このブログを検索

2013年5月2日木曜日

「女たち」の躍動と疾走


だが決定的な瞬間が。ここでぼくがきみたちに語りたいのはこれについてだ。瞬間のなかの瞬間、ぼくにとってそれは、昼食後、庭の、温室のそばでのことだった…レモンとオレンジの木のそばの、二本の大きな棕櫚のうちの一本の下で…あれらの南仏の庭の美しさは想像できないだろうな…藤、木蓮、月桂樹、アカシア、土地のおびただしい花がいっせいに咲き乱れる…







ぼくの叔母のひとり、エディットはひとりだけ長くそこに居残っていた…奇妙な目つきをした、褐色の髪の大柄の女性だった、当時彼女は三十六歳、ぼくは十四…母の末の妹…ずっと前からぼくに対して攻撃的で、皮肉で、辛辣だった…で、その夏は、彼女は退屈していたらしく、本ばかり読んでいた…彼女は日なたで長椅子に座ってぐずぐずしていた、他の者たちは部屋に昼寝に行ったか、急いで町に買い物か映画に出かけたというのに…二人っきりだった。






ぼくは彼女の目のなかの新たな注意に気づいていた、にらみつけるような目のひかりに…ぼくは寝に上がるふりをして、壇〔まゆみ〕の木越しに彼女を観察しに戻っていた…白い綿のワンピース、足を立てて、広げて…小麦色の肌、それは、母の肌のようにとても柔らかく、いい香りがして、絹のようだろうなと思った…彼女の白いパンティー…彼女がぼくを見ていたのは確かだ、そしてある日、黒い染みが…そんな、まさか、あり得ない…パンティーがない…腿をだんだん開いて…それから手はゆっくりと、巧みに、頭を後ろにのけぞらせて、まるでうとうとしていたみたいに…まぶたは時おり見開かれ…眼差しの網、黒い光線…ぼくはとうとう全部脱いでしまった、そこの、暗い緑の垣根の陰で。





ぼくは緑の仕切り窓に近づいた、そこなら彼女はぼくを完全に好きなようにできた…二十メートル…彼女はちょっと手を止めた…ぼくは自分のものをいじり始めた、ゆっくりと、それからしだいに早く…彼女はもう身じろぎしなかった…死んだみたいに…それから彼女の手は再び下がり、わずかに震え、そして一緒にやった、なかば目を閉じて、七月のうんざりするような陽ざしの下で…ぼくはイッた、そのとき彼女はほんとうに後ろにのけぞって倒れた、わずかにくずおれ、自分の肩に首をかしげる前に…さんさんと照りつける陽を浴びて、ぼくの精液が葉っぱのうえに飛び散るのがいまも目に浮かぶ、とても美しかった、ぼくは梢の下をくぐって、家に戻った…彼女は再び小説を読み始めた…また翌日から、ほとんど毎日のようにやった、いつも何も言わず、自分以外の者がそこにいることに気づいているそぶりも見せずに…夜、夕食のときは、互いに知らん顔だった…魔法だった…それ以来、ぼくが女たちからどんな目にあったかは神のみぞ知ることだ、ぼくを前にして、そしてぼくに向かって、結局はぼくを通して、自分自身に向かって自慰をやる女たちから…

        ーーーソレルス『女たち』鈴木創士訳 P28~






ぼくは時どきリッツのバーに一杯やりに行く、ただノートをとったり、下書きをしたりするためにだけ…写生しに…バー、浜辺…ナルシシズムのフェスティバル…ここにも二人いる、そこの、ぼくのそばでしなをつくっているのが、少なく見積もっても十万フランは身につけている、指輪、ネックレス、ブレスレット…彼女たちは、小切手帳をもったちょい役の身分に追いやられたお人よしを前にして、互いに向かって火花を散らしている…清純で罪のない眼差し…パレード…えくぼ…含み笑い…そら、ぼくが彼女たちを見る目つきに彼女たちは気づいた…彼女たちはこれ見よがしに戯れる…化粧を直す…トカゲのハンドバック…螺鈿のコンパクト…金の口紅ケース…しどけない唇、ブロンド…それから無防備を装い、あどけなく、抜け目のない態度…男たちのうちのひとりの前腕に手をかけて…「そんな! 嘘でしょ?」…ぼくの視線の方へ向けられる流し目、すぐさまそらされる…彼女たちはウォッカをロックで飲んでいる…女たちどうしで語らって…煙草の火をつけ合う…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…いま、男たちが立ち去った、すぐに彼女たちはより謹厳になる…勘定の計算をする…で、あなたの分は? いくらあなたに渡したらいいの?…で、あなたの分は?…ぼくはほぼ忘れられている…時どき思い出したようにぼくを見る…(同p230)


…………


ということで、引用だけにしようか、と思ったが、いいねえ、ソルレスのこの文体のリズム感、躍動感、疾走感、ーーその翻訳。





ーーまあ鈴木創士氏の翻訳は、手許にはこのソルレスしかないんだけど、二十年ほど前(1993)読んだとき、とても新鮮だったね、--《…足を組み…組んだ足をまた解く…膝の上で少しだけスカートを引っ張るという結構な仕草は忘れずに…強調するためだ…膝がすべてを語っている…いつも…手ほどきとしての肘…膝には不可視のものすべてがある…首から香りがする…耳の後ろ…耳たぶ…乳房のあいだ…》と「…」の中断符としての三点記号を多用するスタイル。

ところで、セリーヌの文体は、「激しく下品で汚い言葉、破綻した文法、ありえない文体…」などと言われるが、下品な言葉でなくても、突如、日常語が混じりこんでくるときの驚き、ーー《私ばっかり、歴史家ばっかり、継ぎ接ぎやっちゃいけないってのか?》(セリーヌ『北』)。

晩年の、「亡命三部作」のセリーヌ、その省略と絶えざる中断によるテンポとトーン。
そうさ、と私はひとりごつ、もうじきなにもかもけりがつく…ふう!…もう嫌ほど見た…人間六十五にもなりゃどんなひどいH〔水素〕爆弾だって驚くもんじゃない!…Z爆弾だろうと…そよ風さ! 花火さ! ただそれ大事な一生の時間と何万トンもの労苦をただただあのアル中のおかまの下種の忌わしい呪われた陋劣漢の一味のためにふいにしちまったことを思うと、身が顫えるほど口惜しい……惨めってもんですよ、マダム!《その恨みつらみを売るんですね、四の五の言わずに!》…ふむ、良いともさ…望むところだ、でも誰に売る?……お客は私にそっぽを向く、らしい…(同『北』冒頭)

ーー勿論ソレルスの文体はこの系譜だ。

ここで鈴木創士氏のランボーに関するツイートを引いておこう。

《ランボーがビートニクスだったことを知らないの? ランボーの訳で一番重要なことは、だから思考のリズムと同時に言葉のリズムが作り出すある種のトーンなのさ。ランボーはとにかく速いんだよ。「詩情」とやらがべったり張り付いたかったるい日本語訳はランボーの書いたものとはまったく違うってこと!》

《さらについでに言っておくと俺のランボーの訳(河出文庫)には「何の詩情もない」とわざわざ仰る人がいるが、言っとくがランボーは文章を徹底的にきりつめることによって「君たちの詩情」など全部殺してしまったのだ。ランボーの原文を見りゃわかる(日経新聞20111112日参照)。残念でした》

少なくともツイッターやブログぐらい、すこしは礼節を取り払って自由に書けないもんかね、おい、そこのおまえさんたちよ

自由っていっても、いわゆる「怨恨の時代」の手合いの、攻撃欲動の自由じゃなくて、ある種の「計算」と「推敲」、ニュアンスが必要で、「精神の」自由ってやつだぜ

そうしたら皮肉ではなくユーモアが滲みでる


フロイトの考えでは、ヒューモアは、自我(子供)の苦痛に対して、超自我(親)がそんなことは何でもないよと激励するものである。それは、自分自身をメタレベルから見おろすことである。しかし、これは、現実の苦痛、あるいは苦痛の中にある自己をーー時には(三島由紀夫のように)死を賭してもーー蔑視することによって、そうすることができる高次の自己を誇らしげに示すイロニーとは、似て非なるものだ。なぜなら、イロニーは他人を不快にするのに対して、ヒューモアは、なぜかそれを聞く他人をも解放するからである。(柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』)

ここでのユーモアは、「親」のように「メタレベルから見下ろすこと」と書かれているが、ドゥルーズの『マゾッホとサド』にもその議論があってこう書かれる、


サディズムの場合、母親を恰好の犠牲者とする高次の原理たる法の上に位置するのは父親である。マゾヒスムにあっては、法はそっくり母親へと回帰する。そして母親は象徴的空間から父親を排除してしまうのだ。

そして、サディズムがイロニー、マゾヒズムがユーモアとされていることから、この叙述だけから判断すれば、メタレベルから見下ろすのが「父」の場合イロニー、「母」の場合ユーモアということになるのだろうが、他にも、《法からより高次の原理へと遡行する運動ではなく、法から諸々の帰結へと下降する運動をわれわれはユーモアと呼ぶ》としており、だとすれば「メタレベル」とは言い難い。


いずれにせよ、ドゥルーズはフロイトのユーモアに反して書いている。



われわれは、ユーモアというものがフロイトの思惑どおりに強力な超自我を表現するものとは思わない。たしかにフロイトは、ユーモアの一部をなすものとして自我の二義的な特典の必要を認めていた。彼は、超自我の共犯による自我の侮蔑、不死身性、ナルシスムの勝利ということを口にしていた。ところが、その特典は二義的なものではない。本質的なものなのである。だから、フロイトが超自我について提示するイメージーー嘲笑と否認を目的としたイメージを文字通りうけとるのは、罠にはまることにほかならない。超自我を禁止するものが、禁断の快楽獲得のための条件となるのだ。ユーモアとは、勝ち誇る自我の運動であり、あらゆるマゾヒスト的帰結を伴った超自我の転換、あるいは否認の技術なのである。というわけで、サディスムに擬マゾヒスム性があったように、マゾヒスムにも擬サディスム性が存在するのだ。自我の内部と外部とで超自我を攻撃するこのマゾヒスムに固有のサディスムは、サディストのサディスムとはいかなる関連も持ってはいない。(『マゾッホとサド』P154)

ーーここに書かれている否認の技術、つまり倒錯者の技術がどうやら肝要で、ドゥルーズのこの書の最後で、《サディズムにおける母親の否定と膨張、マゾヒスムにおける母親の「否認」と父親の廃棄》と書かれることになる。

ここで『マゾッホとサド』の訳者蓮實重彦の解説からこの「否定」と「否認」をめぐる箇所を抜き出しておこう。


ドゥルーズは、精神分析の領域が抽象的な変質をこうむっていた「父親」と「母親」のイメージを修正しつつ、法学的ディスクールをかりて、マゾッホの契約的思考とユーモア、サディスムの制度的思考とイロニーというかたりで、「否定」と「否認」の展開ぶりを明らかにする。それは、とりもなおさず、異質な衝動や本能のあいだに転位は起こりえないと説くフロイトが、なおサディスムを起点としてマゾヒスムの生成を説き続けたことの矛盾を明らかにする役割を果たしている。だが、そのフロイト的自己撞着の指摘によってドゥルーズは精神分析の風土と訣別するのではなく、かえってその領域に深くとどまり、まさに精神のフロイト的基本構造としての「自我」と「超自我」の関係にマゾヒスムとサディスムが対応しているが故に、二つの倒錯症状がたがいに還元性を持ちえない独自の世界であることが立証されるのだ。



柄谷行人は後年までこの議論に拘っており、最近もつぎのように書いている。


ユーモアにおける超自我は、自発的・能動的に働くのであるが、意識的なものではない。もし意識的なものであれば、それはユーモアではなく、イロニーや負け惜しみになってしまうだろう。(柄谷行人『超自我と文化=文明化の問題』) 



このあたりの議論はいまだ<わたくし>には判然としないが、ここではとりあえず、ボードレールの簡潔な言葉、《ユーモアとは、同時に自己であり他者でありうる力の存することを示すこと》とだけしておこう、そして、セリーヌやソルレス、あるいは訳者の鈴木創士の力のひとつとはそういうものだ。


たとえば、上のツイートのような、《……わざわざ仰る人がいるが、言っとくが》っていう気味合いを出すにはかなりの修業がいるよな





《おまえは今いったいどこにいるつもりなんだい/人と人のつくる網目にすっぽりとはまりこんで/いい仕立てのスーツで輪郭もくっきり/……/今おまえは応えてばかりいる/取り囲む人々への善意に満ちて/少しばかり傲慢に笑いながら》(谷川俊太郎)

やめとけよ、かみしも脱いじゃえよ

なんだって? 無理かい?

そうだろうよ


ぼくは、いつも連中が自分の女房を前にして震え上がっているのを見た。あれらの哲学者たち、あれらの革命家たちが、あたかもそのことによって真の神性がそこに存在するのを自分から認めるかのように…彼らが「大衆」というとき、彼らは自分の女房のことを言わんとしている……実際どこでも同じことだ…犬小屋の犬…自分の家でふんづかまって…ベッドで監視され…(『女たち』P98)





まあオレはなんどかツイッター上で上品ぶった手合いを「すっぽりはだかにした」ことがあるがね

そうしたら今度はまったく距離感がなくなっちまうんだよな

まいったね

修業が足りないんだろうな

ユーモアじゃなくてイロニー(皮肉)にとられるんだよ

くわばらくわばら

…………


次の文はソレルスが引用するフローベールの『ボヴァリー夫人』。


彼女はまた、次のような類の文章を読むとまたしてもぞくぞくする。「彼女はコルセットの細い紐をもぎ取って、荒々しく服を脱いだ、それはスルスルと滑り抜ける蛇のように腰の回りで音を立てるのだった。彼女は素足のまま爪先だって、ドアが閉まっているかどうかをもう一度見に行くと、一気に服をすっかり脱ぎ捨てた、 ――そして、蒼ざめ、なにも言わず、真剣に、いつまでもわななきながら、彼の胸に倒れかかるのであった」。(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)



「細い紐をもぎ取って」、「スルスルと滑り抜ける蛇のように」、「素足のまま爪先だって」……、こんな官能的な箇所があったか。





エンマは荒々しく着物を脱ぎ、コルセットの細紐を引き抜いた。紐は這ってゆく蛇のうなりのように、腰のまわりにうなりをあげた。エンマは、戸がしまっているか素足のままの爪先でもう一度見に行った。それから、まとっているものをみんな一度にかなぐり捨てた。――そして彼女は青ざめて、物もいわず、真剣に、わなわなとふるえながら、男の胸にとびかかった。(フローベール『ボヴァリー夫人』(下) 伊吹武彦訳 岩波文庫 p174


ここでの鈴木氏の翻訳の自在さ加減は、タブッキ須賀敦子訳の「すっぽりはだかになって」を思い出させるね

女は笑って、どうしてそんな暮らしをしているのかを話してくれなかった。もうすこし待って。そうしたら、ふたりでどこかに行ってしまいましょう。あたしのことを信じて。これ以上話せないんだから。それから窓ぎわですっぽりはだかになって、月を見ながら、言った。あんたの呼び唄、歌ってよ。でも、そっと、よ。おれが歌ってやると、女はたずねた。あたしのことを愛している? 突っ立ったまま、なにかを待っているみたいに夜を眺めている女を、おれは窓際に押しつけて、抱いた。(ダブッキ『ビム港の女』(邦題『島とクジラと女をめぐる断片』須賀敦子訳)

ソレルス『女たち』に戻ろう。


エンマは、もういまはこんな風に書かないと思う …だからフランス語が世界中で後退しつつあるとしても驚くにはあたらないのだ、と。どんな現代作家といえどもこんな喚起力をもっていない、と。一人でもいいからぼくに名前を言ってもらいたい! もちろん、いくつかの要素は古びてしまった(彼女のこの条りを読み返すたびに、しばらくのあいだコルセットを身につけたくなるのだが)、でもスカンション、あのセミコロンとあのダッシュの渦巻く力がある …いや、この文体の巧みな中断のなかに人はすべてを感じ取るのだ …「何かしら極端で、漠然として、沈痛なもの」 …そしてとりわけ、「彼女が彼の情婦であるというより、むしろ彼が彼女の情婦になっていた …彼女は、深淵で、隠されているためにほとんど実体の無いこの堕落を、はたしてどこで習い覚えたのであろうか?」


実際、彼女のように仰々しいいでたちの女は現代的な解放すべてに属しており、エンマはエンマのままなのだ …奇妙なことに唯一文学だけが書き留めているこの荒々しい発見を前にすれば、あるのは同じ反芻、同じ痛み、同じ激昂、同じ失望である。この世界における、その名に値する男たちの不在 …男などいない! ただの一人も! 全員がでくの坊、卑怯者、ほら吹き、うすのろなのだ …果てしなく、再び、彼女のすべての連続的再生において、エンマはこの単調な同じ絶望的結論に達する …彼らはいかなる堅固さを有していない …その空しさと同様、彼らの獣性がそこで暴かれる時間をのぞいては …その時の彼らの眼差しにはそっとさせられる …彼らは根本からほんとうに腐っている …結局は全員が贋のエンマなのだ …ぺてん師たち…  (ソレルス『女たち』p116鈴木創士訳)