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2013年10月18日金曜日

「私はあなたを愛しています」

私が話すとき、私自身が直接話しているわけでは決してない。私は己れの象徴的アイデンティティーの虚構を頼みにしなければならない。この意味で、すべての発話は“胡散臭い”。「私はあなたを愛しています」には、愛人としての私のアイデンティティーがあなたに「あなたを愛しています」と告げているという構造がある。

When I speak, it is never directly “myself” who speaks—I have to have recourse to a fiction which is my symbolic identity. In this sense, all speech is “indirect”: “I love you” has the structure of: “my identity as lover is telling you that it loves you.”(ZIZEK"LESS THAN NOTHING")

これはクレタ人エピメニデスの発話を「私は嘘をつく」として説明する『同一化セミネール』のラカンの変奏のようにみえるが、すこし違う。そこでのラカンは、「私は嘘をつく」=「私は思う」の「私」は、イマジネールな自己である「私」であり、そこから「私は思う」は、「彼女は私を愛していると私は思う」と同じであるとする。


「すべてのクレタ人はうそつきである、とクレタ人エピメニデスが言った」という場合、そこにはこまのように回転して止まることのない論理があることがわかる(……)

言表と言表行為の区別を曖昧にすることによって、「私は嘘をつく」の袋小路に至るあのパラドックスに遭遇するのに十分なのだ。(……)

「我思う」に「私は嘘をつく」と同じだけの要求をするのなら次の二つに一つが考えられる。まず、それは「私は考えていると思っている」という意味。これは想像的な、もしくは見解上の「私は思う」、「彼女は私を愛していると私は思う」と言う場合に-つまり厄介なことが起こるというわけだが-言う「私は思う」以外の何でもない。(デカルトの「我思う」と「私は嘘をつく」  (ラカン)

「自己」とは、フェティッシュな「空想」だ……

《the Self is the fetishized illusion of a substantial core of subjectivity where, in reality, there is nothing. This is why, for Buddhism, the point is not to discover one's “true Self,” but to accept that there is no such thing, that the “Self” as such is an illusion, an imposture.(zizek"LESS THAN NOTHING")》


いずれにせよ(ジジェクの例の象徴的同一化にしろ、ラカンの礼の想像的同一化にしろ)、「私は思う」やら「私の意見では」「私は好きです」のたぐいには上のような構造がある。


もっともここで異なった側面からの見解を挿入すれば、「私は思う」がいつも非難されるわけでは決してない。ただしそれは趣味判断なのではないか、との疑いはつねにもたなければならない。趣味判断、あるいはたんなるイデオロギーであるにもかかわらず、倫理的=実践的主体としての<わたくし>は、その発話に責任をもって、「私は思う」と言明する(医師や政治家はそうでなくてはならない)。


たとえば、『純粋理性批判』や『実践理性批判』において、彼は経験的なものにもとづく「一般的な」規則に対して、普遍的な法則を求めている。では、科学認識や道徳にそれがあるが、芸術にはないということになるだろうか。否、美的判断において普遍性が疑わしいのであれば、他の領域においてもそうなのだ。少なくとも、カントはそこから出発した。彼の「批判」がラディカルなのは、とりあえずすべてを趣味判断において出会うような問題から考え直したということにあったのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』「カント的転回」P67)

さらに、ジジェクの朋友であるカントとラカンの書『リアルの倫理』の著者アレンカ・ジュパンチッチであるならば、想像界でも象徴界でもなく、現実界(リアル)による発話行為側面から、次のようにいうだろう、--「汝の生み出した発話行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ」、と。






アレンカ・ズパンチッチも指摘するように、人間は時としてみずから全く望まない(したがって一切の感性的動機を免れた)行為をなすのである。ただしカントの考える道徳的行為とは異なり、それは自覚的な意志に基づく行為ではない。たとえば神経症者に見られる失策行為や強迫的行動がその典型的な例である。それが「ひとつの行為」と見なされるのは、症状に苦しむ当人のあずかりしらぬ享楽の表現がそこに認められるからである。そのような行為へと人を駆り立てている」のは、倒錯の場合と同様、死の欲動である。

ところで、神経症の症状ほどあからさまではないにせよ、いかなる行為の場合にも同様の仕方による意志と行為との齟齬が存すると精神分析は考える。そこから精神分析は主体と行為の概念を一変させ、主体とはそれを生み出した行為を通して遡及的にそれと規定されるものであり、行為とはそのつど新しい主体を出現させるものである、という見解を引き出す。この見解にしたがえば、天使や悪魔ならいざしらず人間には不可能だとカントが考えた行為も、十分人間には可能であるとみなされる。また、それにともなって、主体はみずからを生み出した行為の責任を負わなければならないという倫理的見解が導き出される。いわば精神分析は「汝を生み出した行為の内なる死の欲動を、決してしらばくれることなしに汝自身のものんと認めよ」という定言命法を差し出しているのである。(ハンナ・アーレントがいわなかったこと  伊藤正博)

…………

ところで、ーー

あきらかな馬鹿があなたの話は面白いといった場合と、
あきらかな馬鹿があなたの話はくだらないといった場合と、
どっちが好ましいかい?

ひとによるだろうな

営業活動をしてるのなら、馬鹿にでも好まれたほうがいい
そうでなかったら、
馬鹿にはくだらないと判断してもらったほうが好むひともいるだろうな

この「馬鹿」には、「悪趣味」とか「野暮」「下品」な人、あるいは「妄想者」を代入してもいいのだけれどね

…また、私は、民衆から迷信を取り去ることは恐怖を取り去ることと同時に不可能であることを知っている。最後に、民衆が自己の考えを変えようとしないのは恒心ではなくて我執なのであること、また民衆はものを賞讃したり非難したりするのに理性によって導かれず衝動によって動かされることを知っている。ゆえに、民衆ならびに民衆とともにこうした感情にとらわれているすべての人々に私は本書を読んでもらいたくない、否、私は、彼らが本書を、すべてのものごとに対してそうであるように、見当違いに解釈して不快な思いをしたりするよりは、かえって本書を全然顧みないでくれることが望ましい。彼らは本書を見当違いに読んで自らに何の益がないばかりか、他の人々に、――理性は神学の婢でなければならぬという思想にさまたげられさえしなかったらもっと自由に哲学しえただろう人々に、邪魔立てするだろう。実にそうした人々にこそ本書は最も有益であると、私は確信するのに。(スピノザ『神学・政治論』1670年序文)


ーーさて、こうやって書かれ引用された文の「言表内容」ではなく「言表行為」は次のようかもしれないぜ

馬鹿である<私>が、あきらかな馬鹿と判断せざるをえない人物から、あなたの話は面白いと言われて、頭にきているーーというのはクレタ人エピメニデスの変奏だ……

あるいは馬鹿ではないにしろ、ごく凡庸人にただちに面白いとされれば己の限界を悟って静かに退けねばならない、とも凡庸な<私>は呟いてみる……

《フランスにブルバキという構造主義数学者集団があった。この匿名集団の内密の規約は、発表が同人にただちに理解されれば己の限界を悟って静かに退くというものであった。出版と同時に絶賛される著者には、時にこの自戒が必要であろう。》(中井久夫「書評の書評」『リテレール』創刊号 1992)


…………


妄想者(パラノイア的人格者)や病的ナルシシストは、次のような特徴があるようだ。

まず自らの「我思う」に、全く疑いをもたない、つまり妄執する。

そして、彼もしくは彼女の意見に賛同するもの(フォロワーやら信者)が馬鹿であっても、そられの人を求めるざるをえない構造がある。

・the divided hysteric is looking for a guaranteeing big Other without a lack, who knows for certain; the paranoid subject is looking for followers and believers.

・Where the hysterical subject is always in doubt and is never sure about the choices he/she has made, by contrast, the paranoid subject knows for certain and transforms this knowledge into a system. From a psychiatric point of view, this typically gives rise to delusion and to megalomania, lack of doubt, lack of self-reflection and complete certainty. The message is clear: he is a master without any lack whatever.

・In Freudian terms, psychosis is a narcissistic neurosis-that is, a neurosis without the normal object relations. The paradoxical result of this situation is that it is the paranoiac who is most in need of an audience such as a group, in order to "keep his sanity," i.e., to avoid a psychotic breakdown(.Paul Verlweghe「The Collapse of the Function of the Father and its Effect on Gender Roles 」)

そしてそれは場合によって治療効果があるらしいから、けっして貶してはいけないと、唐突に「正義面」の仮面を被って誤魔化してみる……


…………

・一部のラカン派(ミレール派)曰く、《二〇世紀の神経症の時代から、二一世紀の「ふつうの精神病」の時代へ》、であるなら、ひょっとして現在、ほとんどの人がパラノイア的人格の「構造」を持ちつつあるのかもしれない、と「妄想者」である<私>が言う……

ーーフロイトやラカン用語では、幻想(ファンタジー)という語が、神経症をめぐって多用されることから、ここでは語句の定義などはうっちゃって、「幻想の時代」から「妄想の時代」へ変わりつつあると、この妄想的な<私>は言う……

・フォロワーの増減で一喜一憂せざるをえない構造をかかえるツイッターは、妄想者の育成機械である、と<私>が言う……

・パラノイアである<私>は、己れのことを妄想者ではなく倒錯者と確信して疑いをもたない……

・<私>が自らパラノイア症者とか、倒錯者と称するのは、「ほんとうのことを言って騙す」ーー、つまり「実は違うと思わせたい」ということだと<私>は言う……

・「妄想」の語源はラテン語 dēlūsiō(dēlūdere「だます」より)であり、 dēlūdere だます, 裏切る=dē- DE- + lūdere 振る舞うであると、ときには辞書をみて、この<私>は真面目腐ってみる……だが冒頭近くに出てきた「空想」と「幻想」「妄想」の区別などは考えてみようとはしない怠慢さを誇っている…とりあえず、それぞれ想像界、象徴界、現実界にかかわる語彙だと、嘘出鱈目を書いてみる…
ほかにも「夢想」「理想」等々…、「神」は「空想」だろうか、あるいは「妄想」であろうか? 女のロマンティックな「夢想」は、「空想」であろうか「幻想」であろうか…などともっともらしく問いをつけ加えてもよい…レイプファンタジー(幻想)というのがあるな…フロイト人文書院旧訳『ある幻想の未来』Die Zukunft einer Illusion, (The Future of an Illusion )では、宗教は Illusionと断言されているが、これは「幻想」と訳されており、だがいままでの慣例ならば「空想」であることはよく知られている…岩波全集の新訳では『ある錯覚の未来』だぜ…混乱をふせぐには「錯覚」という味気ない訳でも致し方なく、まあ文句はいうまい…


あるガリツィア地方の駅で二人のユダヤ人が出会った。「どこへ行くのかね」と一人が尋ねた。「クラカウへ」と答えた。「おいおい、あんたはなんて嘘つきなんだ」と最初の男がいきり立って言う。「クラカウに行くと言って、あんたがレンベルクに行くとわしに思わせたいんだろう。だけどあんたは本当にクラカウに行くとわしは知っている。それなのになぜ嘘をつくんだ?」(フロイト『機知』)

※参照→ 真実の仮面による欺瞞


…………

パラノイア症者が、象徴的共同体や「一般の意見」の〈他者〉をどうしても信用しないのは、騙されていない、手綱を握っている「〈他者〉の〈他者〉」の存在を信じているからである。パラノイア症者の誤りは、その徹底した不信や、すべては欺瞞に満ちているという確信にあるのではない。その点では彼は全く正しいのだ。象徴的秩序は究極的には根本的に欺瞞に基づいた秩序なのだから。そうではなく、彼の誤りは、この欺瞞を操作している隠れた存在がいるという信念にある。 (ジジェク『斜めから見る』p156)
今日の典型的な主体は、いかなる公のイデオロギーに対しても冷笑的な不信を表に出しながら、どこまでも陰謀や脅威や〈他者〉の享楽の過剰な形態についてのパラノイア的幻想にふけっている。大文字の〈他者〉(象徴界の虚構の次元)の不信、つまり主体が「それをまともにとる」ことをしないのは、「〈他者〉の〈他者〉」があること、実は、ある秘められた見えない全能の代理人(エージエント)が「糸を引いて」おり、舞台を動かしているということを信じることにかかっている。眼に見える、公の権力の背後に、別の、猥褻な見えない権力構造があるということだ。この別の、隠れた代理人が、ラカン的な意味での「〈他者〉の〈他者〉」の役、大文字の〈他者〉(社会生活を調節する象徴界の次元)が一貫することの、メタ保証の役を演じている。われわれはここにこそ、近年の物語化の行き詰まり,すなわち「大きな物語」というモチーフの終わりの根を求めるべきだろう。(ジジェク『サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性』松浦俊輔 訳)