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2013年5月26日日曜日

マチネ・ポエティック運動


遠い心の洞のなか

扉のひらく時を待ち

乱れて眠る赤はだか

緑の髪の娘たち


白い泉の畔りには

しじまを染めて立昇る

炎 記憶の燃える岩

仄かに明日は透きとほる

……  

ーー中村真一郎「真昼の乙女たち」より



頭韻が「と」「と」「み」「み」、「し」「し」「ほ」「ほ」とありAABBの形式。
脚韻が「か」「ち」「か」「ち」、「は」「る」「は」「る」とありABABの形式。

これが戦後まもなく結成された福永武彦、中村真一郎、加藤周一、窪田啓作、白井健三郎などの詩運動『マチネ・ポエティック』の詩の試みのひとつであり、すべてソネット(十四行詩)である。



死の馬車のゆらぎ行く日はめぐる

旅のはて いにしへの美に通ひ

花と香料と夜とは眠る

不可思議な遠い風土の憩ひ



漆黒の森の無窮をとざし

夢をこえ樹樹はみどりを歌ふ

約束を染める微笑の日射

この生の長いわだちを洗ふ


……

ーー福永武彦「火の鳥」より


こちらは脚韻だけの試み(だろうか? 一部頭韻がないでもない)。


福永は三好達治の追悼文で「戦後、私が友人たちと定型詩を試み「マチネ・ポエチック詩集」を出した時に、三好さんは鋭い批評を下された。好意的悪評といったものだが、三好さんの位置が、その発言に権威あらしめたために、この批評は決定的に私たちを敗北させた。」と振り返っている。その三好の批評文とは「マチネ・ポエテイクの試作に就いて」である。ここで三好はマチネの詩作が「つまらない」と表明する。

《奥歯にもののはさかつた辞令は、性分でないから、最初にごめんを蒙つて、失礼なことをいはしてもらはう。まづ、同人諸君の作品は、例外なく、甚だ、つまらないといふこと。諸君が危惧してゐられるやうに、決してそれは難解ではないが、私にはいつかうつまらなかつたといふこと。詩に於ける難解といふことはその詩の魅力と並立してこそ、はじめて成立ちうる性質の難解であつて、魅力を欠いた孤立した難解といふやうなものは、昼まのお化けで、ありつこない。》(三好達治)

その上で三好は日本語においてなぜ押韻定型詩が不可能なのかを、理由を三点挙げ説明する。一つは「脚韻の効果」が薄いこと、つまり「日本語の声韻的性質」である「常に均等の一子音一母音の組合せで、フィルムの一コマ一コマのやうに正しく寸法がきまつて、それが無限に単調に連続する」ために、押韻は「読者の注意を喚起」しない。二つめは「命題の末尾(原則として脚韻の位置)を占める動詞の数は、中国語や欧羅波語の場合当然その位置を占めるべき名詞の数に比して、比較にもならぬ位その語彙は少数」となるために、「窮屈な貧しさ」を露呈すること。最後にマチネの詩作に「文章語脈ないしは翻訳口調の、入り乱れて混在する」ことを指摘し、そこに「いかにも不熟で、ぎこちなく、支離滅裂で、不自然」な点があるとし、この背景には「文章語脈」の形式性が「我々の今日の領分」に相応しいように「きり崩されて」いないこと、「現在の口語脈」の未成熟、「翻訳語脈」の日常生活への不適応性があるとしている。(「マチネ・ポエティクと『草の花』」西田一豊)mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/irwg10/Jinbun37-06.pdf



もっとも彼らの試みは誤っていず、彼らが詩人でなかっただけだなどと評する人もいる。

…………


三好達治は、ほかにも星菫派の名残りがないでもない大岡信の第一詩集『記憶と現在』の中の「六月」について、次のように批判しているようだ。

国文畑の出身と聞く作者が、「鳥たち」「花々」などといふのは、もと、変てこな語感に違いない。意味のアイマイなだけ、音調においてはするすると滑りのよい、それらの比喩、...それらは、かんじんの「詩」の犠牲に於て、その「突貫工事」を突貫しようとするのであらうかと…


あわせて、吉本隆明による加藤周一の雑種文化論への批判を記しておこう。

《さしずめ、西欧乞食が洋食残飯を食いちらしたあげく、伝統詩形に珍味を見出しているにすぎない》(吉本隆明「三種の詩器」1958)


ーー加藤周一は吉本隆明を、《日本人特有の『いまとここ』主義から生まれる際限の無い現状肯定の見本》(出典不明)と批判しているようだ。


…………

つち澄みうるほひ

石蕗〔つわぶき〕の花さき
       
あはれ知るわが育ちに

鐘の鳴る寺の庭


――室生犀星「寺の庭」

…………

…三好が詩に於てつとに萩原朔太郎を宗としたことは周知のとほりだが、その詩境をうかがふに、年をふるにしたがつて、むしろ室生さんのはうに「やや近距離に」あゆみ寄つて来たのではないかとおもふ。萩原さんの詩はちよつと引つかかるところがあるけれど、室生さんの詩のはうはすらすら受けとれると、げんに當人の口から聞いたことがあつた。萩原さんをつねに渝らず高く仰いてゐた三好として、これは揣らずもみづからの素質を語つたものだらう。ちなみに、そのときわたしは鑑賞上それと逆だと應へたおぼえがある。また三好が酣中よくはなしてゐたことに、芥川龍之介は百發九十九中、室生犀星は百發わづかに一中だが、のべつにはづれる犀星の鐵砲がたまにぶちあてたその一發は芥川にはあたらないものだといつて、これにはわたしも同感、われわれは大笑ひした。つち澄みうるほひ、石蕗の花咲き……といふ室生さんの有名な詩は三好が四十年あまりにわたつで「惚れ惚れ」としつづけたものである。「つち澄みうるほひ」はまさに犀星の一發。このみがき抜かれたことばの使ひぶりは詩人三好が痩せるほど氣に入つた呼吸にちがひない。(石川淳「三好達治」『夷斎小識』所収)

…………
                   
褐色(かちいろ)の

根府川石(ねぶかはいし)に

白き花はたと落ちたり、

ありとしも靑葉がくれに

見えざりし さらの木の花。 


ーー森鴎外「沙羅(さら)の木」


この鴎外の詩をめぐって、中井久夫は次のようにいう、《押韻もさることながら、「褐色の根府川石」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日本詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている》。さらにこの詩がボードレールの詩句の巧みな換骨奪胎であるとする。(『分裂病と人類』)

…………

中井久夫は現代ギリシャ詩について次のように書いている。

突然、現代ギリシャの詩が私を捉えた。「古代」の間違いではない。現代ギリシャが、二人のノーベル賞詩人セフェリスとエリティスを初めとする優れた詩の源泉であるという知識はかねてよりあった。だが遠い世界だった。第一、私は詩人ではない。

若い友人の結婚式のスピーチを考えていた。甘美で格調のある祝婚の詩はめったにない。たまたま英訳エリティス詩集が書架にあった。たちまち冒頭の「エーゲ海」に吸いこまれた。なんとか日本語にした。結婚式のスピーチ代わりにはなる程度のものができた。

次のページをめくった。次も。私は魅了された。空と海と鷗と白い島と。乾いた夏と湿った冬と。太陽と裸体とセミと星明りの夜ときつく匂う草と。独特の漁船と生乾きの海藻の香と。そして何よりも風。庭を吹き荒れ、樹を揺るがせ、平原をこうこうと吹く風があった。舞い、ひるがえり、一瞬停止し、どっど駆け出す風のリズムがあった。

原文を少し入手した。現代ギリシャ語。鋭い言葉である。母音は短いアイウエオだけ、それもイ、エが多いから。そして我が国語純化論者なら嘆くだろう “乱れ” 。文語が現存し、口語は江戸弁のままという粗さで、しかも両方が混じる。生まの方言で論説や科学論文を書くとすれば、雅語や漢語を加えねばならぬ。そこに生じる混乱、この荒さ、鋭さ、変化が、例えばエリティスの傑作「狂ったザクロの木」になるのだろう。

私の訳で紹介しても甲斐ないことだが、歌い出しは「南の風が白い中庭から中庭へと笛の音をたてて/円天井のアーチを吹き抜けている。おお、あれが狂ったザクロの木か、/光の中で跳ね、しつこい風に揺すられながら、果の実りに満ちた笑いを/あたりにふりまいているのは?/おお、あれが狂ったザクロの木か、/今朝生まれた葉の群れとともにそよぎながら、勝利にふるえて高くすべての旗を掲げるのは?」である。全六連の最後までザクロの木を歌っているのか風なのか定かならぬままにしばしの陶酔を私に与えてくれる。(中井久夫「ギリシャ詩に狂う」)

中井久夫は日本語も捨てたものじゃないと語っているようにも見える、ただ工夫が足らないだけだと。


ここで、現代日本の詩に特有のことかもしれないが、押韻や定型を云々する以前に、詩は音読されねばならないかどうかが問題である。詩は必ずしも音読する必要はないかもしれない。これは、その人がどういう感覚によって詩を作りあるいは味わっているかという問題があって、当否で答える問題ではないと思う。ここで、音読とは、聴覚だけの問題ではないことを言っておくにとどめよう。たとえば、舌と喉頭の筋肉感覚があり、口腔の触覚を始めとする綜合感覚もある。私は、リッツォスの「三幅対」の第三において「接吻の直後にその余韻を舌を動かしながら味わっているひとの口腔感覚」を、音読する者の口腔に再現しようとしたことがある。

きみの舌の裏には、カレイの稚魚がいる。
ブドウの種がある。桃の繊維がある。
きみの睫毛の投げかける影には
暖かい南国がある……

(リッツォス『括弧Ⅰ』「三幅対」三「このままではいけない?」)

もし、音読を詩の必要条件の一つとするならば、いや、詩は時に読まれるべきものだとするなら、改行とは音読をガイドする働きを持っているかもしれないという仮説が生まれる。私は、改行とは、第一に、読む速度をそれとなく規定するものであると考える。長い行ほど早口で読むようにと自然に人を誘導すると私は思う。

視覚的言語が二つの要請を音声に与える。一シラブル(正確には一モーラ)をほぼ同じ速度で読ませようとする「文字」と、一行全体がほぼ同じ時間内に読まれる権利を主張する「行」とのせめぎあいである。これはシラブル数が不定な詩においては特に著しい。その結果として、読後の緩急が決ってくる。この緩急は、行の末端が作り出す上り下りによって、読者にあらかじめ示唆されている。
(……)

私の訳詩は思い入れをこめた緩急な朗読を予想していない。私は、現代日本語の美の可能性の一つは、速い速度で読まれることによる、母音と母音、子音と子音、あるいは母音と子音の響き合いにあるのではないかと思っている。(……)日本語のやや湿った母音は単独ではさほど美しくなくとも、その融け合いと響き合いとが素晴らしい美を醸成することを、私は信じている。
(……)

私は、詩の読まれる速さが、単純に一行の字数で決まるといっているのではない。まず、わが国においては、詩のたいていは漢字かな混じり文である。複雑な漢字は、その存在そのものが一字で二音以上である可能性を示唆し、読む者に、ゆるやかに読もうという姿勢を取らせる。また、漢字の多い行は、当然短くなる。これも、短い行はゆるやかに、という示唆のために、ゆるやかに読む姿勢を強化するだろう。

(中井久夫「詩の音読可能な翻訳について」『精神科医がものを書くとき Ⅱ』広栄社 所収)