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2013年11月3日日曜日

一瞬よりはいくらか長く続く間

昨日から大気の肌触り爽やかになり漸く乾季の訪れか。光の風合まで翻然と異なる。

昨年の日記(ウェブ上からは削除してしまったが)を探しだせば、十一月二十三日に同じようなことを書いており、もしこのままぶり返しがなければ、今年は昨年より早く乾季が訪れたことになる。そう、さきほども中原中也の「さらさらと」を想い起こしたところだ。

小林秀雄が、中原中也の「最も美しい遺品」と書いた「一つのメルヘン」、すなわち「さらさらと」ーー、《陽といっても、まるで珪石か何かのようで、/非常な個体の粉末のようで、/さればこそ、さらさらと/かすかな音を立ててもいるのでした》--は、中也の友人吉田秀和が次のように書いているのを想い起こしもする。《ある時刻における小さな宇宙が自分の中にも目覚めてくる》(吉田秀和「中也のことを書くのは、もうよさなければ……」(『ユリイカ』1970.9)。

時間が別の次元に変貌する瞬間がある。時間が濃密な密林の液体のようにゆるやかに、淀みながら流れていくのではなく、微粒子の粒がひとつひとつ際立ってすべての要素がそれぞれに異なった自分をわれがちに主張しあって流れてゆく刻限。

それは盛夏の光の波ではなく、光の粒子の季節でもある。
私が思うに、男を光の波とすれば、女性は光の粒子の集まりなのです。少女のフィルムをスローモーションで見てみると、互いに異なった百個の世界が見えてきます。少女が笑ったと思っていると、その十二コマ先では完全な悲劇が展開されるのです。(“ゴダール全てを語る”―宇野邦一『風のアポカリプス』より)

…………

2012年11月23日

ようやく乾季の訪れか。台所のテーブルに坐って珈琲を啜りつつ開け放たれた窓のむこうの前庭をぼんやり見やれば、花崗岩で組まれた塀のでこぼこした表に、細かく拡がった梢の末の翳を柔らかく描くのは、少し前とは違っておだやかで懐かしい陽射しだ。かすかな風にゆらぐその梢の模様とこがね色の陽光は粘つかず、さらさらと、……《小石ばかりの、河原があって、/それに陽は、さらさらと/さらさらと射しているのでありました》(中也)

傍らの古びていかめしい樹幹をもつプルメリアは湿気と寒さに弱く、雨季のおわりから乾季の始まり一、二ケ月のもっとも涼しくなるこの時節には、葉も落ちほとんどまる裸になって、いまだ花があるわけではないが(この樹は乾季終りの暑さのさかり、三月から四月にかけて薫り高い白い花をおびただしく咲かせてから新しい葉が出る)、庭隅のジャスミンやら日本名は知らないが当地ではクエと呼ぶーーこのクエの名が今年わかった、月橘というーー、これも白い小さな花の甘酸っぱい香りがかすかに漂っている。なにはともあれ、当地のこの乾季の始まりは、日本のいくつかの季節の感覚をもっともしばしば呼び醒ます時期であって、たとえば「かすかな」「ゆらぐ」としたことから、こんな文を引っ張り出してみよう。

京都の花便りは何と云っても最も気にかかるので、毎年四月の七、八日になると電話で聞き糺すのであった。平安神宮のお花見のことは「細雪」で余りにも知られ近年は雑踏のために花見らしい情趣も酌めなくなってしまったが、「細雪」を執筆しはじめたころは、内苑の池の汀に床几をもうけ緋毛氈を敷いて、蒔絵のお重に塗盃でお酒を酌み交し、微醺を帯びて枝垂を見上げ、そよともふく風のないのに梢の末(うれ)が幽かにゆらぐのが此の世のものとも覚えぬ風情で、私たちは花の精が集うていると云い合った。全く花に酔い痴れて花の下で何を語り何を考えたかそれも思い出せない。

夫と世を隔てて翌年の春、平安神宮の桜を思い起こさないではなかったが、あの花を独りで見る悲しさに堪えきれるものではなく、花に誘われて遠い遠い雲の彼方へ魂は連れ去られ、此の身だけが嫋々としだれる花にそと触れられながら横たわっている。そんな空想をしながら家に籠っていた。(谷崎松子『倚松庵の夢』)

あるいは「梢の模様」としたことから、次の文を。 

一年を通じて、この店の間がもっともあかるいのは、十一月の中、下旬、陰暦十月の小春と呼ばれている時期、および冬至をなかにして、これと対応する二月の中、下旬である。そのころ、京格子は上から下までいっぱいに、陽ざしを浴びている。格子の内側の障子をあけ放つと、たたみの上には規則正しい縞柄の日陰が横たわる。障子をしめていると、表の軒近くをとおる人影が、あらかじめ障子にえがき出された格子の縞のなかを通過する。そういう影のたわむれが、ふと目をうばうようなとき、ヴァレリーの一節が、私には思い出される。

木立の枝にとらわれた  かりそめの虜囚
並行する この細い鉄柵を ゆらめかせる入海……

「かりそめの虜囚」である人影は、たやすくこの格子の影、質量をもたないこの牢獄の柵からすり抜ける。「細い鉄柵」は、ヴァレリーにとっては睫毛の隠喩であった。それなら、京格子のつくる影は、カメラの暗箱にとりつけられた美しい人工の睫毛というべきかもしれない。そして南面に格子をもっている店の間こそあかるいが、間仕切りの襖のむこう、さらにもう一枚の襖をあけると奥座敷に通じる中の間は、四季を通じて暗箱のように暗いのが、京都の町のなかの住居の特色である。(杉本秀太郎『洛中生息』)

こうしてかつて十年ほど住んだふたつの「京都」の描写を抜き出したからといって、ことさらノスタルジーに囚われているのではなく、《一瞬よりいくらか長く続く間》(大江健三郎)の感覚、その過去と現在の印象が唐突に重なるのが尊いのであって、《まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。》(ニーチェ)

豌豆のさや  (谷川俊太郎)


寝床の中で目を覚ますと
まずしなければいけないことが心に浮かぶ
しなければいけないことはしたいこととは違うが
自分が本当に何をしたいのかはよく分らない
そう思いながら手紙を書き
自転車で銀行へ行って金を振り込む

何もせずに一日を過ごしたことがないのを
恥じる必要はないかもしれないが
自慢することも出来ないような気がする

夕刻
屑籠の中に散らばった豌豆のさやが美しい
どうしてそんな些細なことに気をとられるのか
今日も人は死んでいるのに殺されているのに

この世にはあらゆる種類の事実しかない
その連鎖にはどんな法則もないように見えるが
多分そこに詩と呼ばれるものが隠されている


―――といいつつ、京都町中の季節のいい折の散策途上のお決まりの休憩場所であったイノダコーヒー三条店のカウンターに坐ってあのミルクコーヒーを(あれはけっしてカフェ・オーレと呼ぶにふさわしくない)啜ってみたいということはあるな


…………

などと昨年は書いている。このあとイノダ珈琲三条店やら本店のことをぐだぐだ書いているが、それはいまはどうでもよろしい。

いまは、大江健三郎の《一瞬よりいくらか長く続く間》をメモしたものがあり、投稿せずにいるので、それをここに抜き出す。


――……この一瞬よりはいくらか長く続く間、という言葉に私が出会ったのはね、ハイスクールの前でバスを降りて、大きい舗道を渡って山側へ行く、その信号を待つ間で…… 向こう側のバス・ストップの脇にシュガー・メイプルの大きい木が一本あったんだよ。その時、バークレイはいろんな種類のメイプルが紅葉してくる季節でさ。シュガー・メイプルの木には、紅葉時期のちがう三種類ほどの葉が混在するものなんだ。真紅といいたいほどの赤いのと、黄色のと、そしてまが明るい緑の葉と…… それらが混り合って、海から吹きあげて来る風にヒラヒラしているのを私は見ていた。そして信号は青になったのに、高校生の私が、はっきり言葉にして、それも日本語で、こう自分にいったんだよ。もう一度、赤から青になるまで待とう、その一瞬よりはいくらか長く続く間、このシュガー・メイプルの茂りを見ていることが大切だと。生まれて初めて感じるような、深ぶかとした気持で、全身に決意をみなぎらせるようにしてそう思ったんだ……

それからは、自分を訓練するようにして、人生のある時々にさ、その一瞬よりはいくらか長く続く間をね、じっくりあじわうようにしてきたと思う。それでも人生を誤まつことはあったけれど、それはまた別の問題でね。このように自分を訓練していると、たびたびではないけれどもね、この一瞬よりはいくらか長く続く間にさ、自分が永遠に近く生きるとして、それをつうじて感じえるだけのことは受けとめた、と思うことがあった。カジね、そしてそれはただそう思う、というだけのことじゃないと私は信じる。

それはこういうことが考えられるからだよ。もう一度、ほとんど永遠に近いくらい永く生きた人間を想像してみよう。それこそ大変な老人になって、皺だらけで縮こまっているだろうけれどもさ。その老人が、とうとう永い生涯を終えることになるんだ。そしてこう回想する。自分がこれだけ生きてきた人生で、本当に生きたしるしとしてなにがきざまれているか? そうやって一所懸命思い出そうとするならば、かれに思い浮ぶのはね、幾つかの、一瞬よりはいくらか長く続く間の光景なのじゃないか? そうすればね、カジ、きみがたとえ十四年間しか生きないとしても、そのような人生と、永遠マイナスn年の人生とは、本質的には違わないのじゃないだろうか?   

――僕としてもね、永遠マイナスn年とまではいいませんよ。しかし、やはり八十年間生きる方が、十四年よりは望ましいと思いますねえ、とカジは伸びのびといった。

――私もカジがそれだけ生きることを望むよ、というギー兄さんの方では、苦痛そのもののような遺憾の情を表していたが。……しかしそうゆかないとすれば、もし十四年間といくらかしか生きられないとすれば、カジね、私としてはきみにこういうことをすすめたいんだよ。これからはできるだけしばしば、一瞬よりはいくらか長く続く間の眺めに集中するようにつとめてはどうだろうか? 自分が死んでしまった後の、この世界の永遠に近いほどの永さの時、というようなことを思い煩うのはやめにしてさ。(大江健三郎『燃え上がる緑の木 第一部』p148-150)

――私は、総領事の最初の結婚を破棄して、自分と再婚させたわけだけど、それまでの後悔を引っくり返すほどの喜びをあたえたとは思わない、と弓子さんはいって、もう一度嗚咽され、鼻をかんだハンカチをまるめて握った手をまたK伯父さんの手の上に戻された。

――総領事と弓子さんをブリュセルに訪ねて、泊めてもらった時ね。翌朝、食堂に降りて行くと、きみたちは中庭のorme pleureurをじっと眺めていた。そこへ声をかけると、ふたりが共通の夢からさめたようにこちらを振り返ってね。ああいう時、総領事は、隆君の言葉を使えばさ、一瞬よりはいくらか長く続く間、弓子さんと喜び〔ジョイ〕を共有していたんじゃないの? しかも、そういうことは、しばしばあったんじゃないか?

イェーツの、ふたつの極の間の生というのはね、僕の解釈だと、……総領事のそれとはくいちがうかも知れないけれどもさ、なにより両極が共存しているということが大切なんだよ。愛と憎しみという両極であれ、善と悪という両極であれ…… それを時間についていえば、一瞬と永遠とが共存しているということでしょう? ある一瞬、永遠をとらえたという確信が、つまり喜び〔じょい〕なんだね。

じつはいまさっき、総領事の身の周りのものがまとめてあるなかに、イェーツの詩集があって、開いて見たんだけど、第四節はこういうふうなんだよ。《店先で街路を見わたしていた時/突然おれの身体が燃えさかった、/二十分間の余も/おれは感じていたのだ、あまりに倖せが大きいので、/祝福されておりみずから祝福もなしえるほどだと。》五十歳のイェーツの感慨なんだ、総領事が到達した年齢や、僕がいま生きている年齢より若い折の詩人の……

結婚したてのきみたちは、やはりロンドンから、この二十分間の余を現に体験していると、そういっている絵葉書をくれたじゃないか? きみたちは喜び〔ジョイ〕を共有していたぜ、あの時。それは一瞬のうちに永遠へ入り込んでいたことでね、失われようがない。……弓子さんがこれから休暇をとって、メリー・ウィドウの気分で、ロンドンの喫茶店を再訪でもすればさ、も一度その一瞬にめぐりあって永遠に戻ることになるよ!

――それがあったとしてもね、新しい一瞬を、このように死んでしまっている総領事と一緒に経験できるとは思えない……

弓子さんは老成した不機嫌さの躱し方だったが、その底に稚いような素直さの響きもあったからだろう、めずらしくK伯父さんはヘコタレなかった。

――バラバラの個ならば、そう。それにあわせて、全体のなかにふくまれる個ということも考えられるんじゃないの? とくにわれわれが一瞬の永遠を感じとるというような時、それは全体のなかの個としての経験だと思うよ。この場合、全体には死んで行った人の個もふくまれているはずね、実感としても…… それがあるからこそ、自分が祝福されるばかりじゃなく、他人を祝福することもできそうだというんだと思うよ。(同『燃え上がる緑の木 第二部』 P227-229)




※附記:大江健三郎「「涙を流す人」の楡」より(『僕が本当に若かった頃』所収)

――朝食の間、沈みこんでいるものだから、気がかりだったわ、と妻が声をかけていたのである。中庭の奥の大きい木を見ないように、身体を斜めにしているのも不自然だったし…… あなたが木が好きだということで、奥様はあの不思議な木を特別な御馳走のおつもりだったはずなのに。

――そこで話題が樹木の方向に進むようにとマロニエの花へ誘導してくれたのか…… しかし、沈みがちだったのはNさんじゃなかったかい? それでもホストとしてしっかりつきあってくれていて…… むしろそれをむりに笑わせるのもと、冗談をいわないようにしていただけだよ。……中庭の大きい木はチラリと見たように思うけど、つまりはNさんの鬱屈と思いこんだものに気をとられていたから。

――あなたが、あれだけめずらしい樹木をチラリとなり見て、そのままにしてしまうというのは、自然じゃないでしょう? いつもなら、すぐさま中庭へ廻らせていただいて、幹にさわってみるなりしたはずよ。そうやってあなたが楽しむのを、大使たちは期待されていたと思うわ。

――そういわれればね。昔きみには話したけれども、ある特別なかたちの大きい樹木で、それを見たり思い出したりすると、近年は鬱屈というほどでもなくなったけれど、気の滅入るやつがあるわけだ…… 
 (……)朝食を始めた頃にはただ真青だった空に急速に雲がひろがって、しだれにしだれた枝のこまかな葉の茂りが凶々しいほどに翳ってゆく。僕はつい溜め息をついて、整えられたベッドのカヴァーの上へ横になり、これからすくなくとも一日二日は沈んだ気分においてつきまとうはずの、幼年時の記憶に面とむかった。海外にいることもあり、いくらかは進んでこちらからそれをかきよせるようだったと思う。そのうち僕は当の記憶の光景が、今朝早くからの気分を裏側でコントロールしていたことを認めるほかなかったのである。昨夜、月明りのなかの広大な前庭を大使の車で廻り込んだ時か、今朝の起きがけの散歩で、、僕はねじ曲げられた梢をチラリと見かけ、すぐ眼をそむけて見なかったふりをし、意識の表面ではそれに成功していたのだったろう……
(……)幼年時のひとつの光景の記憶という主題は、やはり夢のように淡い不定形なものなのだった。大使がその公的生活にはまぎれこむことがないにちがいない、こうした小説家の個人的な話に寛大な、またとない聴き手であったことをしみじみ思う。沈黙してこちらを穏やかに見まもっている沈着かつ機敏なかれの眼を、すでに現世ではもう再び見ることができぬことになったいま、さらに色濃く…… そしてあの最後の話合いはなにか自分らを越えたもののはからいではなかったかとすら疑うのだ。

われわれの座っている居間の大きいガラス仕切りの向こうには、全体に総毛立つふうなorme-pleureurが、斜め下方の谷あいから夕陽を受けて濃いワインカラーに燃えあがりもした。あの梢を押しひしいでいた見えない力と、つながっているところのものが、どこかでとりはからってくれていたのではなかったかと……

――確か五、六歳の頃の記憶なんですが、背景の樹木をふくめて画像としてくっきり頭にきざまれているのに、その光景を構成している人びとがすべてあいまいな、そういう記憶にね、永年とりつかれているんです。さらにこの光景につづいての出来事に、ぼんやりした罪障感があるんですね、自分自身と父親とに関わって…… しかし自分や父親が実際になにをしたか、ということは霧に包まれています。そういうわけで小説にも書くこともできない記憶なんです。ところが、きっかけがあってその記憶が表層の方へ浮びあがってくると、いつでも気持が沈んでしまう。それが一、二日は続く。とくに学生の頃、罪障感として意識するようになって、ずっとそうなんです。

(……)しかし、困るなあ、あはは! あなたにそんなベソをかいたような顔をされては! ……あのしだれた楡は、家内もいったとおりorme-pleureurで、pleureurというのは、枝がしだれにしだれているということですね、しかし、言葉の表面の意味としては「涙を流す人」の楡であるわけで、あの木の確かにベソをかいているような雰囲気が、あなたのみならずね、われわれみなを影響づけているかも知れないけれど……
この夏の終り、N大使は癌にもとづく肝不全で急逝された。自分の弔辞で、この樹木を思出についてのべたところを引用したい。

《ブリュッセルの朝から東京の夕暮に向けて、かつて聞いたことのない夫人の悲しみの声が大使の死をつたえる国際電話を受けてから、私はこの夏の終り、暗く茂っているはずのorme-pleureurの影に覆われるようにして時を過してきました。

あの秀れた異分野の友人は去った、かれと共にあることでのみ開かれたこの世界の独自の側面は自分から捥ぎとられた。そのことを私は繰りかえし思っています。現実と、あるいはその外部との関わりにおいて、こちらとは比較にならぬ経験をかさねた人物に、しばしば私は自分の自閉的な思い込みを越える展望を開いてもらいました。それが自分にとってかならずしもすべて受け入れやすかったのではない。しかしある時がたつと、私はその展望を介してはじめて可能な、積極的なものをかちえていることにつねに気づいたのです。

そのあれこれを思い出していると、いま自分がいくらかなりとタフな成熟をなしえているとすれば、しばしば対立しながら豊かな談論を楽しむことのできた、大使との交遊の日々にそれがもたらされていることをさとらずにはいられません。

N大使、私はいまもなおあなたがまさにそのようにタフな成熟と純粋さをあわせもつ眼で、微笑しつつ、わずかなイロニーも漂わせて、私を見おろしていられることを感じます。残された生の時、それを感じつづけもすることでしょう。》