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2013年8月4日日曜日

中井久夫と創造の病い

中井久夫の『治療文化論』には、「卑近な一例」として、ごく親しい「知己」の例を挙げているやや「奇妙な」箇所がある。叙述が客観的になったり主観的になったりして、中井久夫の文章にしては、やや「乱れ」があるような「錯覚」を受けるのだ。この一年ほどまえ、ようやくこの「知己」の正体が分った。よく知られている著述家である、――という言い方は、いささか修辞的誇張であるのかもしれず、この「知己」の正体は、頭のなかのどこかでは、とっくの昔に気づいていたと呟いてみてもよい。

『治療文化論』は、もともと岩波書店の講座『精神の科学』第8巻の「概説」として書かれたもの(1983.12)だが、今、わたくしが引用するのは一九九〇年の岩波同時代ライブラリー版から(多少の訂正加筆はあると、その「あとがき」に書かれている)。

岩波書店の、担当編集者T氏、――マイエウティコス(「産婆」)という自己規定の“モッコスT氏”は細やかなめんどうを見て下さった、とあるが、それにもかかわらず、ひどく書き悩んだと中井久夫は書いている(このT氏は、『家族の深淵』に、「「執筆過程の生理学」――高橋輝次の著作に寄せて」というエッセイがあり、おそらくこの高橋氏のことと推測される)。

私は、ほとんど「糸をくり出すカイコ」のごときものとなった。その中で私は一九八〇年代『週刊朝日』の「デキゴトロジスト」たちの運命に陥っていた。すなわち、話をにぎわせるために自分を売り、家族を売り、そして友人を売りかけたのである。治っていない患者を売っていないのがせめてものことであったか。(……)

私は一九八三年の出版後、いちども『治療と文化』をひらくことはなかった。そのままに六年が過ぎた。大岡昇平先生には担当の編集者を通じて、「小説が百かけますね」とのおことばをいただいた。これは、私が「デキゴトロジー」ふうに売りとばしたものの他に、隠し味となっている、その十倍百倍をお読み取りになってのことであろう。私は恐縮し恐れ入った。(……)

もし「私」小説にならって、「私〔わたくし〕精神医学」があるとしたら、この本の半ば、あるいは一側面をそれと名ざされても、私は異議を唱えない。……(中井久夫「あとがき」1990.5)

『治療文化論』には、中井久夫の出生地、奈良盆地と、同じくそこに生まれた天理教祖中山ミキをめぐる有名な箇所がある。

《奈良県は胎内から出たところである。天理教祖の誕生地から数百メートル。母の実家の新座敷(といっても明治二〇年代の建築)の天窓のある明るい六畳である。雪が一週間融けない寒い夜の八時に母は突然産気づいた。誰の介助なしに私は外界に出て、祖父が取り上げ産湯をつかわし臍の緒を結んだ。》(中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)

……「治療文化論」は時々引用された。なぜか必ず奈良盆地についての三ページであった。(……)あの一節には私をなかだちとして何かが働いているのであろうか。たとえば、私の祖父――丘浅次郎の生物学によって自らをつくり、老子から魯迅までを愛読し、顕微鏡のぞきと書、彫刻、絵画、写真、釣りに日を送り迎えた好事家、自らと村のためにと財を蕩尽した旧村長の、一族にはエゴイストと不評の祖父。あるいその娘の母――いくらか傷害を持ち、末期の一カ月を除いて幸せとはいえぬ生涯を送り、百科事典を愛読してよく六十四歳の生涯を閉じた母の力が……。(『治療文化論』「あとがき」1990

《父母の結婚は見合いであるが、お互いに失望を生んだ。父親と母親は文化が違いすぎた。そこに私が生まれてきたのだが、祖父母は、父の付け焼き刃の大正デモクラシーが大嫌いで、早熟の気味があった私に家の将来を托すると父の前で公言して、父親と私の間までが微妙になった。

(……)

……母のほうは、食糧難になると生き生きしてきて、前の溝に稲を植え、裏の畑にトウモロコシを植えるという具合で、一家の食糧問題を負い、嫁姑の地位が逆転してしまった。その妹の叔母にいわせると、娘時代は農事は一切しなかった、信じられぬという。祖父は遺言の中で、父に母を大事にせよとの一行を入れた。母は医師になりたかった祖父のファンだったから、私が医学部に代わった時にはいちばん喜んだ。晩年は、柴犬の「マル」をかわいがり、よく百科事典を読んでいた。

私が東大から名市大に移る時、一カ月赴任を遅らせて末期の胃癌だった母をみとった。うっかり、四月から出る予定といっただめであろう、その一〇日前、「一〇日後、食べる」と言って、食も水も断った。一〇日目、棺の前に箸一本をさしたご飯が供えられた。私にこれ以上の迷惑をかけたくないという母の意志を秘めた最後のユーモアであった。》(中井久夫「私が私になる以前のこと」『時のしずく』2005所収)


今から引用するのは、『治療文化論』のなかの五章「「個人症候群」という概念に向って」の第五節「「創造の病い」の再検討」からであり、上にあげた中山ミキと奈良盆地をめぐる叙述はこの少し前の第三節に書かれている。


卑近な一例

知己を挙げるのはどうかと思うが、許しを得て、一つの例を挙げておこう。その人の場合、かりに「例外状態」といっておくものは必ず困難な課題とともにやってくる。自分にはこなせそうもないが、しかし自分は逃れられそうもないという感じに圧倒され、課題から逃れたいと思い、逃れねばならぬと感じつつ、代って引き受けてくれる同僚友人が見当たらないのを腹立たしく思う。実際はそういう人が彼には見えなくなるのだ。その時の彼はいくぶん被害的で、自分の孤立無援に対して他を責めたい気分であるのだろう。もっとも具体的な他者でなく、ほとんど運命に近い、無人称的ななにものかに対してというほうが当たっている。

そのうちに、課題に対する無力感、絶望感が限度を超え、「論理が尽き果ててただ肉体を差し出している」と表現したい状態になる。課題に金縛りとなりつつ答えのない問いを浴びせられつつ、おそらく理解不能なものを理解しようと努めるうちに、不眠と超覚醒がはじまる。奇妙な超覚醒であって、たとえば、はるかな過去の個人的な心理的外傷がついに昨日のことのように切実に、そして細部までくっきりと鮮やかに思い出される。バートランド・ラッセルの『自伝』によれば、危機の最中に庭の冬枯れの芝生のところを過去の重要人物が次々に通ってゆくのが見えたそうである。これを「パノラマ現象」というが、今の場合は、時間と空間は混乱し奇妙な結合をはじめる。それと同時にーーということはこの人の病いはウィーナーのほうに近いということだがーーこれまでに経験した具体的課題がカタログのように同時的に並んで「見え」たり、過去に読んだ本の内容が背表紙を見ただけで思い出せる。「超限記憶〔ハイパームネジア〕」といわれる現象であるが、これは「空間的パノラマ現象」といってよいであろう(そもそもパノラマとは空間的なものだが)。やがて断片化が起り、同時に思いがけない結合が見られ、さらに結合が結合を生んで、応接にいとまがなくなる。超限記憶に耐えられなくて、本の背をすべて引っくり返して小口が見えるようにしたことがある。

これは非常に苦痛な状態であり、また、周囲にも「いつもの彼と違う」と分るが、日常生活と仕事はつづけられており、時にはふだんよりはげしく仕事をする。仕事にはややムラが生じるが、同時にふだんにない冴えを示す。ふしぎにも、この頃になると課題はあまり問題とならなくなる。課題の重さは、どこかで彼のパースナルな問題と構造的相似性があるからかもしれない。彼は課題の「前」から「中」へ入ったということができる。「日常生活と仕事の継続が『創造の病い』を通過するために重要である」とエランベルジュは書いている。病いが「エンジンの回転」を妨害して停めてしまうか、回転のエネルギーに活用されるかの分れ目である。ウェーバーやフェヒナーのように全く停止してしまう場合もあるが、彼らは、仕事を継続したユングやフロイトよりも誇大的で現実と相渉らないものを作ったといえなくもない。(ウィーナーの場合は激烈だが短期間だった。)

より重要なのは、状態のいかんでなく、一般の危機の時にそうなのだが、伴侶と友人と知己が彼を見放さないことであるらしい。この例の決め手の一つは、そうであった。一般に病いの状態を孤独で耐えとおすことは実に困難である。

この例は大して創造的なものを残さなくて終る。それでも、ふだんはどこかに分散していた体験や知識が同時的に見え、そして思いがけない相〔アスペクト〕で結合するのであるから、この状態の終末期に生まれる仕事は狭いサークルの中で比較的強い印象と高い評価を与えられたそうである。もっとも本人は自信があるどころか、全く駄目だと悩む。この一時期は一種の快癒感があり、周囲の色彩が生き生きとして世界が美しく見え、幼い家族とよく遊んだりするが、ふだんよりも遊びの呼吸が上手になる。

これで終れば万事よしだが、そのあと、軽い抑うつ気分が数カ月続き、「頭が十分働かない」(六割あたま)などといっている)、「このまま駄目になるのではないか」と思うそうである。それは必ずしも外見と一致しない。外からみればかなりちゃんと仕事を続けている人である。

二十代後半、三十代後半、四十代半ば、と三回経験しているところが、エランベルジュのいう「創造の病い」と異なる。新境地に出られず、その代り、大きな人格変化はみられない。不全型のゆえんで、「根本的解決」にならないから繰り返すのだろう。(中井久夫『治療文化論』 岩波同時代ライブラリー P59-62)

ーー「この人」は、《過去に読んだ本の内容が背表紙を見ただけで思い出せる「超限記憶〔ハイパームネジア〕といわれる現象》に襲われるそうである。そして《超限記憶に耐えられなくて、本の背をすべて引っくり返して小口が見えるようにしたことがある》となっており、あたかもこの文では書き手自身のことのように書かれている(もちろん意図的にそうしている、と推測もできるだろう)。

……私の本棚の本の表紙を眼にすると、それだけでその本の内容が思い出されて、邪魔になってしかたがなく、ついに(当時の家は狭かったので)本を裏向きにして表紙を見えないようにしなければならないことがあった。このヒペルムネジー(想起力昂進)はいささか危ない状態であったと思うが、本の表紙が読んだ内容の想起を促すサブリミナルな刺激を与え続けていることに早くから私は気づいていた。本を売るとてきめんに内容を忘れるからである。(中井久夫「記憶について」『アリアドネからの糸』所収 P126

…………


ほかにも第六章「「個人症候群」概念導入の試み」の第二節「「治療集団」的側面を持つ小集団」における、敗戦直後の年少集団をめぐる箇所では次のような叙述がある。


一つの集団の歴史をここで挙げよう。八人から一二人より成る前青春期の親密集団である。(……)一四歳の時に一人が「失調」を起した。かすかな物音が聞きのがせないというのである。もう一人が夏休みいっぱい彼の家に通って、不審な物音がするたびに一日に数十回でも階段を登ったり裏木戸を開けたりして、確かめに行った。「普遍症候群」には無効愚劣とされる行為であるが、それが奏功したのか否か症状は一カ月で消失し、再出現しなかった。(……)

もっとも魅力的人物として友情をもとめられた人たちは、いくぶん分裂病親和的な人である。彼らはよき聞き役であり、聞き流し役でもあった……いくぶん分裂病親和的な人への憧憬とそれによる呪縛が、この集団の青少年期におけるかくれた凝集力の一つであった可能性がある。しかし、分裂病親和的な人も、「いつも誰かが心をむけていてくれる」として、それを貴重なものに感じていたことが中年になって分ってきた。逆に(躁)うつの気分変化に慢性的に苦しみ、自己の評価感情がたえず高下するのに悩みメンバーは、ある時、分裂病親和的なメンバーを指して「彼は神々しく見える。いつも変わらないから」と語った。インフォーマントは「あいつはああでしかありようがないのさ」と言ったが、これは貴重な私の治療的ヒントになった。(躁)うつ病者に対して治療者は、同じことばのくり返しを避けず、それよりもさらに包括的に、本質的には同一の態度をとりつづけ、上下に揺れ動いてやまない世界における「定点」であるのがよいことを教わったのである。治療者が好転悪化に一喜一憂することも、頻繁な薬物処方の変更も、二次的な波をつくり出して患者を苦しめ、病いを長びかせやすい。とにかく、さまざまな気質の人々が、小集団への加入あるいはこれとの接触によって、ひそかに、しかし持続的に精神衛生を維持してきた機微がありそうだ。(躁)うつ親和性の人のほうが客となり、分裂病親和性の人の家を訪れる傾向がある。逆になると一方は緊張と気くばりで疲れてしまうようであり、他方は早々に切り上げて帰りたくなるようである。


最後に、もっとも不安定で多少はブリリアントかも知れないが大いにクレージーであるとみられてきたメンバーが精神科医となったそうである。(『治療文化論』P73-85

――ここでの最後の「多少はブリリアント」なメンバーが誰をしめすのかは言うまでもないが、冒頭の「もう一人が夏休みいっぱい彼の家に通って……」の「もう一人」も、さる著述家である。

精神科医としての私の水流は古い。中学時代、神経症になった友人の家に一夏通って、彼が遠くの微かなきしみの音を「心配」するたびに確認しに行ったことがあった。彼はいつの間にかよくなっていた。……(中井久夫「私の人生の中の本」『時のしずく』所収)


※創造の病い(creative illness)は、もともとアンリ・エレンベルガー(エランベルジェ) が提唱した概念であり、下記の説明のなかに神経症圏のフロイトの危機が挙げられていることからもわかるように、しばしば語られる分裂病性異常体験よりも包括的な概念である。


エレンベルガー は,精神科医,犯罪心理学者でもあるとともに,精神医学史研究者であり, 『無意識の発見』 を著したことで知られている。彼は,病の装いの下に創造的過程が隠れている場合があることを明確にし,それを創造の病と命名した。病の中には正常よりもより正常 な病があり,病が善用されうることもあるのである。具体的には,(1)宗教家,哲学者,芸 術家,科学者などの創造的な活動をする人に生じる。また,(2)その病像は神経症から精 神病まで多様であり,社会的に孤立するか,孤独感に悩まされる。 (3)幸福感を伴って急速に終結し,人格に永続的変化が生じる。また,自分には重大な真理への洞察を得たという 確信と,それを世界の人々と分かち合わなければならないという義務感を抱く(Ellenberger, H. F., 1970/1980, 下巻 , pp.305–306, p.558) 。例えば,フロイトも,父の死後,心理的な 危機状態を体験している。彼は自分の夢を自己分析することによって,この危機を乗り切っ た。この自己分析の一部は, 『夢判断』 の中で紹介されている。エ レンベルガーは,この『夢判断』を「偽装された自叙伝」と見なしている。(篠原道夫『夢分析,能動的想像法,箱庭療法 ―分析心理学の臨床―』)

…………


以下、”分裂病性異常体験”をめぐって、いささかの資料をつけ加えておこう。

青年期に一過性に分裂病を経験した人の数は予想以上に多数ではあるまいか。その後、社会的に活躍している人のなかにも稀れでないことは、狭い経験からも推定される。外国の例を挙げれば、哲学者ヴィトゲンシュタインは一九一三年にほとんど分裂病状態に陥っていたらしいことが最近刊行された書簡集によって知られるーー「亡霊たちのざわめきの中からやっと理性の声が聞こえてきました。……それにしても狂気からほんの一歩のところにいたのに気づかなかったとは」と。逆に二〇年以上分裂病を病んだロシアの舞踏家ニジンスキーは、大戦末期、医療をまったく受けえない状態で晩期寛解に至っていたのではあるまいか。(中井久夫『分裂病と人類』)


中井久夫自身は、まちがいなく分裂病親和者であり、”分裂病性異常体験”とは、中井久夫が長く親しむヴァレリーの青年期の「ジェノヴァの夜」などもおそらく含まれるのではないか。


そもそも人は、わずかな時間であれば、すべての人が、分裂病症状を呈するという見解もある。

中井久夫がその名著『分裂病と人類』で、強迫症親和性(執着気質性)と分裂病親和性の特徴を提示したなかで述べるように、後者の気質がなければ、芸術の享受はいかにしてありうるだろうか。
(執着気質者は)カタストロフが現実に発生したときは、それが社会的変化であってもほとんど天災のごとくに受け取り、再び同一の倫理にしたがった問題解決の努力を開始する(……)。反復強迫のように、という人もいるだろう。この倫理に対応する世界観は、世俗的・現世的なものがその地平であり、世界はさまざまの実際例の集合である。この世界観は「縁辺的(マージナル)なものに対する感覚」がひどく乏しい。ここに盲点がある。マージナルなものへのセンスの持ち主だけが大変化を予知し、対処しうる。ついでにいえば、この感覚なしに芸術の生産も享受もありにくいと私は思う。(中井久夫『分裂病と人類』)

わたくし自身もある種の音楽を聴いた時(その音楽とは、とくに、シェーンベルク門下に入ったばかりの数年のあいだの若きヴェーベルンの作品なのだが)、下記のような症状を呈することが稀にないとはいえない。

オランダの臨床精神医学者リュムケは、正常者でもすべていわゆる分裂病症状を体験する、ただしそれは数秒から数十秒であると述べている。この持続時間の差がなにを意味するのか、と彼は自問する。

私は回復期において一週に一、二回、数十分から二、三時間、“軽症再燃”する患者を一人ならず診ている(慢性入院患者がごく短時間「急性再燃」を示すという報告も別にある)。なかでも、自転車で人ごみのなかを突っ走ると起こりやすい場合があるのは興味がある。当然、追いぬく人の会話の一句二句をひろって走ることになる。この切れ切れに耳に入ってきた人のことばは、それ自体はほとんどなにも意味しないのだが、いやそれゆえにと言うべきか、聴きのがせぬ何かの(たとえば自分への批評の)兆候となる。そこからさまざまな“異常体験”への裂け目がはじまる。しかし、じっとして“ふりまわされぬ”ようにしていれば、この兆候的なもののひしめく裂け目は閉じ、すべてが過ぎ去ることが判ってきて、そのようにしているとーーー決して愉快な時間ではないがーーーいつのまにか消えてゆく。この場合、ガラスにひびの走るように拡がって急速なパニックには陥らないわけで、どうやら多くの“分裂病性異常体験”は、その基底にある不安あるいは(対人的)安全保障喪失感の“量”というか根の深さいかんで、恐慌状態になる場合からほとんど看過ごされる場合まで実に大きな幅があるようだ。幻聴でも、すこし聴こえただけで参ってしまう人もあるが、「大学教授なら停年までつとめられる例がある」とも聞いた。もっとも、持続時間を決定している因子はまた別かも知れない。(中井久夫『分裂病と人類』)
分裂病親和性を、木村敏が人間学的に「ante festum(祭りの前=先取り)的な構えの卓越」と包括的に捉えたことは私の立場からしてもプレグナントな捉え方である。別に私はかつて「兆候空間優位性」と「統合指向性」を抽出し、「もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する」と述べた(兆候が局所にとどまらず、一つの全体的な事態を代表象するのが「統合指向性」である)。(同上)

《もっとも遠くもっとも杳かな兆候をもっとも強烈に感じ、あたかもその事態が現前するごとく恐怖し憧憬する》--、そう、吉田秀和が次のように書く時期のヴェーベルンのいくつかから、稀に訪れる感覚(もっとも、もっと稀な機会には他の音楽やら詩からも似たような感覚を僥倖のようにして得られることはある)。


しかし、彼がシェーンベルクの門下に入って以後の作品では、抒情精神は依然根幹にあっても、ロマンティックな現われ方は姿を消す。同時に、音楽を豊麗に求めるゆき方も、みられなくなる。 ヴェーベルンの音楽は、厳しさを加え、凝縮性、集約性の点で、前例をみないところまでゆく。表現の濃度はますが、演繹によってではなく、無駄をきりつめ、一言をもって多くを語ることを通じて、そうなるのである。当然、それに応じて、作品も極度に短くなる。 この点では、師のシェーンベルクは、わずかだが、先鞭をつけていた。しかしヴェーベルンは、作品五ですでに追いつき、作品六の管弦楽のための《六つの小曲》、それから作品九の弦楽四重奏のための《六つのバカテル》などを通じて、先にゆく。(『私の好きな曲』)

この感覚は、ときに怖ろしい。ミシェル・シュネデールがグールドの演奏をときに遠ざけておきたいと願うのは、おそらくはその意味合いではないか。

彼の演奏について語ろうとしても、いくつかの言葉しか思い浮かばない。遠さ、戦慄、なにか異様なもの。彼はわれわれを試練に遭わせるーーあまりにも透明なあの音、昇華作用を経たあのピアノが耐え切れないという人々をわたしは知っている。このピアノを聴くと彼らの皮膚はひきつり、指は痙攣するのだ。試練はときに恐ろしいものを含んでいる。わたしもまた、そのせいで、彼があとに残したあの無の彫刻からできるだけ離れていたいと思うことがある。(『グレン・グールド 孤独のアリア』)

…………


『治療文化論』の引用のなかには、「創造の病い」を、《二十代後半、三十代後半、四十代半ば、と三回経験している》とある。

『分裂病と人類』(東京大学出版会)の「あとがき」には、こうある。

第一章の発表には、いささかの勇気を要した。もし、私が、自身のなかに「失調すれば分裂病となるもの」の種子を感じつつ、まとまった年月、精神科医として分裂病者といわれる人たちと相渉ってきたのでなければ、編集者門倉弘氏の、いささか異常なほどの奨めを別としても発表に踏み切ったかどうか、疑わしい。

この第一章は「分裂病と人類」と本の表題と同じ題がついており、中井久夫の四十代半ばの仕事のひとつである。

後に、中井久夫はこう書くことになる。

一言にしていえば、S親和者の優位性は「徴候を読む能力」にある。少くとも狩猟採集民族には欠かせない能力である。イタリアの歴史家カルロ・ギンズブルグが全く別の接近路から「徴候知」を抽出していたのとほぼ同時に独立して私も徴候知に市民権を与えたわけだ。この能力は、農耕社会の到来とともに重要性が減り、その結果、失調をおこしやすくなるかもしれないが、リーダーや気候や天災の予測に必要な能力である。雨司、呪術師はしばしば王を兼ねていたという。医師にも当然なくてはならない能力である。

しかし、職業生活だけがすべてではない。鬱病の場合と違う。徴候知は万人に必要であり、赤ん坊が母親の表情を読むことがすでにそうではないか。そして徴候的認知はとくに配偶者選択に有利である。相手が世俗的なことを考えているときに求愛しても成功はおぼつかない。状況や相手の表情や何やかやから「今だ」というタイミングを読む力は徴候知に属し、徴候知は「接合率」を高める重要因子である。だから、S親和者はなくならないーー。これはハックスリのよりもナイスな答えではないかと私は思った。

私の分裂病論の核心の一つは一見奇矯なこの論文にある。他の仕事は、この短い一分の膨大な注釈にすぎないという言い方さえできるとひそかに思う。S親和的な人、あるいは統合失調症患者の士気向上に多少程度は役ったかもしれない。家庭医学事典などは破滅的なことが書いてあるからである。(「『分裂病と人類』について」2000年初出『時のしずく』所収)


ニーチェが、《わたしに何事が起こったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、……》と謳うとき、稀な機会に訪れるわたくしの「あの感覚」に近しい。


「つつしむがいい。熱い正午が野いちめんを覆って眠っている。歌うな。静かに。世界は完全なのだ。

歌うな。草のあいだを飛ぶ虫よ。おお、わたしの魂よ。囁きさえもらすな。見るがいいーー静かに。老いた正午が眠っている。いかかれは口を動かす。幸福の一滴を飲んだところではないか。――

――金色の幸福、金色の葡萄酒の、古い褐色の一滴を飲んだところではないか。ちらとかれの顔を過ぎるものがある。かれの幸福だ。かれの幸福の笑いだ。神――に似た笑いだ。静かに。――『幸福になるには、どんなにわずかなことで事足りるだろう』わたしはかつてそう語って、自分を賢いと思った。しかしそれは、たいへんな冒瀆であった。そのことをいま学んだ。阿呆でも、りこうな阿呆なら、もっとましなことを言うだろう。

まさに、ごくわすかなこと、こくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ、一つの息、一つの疾過、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。

――わたしに何事が起こったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。

わたしに何事が起こるのだろう。静かに。わたしを刺すものがあるーーあっ!――心臓を刺すのか。心臓を刺すのだ! おお、裂けよ、裂けよ、心臓よ、このような幸福ののちには、このように刺されてのちには。

――どうだ! 世界はいままさに完全になったのではないか。まろやかに熟れて、おお、金の円環よ、――どこへ飛んでゆくのだ。わたしはそのあとを追う、身もかるく。

静かにーーーー」(ニーチェ「正午」より『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)