなことだよ。』」(ソレルス『女たち』)

さてオレも共感に回帰したいんだがね


……さもあれ私は自分に次のように告げる私の道徳を秘密にしておく気はない、―お前はお前自身を生きうるために、隠れて生きよ!お前と現代との間に、少なくとも三世紀の皮膚を張りわたせ! …お前とて人を助けようとはするだろうが、しかし、お前と苦悩を一にし希望を同じくするがゆえに、その人の憂苦をお前が残らず了知している者たちだけを、助けよ、―つまり、お前の友達だけを助けよ。それも、お前がお前自身を助けるようなやり方でだけ助けるがいい。―…私は、彼らに、こんにちごく僅かな者だけが理解して、あの同情共苦の説教家たちがほとんど理解しないものを、教えようと思う、―つまり同喜共歓をだ!(ニーチェ『悦ばしき知識』)
 いずれにせよ
『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先するのではなく
あるいは気心の知れた仲間同士の親しいうなずきあいとは異なる
「同喜共歓」でありたいね