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2013年9月11日水曜日

寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか

相手の気持ちを考えることは、じつはたいへん過酷なことです。いじめられる者は、相手の気持ちを考えるのならいじめる者の「楽しさ」も考えねばならない。暴走族に睡眠を妨害される者は相手の気持ちを考えるのなら、暴走族の「愉快さ」も考えねばならない。(『私の嫌いな10の言葉』)

ーーカント学者でありいささか厭人癖もあるらしい中島義道ツイッターbotから。


これは極論のようにみえるかもしれない、だが相手の気持ちを考えるのが「優しさ」であるとするならば、どこでだれが、その「優しさ」の適用範囲内外の線引きをするのだろう。共同体の規範があるではないか、というのが、まずは「正しい」答えなのだろう。だが共同体の規範とは、共同体の「先例と慣習」(デカルト)に過ぎない。


ここで、渡辺一夫の「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」というアポリアの問いを想起してみよう。

……僕の結論は、極めて簡単である。寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容たるべきでない、と。繰り返して言うが、この場合も、先に記した通り、悲しいまた呪わしい人間的事実として、寛容が不寛容に対して不寛容になった例が幾多あることを、また今後もあるであろうことをも、覚悟はしている。しかし、それは確かにいけないことであり、我々が皆で、こうした悲しく呪わしい人間的事実の発生を阻止するように全力を尽くさねばならぬし、こうした事実を論理的にでも否定する人々の数を、一人でも増加せしめねばならぬと思う心には変わりがない。(渡辺一夫『狂気について』所収)

これは基本だろう。だが、次の文章を読んでみよう。

秩序は守られねばならず、秩序を乱す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきであろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。

更にまた、これは忘れられ易い重大なことだと思うが、既成秩序の維持に当たる人々、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々は、その秩序を乱す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が果たして永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を乱す人々のなかには、既成秩序の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。(同 渡辺一夫「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」)


既成秩序の維持に当たる人々は、現存秩序から安寧と福祉とを与えられている人々ーーつまり既得権者なのであり、彼らは、既存秩序を疑うことなど殆んどない動脈硬化の連中ばかりだったらどうする?


あるいは、そもそも、《寛容と無関心はいつの時代でも紙一重だ》(ジャワハルラール・ネルー)としたら? 寛容であり続けるには、「見たくないもの」を見ない〈心の習慣〉(丸山真男)の鎧を纏い続けたり、他者から安全な距離を保つことでしかありえなかったらどうだろう。

他者に対して寛容でなければならないという私の義務は、実際には、その他者に近づきすぎてはいけない、その他者の空間に闖入してはいけない、要するに、私の過度の接近に対するその他者の不寛容を尊重しなくてはいけない、ということを意味する。これこそが、現代の後期資本主義社会における中心的な「人権」として、ますます大きくなってきたものである。それは嫌がらせを受けない権利、つまり他者から安全な距離を保つ権利である。(ジジェク「ラカンはこう読め!」p173)


「ジジェク自身によるジジェク」から、過激な見解を引用しておこう。


《私たちがますますもって必要としているのは、私たち自身に対するある種の暴力なの だということです。イデオロギー的で二重に拘束された窮状から脱出するためには、ある種の暴力的爆発が必要でしょう。これは破壊的なことです。たとえそれが身体的な暴 力ではないとしても、それは過度の象徴的な暴力であり、私たちはそれを受け入れなけ ればなりません。そしてこのレヴェルにおいて、現存の社会を本当に変えるためには、 このリベラルな寛容という観点からでは達成できないのではないかと思っています。お そらくそれはより強烈な経験として爆発してしまうでしょう。そして私は、これこそ、 つまり真の変革は苦痛に充ちたものなのだという自覚こそ、今日必要とされているので はないかと考えています


要するに、ジジェクの過激さは、われわれに寛容をうながす力自体が暴力によって支えられているという認識から出てきている。

資本主義社会では、主観的暴力((犯罪、テロ、市民による暴動、国家観の紛争、など)以外にも、主観的な暴力の零度である「正常」状態を支える「客観的暴力」(システム的暴力)がある。(……)暴力と闘い、寛容をうながすわれわれの努力自体が、暴力によって支えられている。(ジジェク『暴力』)

《私が言いたいのは、このことがある種のイデオロギー的に困難な状況に当てはまる、ということです。そうした状況においてダブル・バインドがあるのです。

即ち、公的レベルにおいてシステムはあなたにお決まりのメッセージを与えます。しかし、同時により深い、暗黙のレベルにおいては全く異なるメッセージが与えられるのです。

再び、寛容についての今日的言説を取り上げてみましょう。あるレベルにおいて、この言説は普遍的寛容を説きます。

しかし、より細かく見ると一連の隠された諸条件があるのです。その条件が示すのは、人は他の皆と同様である限りにおいてのみ、恕されるというものです。その言説は何が恕されるべきかを規定しています。

つまり、実際のところ、今日の寛容の文化は、どんなものであれ真の他者性へのラディカルな不寛容を通して存続するのです。真の他者性とは即ち、どんなものであれ現存の慣行への現実的脅威なのです。》(「ジジェク自身によるジジェク」)



ああ、渡辺一夫!
偉大なるヒューマニストたちの系譜
「天から降ってきたような渡辺助教授」(加藤周一『羊の歌』)
「ぼくの人生の目的!」(大江健三郎)


文学部のなかで、長い戦争に対して疑問をもつ、あるいは反対だということをはっきりとした姿勢で考えていた人は教員80人近くいたと思いますが、ふたりだけ。渡辺一夫先生と、それから言語学科の神田先生。そのふたりは、はっきりと戦争全体に反対。ぼくも、そうですけれどね。あとは、いわゆる日支事変段階ではね「この戦争は一体どこまで泥沼に入ってしまうのか」と懸念をもっている人はいくらかいた。しかし日米戦争で空気はがらっと変わります。ハワイ真珠湾攻撃の日に、たまたま大学へ行ったんです。ある研究室のドアからね、教授、助教授の興奮した声が聞こえました。戦争の性格が変わった、この戦争はアジアの植民地解放戦争なんだ、これで戦争目的ははっきりしたと。そういう声が聞こえてきた。なるほど、これがこれからの日本政府の宣伝のポイントになるだろうという感じを受けました。/僕はアジアの植民地解放のためというスローガンを出すならば、なぜ朝鮮と台湾の問題に触れないのか。朝鮮の自主独立を許す、台湾を中国へ返すということを、日米戦争が始まったときにすぐに宣言していたら、アジアの解放もいいですよ。しかし、自分の植民地はそのままにしておいて、これはアジア解放戦争だと言っても通用しませんよ。(日高六郎『映画日本国憲法読本』2004年)

………… 


高校時代、 私は渡辺一夫さんの 『フ ラ ンス ・ ルネサンス断章』 という岩波新書を読んで 「この人に習おう 」と決めました。 それまでは大学に行く意思はなかったんです。 うちは母子家庭ですしね。 でも、東大に行って渡辺さんに習いたかったので、 高等学校の勉強をすべてなげうって、 受験勉強を始めました。 1年目は落ちましたが 、翌年合格して20歳の時に渡辺一夫さんの集中講義を初めて駒場で聞きました。 100 分の講義を2回聞いて、 私は 「人生の目的を達した」と思いましたよ。 「こんなに素晴らしい人がいるんだな」 と感じた。 渡辺一夫さんを一言で言う と「知識人」という言い方が正しいと思う んです 。 フランス文学の専門家であ る渡辺さんと一体をなす 「知識人としての渡辺一夫」 があって、 その人に習ったこ とが私の一生を決めました。 私に「生きていく上での思想」 があるとすれば、 それは渡辺さんに教わってきたのだと思っています。(……)

大学を卒業する頃、 私は 「小説家になるので大学院には行き ません」 と渡辺先生に言いに行ったんです。 当時、 私は友人の妹と結婚しよ う と思っ ていて 「お金が要るので小説を書こ う 」 という邪な志で仕事を始めた頃でした (笑) 。 大学院に行かないこ と を話した ら先生は初め不機嫌で したが 、 やがて機嫌を直さ れて 「小説家になっ て綺麗な方と結婚さ れるのも よろ しいでし ょ う 」 と言われたんですね。 私がニコニコ したと先生はその後よ く言われたけど (笑) 。 まあニコニコ したんでしょ う(笑) 。 続けて、 先生はこ うおっ しゃったんです。「小説だけ書いて一生を過ごすと君は退屈するに違いない。 退屈しないためには3年毎に主題を決めて、 それを読むこ とにすればいい」 。 その次が重要なんです。「3年経った ら読むのをやめる よ う に。 なぜな ら ば、 3年経てば、 ある詩人、 ある作家、ある思想家の輪郭は掴める。 しかし3年では絶対に専門家になれない。 も し専門家になろう とするなら、 次の3年もその主題の読書を続けなければいけない。 そうする と君の視野はまず狭く なっ てく る。 専門家が狭く 深いのはいい。 しか し、 小説家が生半可な独学の勉強を して専門家になったつも りでいるのが一番いけない。 君の先輩の仏文出身の小説家を見ろ」 と言われた (笑) 。 私が外に対し て このこ と を話したのは今日が初めてですけどね (笑) 。 あの時、 渡辺先生が言われた 「3年間だけ読む方法」 は、 「知識人をつく るための教育」だったと思うんです。ーー知識人に な る と い う こ と ― 大学と 教養教育 ― ゲス ト 大江健三郎 /古田元夫 (東京大学副学長)http://www.u-tokyo.ac.jp/gen03/pdf/tansei17_s.pdf)

 …………


ところで、もう一度冒頭に戻って、死体臓器移植者と屍体愛好者の相違はどうだろう。つまり屍体愛好者には「優しく」あるべきだろうか。

最近アメリカのいくつかの集団で再浮上してきたある提案(……)。その提案とは、屍姦愛好者(屍体との性交を好む者)の権利を「再考」すべきだという提案である。屍体性交の権利がどうして奪われなくてはならないのか。現在人々は、突然死したときに自分の臓器が医学的目的に使われることを許諾する。それと同じように、自分の死体が屍体愛好者に与えられるのを許諾することが許されてもいいのではないか。(ジジェク『ラカンはこう読め!』p172


あるいは、インターネット上のルサンチマン(怨恨)的書き込みの頻発。彼らの「愉快さ」も考えねばならない、――のだろうか。《言論の自由には「言論の自由の場の尊厳を踏みにじる自由」「呪詛する自由」は含まれないと私は思う》(内田樹)というのが「常識的な」見解だ。だがその発話の攻撃性の発露が彼らを救っている(たとえば自殺から)としたらどうだろう。

私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

「ひきこもり」者の攻撃性の飼い馴らしは、インターネットへの書き込み以外になにがあるというのか。《抗議や横車やたのしげな猜疑や嘲弄癖は、健康のしるしである。すべてを無条件にうけいれることは病理に属する。》(ニーチェ『善悪の彼岸』 154番)

――わたくしも海外に「ひきこもっている」人間のひとりである。そして口先で、大久保のヘイトスピーチをほうっておくのはおかしい、とか、きみたち消費税のことどう考えているのかい、と語っている人間だ。《かつて消費税導入して景気停滞し税収が下がっただと? それでは税収を上げるために、消費税ゼロにしてみたらどうだろう。》(「引き返せない道」)

ただ口先で「世の中おかしい」と言っているだけの人は、じつのところ悪徳商法の大家より、振り込め詐欺のプロより、道徳的に悪い。なぜなら、あらゆるスリや泥棒やサギ師は少なくとも自分が「悪い」と自覚しているが、彼らはそういう最低の善悪の自覚さえないのだから。(『善人ほど悪い奴はいない』中島義道)

しかしながら次の程度の認識はあるつもりだ、--《すべての「他者」に対して優しくありたいと願い、「他者」を傷つけることを恐れて何もできなくなるという、最近よくあるポリティカル・コレクトな態度(……)そのように脱―政治化されたモラルを、柄谷さんはもう一度政治化しようとしている。政治化する以上、どうせ悪いこともやるわけだから、だれかを傷つけるし、自分も傷つく。それでもしょうがないからやるしかないというのが、柄谷さんのいう倫理=政治だと思う》(『NAM生成』所収 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」における浅田彰発言)


ーー傷つけて悪かったな、そこの「優しい人」よ(優しい人たちによる魔女狩り)。



最後にもうすこし中島義道botから引用しておこう。


・すべての行為に差別感情がこびりついていることを認めない限り、自分は差別していないという確信に陥っている限り、自分は「正しい」と居直る限り、人は差別感情と真剣に向き合うことはないであろう。いかなる「聖域」もない。『差別感情の哲学』中島義道


・この国では「他人を傷つけず自分も傷つかない」ことこそ、あらゆる行為を支配する「公理」である。したがってわれわれ日本人は他人から注意されると、その注意の内容がたとえ正しいとしえも、注意されたことそのことをはげしく嫌う。『<対話>のない社会』中島義道


・根本悪とは卑劣極まる・血の凍るような・人間業とは思えない極限的悪行のことではない。それは、信用を得るために人を援助するとか、けちと思われたくないから寄付をするとか、他人を傷つけたくないために真実を伝えないという些細な行為のうちに巣くっている。『悪について』中島義道