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2013年10月20日日曜日

断腸亭日乗 昭和三十四年

平成二十五年葵巳年

十月二十日。日曜日。陰。また雨。鳥語欣々たるを聞くこと能ず。カツ丼食べたし。

…………

昭和三十四年乙亥年

荷風散人年八十一

(……)
三月一日。日曜日。雨。正午浅草。病魔歩行殆困難となる。驚いて自働車を雇ひ乗りて家にかへる。
(……)
四月十九日。日曜日。晴。小林来話。大黒屋昼飯。
四月二十日。陰。時々小雨。小林来話。
四月廿一日。陰。
四月廿二日。晴。夜風雨。
四月廿三日。風雨纔に歇む。小林来る。晴。夜月よし。
四月廿四日。陰。
四月廿五日。晴。
四月廿六日。日曜日。晴。
四月廿七日。陰。また雨。小林来る。
四月廿八日。晴。小林来る。
四月廿九日。祭日。陰。




ほぼ毎日、店が休みでも先生がいらっしゃるとお作りしました。いつもきまって「並のカツ丼」と「上新香」、「お酒一合」をただ黙々と召し上がられました。

亡くなられた前日にも、いつもの「カツ丼」を召し上がっていかれました。(永井荷風と大黒屋


……昭和二十三年以降の「日乗」を読み進むにつれて私には、だんだんに荷風の後姿しか見えなくなってくるーーそれまでの、背が見えていたかと思うとくるりと顔がこちらへ向き直るという戦慄が年ごとに薄れて、老人の健脚がひたすら遠ざかっていく、とそんな印象を受けてならない。全集が刊行され、浅草の踊子たちに親しみ、芝居が上演され、役者たちと《鳩の街》を見てまわる。新聞記者に追いまわされ、街娼にまで顔を知られるようになり、やがて文化勲章を受けて、鞄の置き忘れ事件によって財産状態が世人の目を惹くところとなる。そうして身辺が多事になっていくにつれて「日乗」の記載は年々短くなる。





三十年頃までは《夜浅草》あるいは《燈刻浅草》という記が多くて夜の繁華街歩きになかなか精を出していたようなのが、やがて《午後、浅草》となり、人と会うことも減って一人で洋画を見ることが多くなる。(……)

さらに《午後》が《正午過ぎ》となり、三十三年頃にはただの正午、《正午浅草》あるいは《小林来話、正午浅草》あるいは《正午浅草、燈刻大黒屋》という短い記の羅列に近く、こうなるとかえって後姿なりにまた目の前に大きくアップされてきたようで、朝方に地元の不動産屋氏の御機嫌伺いを受けてから京成電車で押上まで出て浅草の洋食屋で昼飯を摂り、おそらくさしたることもなく早目に家にもどって、夕刻には地元駅前の大黒屋なる店に足を運ぶという、判で捺したような老年の生活の反復が伝わってくる。

(……)

そして三十四年三月一日、日曜日、雨の中を《正午浅草》に出たところが路上でにわかに歩行困難になり驚いて家に帰ったとあり、それから一週間あまり寝つくと、《正午浅草》もなくなって《正午大黒屋》となり、四月二十日以降は《小林来話》だけになる。

(……)

この素っ気もないような記録こそ、住まいは江戸川を渡った市川菅野であっても、わが東京物語の極みである。長年の孤立者がさらに年ごとにひとりになり、やがて月ごとにひとりになり、ついにひとりになる。しかしぎりぎりまで歩く。範囲は日ごとに狭まってきても、とにかく歩かないことには生きられない。最後には三町ばかりの道だけになり、同じ道の往き返りだけになり、それでもまっすぐ、はてしなく歩きつづける心地でいたのかもしれない。

四月廿九日、祭日、陰――と、なぜだか、最後の日まであるのだ。翌三十日の朝、通いの手伝いの女性に発見されたという。

昭和五十七年の八月に私は東京駅を出た新幹線の中でたまたま開いた週刊誌のグラビアに、昭和三十四年四月末の荷風終焉の姿を見て吃驚させられた。取り散らした独り暮しの部屋の、万年床らしい上から、スボンをおろしかけた恰好のまま、前のめりに倒れこんで畳に頬を捺しつけていた。ちょうど外食から帰宅したところで、吐血だったという。墜落だ、これは、と私はつぶやいたものだ。八十一歳の老人というよりも、むしろ壮年の死だ。孤立者は死ぬまで老年になるわけにはいかない。いまや文豪の死というよりも、一般市民の覚悟しなくてはならない最後の姿だ、と。(古井由吉『東京物語考』)