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2013年5月28日火曜日

『日本美術文化序説』序説(加藤周一)

加藤周一(1919-2008)の代表作は、『日本文学史序説』(1980)だろう。もちろん、より若い頃の著作『雑種文化』(1956)や『羊の歌』(1968)、あるいは『芸術論集』(1967)や折々の政治的言説をまとめたものも、かつてはよく読まれたが、未来に生き残り続けるであろうのは、『序説』ではないか。

私は自分では研究者仲間からディレッタントと思われるくらい比較的に関心対象が広いほうだと思ってますが、その私が逆立ちしても加藤君の視界には及ばない。加藤君の守備範囲が広すぎるのではなく、日本の文学者やアカデミシャンの守備範囲(或は攻略範囲)が狭すぎるから余計目立つのです。(丸山真男「文学史と思想史について」

ところで加藤周一は、『日本文学史序説』上梓の後、『日本美術文化序説』の企画をもったが果たさなかった。

『絵のなかの女たち』の「あとがき」(1998.5)には次のように書かれている。
絵または造形美術一般について、今の私の関心は、日本美術史の見取図に向かっている。『日本 その心とかたち』十巻(平凡社)を作ったのは、そのためであり、さらに話を詳しくして、日本美術文化序説を書こうとも考えている。そういう観点からすれば、この本は序説の序説でなこともない。


『続 羊の歌』のなかの友人との会話の叙述、《「政治の話はもうやめよう」と彼はいった。「ぼくはひっそりと片すみで暮したいよ」……》(参照:「なんのために」ーーー加藤周一『羊の歌』より)は、加藤周一の独語として、つまり自らの内心でこういった問いを繰り返すこともあったのではないか、として読んでみたい誘惑に駆られることがある。少なくとも、「ひっそりと片すみで暮し」ていれば、文化・芸術方面の仕事がより増えただろう。だが、それを犠牲にしてーーという言い方が正鵠を得ていないのは十分承知のうえだがーー、2004年(85、九条の会の発起人となるなどに至るまで、政治的な仕事に傾斜してゆくことになる。


…………


『絵のなかの女たち』はとても<美しい>本だ。もともと「マダム」(鎌倉書房)と「太陽」(平凡社)に連載された文が所収されている。

この本は一方で「女たち」に係り、他方で「絵」に係る。「まえがき」にはこうある。

人は忘れ得ぬ女たちに、偶然の機会に、出会う、都会で、旅先の寒村で、舞台の上で、劇場の廊下で、何かの仕事の係わりで。そのまま二度と会わぬこともあり、そのときから長いつき合いが始まって、それが終ることもあり、終らずにつづいてゆくこともある。しかし忘れ得ないのは、あるときの、ある女の、ある表情・姿態・言葉である。それを再び見出すことはできない。

再び見出すことができるのは、絵のなかの女たちである。絵のなかでも、街のなかでと同じように、人は偶然に女たちに出会う。しかし絵のなかでは、外部で流れ去る時間が停まっている。10年前に出会った女の姿態は、今もそのまま変わらない、同じ町の、同じ美術館の、同じ部屋の壁の、同じ絵のなかで。

私はここで、想い出すままに、私が絵のなかで出会った女たちについて、語ろうとした。その眼や指先、その髪や胸や腰、その衣裳や姿勢……その一瞬の表情には、――それは歓びに輝いていたり、不安に怯えていたり、断乎として決意にみちていたり、悲しみにうちひしがれていたりするのだが、――私の知らない女の過去のすべてが凝縮され、当人にさえもわからない未来が影を落としている。私は場面を解釈し、環境を想像し、時代を考え、私が今までに知っていたことの幾分かをそこに見出し、今まで知らなかった何かをそこに発見する。現実の女が、必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではないように。


あるいはナポリ国立考古美術館所蔵の「フローラ」(作者不詳)と師宣の「見返り美人」をめぐって叙された「後ろ姿の女たち」には、こうある。




現実の世のなかでは、(……)一般に道を行く見ず知らずの女の後ろ姿は、あるときは優美で、あるときは粗野であり、あるときは魅力に溢れ、あるときは魅力を欠く。しかしいずれにしても、そこには「見かつ見られる」関係が成立せず、こちらが相手を見るだけで、相手はこちらを見ることがない。見る側の視線は相手を対象化し、観察し、比較し、見えない部分を想像し、菱川師宣が「見返り美人」を眺めたように、人の姿をみるのである。そのとき、対象と観察者との関係は、美的あるいは感覚的であって、深い感情的な係わりではない。

しかし人生のもっとも感動的な瞬間に、女の後ろ姿を見ることもある。たとえば、別れゆく女の後ろ姿。その別れは「甘い悲しみ」であることもあり、苦い悲しみであることもあろう。安堵や憐憫や恥辱であるかもしれない。しかし常に、後ろ姿を見つめる男は、顔が見えなくても、女の心や気持ちや意識の特定の状態を、知っているか、少なくとも知っていると感じている。女が何処に去るのかは、わかっていることもあり、わかっていないこともあるだろう。しかし常に、再び相見ることのたしかな保証はないということ、何かが終り、再び何かが始まるとしても、それは今終ったことと全く同じではあり得ないだろうということを、明瞭に、あるいは不明瞭に、感じている。

寝室で、家の扉の前で、街の雑踏のなかで、あるいは吹雪の駅頭や真夏の照りつける空港で、別れてゆく女の後ろ姿に、男は決して華麗な衣裳や官能的な身体の線を見ない。そうではなくて、ただ人生の一回性、または時間の非可逆性そのものを見るだろう。かのローマの画家も、その壁面に彼の「フローラ」を描いたとき、一度去って再び来らず、しかも彼の人生の意味を決定する何ものかを、描こうとしていたのかもしれない。




これらは、女との恋の溢れる追憶を抑えこむようにした「数学的な美」の文体で書かれているといえるだろう。

《……その結実としての文体は、すぐれた数学者のつくる数式のような美しさがある。》(小倉朗「加藤周一」)


余談だが、音楽家小倉朗は、 『自伝 北風と太陽』などで名文章家として絶賛された時期がある。高橋悠治の「小倉朗のこと2」におけるわずかな引用文にもその片鱗は間違いなく窺われる。

1950年代の小倉朗は、後になって「なぜモーツァルトを書かないか」(1984)のなかで「音の流れが進みながら、句読の和音(ドミナント)に向って盛 り上がり切り立っていくその波頭や、砕けて散るしぶきの中に、あたかも夜光虫の光のように光を放つ感情」と要約されているような古典主義にたどりついた。 それから日本語のリズムと抑揚に注目し、それも研究というよりは、じっさいにわずかな音をうごかしながらメロディーを作曲し、そのなかで発見していくプロ セスだった。「日本の耳」(1977)は、その経験を書いている。

音楽的感情は、音楽の輪郭となるもの、それ(ら)は、分析の結果あらわれる構成要素や、計算された配列のように、分離され、定義され、操作されるというよ りは、うごく音の全体として共有される。音楽が響くとき、さまざまな感じかたのちがいを包みこみながら、だれのものでもない空間がひらく。ちがうことを感 じながら自由に歩き回れる場で、音そのもののあらわれから位相を移しながら、ちがいをそのままに人びとの心を通わせる通気口になる。それが音楽のもつ強さ としなやかさと言えないだろうか。

小倉朗が作曲から離れていこうとしていた頃に書いた「竹」(1977)という文章の一節、「だが、そうして竹の枝がほとんど露わになったある朝、竹全体が 不思議なうす緑の光につつまれているのを見る」、竹の葉が枯れて飛び離れていった後に萌え出た若葉が逆光を浴びている瞬間、そこにそれぞれの意志と方向を もって飛び交う音を包む場の予感が感じられたのだろうか。

…………


かつて桑原武夫は《加藤氏は感動を醒めた言葉でしか語らない。彼は人を酔わしめることがない。人を醒まそうとする》(「加藤周一氏をめぐる断片語」)と書いたが、これらの文はわたくしを酔わしめる。


女との別れを書いた文は、『羊の歌』のなかにもいくつかある、たとえば。

――「そんなことってあるかしら。こんなに待っていたのに」と加藤周一の洋行帰りをながく待っていた京都の女がつぶやく。

ここには驚愕した陶器の顔の女の口がある。

《四人の僧侶/畑で種子を播く/中の一人が誤って/子供の臀に蕪を供える/驚愕した陶器の顔の母親の口が/赭い泥の太陽を沈めた》(吉岡実「僧侶」)

吉岡実のエロティックな意味合いを離れて、「鷭の声に変化した女の声」を聴きもしよう。

《水べを渉る鷭の声に変化した女の声を聴く》(「感傷」)

私はながく彼女を愛していると持っていたが、ひとりの女にほんとうに夢中になったときに、彼女と私の間の関係がそれとちがうものであったことに気づいた(……)。相手の責任のない不幸を、私が相手の生活のなかにつくり出す、ということを承知の上で、私が行動するーー行動せざるをえない、というときに、その当の相手と話すことのあるはずがない。私は喋り、喋ることの無意味さを感じ、疲れきった。私は放心状態で彼女に別れ、二度と会うまいと考えた。もはや相手のことを考えつづける気力もなかった。それは完全に自己中心的な状態である。しかしそういう状態が成立すると同時に、私はそういう自分自身を第三者のように眺めていた。この「自己」とは何だろうか。一人の女から去って、別のもう一人の女へ向う人間の内容は何であろうか。その二人の女との関係を除けば、私のなかには何も残らず、ただ空虚だけが拡がっているように思われた。(加藤周一『続 羊の歌』)


女にふられての場合もあるだろう、「甘い悲しみ」や「苦い悲しみ」――、それらは「忘れ得ない」。そのことが簡潔でエレガントな文体で書かれることに酔う。


女との別れ、あるいはその後ろ姿――、「必ず他の女たちに似ていて、しかも決して他のどんな女とも同じではない」女たち。そこに「ただ人生の一回性、または時間の非可逆性そのものを見るだろう」。


《いちはつのような女と/はてしない女と/五月のそよかぜのような女と/この柔い女とこのイフィジネの女と/頬をかすり淋しい。/涙とともにおどる/このはてしない女と。》(西脇順三郎「無常」)

《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い終りを》(同「秋」)

《柿の木の杖をつき/坂を上っていく/女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午》(同『鹿門』)


これらの詩句をも聯想させる『絵のなかの女たち』の文章に、加藤周一の最上のものをみるなどは言いつもりはない。そもそも加藤周一のすべてを網羅して読んでいるわけでは、決してないのだから。

あるいは人それぞれ自分にあった眼鏡があるのだ、わたくしの老眼がすすむ今の眼にはぴったりくるというだけだ。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。(プルースト「見出された時」)


加藤周一が愛した森鴎外の史伝、「渋江抽斎」「伊沢蘭軒」「北条霞亭」などの文体、同じくこの史伝を範とする永井荷風や石川淳の系譜の文体をみるといっても、そこには加藤周一の彼らとは異なる個性の味わいが深く刻まれている。若き日、ヴァレリーの『レオナルドダビンチの方法』に魅せられたことからくる「分析的精神」はもちろんだが、かつ堀辰雄や立原道造に傾倒したひとびとの集まりでもあった「マチネポエティック運動」の星菫派風の余燼が見え隠れする――、一歩間違えば感傷に堕っしかねないリリシズムを決然と反転させて、「爽快な抒情」を装うスタイルとでもいおうか。だが欲望の裂け目、その《胚種が、場所を選ばず、あなたの念頭に現れる。それはキャフェでかもしれず、列車の中かもしれず、友だちとしゃべっているときかもしれない(それは、その友だちが話していることがらの側面から突然出現するのだ)》(『彼自身のロラン・バルト』)


そこにひとは加藤周一の脇の甘さ・隙を見て嘲笑するなどということはあり得る。

ーー吉本隆明による加藤周一「雑種文化」論批判、《さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない》(吉本隆明「三種の詩器」1958)

いずれにせよ、すくなくとも二十世紀のある時期以降、感傷にひたる俗物を批判するのが文学・批評の重要なつとめであることは明らかである。それはますます昂じて、いまは「感傷」を曝すことを、ひとびとはひどく怖れる。
現代の世論は恋愛の感傷性ということに冷淡である。恋愛主体はこの感傷性を、わが身ひとりを衆人環視の中にさらすたぐいの、強度な侵犯行為として引き受けざるをえなくなっている。つまり、ある種の価値転倒により、今日では、この感傷性こそが恋愛のみだらさをなしているのである。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』)

あるいは、《歴史的転倒。今や下品とされるものは性的なものではない。実際にはそれもまた別の道徳にほかならぬものによって非難された感傷性こそが、下品なのである。》(同)

おまえはもっともらしい貌をして、難しく厳しく裁断するがじつは、おまえは少女たちの甘心を買うためにそういう姿勢をしはじめたのではなかったか。遠いアドレッセンスの初葉の時に。そう云われていくぶんか狼狽するように、これらの自然詩人たちへのかつての愛着を語るときに狼狽を感じる。(吉本隆明歳時記「夏の章――堀辰雄」)



 …………


暁と夕の詩  立原道造


沈黙は 青い雲のやうに
やさしく 私を襲ひ……
私は 射とめられた小さい野獣のやうに
眠りのなかに 身をたふす やがて身動きもなしに

ふたたび ささやく 失はれたしらべが
春の浮雲と 小鳥と 花と 影とを 呼びかへす
しかし それらはすでに私のものではない
あの日 手をたれて歩いたひとりぼつちの私の姿さへ

私は 夜に あかりをともし きらきらした眠るまへの
そのあかりのそばで それらを溶かすのみであらう
夢のうちに 夢よりもたよりなく――

影に住み そして時間が私になくなるとき
追憶はふたたび 嘆息のやうに 沈黙よりもかすかな
言葉たちをうたはせるであらう


…………


そう、ときに加藤周一の甘美な抒情が洩れ溢れるのに狼狽を感じつつも、決然とそれを断ち切ろうとする醒めた理知的文体、そのふたつのものの混淆に酔う。

《……私は昔からの読者の一人として、その著作に現代の日本文学をよむことの大きなよろこびを見出してきたのである。その川端康成の死後今日まで、私には容易に消えない感慨がある。さらば川端康成。これは私の知っていた川端さんへの「さらば」であるばかりでなく、私の内なる「川端的」なものへの「さらば」でもある。前者は死別の事実に係る。後者は――決別の願望である、おそらく容易に実現されないであろうところの、しかし断乎としてその実現に向うべきところの。》(加藤周一「さらば川端康成」)

私のつきあいの範囲では、美しいという言葉を今なお悪い意味じゃなく、いい意味で使ってる人は、芸術家でも、画家でもない、数学者です。数学者は使う。あるいは、数学的な自然科学、例えば物理学者です。古典熱力学の体系は、あれは「優美」だ、と言います。それは美しいという。あるいは数学者は、問題の解き方が三つある、どのほうほうでも解ける、しかし、三つの解決法の中で、一番美しいのはこれだからこれを採りましょう、と言います。

その時は美しいという言葉を使います。美しいという言葉は、二〇世紀以降はむしろ数学者にまかせた方がいいのではないかと思います。数学者は、美しいを定義しろと迫れば多分「簡単」と答えるでしょう。複雑な解決法よりも、簡単・単純な方が美しい、ということです。(加藤周一「語りおくこといくつか」)