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2013年10月2日水曜日

音と沈黙の「地」と「図」

音がきこえはじめたとき音楽がはじまり、
音がきこえなくなったとき音楽がおわるのだろうか。
音楽は目に見えないし、なにも語らないから、
音のはじまりが音楽のはじまりなのか、
音のおわりが音楽のおわりなのか、
音楽のどこにはじまりがあり、おわりがあるのか
さえわからない。

ーー高橋悠治『音楽の反方法論的序説』4 「めぐり」)


たとえば、音が運動によって定義されるとすれば、
音でないものも運動によって定義されるゆえに、
音が内部であり、音でないもの、それを沈黙と呼ぼうか、
それが外部にあるとは言えない。
境界はあっても境界線はなく、
沈黙は音と限りなく接していて、
音が次第に微かになり、消えていくとき、
音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。
逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、
ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。
運動に内部もなく、外部もなく、
それと同じように運動によって定義されるものは、
内部にもなく、外部にもなく、だが運動とともにある。 だから、
「音楽をつくることは、
音階やリズムのあらかじめ定められた時空間のなかで、
作曲家による設計図を演奏家が音という実体として実現することではない。
流動する心身運動の連続が、音とともに時空間をつくりだす。だが音は、
運動の残像、動きが停止すれば跡形もない幻、夢、陽炎のようなものにすぎない。
微かでかぎりなく遠く、この瞬間だけでふたたび逢うこともできないゆえに、
それはうつくしい」

ーー同16 「音の輪が回る」

高橋悠治が沈黙について語るとき、
きっと武満徹の言葉を思い出しているに違いない

私はまず音を構築するという観念を捨てたい。私たちの生きている世界には沈黙と無限の音がある。私は自分の手でその音を刻んで苦しい一つの音を得たいと思う。そして、それは沈黙と測りあえるほどに強いものでなければならない。(武満徹『音、沈黙と測りあえるほどに』)
私が理想とする音楽の聴かれかたは、私の音が鳴って、そのこだまする音が私にかえってくる時に、私はそこに居ない――そういう状態(同上)

もっとも
武満徹のことばはそのまま信じるには美しすぎる
との疑いを持ちながら

武満自身がことばのひとだった。スケッチブックにさまざまなことばを集めながら作品の構想を得ただけでなく、自分の音楽についてもたくさんのことばを残したために、武満を論じた他人の文章のほとんどは、それらのことばを論じているか、それらを通してかれの音楽を聴いたつもりになっている。

かれが自分の体験について語ったことばも、たいへん魅力的だが、真実であるにはあまりにうつくしい。かれが自分と自分の作品のまわりに織り上げた伝説にとらわれずに、このひとを語るためのことばは、まだ存在しない。もし、かれの音楽がこれからも忘れられずにいれば、ことばに覆われているかれの生と音楽を解き放つ考証も、いつかは可能になるだろうか。(武満徹の「うた」 高橋悠治

沈黙に耳をすます武満徹はアレグロを書けなかった

「二つの作品」、と言っても3曲の未定稿があり、いたるところで音を訂正しかけたまま放棄されている。アレグロの音楽を書こうとして苦しんでいたらしい。始め と終わりのある「音楽」らしい音楽を書こうとして、始めることはできても、終わりにたどりつけなかったのかもしれない。

「二つの小 品」、またアレグロ。すぐ終わってしまう。やはり、一つのはじまりだけでアレグロを書くことはできない。アレグロとは速度ではなく、擬似的二元性だから、 元気よく走り出すためには、元気なく取り残されるものを必要とする。これをソナタ形式と呼んでもいいが、それこそ近代的父権主義の音楽でなくてなんだろ う。武満は、幸か不幸か、アレグロを書くことができなかった。

それにつづくのは、のちに「二つのレント」の第1曲になるものの発 端。これは何回と無く書きなおされて、完成された版は、批評家の山根銀二に「音楽以前だ」と言われたほど、このフレーズのまわりをひたすらめぐる。対立を もたないことは、構成をもたないことではないが、ドイツ的音楽観は対立と闘争を絶対視する。

レントは、武満の身体が受け入れることのできた音楽の時間だった。ピアノで一つ一つの和音の響をたしかめる作曲家の身体。さまよう手がさぐりだ した響の余韻に立ち止まりながら、時には激しくぶつかる音程を打ち込んでみる。(同上)


音と沈黙は、どちらが地で図なのだろう
これが高橋悠治の問い(のひとつ)だ

そして《答がある問いは ほんとうの問いではない》

質問してはいけない
  なぜなら と師は言われないが
            わからない者がする質問は
           その水準での誤解にもとづいている
 それに応えれば その水準から出られなくなる
     そしてわかれば 質問してもむだだとわかる
 質問はなくなっても 問いはのこる
        あるいは答のない問いだけが生きつづける

ーー3月の練習  高橋悠治

《沈黙は音と限りなく接していて、 音が次第に微かになり、消えていくとき、 音がすべりこんでいく沈黙はその音の一部に繰り込まれている。 逆に、音の立ち上がる前の沈黙に聴き入るとき、 ついに立ち上がった音は沈黙の一部をなし、それに含まれている。》

ーーこの問い
だがそこに中井久夫の「記号」、「徴候」、「余韻」の問い
と近似したものをわたくしは読んでみたい誘惑に駆られる

「この世界が、はたして記号によって尽くされるのか。なぜなら、記号は存在するものの間で喚起され照合され関係づけられるものだからだ。」「世界は記号からなる」という命題にふと疑問を抱いた。

「いまだあらざるものとすでにないもの、予感と余韻と現在あるもの―――現前とこれを呼ぶとして―――そのあいだに記号論的関係はあるのであろうか。」「嘱目の世界に成立している記号論と、かりに徴候と予感や過去のインデクス(索引)と余韻を含む記号論があるとして、それを同じ一つのものというのは、概念の過剰包括ではないか。そのような記号論をほんとうに整合的意味のある内容を以って構成しうるのか。ひょっとすると、スローガン以上にでないのではないか。」

「ではどういうものがありうるのか。」「世界は記号によって織りなされているばかりではない。世界は私にとって徴候の明滅するとことでもある。それはいまだないものを予告している世界であるが、眼前に明白に存在するものはほとんど問題にならない世界である。これをプレ世界というならば、ここにおいては、もっともとおく、もっともかすかなもの、存在の地平線に明滅しているものほど、重大な価値と意味とを有するものではないだろうか。それは遠景が明るく手もとの暗い月明下の世界である。」(中井久夫「世界における索引と徴候」)

だが高橋悠治の問いからは
安易に記号を音とすることさえできない
ましてや徴候と余韻を沈黙とするなど
あまりに単純な頭脳のなせる技
だろうか?


《予感というものは、……
まさに何かはわからないが何かが確実に存在しようとして
息をひそめているという感覚である。
むつかしいことではない。
夏のはげしい驟雨の予感のたちこめるひとときを想像していただきたい。
(……)

余韻とはたしかに存在してものあるいは状態の残響、
残り香にたとえられるが、存在したものが何かが問題ではない。
驟雨が過ぎ去った直後の爽やかさと
安堵と去った烈しさを惜しむいくばくかの思いとである。》(中井久夫「世界における索引と徴候」)

音楽を聴くとき徴候と余韻を楽しむ
ということはたしかにある
それがもっとも貴重なもの
だと錯覚に閉じこもることがある

あるいは、ロラン・バルトのいう「ゆらめく閃光」

その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。(『明るい部屋』)

ただし、こう語られるのは、いわゆる「写真論」のなかである


ところでジジェクによれば
ラカンは、沈黙は「図」で
音は「地」である、と語っているらしい

"Why do we listen to music?": in order to avoid the horror of the encounter of the voice qua object. What Rilke said for beauty goes also for music: it is a lure, a screen, the last curtain, which protects us from directly confronting the horror of the (vocal) object. When the intricate musical tapestry disintegrates or collapses into a pure unarticulated scream, we approach voice qua object. In this precise sense, as Lacan points out, voice and silence relate as figure and ground: silence is not (as one would be prone to think) the ground against which the figure of a voice emerges; quite the contrary, the reverberating sound itself provides the ground that renders visible the figure of silence.

ーーSlavoj zizek, "I Hear You with My Eyes"; or, The Invisible Master

もっともこれはジジェクの「自由間接話法」であり
ラカンがどこで語っているのかは探しだせないでいる

地と図についてはいろいろ語られてきた

「地」と「図」が基礎的であるとしても、それらが相互に反転してしまうことを禁止できないところにある。最も基礎的な与件である「一つの地の上の一つの図」ということの決定不可能性が疑われないのは、現象学的方法の限界である。(柄谷行人『隠喩としての建築』)




ジジェク=ラカンの主張も、
わたくしたちの「常識」を覆すものとしてのみ捉えるべきで
つねに「地」と「図」は相互に反転する
ウィトゲンシュタイン「うさぎ─あひる図」の話を想起してもよい

ウィトゲンシュタインは言う。私たちはこの図を、うさぎの頭としても、あひるの頭としても見ることができる。つまりこの絵は、二つの(そしてそれ以上の)異なる「アスペクト」で見られうる。しかし私たちは、いま自分にその図がどのように見えているかを、その図を描いたり、模写したりすることによっては示しえない。(平倉圭「バカボンのパパたち」

音楽においてもっとも美しいものは沈黙である、とアンドラーフ・シフはいう
すぐれた音楽教育の場でしばしば言われてきたように
「間」を聴くこと、「沈黙」を図とすること?





ここではあえて「間」と「徴候」「余韻」の作家
ヴェーベルンについては触れない
とくに何度か引き合いに出した初期のOP.5については
だれかが、吉田秀和やブーレーズが、似たようなことを語ったから
《それらを通してかれの音楽を聴いたつもりになっている》のかもしれない
ウェーベルンはOP.5を後年オーケストラ用に編曲しているが
わたくしにはその長びく余韻、切れ味のなさにほとんど耐えられない
指揮者、演奏にもよるのだろうが、耳をすます態勢が殺がれてしまう


齢を重ねるにしたがって
大きな音に耐えられなくなり
アンダンテやアダージョ、レントの曲を
好んで聴くようになっている


もっともあるいは爆音かつアレグロの曲を聴いても
ホワイト・ノイズを聴く瞬間がひとにはあるだろう

60年代のミニマル・ミュージックは、
西洋楽器や民俗楽器で単純な音形を反復し、
それらの重ね合わせがモワレ効果で
意識をトリップに誘い込むといった
「知覚の現象学」を追求したが、
テクノミニマル・ミュージックは、
正弦波や白色雑音[ホワイト・ノイズ]といった
もっと基本的な要素を反復し、
正弦波同士が相殺しあって無音に聴こえるといった
「知覚の機械学」を追求する。
それは20世紀音楽が最後に到達した文字通りの零度なのだ。》(浅田彰

《砂や頁岩を洗い、
流木や防波堤に砕ける水の無限の変奏を捉えるためには、
思考速度を落とさなければならない。
それぞれのしずくはどれも違った音高で響き、
尽きることなく供給されるホワイトノイズに、
波がそれぞれ異なったフィルターをかける。
断続的な音もあれば、連続的な音もある。
海では、両者が原始の調和の中に融和している。》
マリー・シェーファー:作曲家、サウンドスケープの創始者、鳥越けい子他訳)


 ……たとえば、幻聴であるが、まず、幻聴はふしぎなものであるといっても、人間の神経系には幻聴を起こす能力が備わっている。たとえば、ほぼ一定の間隔で同じ音をボツボツボツと聞かせると、ただの音に聞えては次には言葉に聞こえ、またただの音に聞こえるということを繰り返す。また、外からの音がなくても、頭の中には血の流れる音が本来はやかましく聞こえているのを、フィルターをかけて消しているので、非常に静かな環境ではこの音が聞こえる。年をとってフィルターの力が弱まると、これはドクドクという耳鳴りとして聞こえるようになる。それが時々声になることは多くの老人が経験している。

しかし、こういう幻聴は「大丈夫ですよ」でお終いになる。幻聴が恐怖や不安を生むのは、それが不思議だからだけではない。何に対する警戒かわからないでしかも警戒心が高まっている状態が土台になっているからである。そういう時はすべての感覚が鋭敏になっているので、舌の先に赤いブツブツが見えたりする。これは味覚が鋭敏になっているのである。しかし、特に聴覚が敏感になるのは、聴覚が元来ウサギのように警戒のための感覚だからである。そうすると低い完全雑音(ホワイトノイズ)を拾って言葉として聞いてしまうのは、上に述べた幻聴を起こす能力による。実際、無意味な音を無意味なまま聞き流すほうが脳には無理なのである。深夜の静かさを無数の音がひしめいているように聞いてしまう、アレである。この場合、頭の中なのか頭の外なのか、区別がそもそもつかない。人間の精神は起こる感覚が内のものか外のものかを区別するようにしているが、いつも間違わないとは限らない。特に完全雑音の場合は内外の区別が難しい。それがどういう言葉になるかは、多分、その時に考えるともなく考えていた事柄と関係があるのだろう。深刻な幻聴もそうでない幻聴もあり、暗い内容もあるが明るい内容もあるのはそのためであろう。(中井久夫「症状というもの」『アリアドネからの糸』所収)


シューマンの幻肢としての音もある

《人間の足 でも手でもいんですけど、
事故や戦闘などで切断したあとで、
幻肢痛というのがあって、(……)幻肢痛というのは、
存在しない身体器官の先端が痛 んだり疼いたりするという感覚のことで、
ベトナム戦争の戦闘で身体器官を失った人が、
もう無いはずの左足の先端が痛いといったようなことがよく書かれていました。
これは、つまり人間の身体が外形的な物理的存在として、
自分の頭脳なり感覚のなかで統合されている、
という考え自体が実は幻想に過ぎないのかもしれない、
ということを考えさせます。
身体とは、存在しない自分の肉体をも
同時に引きずっているようななにかだ、ということ》



痛みはつねに内部を語る。しかしながら、あたかも痛みは手の届かないところにあり、感じえないというかのようである。身の回りの動物のように、てなづけて可愛がることができるのは苦しみだけだ。おそらく痛みはただ次のこと、つまり遠くのものがいきなり耐えがたいほど近くにやってくるという以外の何ものでもないだろう。

この遠くのもの、シューマンはそれを「幻影音」と呼んでいた。ちょうど切断された身体の一部がなくなってしまったはずなのに現実の痛みの原因となる場合に「幻影肢」という表現が用いられるのに似ている。もはや存在しないはずのものがもたらす疼痛である。切断された部分は、苦しむ者から離れて遠くには行けないのだ。

音楽はこれと同じだ。内側に無限があり、核の部分に外側がある。

ーーミシェル・シュネデール『シューマン 黄昏のアリア』(千葉文夫 訳) 


シューマン研究者でもあるチェリスト
スティーヴン・イッサーリスのバッハ・サラバンド





数々の名演はある
ロストロポーヴィチ
など

わたくしは少年時代、最初にフルニエで聴いたのだが
このサラバンドに関してはもう聴くことは難しい

ロシア人たちの演奏は素晴らしいが
響かせすぎるところがあると最近は感じる

ヨーヨーマは練習風景の映像で
より優れたものがあったはずだが
いまは探しだせないでいる


岡崎氏は言う。《だからぼくの立場はやはり形式主義ということになります。そんな得体の知れないものが対象としてあるように見えて、実際は掴むこともできないのはわかっている。よってそれを捉まえるよりも、具体的に手にすることのできる道具や手段でそれ---その現象を産みだすにはどうすればよいのか、そういうレヴェルでしか技術は展開しない。》

これは決して「得体の知れないもの」を軽視しているのではなく、逆に得体の知れないものの「得体の知れなさ」を熟知しているからこその態度なのだ。「得体の知れないもの」の「得体の知れなさ」を固定化してそれにに溺れてしまうことは、その「得体の知れないもの」に触れている時の「経験」の本質を取り逃がしてしまうことでしかないのだ。《だからイメージに取り憑かれて、つまりそう見えてから分析をはじめていてはすでに手後れであると僕は思います。いわば、そう見えなかったものが、そう見えるようになったこの転換こそを、記憶術たらしめるいわば想起の問題として捉まえなければならないと思うのです。》(岡崎乾二郎に関するテキスト 古谷利裕


上で問われた得体の知れないものは、もちろん「沈黙」である

そして厄介なのは「得体のしれないもの」生み出す技術を獲得したにしろ
受け手がそれを感じとる耳をもっているかどうかはまったく別の問題であり
人びとは驚くほど馬鹿になっています」の時代ならば
そんな「得体のしれないもの」はうっちゃって
次のように叫びたいヤツがほとんどだということだ

聴衆は言う。「何という個性、何という大胆さ、何という芸術家、何というピアニストなんだろう!」。ソナタの演奏がへたくそなことは言わずもがなだが、誰もそんなことは気にもしない。そもそも、ほとんど曲を聴いてはいないのだ。(アファナシエフーー青空のさなかで耐えること

もちろん以前もそうだったのだろう
だが現在はいっそうじっくり聴くことが少なくなって、
「名前」でのみ語るようになってきているはずだ

いわゆる文化の大衆化現象は、たんなる量的な変化をいうのではなく、芸術的な記号の流通形態の変化なのである。(……)そのとき流通するのは、記号そのものではなく、記号の記号でしかない。(……)読まれる以前にすでに記号の記号として交換されているのである。(大衆が芸術作品を讃美するのは)みずからも、記号の記号としての固有名詞の流通に加担したいという意志にほかならない。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

オレもひとのことは言えないが叫ばないようにだけはしているつもりだ

彼らは、芸術作品に関することになると、真の芸術家以上に高揚する、というのも、彼らにとって、その高揚は、深い究明へのつらい労苦を対象とする高揚ではなく、外部にひろがり、彼らの会話に熱をあたえ、彼らの顔面を紅潮させるものだからである。そんな彼らは、自分たちが愛する作品の演奏がおわると、「ブラヴォー、ブラヴォー」と声をつぶすほどわめきながら、一役はたしたような気になる。しかしそれらの意志表示も、彼らの愛の本性をあきらかにすることを彼らにせまるものではない、彼らは自分たちの愛の本性を知らない。しかしながら、その愛、正しく役立つルートを通りえなかったその愛は、彼らのもっとも平静な会話にさえも逆流して、話が芸術のことになると、彼らに大げさなジェスチュアをさせ、しかめ顔をさせ、かぶりをふらせるのだ。(プルースト「見出された時」)

…………


《ソレルスによれば、何年か前あるフランスの若者のグループが、わざとランボーの「イリュミナシオン」をコンピュータで打ち直し平凡な作者名をつけてフランスの幾つかの主要な出版社に原稿を送りつけたらしい。新人の詩人が出版の是非を打診したみたいに。結果は予想どおりすぐに出た。全員が「拒否」!》(鈴木創士)