このブログを検索

2013年9月25日水曜日

資料:ラカンの幻想の式と四つの言説

以下、あくまで資料(別の見解もあるだろうし、簡略化されすぎている箇所もあるだろう)。


…………


まずは幻想の式$◇a(「心的装置の成立過程における二つの翻訳」補遺より)

$◇aは次のように読まれる、《斜線を引かれた主体は究極の対象を目指しながら永遠にこれに到達することができない。》




$◇aが分解される、$ ー -φ ー Φ ー A ー a(-φマイナス・プチ・フィーは、想像的ファルスの欠如であり、Φグラン・フィーは、象徴的ファルス)。

そして次のように読まれる、《斜線を引かれて抹消された主体が、生の欲動に運ばれて、突き進んで行くその先には、まず「想像的ファルスの欠如」があり、次に「象徴的なファルス」があり、そして言葉で構築された世界があり、そしてその先に永遠に到達できない愛がある。》


$ ー -φ ー Φ ー A ー aは、$ー -φー S1 ー S2 ーaと書き換えることもできる。


さらに、藤田博史氏の最近のセミネールでは、S2の向こうに「理想自我」-φを付け加えて、斜線を引かれた主体$の次には-φではなく、φ(イマジネール自我)が置かれている(もちろん-φとφの鏡像現象をより精緻に図式化して幻想式に加えたわけであり、矛盾はない)。



上段のR、I、Sは、ここでは、それぞれ現実界、想像界、象徴界のこと。


…………

次に、ラカンの四つの言説




※ 図は、藤田博史公開セミネール『心的構造論』「セミネール断章」より拝借






《もう少しわかりやすく書くとするとこうなる(下図)。藤田式の幻想の展開図ですが、このなかに$ーS1ーS2ーaがある。これがぐるぐる回っている。こういうのを再現代理 représentant といいます。だからこのなかのこれとこれは représentant du réel。現実界そのものはわたしたちは取扱うことはできませんから、象徴界のなかで représentant として、つまりいわゆるカントのいう「もの自体」が「もの自体」と命名されて取り扱い可能になるように、象徴界のなかに再現代理 représentant が現われているわけです。ですからディスクールについて語っている時はこのなかについて語っている。》(藤田博史セミネール第11講:「政治、経済への精神分析的関与のための技法」より)





《ちなみに、この基本的な幻想が壊れてしまうのが精神病といってよいでしょう。ですからわたしたちがディスクールについて語るときは、精神病は最初から除外されているのです。なぜならばS1が最初から排除されているわけですから。》

《四つのディスクール+資本家のディスクール Les quatre discours plus le discours (du) capitaliste について語っている場合は、暗黙の了解として、彼らは精神病ではない、という大前提があるわけです。大切なことですがラカン派を自認する人たちの誰もこのことを教えてくれていません。つまりディスクールが成り立つための条件というのは、もともと根源的な幻想がちゃんと成り立っていることなのです。その幻想の下に、ディスクールが生成されていく。そのディスクールの構造を見てみると、agent、 objet 、produit 、vérité、それらの四つのポジションが入れ替わっている。面白いのは、それが風車のように回転していくというところです。》(同 藤田セミネール)


ーー二十一世紀が「ふつうの精神病」の時代だとして(「普通の精神病」はポスト神経症時代の臨床の中心的な概念になってきた云々」のミレール派、あるいは「倒錯」の時代というメルマン派もある)、この幻想の式が成り立たないひとが多いのかどうかは、わたくしにはいまだ瞭然としない。

藤田博史氏による日本的幻想の式は、おそらく、「父なき世代」(中井久夫)であるはずの世界的な先進諸国の「ふつうの精神病」の式としても読めるのかもしれない。



上でも指摘したが、ここでは藤田氏は(想像的ファルスの欠如=去勢)を「理想自我」としている。通常、理想自我は i(a)と書かれる(自我理想は I(A))。だが、「理想自我」は、「想像的ファルス」との想像的同一化から形作られるものであり、この「理想自我」≒「想像的ファルス(の欠如)」とするのは奇妙ではないーー重箱のすみをつっつく手合いの予防線のためにこう書いておこう。

日本のラカン派にも、小粒の派閥抗争があり、向井派、藤田派等々あるようだが、藤田氏と仲があまりよくないらしい向井雅明氏がレ=フロに依拠しつつ、鏡像段階の図の見直しの説明をする論文(参照:「心的装置の成立過程における二つの翻訳」)と、上の図を比べてみても、ここにを置く藤田博史氏の思い切った図式化は、示唆あふれるものだ。

(このあたりは反藤田派の反論をきいてみたいもんだね、ただしオレのこの記事にすんなよ。殴りこまれたんだろ、藤田氏に。そろそろ向井派は藤田セミネールに正式に殴りこんでいい時期じゃないかい? オレのように氏の講義録読んで批判できない半可通が流通しないように、なーーと書けば「ふつうの精神病」っぽいが当るも八卦の投壜通信だぜ。だいたいSNSなど覿面だが、ブログでもひとをイマジネールな関係に陥らせる「場」の力があるんだよな、自称倒錯者のオレでも「ふつうの精神病」まがいにさせるな。倒錯の治療にはいいかもしれないぜ)

※たとえば、藤田批判は、たぶんミレール派なのだろう、Thomas SvolosのOrdinary Psychosis
in the era of the sinthome and semblantという短い論文の内容をつきつければ十分じゃないのかい? オレはこのあたりはいまだピンときていないのだけれど。




上の想像的自我ーAutre semblant(みせかけの他者)のバイパスを含んだ図から、次の図が生まれる。





aー$ がエス Le Ça 、-φーAsー-φ が自我 Le moi、AーΦ が超自我 Le surmoi に呼応しています。したがって、日本的幻想の特徴は、他者のサンブランがあたかも大文字の他者のように振る舞ってしまうところにあります。

※より詳しくは、参照→ 「みせかけsemblant」の国(ラカン=藤田博史)


このサンブランAsを介しての自我ー理想自我のあいだを揺れ動くナルシシズム(「みせかけsemblant」の趣味などを介しての「私に似た」他の人々、競争や相互承認といった鏡像的関係を結ぶ私の同類たちとの湿った瞳の交し合いやら頷き合い、羨望など)は、現在、SNS上などで、顕著な振舞いとしてしばしば見られるのではないか。

要するに、去勢されていない連中が多い、ということになるが、柄谷行人はラカンの日本文化論(漢字の訓読みをめぐる)を参照しつつ、それを日本旧来からの特徴としている。

結論としていえば、日本人はいわば、「去勢」が不十分である、ということです。象徴界に入りつつ、同時に、想像界、というか、鏡像段階にとどまっている。この見方は日本の文化・思想の歴史について、あてはまると思います。つまり、丸山真男などが扱ってきた問題は、このような文字の問題を通した「精神分析」を通してこそアプローチできるのではないか、と私は思ったのです。(柄谷行人『日本精神分析再考(講演)(2008)』


なお、ジジェクは1996年の時点では、境界例を、心理学化された「大文字の他者」への異議申し立て、すなわちヒステリーとして位置づけている。(『仮想化しきれない残余』The Indivisible Remainder: 1996)

藤田博史氏によれば精神病と境界例はつぎの如し(「倒錯」も含めて、記載しよう)。


【性的倒錯】

たとえば -φ から Φ に移る時、-φ に固執して Φ の受け入れを否認することが起こります。これがいわゆる性(的)倒錯です。つまり、性倒錯者は Φ を受け入れて入るのだけれども、このことを認めない。そして自らは -φであろうとする。ダ・ヴィンチや美川憲一がその例です。興味深いことはどちらにも二人の母 Die twei Mutter つまり産みの母と育ての母がいます。

【精神病】

次に Φ で起る場合。これには二通りあります。

「完全拒否」と「不完全拒否」。「完全拒否」の場合は、Φ の場所が空席になってしまいます。この場合、一番目のΦ の場所が空席のまま、とりあえずA(大文字の他者)に接続されてしまいます。例えて言えば、扇子の要の部分が留っていない状態です。扇いでいたらそのうちにバラバラになってしまう。これが精神病の発病に相当します。したがってΦの「完全拒否」が精神病の根底にあり、ラカンはこの種の拒否のことを「排除 forclusion」と呼んでいます。


【ボーダーライン】

「不完全拒否」の場合、よく見られる例としては、ネット上に匿名で登場するメンヘラと言われている人たち、リストカットや他者批判を繰り返しながら、不安定な状態でパソコンへ向かっているような人たちが挙げられるでしょう。このような人たちは、女性に多いのですが、ボーダーライン・ケース、日本語では境界例と呼ばれるような状態です。正常にもなれないし、精神病にもなれない、その中間に位置するゆえにボーダーラインと言う訳です。これはΦ から A への接続部分で生じる病態です。広い意味での神経症といってもいいでしょう。

ですから、わたしたちのコンパス、つまりこのファンタスムの式が頭のなかにあれば、この構成要素の中で、どこが異常になった時にどのような症状が出てくるかということを想定することができるのです。つまり、症状の原因が、 -φのレベルなのか、Φ のレベルなのか、それともA のレベルなのかということを考えるのです。(藤田博史「セミネール断章」2012,2)

「ふつうの精神病」を、精神病の範疇の「不完全拒否」としてとらえれば、ヒステリーの新種としても考えられるということなのだろう。


なお、ジジェクは、最近の大著『LESS THAN NOTHING』(2012)では、ラカンの性関係の式と四つのディスクールの式を結びつけようとする試みをしている。

“THERE IS A NON‐RELATIONSHIP”
So, to conclude, one can propose a “unified theory” of the formulae of sexuation and the formulae of four discourses: the masculine axis consists of the master's discourse and the university discourse (university as universality and the master as its constitutive exception), and the feminine axis of the hysterical discourse and the analyst's discourse (no exception and non‐All). We then have the following series of equations:

S1 = Master = exception   S2 = University = universality

$ = Hysteria = no‐exception   a = Analyst = non‐All

We can see here how, in order to correlate the two squares, we have to turn one 90 degrees in relation to the other: with regard to the four discourses, the line that separates masculine from feminine runs horizontally; that is, it is the upper couple which is masculine and the lower one which is feminine. The hysterical subjective position allows for no exception, no x which is not‐Fx (a hysteric provokes its master, endlessly questioning him: show me your exception), while the analyst asserts the non‐All—not as the exception‐to‐All of a Master‐Signifier, but in the guise of a which stands for the gap/inconsistency. In other words, the masculine universal is positive/affirmative (all x are Fx), while the feminine universal is negative (no x which is not‐Fx)—no one should be left out; this is why the masculine universal relies on a positive exception, while the feminine universal undermines the All from within, in the guise of its inconsistency. This theory nonetheless leaves some questions unanswered. First, do the two versions of the universal (universality with exception; non‐All with no exception) cover the entire span of possibilities? Is it not that the very logic of “singular universality,” of the symptomatic “part of no‐part” which stands directly for universality, fits neither of the two versions? Second, and linked to the first, Lacan struggled for years with the passage from “there is no (sexual) relationship” to “there is a non‐relationship”: he was repeatedly trying “to give body to the difference, to isolate the non‐relationship as an indispensable ingredient of the constitution of the subject.”……



…………


以下、主にジジェク『斜めから見る』P244~より


主人の言説】
第一の型、すなわち主人の言説では、あるシニフィアン(S1)が、別のシニフィアン、あるいはもっと正確にいえば他のすべてのシニフィアン(S2)のために主体(S/:斜線のS)を表象する。もちろん問題は、この表象作用の作業が行われるときにはかならず、小文字のaであらわされる、ある厄介な剰余残余、あるいは「排泄物」を生み出してしまうということである。他の言説は結局、この残余(有名な<対象a>と「折り合いをつけ」、うまく対処するための、三つの異なる企てである。(ジジェク『斜めから見る』)




《「動因」そもそものディスクールの原動力、「目的」、そこに何かできる「生産物」そして「真理」。これがディスクールの基本構造です。》(藤田博史セミネール第11講:「政治、経済への精神分析的関与のための技法」より)








【大学(人)の言説】

大学の言説は即座にこの残滓をその対象、すなわち「他者」とみなし、それに「知」のネットワーク(S2)を適用することによって、それを「主体」に変えようとする。これが教育のプロセスの基本論理である。「飼い慣らされていない」対象(「社会化されていない」子ども)に知を植えつけることによって、主体を作り出すのである。この言説の「抑圧」された真実は、われわれが他者に分与しようとする中立的な「知」という見かけの背後に、われわれはつねに主人の身振りを見出すことができるということである。


【ヒステリーの言説】

ヒステリー症者の言説は反対側から始まる。その基本構成要素は、主人に対して向けられる、「どうして私は、あなたが言っているような私なのか」という問いである。

この問いは、ラカンが1950年代の初めに「創始する言葉founding word」と呼んだものに対するヒステリー症者の抵抗として生じる。

「創始する言葉」とは、私に命令することによって、象徴的ネットワークにおける私の場所を規定し確立する、象徴的委託を授与する行為である。「あなたは私の主人です(私の妻です、私の王です、等々)」。この「創始する言葉」に対して、つねに次のような問いが生じる。「私の中のいったい何が私を主人に(妻に、王に)しているのか」。いいかえると、ヒステリー症者の問いは、私を表象しているシニフィアン(社会的ネットワークにおける私の場所を決定する象徴的委託)と、私が「あそこにいる」ことの象徴化されていない剰余との、埋めようもない落差、割れ目の経験を分節表現している。両者の間には深い淵が口を開けている。

象徴的委託は、私の「実際的属性」によって基礎づけることも、それによって説明することも、絶対できない。なぜならその地位は定義からして「遂行文」の地位だからである。ヒステリー症者はこの「存在の問題」を体現している。彼あるいは彼女にとって根本的な問題は、(<大他者>に対して)自分の存在をどう正当化し、説明するか、である。

【分析家の言説】

分析家の言説は主人の言説の裏返しである。分析家は剰余価値の位置を占めている。彼は直接に自分自身をネットワークの残滓と同一化する。そのため、分析家の言説はその外見よりもはるかに逆説的である。それは、まさしく言説のネットワークから漏れた要素、そこから「脱落した」もの、その「排泄物」として生産されたものから出発して、言説を編み出そうとするのである。

【まとめ】

忘れてはならないのは、この四つの言説の母体は、コミュニケーションにおける四つの可能な位置の母体だということである。われわれはここでは、意味としてのコミュニケーションの領域の内側にいる。これらの用語のラカン的概念化に含まれたあらゆるパラドックスにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、そうなのである。

もちろんコミュニケーションは逆説的な円のように構造化されている。その円の中では、送り手は受け手から自分自身のメッセージを反転された真の形で受け取る。つまり、われわれが言ったことの意味を決定するのは、外部にいる<他者>である(その意味で、S1に遡及的に意味を授ける真の主人のシニフィアンはS2である)。

象徴的コミュニケーションにおいて主体間を循環するものは、もちろん究極的には欠如・不在そのものであり、その不在が、「ポジティブな」意味が生成される空間を切り開くのである。だがこれらはすべて、意味としてのコミュニケーションの領域に内在するパラドックスである。無意味のシニフィアンそのもの、「シニフィエなきシニフィアン」こそが、他のすべてのシニフィアンの意味が可能になるための前提条件である。忘れてはならないことは、われわれがここで問題にしている「無意味」は意味の領域にとって厳密に内的なものであり、それは内部からその領域を「切断する」ということである。


ーージジェクは、この後、この四つの言説(すべて<他者>との差異関係の束にかかわる)から、「自由浮遊の」空間におけるサントームle sinthom、それは、il y a de l'Un(<一者>がいる)(ラカン『セミネールⅩⅩ』)の<一者>、<他者>の秩序に固有の分節にまだ参加していない、意味-の-享楽JOUIS-SENSEの<一者>、まだ鎖に繋がれておらず、享楽にたっぷり浸かっている自由に浮遊しているシニフィアンの<一者>をめぐって語っているが、いまはそれにはこれ以上触れない。



…………

◆追記:四つの言説に関して


Paul Verhaeghe  FROM IMPOSSIBILITY TO INABILITY: LACAN’S THEORY ON THE FOUR DISCOURSESより

重要なのは、四つ目の「真理」のポジションであることに注意。


Paul Verhaegheは、動因と目的(他者)の流れを、話し手と受け手としている。


Within this minimal relationship between speaker and receiver, between agent and other, one aims at a certain effect, that is, there is a purpose to it. The result of the discourse can be made visible in this effect, and that brings us to the next position, called the product.




そして四番目の真理(欲望)のポジションが、話し手の最初の真のスタートポイントなのであって、動因のポジションにあるものは、みせかけsemblantにしか過ぎない、と。



An example is when you tell your son to work hard at school and, as a result, he produces one failure after another. Up to this point, we are still within classical communication theory. It is only the fourth position which introduces the psychoanalytic perspective. As a matter of fact, it is not the fourth, but the first position, namely the position of the truth.

Indeed, Freud showed us that, while speaking, we are driven by a truth unknown to ourselves. It is this position of the truth which functions as motor and as startingpoint of each discourse.



The position of the truth is the aristotelian Prime Mover, affecting the whole structure of the discourse. Its first consequence is that the agent is only apparently the agent. The ego does not speak, it is spoken. Of course you can come to this conclusion by looking at the process of free association, but even normal speaking yields the same result. Indeed, when I speak, I do not know what I am going to say, unless I have learned it by heart or am reading my speech from a paper. In all other cases, I do not speak but I am spoken, and this speech is driven by a desire, with or without my conscious agreement. This is a matter of simple observation, but it is fundamentally wounding to man’s narcissism; that’s why Freud called it the third great narcissistic humilation of mankind.He coined it in a very clear statement: “dass das Ich kein Herr sei in seinem eigenen Haus”, “The I is not master in its own house”. The Lacanian equivalent of this Freudian formula runs as follows: “Le signifiant, c’est ce qui représente le sujet pour un autre signifiant”. In this readjustment of the scales it is not the subject who stands to the fore in the definition: rather, all importance goes to the signifier. Lacan defines the subject as a passive effect of the signifying chain, certainly not the master of it. So, the agent of the discourse is only a fake agent, “un semblant”, a phoney. The real driving force lies underneath, at the position of the truth.


補遺 →メモ:ラカンの四つのディスクール+資本家のディスクール