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2013年5月21日火曜日

メモ:幻想の式 $◇a 、倒錯の式 a◇$

最初に、以下は必ずしも定説ではないだろうことを断っておく。


わたしは、臨床において必要なものは、たった一つしかないと思っています。頭のなかにあるのは一つ、(……)ファンタスム、つまり人間の幻想(ファンタスム)の式です。

$◇a

これが幻想の式。ファンタスム。これ一つでいいんです。このなかに全てが入っています。これだけ知っていればいい。これが何たるかを本当に知っていれば、あとは何もいりません。(藤田博史「セミネール断章2012年2月」

ーーー$◇aは次のように読まれる、《斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながら永遠にこれに到達することができない。》




$◇aが分解される、$ ー -φ ー Φ ー A ー a

(-φマイナス・プチ・フィーは、想像的ファルスの欠如であり、Φグラン・フィーは、象徴的ファルス)

ーー想像的ファルスの欠如は、「去勢」とも読まれる。それは主体の去勢ではなく(少なくとも”だけ”ではなく)、「去勢の意味作用は,(子供の去勢ではなく)母の去勢によっておこる」(ラカンE687)

ーー象徴的ファルスΦの注意:”The symbolic phallus is written Φ in Lacanian algebra. However, Lacan warns his students that the complexity of this symbol might be missed if they simply identify it with the symbolic phallus (S8, 296). The symbol is more correctly understood as designating ‘the phallic function' (S8, 298).”(Dylan Evans An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis)ここで男性の論理、女性の論理を視野にいれる必要がある。

あるいは、"Lacan argues that in order to assume castration every child must renounce the possibility of being the phallus of the mother; this "rapport to the phallus is established without regard to the anatomical difference of the sexes." The renunciation of identification with the imaginary phallus paves the way for a rapport with the symbolic phallus which is different for the sexes: the male has the symbolic phallus, i.e. "he is not without having it" - woman does not. Yet the male can only lay claim to the symbolic phallus if he assumes castration, i.e. to give up being the imaginary phallus. Further, the woman's lack of symbolic phallus is in itself a kind of possession."  http://lacan.com/seminars1.htm


$ ー -φ ー Φ ー A ー aに戻る。

次のように読まれる、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある。》

藤田博史氏は、”a”を「到達できない愛」としている(ラカンが、プラトンの饗宴のagalma ( 愛)を語っていることを想起しよう、そしてthe agalma—the objet petit a, the “playthings” of feminine jouissance(zizek"LESS THAN NOTHING"


a”は、<対象a>と読まれることもある。対象aは、ラカンによって剰余享楽とも読まれる。

《マルクスの剰余価値という概念をもとにして、ラカンが剰余享楽なる概念をつくりあげたのは当然といえば当然であって、剰余享楽もまた貨幣と同じように、事物(快楽の対象)をその反対物に変え、通常はきわめて快い「正常な」性体験と見なされているものを猥褻なものに変え、(愛する人を苦しめるとか、辛い辱めに耐えるといった)ふつうは胸糞悪い行為と見なされているものを言葉では尽くせないほど魅惑的なものに変える、逆説的な力をもっている。》(ジジェク『 斜めから見る』)


”jouissance is ‘the path towards death” (Lacan S17)であるならばそのとき、欲動の式(マテーム) $◇D とファンタスムの式とはどう違うのか、という疑問が生じる。








---Lacan's Later Teaching Jacques-Alain Millerより


ミレールは併せて晩年のサントーム概念をΣとして次のように示す。




このあたりを言い出せば限りなく複雑化する(欲望/欲動、あるいは欠如lack/穴hole、などに関わる。あるいは、この図式は、もしΣからへの循環が示されれば、岩井克人が『貨幣論』において、マルクスの価値形態論を説明する図式に驚くほど近似する、つまりは「資本の欲動」の循環論法)。



ちなみに、藤田博史氏は「死の欲動」についてまったく異なった形で語っている(むしろ倒錯のマテームに近似した形で。このへんは、セミネール録だけからは、なぜこのように語っているのか窺い知れない)。


さて、ここでは、対象aは、「ラカンによって剰余享楽とも読まれる」とした文に戻る。

剰余享楽の「剰余」とは、何か「正常」で基本的な享楽に付け加わったという意味での剰余ではない。そもそも享楽というものは、この剰余の中にのみあらわれる。

《「快楽」はフロイトが『快感原則の彼岸』において見出したような、解放することによって精神が可能な限り最も緊張の少ない状態を目指すという恒常原則に従う。一方、「享楽」はこの原則を逸脱し、フロイトでいえば、「快感原則の彼岸」に位置するものである。》(アラン・シェリダン訳Ecritsの序文)

ラカンは「エクリ」のなかで、《すべての欲動は、実質的に、死の欲動であるevery drive is virtually a death drive (Ec, 848)》、と書いている。

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動といわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

「死の欲動」とは、ジジェクが別の書(『斜めから見る』)で語っている例をあげれば、アンデルセンの童話「赤い靴」でもある。少女が赤い靴を履くと、靴は勝手に動き出し、彼女はいつまでも踊り続けなければならない。靴は少女の無制限の欲動ということになる。

……ラカンが言わんとしたのは、欲動の真の目的はその終点(充分な満足)ではなく、その目標である。欲動の究極的目標は、たんに欲動それ自身が欲動として再生産されること、つまりその循環的な道に戻り、いつまでも終点に近づいたり遠ざかったりしつづけることである。享楽の真の源泉はこの閉回路の反復運動である。(カオス理論における「ストレンジ・アトラクター」とラカンの<対象a>  ジジェク


…………

倒錯の式  a◇$

厳密にいえば、倒錯とは、幻想の裏返しの効果です。主体性の分割に出会ったとき、みずからを対象として規定するのがこの倒錯の主体です。……主体が他者の意志の対象となるかぎりにおいて、サド=マゾヒズム的欲動はその輪を閉じるだけでなく、それ自身を構成するのです。……サディスト自身は、自分で知らずに、ある他者のために対象の座を占め、その他者の享楽のためにサディズム的倒錯者としての行動をとるのです。(『セミネールⅩⅠ』(「精神分析の四基本概念」)


”The pervert does not pursue his activity for his own pleasure, but for the enjoyment of the big Other. He finds enjoyment precisely in this instrumentalisation, in working for the enjoyment of the Other; ‘the subject here makes himself the instrument of the Other's jouissance' (E, 320). Thus in scopophilia (also spelled scoptophilia), which comprises exhibitionism and voyeurism, the pervert locates himself as the object of the scopic drive. In SADISM/MASOCHISM, the subject locates himself as the object of the invocatory drive (S11, 182–5).”(Dylan Evans An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis









マイケル・マンの映画『マンハンター』は、直感的に、「第六感」によって、サディスティックな殺人犯の心に入りこむことで有名な刑事の話である。彼の任務は、一連の田舎の平和な家族を皆殺しにした、特別に残酷な大量殺人犯を発見することである。彼は、殺された家族の一軒一軒によって撮影された自家製八ミリ映画を繰り返して上映して、<唯一の痕跡>、すなわち、殺人犯を惹きつけ、彼にその家族を選ばせた、すべての家族に共通の特徴を見つけ出そうとする。だが内容のレベルで、つまり家族そのものの中に共通の特徴を探しているかぎり、彼の努力はいっさい報われない。ある矛盾に眼が惹きつけられたとき、彼は殺人犯の特定への鍵を発見する。最後の犯行現場での操作の結果、裏のドアを破って家に押し入るために、犯人は、そのドアを破るには不適切な、というより不必要な道具を使っていることが判明した。犯行の数週間前、古いドアは新しい型のドアに取り替えられたのだった。新しいドアを開けるためには、別の道具のほうがはるかに便利だったはずだ。殺人犯はどのようにして、この間違った情報、より正確にいえば古い情報を手に入れたのだろうか。自家製八ミリ映画のいくつかの場面には、その古い裏のドアがはっきりと写っていた。殺されたすべての家族の唯一の共通点は、“自家製映画そのもの”である。殺人犯はこれらの私的な映画を観たにちがいない。殺された家族を結ぶ線はそれ以外ないのだ。それらの映画は私的なものだから、それらを結ぶ唯一の考えられる線は、その八ミリ・フィルムを現像した現像所である。すぐさま調べたところ、すべての映画は同じ現像所で現像されたことが判明し、じきにその現像所の工員の一人が犯人であることが判明する。この結末の理論的興味はどこにあるのか。刑事は、自家製映画の内容の中に、犯人逮捕の手がかりになるような共通の特徴を探し、そのために形式そのもの、すなわち彼はつねに一連の自家製映画を見ているのだという重要な事実を見落としてしまう。自家製映画の上映そのものを通じて、自分はすでに殺人犯と同一化しているのだということ、すなわち画面のあらゆる細部を探り回る自分の強迫的な視線は犯人の視線と重なり合っているのだということに彼が気づいた瞬間、決定的な変化が起きる。その同一化は視線のレベルの上のことで、内容のレベルにおいてではない。自分の視線がすでに他者の視線であるというこの経験には、どこかひどく不快で猥褻なところがある。なぜだろうか。ラカン的な答えはこうだーーそうした視線の一致こそが倒錯者の定義である(ラカンによれば、「女性的」神秘思想家と「男性的」神秘思想家との違い、たとえば聖テレザとヤコブ・ベーメとの違いはそこにある。「女性的」神秘思想家は非男根的な「すべてではない」享楽を含んでいるが、「男性的」神秘思想家の本領はまさしくそのような視線の重複にある。彼はその視線の重複によって、神にたいする自分の直観は神が神自身を見る視線なのだという事実を経験する。「自分の観照の眼と、神が彼を見る眼とを混同することの中には、たしかに倒錯的な享楽があるといわざるをえないLACANGod and the Jouissance of The Woman” in Chapter 6 of Encore)。(ジジェク『斜めから見る』PP.202-204

参照:Hysteria, Psychosis,Perversion-----Zizek "Less Than Nothing"


One of the best indicators of the dimension which resists the pseudo‐Hegelian understanding of psychoanalytic treatment as the process of the patient's appropriation of repressed content is the paradox of perversion in the Freudian theoretical edifice: perversion demonstrates the insufficiency of the simple logic of transgression. The standard wisdom tells us that perverts actually do what hysterics only dream about doing, for “everything is allowed” in perversion, a pervert openly actualizes all repressed content—and yet, nonetheless, as Freud emphasizes, nowhere is repression as strong as in perversion, a fact amply confirmed by our late‐capitalist reality in which total sexual permissiveness causes anxiety and impotence or frigidity instead of liberation. This compels us to draw a distinction between the repressed content and the form of repression, where the form remains operative even after the content is no longer repressed—in short, the subject can fully appropriate the repressed content, but repression remains.(LESS THAN NOTHING)