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2013年6月22日土曜日

アッチヘウロウロ コッチヘウロウロ

 誰かが何かを言うときには、文章あるいは主張が議論に載せられますが、言っていることに対して主体がとっている位置に注目することもできます。いいかえれば、彼のメタ-言語学的位置に注意を向けるのです。彼は自分の言っていることをどうみているだろうか?(ミレール「ラカンの臨床的観点への序論」)

――これはことさら穿った人間観察者の習癖ではない。一歩下がって眺めれば、おのずとみえてくる。《すべての発話はなんらかの内容を伝達するだけでなく、同時に、主体がその内容にどう関わっているかをも伝達する》(ジジェク)


《……なぜなら、私の興味をひくのは、人々のいおうとしている内容ではなくて、人々がそれをいっているときの言いぶりだからで、その言いぶりも、すくなくともそこに彼らの性格とか彼らのこっけいさがにじみでているのでなくてはいけなかった》(プルースト「見出された時」)――プルーストのいうような「滑稽さ」でなくてもよい、《彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶり》(ロラン・バルト)と言ってもよい、それは今、この<わたくし>の書く文にも滲み出ていることだろう。


ところで、なにかを愛しているのと、なにかを愛していると人に示すのとは違う。
気に入ったのと、気に入ったことを人に示すのとは違う。
人の役に立ちたいのと、人に役に立ちたいと言うのとは違うように。

ここにはすでに「媚び」がある。「へつらい」がある。

人を愛するのと「人類愛」、動物を愛するのと、「動物愛護」とは違う。


たしかにサルトルは、『嘔吐』の中のアントワーヌ・ロカンタンのように社会のある種のカテゴリーの人間を嫌っていたが、しかしけっして全般的な人類ではなかった。彼の厳しさは、へつらう職業の者だけを対象としていた。何年か前のこと、十匹ぐらいの猫を飼っているある婦人がジャン・ジュネを咎めて尋ねた。

《あなたは動物が嫌いなんですね》

《私は動物を愛する人間が嫌いなんです》

とジュネは答えた。これこそまさしくサルトルが人類に等しくとった態度なのであった。(ボーヴォワール『女ざかり』上   p138 紀伊國屋書店 朝吹登水子 二宮フサ 訳)

 ※ジュネの動物嫌いは、おそらくサルトル=ボーヴォワールのいう人類愛嫌いとは異なった面もあるだろう。彼が産声をあげた時から閉め出しを喰った社会への嫌悪、そして動物を愛するかのようにして養家で愛された「外傷的記憶」にかかわる部分もあるに違いない。だが、ここではその面については、いったん無視する。



人類愛(者)批判というのは、フロイトの文化論、「ある幻想の未来」やら「文化への不満」の主題(隣人愛)のひとつだが、とくに後者では、ロマン・ロランへの批判がある。『文化への不満』の冒頭近くに、ロマン・ロランが人間の「太洋的な」感情を書き綴る手紙が紹介され、「この種のすぐれた人間の一人が、手紙の中で自身のことを私の友人と呼んでいる」と書いているのだが、フロイトの叙述には「気安く友人などと呼んでくれるな」と読まざるをえない風に書かれている。

もともと、《人が同情を寄せる相手は、知らない人びと、想像で思い描く人びとであり、すぐそばで卑俗な日常生活のなかにいる人たちではない》(プルースト「見出されたとき」)という機微はよく知られているが、フロイトの隣人愛批判はそれを遥かに超えて書かれている。

私の愛は私の貴重な財産なのだから、十分な理由もなしに大盤振舞いすることなどは許されない。 〔…〕私が誰か他人を愛するとすれば、その他人はなんらかの意味で私の愛に値しなければならない。 〔…〕その他人が私と縁もゆかりもない人間で、その人自身の価値や私の感情生活にたいしてすでにもっている意味などによって私を惹きつけることができないとすれば、その人間を愛することは私にとって困難になる。それどころか、そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる。なぜなら、私の家族は私の愛を自分たちだけの持ち物だと思っているのだから。 (フロイト『文化への不満』)

 満遍なく、「抽象的な」愛の大判振舞いをする人物に対して、傍らの家族はどうやって振舞ったらいいのだろう。そこには “わたしぬき” という事態のあること、したがって「わたしは見捨てられているのだ」ということを、読みとってしまうことはないか。


ところで人類愛者の憐み深い、あるいは愛想の溢れた容貌に対して、人を愛する人物は、無頓着な、ぶっきらぼうな、あるいは「思いやりのない顔」をしている。

私がのちに、私の人生の途上で、たとえば修道院で、活動的な慈悲の化身、まったく神聖そのもののような化身に、たまたま出会ったようなとき、そうした人たちは、おしなべて、多忙な外科医によく見かける、快活な、積極的な、無頓着な、ぶっきらぼうなようすをしていたし、人の苦しみを目のまえにして、どんな同情も、どんなあわれみも見せない顔、人の苦しみにぶつかってすこしもおそれない顔をしていた、つまり、やさしさのない、思いやりのない顔、それが真の善意のもつ崇高な顔なのである。(プルースト「スワン家のほうへ」)


さて動物愛をめぐっては、クンデラの『存在の耐えられない軽さ』の最後近くで、「犬への愛は無欲なもの」と書かれる。はたしてそうだろうか。犬から愛されることを願っていないだろうか。たとえば夫妻で犬を一匹飼っているとする。夫より妻のほうに犬がなついていれば嫉妬しないだろうか。

その問いはここでは保留することにするが、クンデラの文は、《その相手から何かを(愛を)望むゆえに、愛することができない》人間の不幸が書かれている。そして「愛することができない」だけではなく、「愛される」機会を逸する場合も多いだろう、相手が媚び諂いに敏感な人物であるなら、ことさら。


犬への愛は無欲なものである。テレザはカレーニンに、何も要求しない。愛すらも求めない。私を愛している? 誰か私より好きだった? 私が彼を愛しているより、彼は私のことを好きかしら? というような二人の人間を苦しめる問いを発することはなかった。愛を測り、調べ、明らかにし、救うために発する問いはすべて、愛を急に終わらせるかもしれない。もしかしたら、われわれは愛されたい、すなわち、なんらの要求なしに相手に接し、ただその人がいてほしいと望むかわりに、その相手から何かを(愛を)望むゆえに、愛することができないのであろう。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)


すこしだけ立ち止まって考えてみよう、ひとの心理の機微の基本的な部分だ。もし「愛される」こと少ない不満や不幸にある人なら、なおさら。

もし私が意識的に「人に振り向いてもらおう」、あるいは「愛されよう」と願えば、《滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだーーそれらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動の直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。》(「金儲け」の論理、あるいは守銭奴


アッチニフラフラ コッチニフラフラ愛想を振り撒いてばかりいれば、すでに獲得したかにみえた他者からの関心(愛)をも失う。

雨ニモ負ケテ
風ニモ負ケテ
アチラニ気兼ネシ
コチラニ気兼ネシ
(……)
アッチヘウロウロ
コッチヘウロウロ
ソノウチ進退谷マッテ
窮ソ猫ヲハム勢イデトビダシテユキ
オヒゲニサワッテ気ヲ失ウ
ソウイウモノニワタシハナリソウダ


ーーー堀田善衛『広場の孤独』より




※附記 :ジャック・デリダ(Jacques Derridaアドルノ賞受賞記念演説「異邦人の言語」より

観念論、人間主義という哲学の最も強大な伝統の力があります。アドルノが明言していますように、自然に対する人間の至上性、支配(Herrschaft)は実際には「動物に対して向けられる 」(Sie richtet sich gegen die Tiere)。別の視点からは強く敬愛するカントの名を特に挙げ、人間の〈尊厳(Wurde)〉や〈自律性〉というカントの概念には、人間と動物との間にいかなる思いやり(Mitleid)の余地も残されていないと非難しています。続けて彼は人間と動物との類似や親縁性を想起させるもの(die Erinnerung an die Tierahnlichkeit des Menschen)ほどカント的人間にとって憎む(verhasster)べきものはないと言います。カント的人間は人間の動物性に対して憎悪しかもちません。ひいてはそこに自分の「タブー」を見るのです。 “Tabuierung[タブー化]”という言葉を使うと、彼は急にさらに一歩先に進みます。観念論的体系にとって動物は潜在的に、ファシスト的体系にとってのユダヤ人と同じ役割を演じている(“Die Tiere spielen furs idealistische System virtuell die gleiche Rolle wie die Juden furs faschistische”)、と。動物は観念論者にとってのユダヤ人であり、観念論者とは潜在的なファシストにほかならないのです。動物を、さらに人間の中の動物を罵るとき、ファシズムは始まるのです。真性の観念論(echter Idealismus)は人間の中の動物を〈罵る〉、あるいは人間を動物として扱うことにあります。アドルノは二度にわたって罵り(Schimpfen)という名を使用しています。   しかし他方、別の戦線では、『Dialektik der Aufklarung[啓蒙の弁証法]』の「人間と動物」という断想の主題の一つがそうでありますように、全く逆に、ファシストやナチス、総統が公然と主張したかに見える、時に菜食主義まで及ぶ動物へのあの怪しげな関心の下に隠されたイデオロギーと闘わねばならないのです。