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2013年8月16日金曜日

私はいかなるテクストも暗記できません


ところで日本の詩人で最初に感心したのは中原中也です。中也の詩のリズムは、私が詩を訳したりするときの基本になっているのではないかと思います。(……)

ちょうどそのころカフカ全集が出始めたころでした。私は一時カフカ全集ばかり読んでいた時期がありました。まるで自分のことが書いてあるような気がしたことがあります。そのころ同人雑誌にカフカ論を載せたのです。……(中井久夫「私の影響を与えた人たちのこと」『精神科医がものを書くときⅠ』広栄社)

ほかにもヴァレリーやヴィトゲンシュタイン、デカルトなどという名は出てくるが、それらの名やカフカは別にして、中原中也をめぐっては、中井久夫の書き物に滅多に出てこない(わたくしの知るかぎり)。

――何が言いたいわけでもない。中井久夫の訳詩の中原中也のリズムに気づいていたといいたいわけでもない。

このところ中井久夫訳のカヴァフィスをしばしば引用しているが、さらにこうやって引用しても、ある親しさの感は覚えるが、ことさら中也の詩の影響をみることができるほどに中原の詩が「肉体化」しているわけではない(わたくしにとって)。

ーー《傾倒は、決して、その思想ゆえでなく「言語の肉体」獲得のためでなければならない。そうでなければ、その人はたかだか作家の〔取り巻き〕に終わるであろう。》

「カフェに坐りつづけた、十時半から/あれがいつ何どきドアを開けてはいってくるか/真夜中はとうに過ぎたが、なお待ちに待つ/一時半も過ぎてカフェに人影もまばら/機械的に読み返す新聞にもうんざり/……/長い長い待ちびと。心がずたずたに破れてゆくなあ/こう何時間でも独りでいると/道徳に背く自分の人生を/彼とて悩み出しもする。//だが友がきた。みえたとたん、疲れも悩みも退屈もあっという間に消えた/友の知らせ。何という棚ボタ/六十ポンド儲けた。カードでだ。//さあ、何もかも歓喜、生命、官能、魅惑。//ふたりは出掛けた。たがいのご立派なご家族の家なんかじゃなくて/(どうせもう歓迎される身じゃなかったし)/馴染みの家に行った。非常に特殊な淪落の家へ。/寝室を一つ頼み、高い飲み物をとって飲みなおした。//高い飲み物を飲み干した時/もう朝の四時に近かったけれど/ふたりはとてもしあわせに愛に溺れた」(カヴァフィス「二十三、四歳の青年ふたり」)

まあ言われてみれば、いくつかの中原中也の断片が浮んでこないわけでもないが。しかし断片だけだ。そもそもわたくしは少年時代、詩を暗記をするのが苦手だった。いまでも最後まで口をついてくるのは「朝の歌」ぐらいだ。バルトが次のようにいうのに、慰めを見いだしているぐらいだ。

「私はいかなるテクストも暗記できません。いうまでもなく、自分自身のテクストさえ、暗記できないのです」。高校時代の朗読の試験がどれほど彼を脅えさせたかを語ったあとで、それでも、そんな自分を修正しみようとはしたのだという。

私は思い出すのですが、ある日、バイヨンヌからの自動車での帰途、私はひとりぼっちだったし、距離もかなり長かったので(私はそっくりそらんじている道路を、十二時間もの時間をかけて走破するのです)、自分自身にこういいきかせました。よし、何かを暗記することで時間をやりすごしてやろう、と。私は、紙切れにラシーヌのある段落を書き写しておきました。フェードルの死の場面だったと思います。こうして、十二時間の間、私はこのフェードルの死を暗記しようと試みました。ところが、うまく行かなかったのです。パリに着いたとき、私は、このフェードルの死をすっかり忘れていました。(「スリジー」)

中原中也の詩は引用しにくいものだ、あまりにも人口に膾炙しすぎているようで。

《誰の影響を受けたのか、(……)心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない》(堀江敏幸『河岸忘日抄』)


…………


一つのメルヘン  中原中也

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射しているのでありました。

陽といっても、まるで珪石か何かのようで、
非常な個体の粉末のようで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもいるのでした。

さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでいてくっきりとした
影を落としているのでした。

やがてその蝶がみえなくなると、いつのまにか、
今迄流れてもいなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れているのでありました……

ここには宮澤賢治の影響、殊に「やまなし」の翳をみるひともいるようだ。

さる研究者によれば、母音あ音の多用(79個)による開かれた空間性の感覚、という。


中井久夫には訳詩だけでなく、散文においても、a音の多用や、音韻の極度の工夫をみることができる。たとえば「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)の冒頭。

韻がわかりやすいように敢えて行わけをして引用する。


ふたたび私は
そのかおりのなかにいた。かすかに
腐敗臭のまじる
甘く重たく崩れた香り――、
それと気づけば
にわかにきつい匂いである。

それは、ニセアカシアの花の
ふさのたわわに垂れる
木立からきていた。
雨上りの、まだ足早に走る
黒雲を背に、
樹はふんだんに匂いを
ふりこぼしていた。


Fu音の韻: ふたたび 腐敗臭 ふさ ふりこぼしていた 

a音の韻: 私は かおり なか かすか まじる 甘く 香り 花 たわわ 垂れる 雨上り  …

i音の韻: 気づけば にわかに きつい 匂い ニセアカシア きていた 樹は …

ーーー「かおり」、「かすか」、「香り」のka音の連続があり(漢字とひらがなの「カオリ」の混淆は文字面の美を考慮してのことであろう)、「にわかに」、「きつい」のi音の後に、「香り」ではなく「匂い」があることから、意識的な工夫であることが明らかだ。

まだまだいくらでもある、たとえば、「その」、「それと」 「それは」、に気づくこともできよう。「甘く重たく崩れた」の押韻、「まだ足早に走る」、a音の連続の心地よさ、そこに、足、走る、のshi音が絡むなどなど(i音とすれば「に」であり、足、に、走る、と三つ続くことになる)…

私は匿名で二十代に三冊の本を書いているが、この時の文体は現在でも私の基本文体である、その名残りは、私の文章にアリテレーション(頭韻)が比較的多いことにもあるといえそうである。英語は詩はもちろん、散文にもこれが目立つ。 Free and fairとか、 sane and sober societyというたぐいである。(中井久夫「執筆過程の生理学」)


…………

さて中也に戻れば、小林秀雄が、中原中也の「最も美しい遺品」と書いた「一つのメルヘン」。

吉田秀和が、「ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる」と書いた中也の詩の一つ。こう書く吉田秀和の文は「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」(「ユリイカ」1970.9)という表題をもっており、たしかに著名な友人たちが書き過ぎた。


秋の夜であるのに陽が射す、それが珪石の固体の粉末のよう、蝶の去ったあとの水の流れ、「さらさら」の繰り返し…

ひとは《この詩にあるこれだけの不条理を読みながら、殆んど矛盾を感じていない。さらさらということばは、連を改める度に、その意味を変えるが、しかし、ぼくらはそれすら気づかずに美しいひびきとして聞いてしまう》(北川透)


大岡昇平は、文学研究者の解釈に苛立っている。

亡友中原中也の「狂死説」を、私は機会あるごとに、打ち消すのに努めて来たが、荷風先生まで弟子によって脳梅毒にされる世の中では、いつ異論が飛び出すかわからない。いや、そのおそれはかなりあるので、この際はっきりさせておく。

先日NHKテレビの教養番組で中原中也が取り上げられた時、私は友人の資格で出席したが、解説担当の吉田精一氏と彼の死因について、少し話した(番組中ではない、あとの雑談の時である)。

……死の真相となると、事実問題であるから、吉田氏のような文学史家にかかると、噂も隈なく採集されるであろうし、どんな判定を下されるかもはかり難い。

(……)入院の半月ぐらい前から、片足に歩行困難があり、ステッキを突いて歩いていたことには、多くの証言がある。

これらは狂気より脳腫瘍の症状なのである。脳腫瘍というのは、文字通り脳におできができる病気である。原因はいろいろあり、梅毒性のものもあるが、(……)結核種と見てよいのであろう。(……)

小林秀雄や中村光夫は鎌倉にいたから、入院した中原があばれているところを見ている。私が東京から駆けつけた時には、割合に落ち着いていて、ベッドの仰臥していた、青山二郎がそばから、
「大岡だよ。大岡が来たんだよ」
と言うと、首を少しもたげて、
「ああ、ああ、ああ」
とうなずくように言った。「論争の時、もう一丁上の意見を出す前に、相手の意見はすっかり吞み込んだというしるしに見せる表情」と私は以前書いたことがある。

しかしどうも中原は私がわからなかったような気がしている、きいてみたわけじゃないが。

顔をしかめて、少し横を向き、枕の上に首を落した。それは今考えると、「痛い」という表情であった。私を認めることができないのが悲しいのではなく、首をもたげたので、頭が痛くなったのではないかと思う。脳腫瘍はたいていひどい頭痛を伴うものである。

中原はその二日後死んだのだが、私は臨終に立ち会っていない。或いは小林の書いているように、「狂死」という状態だったかも知れない。腫瘍が転移して、譫妄状態のまま死んだとしてもごく自然である、特に脳梅毒を推定する根拠はない。

こんなにくどく書くので、変に思う人もいるかも知れないが、吉田精一氏をはじめ、この頃の国文学史の研究は精緻を極めていて、これくらいくどく書いておかないと、彼らを説得することはできないのである。

(……)
一旦狂気を信じると、下手にこじつけて考えるのが、学者の通弊である。

(……)

教科書的に有名な「一つのメルヘン」だが、テレビ番組で吉田精一氏のつけた解説は、大体次の通りである。

これはたぶん作者が実際経験したところでありまして、陽がまるで水のようにさらさらとさすと錯覚し、いもしない蝶が中原には見えたのであります(彼はその前に、中原は文也の死後、文也を喰い殺した白い蛇が来ると言って、屋根に上ってあばれたおいうようなことを話した。この挿話も、誇張されて吉田氏に届いているので、安原喜弘の証言によれば、その頃の中原には屋根なんかに上る力はなく、座敷の中から蛇が屋根にいると言っただけである)。そして、乾いた川床に、見えもしない水が、流れはじめる、そういう経験をそのまま歌ったところに、この詩のうすきみの悪い実感があります。中原中也というデカダンスの詩人の本領はここにあります」

私は少しむっとして、よほど抗議しようと思ったが、大勢の視聴者の前で、解説担当者に喰ってかかるのもどうかと思い、我慢した。あとで、
「中原が実際そんな経験があったかどうかなんて、あまり重要ではないと思いますがね」
と指摘するに止めておいた、もっともテレビを見てくれた友人の話では、吉田氏が喋っている間、私は実に渋い顔をしていたそうだから、私の気持は案外一般に伝わっているかも知れない。

心理学や精神病理学は最近の流行であるが、作品と病理学的事実は蓋然的関係にあるだけで、厳密な因果関係はないと知らなければならない。

こういう教科書的鑑賞講座を俗耳に入り易く、青少年に文学に興味を持たせる効用はあるが、同時に間違った道へ迷い込ませてもいるので、教育上の問題である。中原の「一つのメルヘン」の詩的価値は全然別の次元に属している。私はむろん彼は幻の蝶なんか見たことはなかったと信じている。(大岡昇平「文士梅毒説批判」「新潮」1961年11月号初出『中原中也』所収 1979 角川文庫)


「ひとつのメルヘン」を読むと、小林秀雄の次の文をすぐさま想い起こすということはある。

晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙って見ていた。花びらは死んだ様な空気の中を、まっ直ぐに間断なく、落ちていた。樹陰の地面は薄桃色にべっとりと染まっていた。あれは散るのじゃない、散らしているのだ、一とひら一とひたらと散らすのに、屹度順序も速度も決めているに違いない、何という注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考えていた。

驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考えか、愚行を挑発されるだろう。

花びらの運動は果てしなく、見入っていると切りがなく、私は急に嫌な気持ちになって来た。我慢が出来なくなってきた。その時、黙って見ていた中原が、突然「もういいよ、帰ろうよ」と言った。私はハッとして立上がり、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。

「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼は、いつもする道化た様な笑いをしてみせた。(「中原中也の思出」)