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2013年10月16日水曜日

左右の尻のふり具合

路上カフェで珈琲啜ってると
男女のいきのいいのが
目の前を通り過ぎていってね
いい女なんだな
後ろ姿を追い続けたさ
あの尻の透け具合






「猥褻とは裸体になることでもなければ、
肉体の秘密を見ることでもない
むしろ、
歩いている人が尻を左右に振ることのほうが、
猥褻である」(サルトル)


《けやきの木の小路を/よこぎる女のひとの/またのはこびの/青白い終りを 》(西脇順三郎「秋」より)





――というわけで古典的な例かもしれないが
女というのはカップルが通り過ぎていって
男に魅されても
男のほうじゃなくて女のほうがより気になるらしい

《She may be attracted to the man, but will nonetheless spend more time looking at the woman who is with him.》


男は同性のほうはたいして気にならないはずだ
もっとも
「あんないい女をものにしやがって」とか
「あの男、あそこがでっかそうだな」とかの
羨望で男がわに関心をもたないわけではないだろうが

最近の日本の若い連中の具合は知らないが
ようするに二一世紀は「ふつうの精神病」の時代ならば
女性化の時代なんだろうからな

《精神病とは「女性なるものに不可避的に惹きつけられる」という事態(……)

ではなぜ女性化なのか。それは、父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(E566)ことに気づくから

だから精神病者は、女性化という方向に不可避的に追いやられる
これを女性への推進力と呼ぶ》

ーーということらしいぜ
さるラカン派の若い精神科医のツイートからだが

Leader (1996) provides some interesting examples in this regard. A man is sitting at a café and sees a couple walk past. He finds the female attractive and watches her. What is the typical masculine relation to desire we see epitomised here? He fixes his interest on her and wants to ‘have' her. A woman in the same situation may well do something different, observes Leader. She may be attracted to the man, but will nonetheless spend more time looking at the woman who is with him. Why so? Her relation to desire is different; it is not the wish simply to possess the desired object, but of wanting to know what makes this woman desirable for the man. Her relation to desire is about being like a signifier of his desire, of enacting this signifier of his desire in this way. eprints.lse.ac.uk/960/01/Lacanthemeaning.pdf‎


この Leader(1996)ってのは、 「Why do women write more letters than they post?」(1996)だろう、たぶん(Darian Leaderはイギリスのフロイト派精神科医)。





男はそれ以外に部分対象への欲動という面もあるけれど。

二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は空腹を訴えるような眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女はビール瓶に変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性から見れば(キスで表現される)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにファロス的な存在に変える。男からすると、彼は女性を部分対象、つまり自分の欲望の原因に還元してしまう。この非対称ゆえに、性関係は存在しないのである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。絶対にありえないのは自然な美しい男女のカップルである。幻想においてこの理想的なカップルに相当するのは、瓶ビールを抱いているカエルだろう。この不釣り合いなイメージは、性関係の調和を保証するどころか、その滑稽な不調和を強調する。われわれは幻想に過剰に同一化するために、幻想はわれわれに対して強い拘束力をもっているが、右のことから、この拘束から逃れるにはどうすればよいかがわかる。同時に、同じ空間内で、両立しえない幻想の諸要素を一度に抱きしめてしまえばいいのだ。つまり、二人の主体のそれぞれが彼あるいは彼女自身の主観的幻想に浸かればいいのだ。少女は、じつは若者であるカエルについて幻想し、男のほうは、実は瓶ビールである少女について幻想すればいい。(『ラカンはこう読め!』ジジェク 鈴木晶訳p99~)

女たち? わかんねえ、いつまでたっても
何かんがえてんのか


このあたりは、前期ラカン(対象関係論)の次の文が
いまでも生きてるんだろうねえ

the man is afraid that he doesn’t sufficiently have the (imaginary) phallus; the woman is afraid that she insufficiently is the imaginary phallus (Lacan, 1956-57). This leads to the characteristic masculine“Guinness book of Records”-hysteria, and –in a more restricted, sexual sense, to Viagra. In women, we encounter the “Miss World”-hysteria, eventually accompanied with excesses in plastic surgery. (Sexuality in the Formation of the Subject Paul Verhaeghe)


男は十分に想像的ファルスを持っていないことを怖れるし、女は十分に想像的ファルスでないことを怖れる(ここでの想像的ファルスは<他者>の欲望の対象となること)。

この持っていない/でないの区別の起源のひとつは、フロイトの『集団心理学と自我の分析』にある。

父親との同一化と、父親を相手にえらぶ対象選択との区別を、公式でいいあらわすことは容易である。最初の場合、父親は、そうありたいとおもうところのものであり、第二の場合、父親は持ちたいとおもうところのものである。(フロイト『集団心理学と自我の分析』Ⅶ 「同一化」)

ラカンによれば、想像的ファルス/象徴的ファルス、あるいは理想自我/自我理想や小文字の他者/大文字の他者などについて考えるうえに、この論文は決定的であり、ラカン曰く、フロイトはこの論文まで「同一化」についてわかっていなかったとさえ言っている、--のはどこだったか、ちょっといま調べる気はしない。


象徴的ファルスの機能がどこかにいってしまった現代、そこらじゅう想像的ファルスのみをかかえたパラノイアの跳梁跋扈。

ラカンのエクリから繰返せば、

父性隠喩の不成立によって「母のファルスになる」という欲望を「ファルスをもつ」に変換できなかった主体が、「母に欠けたファルスになることができないならば、彼には、男性たちに欠如している女性になるという解が残されている」(E566)

ということ。

もっとも正確にいえば、象徴的ファルス、父-の-名、あるいは父性隠喩とは次の如くらしい。


Φ(象徴的ファルス)は全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアンであって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある。

父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になる(P Bruno”Phallus et fonction phallique”)

つまり、「象徴的ファルスの機能がどこかにいってしまった」ではなく、「父-の-名の機能がどこかにいってしまった現代」、と書くべき、ということになる。


また、持つ/あるに関しては、ジジェクに言わせれば、ファルスを持つ/ファルスであるではなく、後者はファルスとして現れる(サンブラン)ということになる。

As a close reading of Lacan's text instantly attests however, the opposition we are dealing with is not that of being versus having, but rather the opposition of to have/to appear: woman is not the phallus, she merely appears to be to be phallus, and this appearing (which of course is identical with femininity qua masquerade) points towards a logic of lure and deception. Phallus can perform its function only as veiled-the moment it is unveiled, it is no longer phallus; what the mask of femininity conceals is therefore not directly the phallus but rather the fact that there is nothing behind the mask. In a word, phallus is a pure semblance, a mystery which resides in the mask as such. On that account, Lacan can claim that a woman wants to be loved for what she is not, not for what she truly is: she offers herself to man not as herself, but in the guise of a mask.  Or, to put it in Hegelian terms: phallus does not stand for an immediate Being but for a Being which is only insofar as it is "for the other", i.e., for a pure appearing. On that account, the Freudian primitive is not immediately the unconscious, he is merely unconscious for us, for our external gaze: the spectacle of his unconscious (primitive passions, exotic rituals) is his masquerade by means of which like the woman with her masquerade, he fascinates the other's (our) desire.(Woman is One of the Names-of-the-Father, or How Not to Misread Lacan's Formulas of Sexuation •Slavoj Zizek


いずれにせよ最近の若い男は怖れすぎなんだろうな
オレも怖くないことはないがね、いまだに


昨今は独身男性の3割弱が「婚約者、恋人、異性の友人のいずれもほしくない」という。20代前半の男性の4人に1人は「セックスに関心がない/嫌悪している」との調査結果(特集ワイド:カノジョは面倒?「草食男子」ここまで)

またしてもVerlwegheからだが、「父-の-名」の象徴的機能が喪失しつつある(あるいはもうしてしまった)現在では、享楽の女が怖い、というのも繰返されてきた。




・The absence of the possibility of identifying with the symbolic function itself condemns the contemporary male to staying at the level of the immature boy and son, afraid of the threatening female figure

・The disappearance of the old-style masculine superiority implies at the same time a disappearance of feminine inferiority.

・today, we have woman-the-hunter and man-the-hunted.

・This is a clear indication of the ever increasing anxiety of men when they are confronted with women as sexually active, desiring and enjoying subjects.
Paul Verlweghe「The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles 」

※VerlwegheはDSM批判の急先鋒のひとり。ミレールやジジェクを肯定的に引用することが多いひとだが、ミレール出自の「ふつうの精神病」概念の批判がある。

I would formulate it differently. Post-Lacanians indeed came to understand this with the term ‘ordinary psychosis’ — I do not like this, for two reasons. This has little if anything to do with psychosis in the classical Lacanian sense. Furthermore it brings about even greater confusion and a breakdown of communication with non-psychoanalytically trained colleagues in the discipline.http://www.lineofbeauty.org/index.php/s/article/view/60/121


女がハンターで男が餌食というのは、日本では表面的にはまだすくないのかもしれないけれど、「婚活」なんていうのは、あれはなんとかならないものかい? 男たちを萎縮させることのみに貢献しているんじゃないか、むしろその陰湿なハンターぶりが余計こたえるってことはないかい?





KAORIちゃんかわいいなあ
こんな娘までこわがるわけじゃないだろうな
最近の若い男は






《女っていうのはさあ、残酷って言うか、野獣だから「何で私のスケベなとこ見えないのかしら、そういうとこ撮ってくれないのかしら」って内心じゃ怒っているわけだよ。》(荒木経惟)

《荒木さんは私の中に潜んでいるその『女』に声をかけてくれた。私もそれを出すために荒木さんが必要だったんです。》

(「私的な視線によるエロティシズム : 荒木経惟の作品を中心とした写真に関する考察」秦野真衣より) 




《荒木のヌード写真を支えているのは、”撮られる側の欲望”であり、それは「女を撮られたい」ということである。ヌード写真を批判する議論として、それが男の性的欲望に奉仕する”女”を強制的に演じさせられているからという言い方がある。しかし、実のところ自分の中に確実にうごめいている”女”の「エロス」をまっすぐに見つめて欲しいという欲望こそ、ヌード写真がこれほどまでに大量に撮られ続けている最大の理由なのではないか。》(飯沢耕太郎)

ーーそうだなあ、やっぱりKAORIちゃんだって怖いよなあ
男は十分に想像的ファルスを持っていないことを怖れるからなあ






夏目漱石の『三四郎』の冒頭を思い出してもいい。上京の車中で知り合った女に請われ、ともに過ごした名古屋の宿での不可解な一夜。翌朝の別れ際、女に、「あなたは度胸のない人ですね」と言われる話だ。
元来あの女はなんだろう。あんな女が世の中にいるものだろうか。女というものは、ああおちついて平気でいられるものだろうか。無教育なのだろうか、大胆なのだろうか。それとも無邪気なのだろうか。要するにいけるところまでいってみなかったから、見当がつかない。思いきってもう少しいってみるとよかった。けれども恐ろしい。別れぎわにあなたは度胸のないかただと言われた時には、びっくりした。二十三年の弱点が一度に露見したような心持ちであった。親でもああうまく言いあてるものではない。
どうも、ああ狼狽しちゃだめだ。学問も大学生もあったものじゃない。はなはだ人格に関係してくる。もう少しはしようがあったろう。けれども相手がいつでもああ出るとすると、教育を受けた自分には、あれよりほかに受けようがないとも思われる。するとむやみに女に近づいてはならないというわけになる。なんだか意気地がない。非常に窮屈だ。まるで不具にでも生まれたようなものである。けれども……


フェミニストたちに悪評の高いフロイトの「ペニス羨望」、――「ペニス羨望とは、自分が持っていないペニスに対する憧れ」、という考え方は、最近では新しい解釈では、女性にペニス羨望があるのではなく、男性にペニス羨望があるのだ、という見解が主流になってきているらしい(つまり、十分に想像的ファルスをもっていない男の、他の男のペニスへの羨望ということ)。

In this light, the penis envy that Freud believed to be important in girls—the presumed desire of girls to have their own phallus—seems more a product of his own male, and consequently phallocentric, imagination. The only place where I have ever found this famous penis envy up to now is in men. It is based on their constant fear of inadequacy and their continual imaginary comparisons with other men's penises. The female counterpart of this male phallocentrism is a focus on relationships. (Paul Verhaeghe 『Love in a Time of Loneliness』)

Against the standard feminist critiques of Freud's “phallocentrism,” Boothby makes clear Lacan's radical reinterpretation of the notorious notion of “penis envy”: “Lacan enables us finally to understand that penis envy is most profoundly felt precisely by those who have a penis” (Richard Boothby, Freud as Philosopher, London: Routledge 2001, p. 292).(ZIZEK”LESS THAN NOTHING”)






…………



男と女をめぐって(ニーチェとラカン)より


・男は自分の幻想のフレームに見合った愛の対象を欲望するがa man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy、女は男の対象となることを欲望する。her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasyZizek

・男たちにとっても女たちにとっても「女」は他者である。“woman is the Other for both men and women。”(Miller)

…………

女というのは時どき女になるのだろうか?…ある時期に?… 妊娠のことじゃない、ちがう、ちがう…奇妙なインターバル…プログラムでは予測されていない…彼女が「任務」と出会うか、出会わないかによる…これは男にはある一定の時に起こる…不意に課されるんだ…マナ…ファルス…その任務は、その時、ひとりの女に出会い、ひとりの女のなかからひとりの女を解放する…期間的な夢遊病状態からの潰走。(……)

女たちそれ自体について言えば、彼女たちは「モメントとしての女たち」の単なる予備軍である…わかった? だめ? 説明するのは確かに難しい…演出する方がいい…その動きをつかむには、確かに特殊な知覚が必要だ…審美的葉脈…自由の目… 彼女たちは自由を待っている…空港にいるとぼくにはそれがわかる…家族のうちに監禁された、堅くこわばった顔々…あるいは逆に、熱に浮かされたような目…彼女たちのせいで、ぼくたちは生のうちにある、つまり死の支配下におかれている。にもかかわらず、彼女たちなしでは、出口を見つけることは不可能だ。反男性の大キャンペーンってことなら、彼女たちは一丸となる。だが、それがひとり存在するやいなや…全員が彼女に敵対する…ひとりの女に対して女たちほど度し難い敵はいない…だがその女でさえ。次には列に戻っている…ひとりの女を妨害するために…今度は彼女の番だ…何と彼女たちは互いに監視し合っていることか! 互いにねたみ合って! 互いに探りを入れ合って! まんいち彼女たちのうちのひとりが、そこでいきなり予告もなしに女になるという気まぐれを抱いたりするような場合には…つまり? 際限のない無償性の、秘密の消点の、戻ることのないこだま…悪魔のお通り! 地獄絵図だ!(ソレルス『女たち』p253-254)