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2013年11月20日水曜日

「甘えるな」!

「絆」という言葉が使えなくなった、に対しての谷川俊太郎の返答

たとえば<愛>という言葉の中身が、年齢とともに経験を重ねて、私の場合若い頃に比べて深まっていると感じています。同じようなことが震災という言語化し難い大きく深い経験によって、多くの人にたとえば<絆>という言葉に起こったのではないかと考えられます。しかしメディア上で多用されるにつれて、この言葉の中身は急速に軽く薄くなってゆき、個人の心の中ではかけがえのない大切な言葉だったものが、ただの決まり文句に堕していったのも事実でしょう(谷川俊太郎)
  
絆・寄り添う・つながる・連帯・友愛等々
いろいろあるな
同族意識・村社会の臭いがすこしでもすると
御免蒙るって言葉が
とくに2011年の春からだね

この共同体では人々は慰め合い哀れみ合うことはしても、災害の原因となる条件を解明したり災害の原因を生み出したありその危険性を隠蔽した者たちを探し出し、糾問し、処罰することは行われない。(酒井直樹「共感の共同体批判」

いまも進行中だからな
「協力・相互依存」の「無責任の体系」が
「事を荒立てる」かわりに、
「『仲良し同士』の慰安感を維持することが全てに優先」させるってことが

アタシは、ボクは、違った意味で使ってる
っていう人もいるのだろうけどね

たとえばL'Amitié(友愛)

我々は追憶することができる。だが思考は知っている、人は追憶などしないものだと。すなわち、記憶も思想もない思考は、一切が再び無関心へと落ち込んでゆく不可視なものの中で、既に戦っている。それこそが思考の深い苦しみだ。思考が友愛に同伴するのは忘却の中でなければならない。(ブランショMaurice Blanchot, L'Amitié)

まあしかし
平気で友だちと「つながる」とか「連帯」などと言っていて
いや違う意味だなどと言われてもね
その「連帯」が次のようなものであったなら別だが

「哲学は何の役に立つのか?」と問う人には、次のように答えなければならない。自由な人間の姿を作ること。権力を安定させるために神話と魂の動揺を必要とするすべての者を告発すること、たったそれだけのこととはいえ、いったい他の何がそれに関心をもつというのか。(ドゥルーズ『意味の論理学』)

ものわかりのいい振りをして
彼らにもそれなりの立場・考え方があるんだから云々
っていっているヤツは

反・反戦も反・反原発も反・反レイシズムも反・反秘密保護法も、逆張り自意識過剰野郎はみんな地獄に落ちろ。(佐々木中11/20ツイート)

《なにひとつまっとうな人間としてものを考えようとしないやつらは、
生きてても目ざわりになるから首でもくくって死ね、
そうすれば皮でもはいで肉を犬にでもくれてやる、
と思ったのだった。》(中上健次『鳥のように獣のように』)

だな

あのSの挑発に仮に落度があるにしろ
こんなふうに「連帯」などという語句を使用する
「有能」らしき研究者はやはりニブイ、ハシタナイ
というよりほかないな

本来連帯すべきなのに、つまらない自意識を立てて、あえて悪者ぶって関係者間に無駄な消耗を引き起こす必要はまったくない。そういう「夜戦」はいらない。同世代の連帯を妨げる目障りな言動は、「上の世代」によって大事にされた結果できた「可愛いボク」を守るためのものなのか。甘えるな。(「人は文なり」の時代

ディドロの研究者らしいがね
読んだことがなくて残念だ

【瞞着Mystification】もっぱらこっけい味のある欺瞞を指すものとして、リベルタン精神の横溢する十八世紀のフランスにあらわれた、それ自体おもしろおかしい(神秘〔ミステール〕という言葉に由来する)新語。ディドロはとてつもない悪ふざけをたくらんで、クロワマール侯爵に、ある不幸な若い修道女が彼の保護を求めていると、まんまと信じこませてしまうが、このときディドロは四十七歳。数ヶ月のあいだ、彼はすっかり感動した侯爵に宛てて、実在しないこの女のサイン入りの手紙を書き送る。『修道女』――瞞着の果実。ディドロと彼の世紀とを愛するための、さらなる理由。瞞着とは、世間を真に受けぬための積極的な方法である。(クンデラ「七十三語」(『小説の精神』)所収)

もっともニーチェ曰くは次のようだから
ここから「友愛」や「連帯」という語の別の使用法もあるのだろうが

悪者。――「孤独な者だけが悪い!」と、ディドロが叫んだ。そこで直ちにルソーは致命傷を受けた感じがした。それ故に彼はディドロが正しいことを承認した。実際すべての悪い傾向は、社会や交際の真中できわめて自制し、極めて多くの仮面を前に当て、しばしば自分自身を徳というプロクルステスの寝台に横たえなければならないので、われわれは全く悪の殉教について語ることができるほどである。孤独の場合にはこういう一切のことは無くなってしまう。悪い者は、孤独において最も多く、また最もすぐれて悪いのである。――したがって、いたるところにお芝居だけを見てとる者の眼によっては、やはり最も見事に悪いのである。(ニーチェ『曙光』499番)

何かに脅えたり深刻そうに悩むといった
妙にせっぱつまった表情とはまるで無縁の晴れがましい顔つきで
連帯などと口にするあの連中

彼らの身がまえる表情がそのときばかりは妙に真剣なので
それをあからさまに無視するのも何か気がひけてしまうのだが
たぶん善意にほどよく湿っているのであろう瞳をこらして
見えない悪意をじっと見すえている仕草はなかなか堂に入っていて
まんざらの冗談とも思えず
ついついそれほどのことならひとつ連中とつきあってみようかとも思ってしまう

それも無理からぬ話らしい
そうだな、「甘えるな」につきあってみたぜ


罠と呼ばれるにふさわしいほど邪悪な装置が仕掛けられているわけでもないのに、どこかに身を潜めた悪意といったものがまるで罠としか思えない装置を思いのままに操作していて、いたるところで思考だの身振りだのからしなやかさを奪っているのだと信じねば気のすまぬ連中というのがどんな世界にも存在していて、そのことじたいは、彼らが孤独にそう信じて思い悩んでいるかぎりどうということはないのだが、しかし現実には、何かに脅えたり深刻そうに悩むといった妙にせっぱつまった表情とはまるで無縁の晴れがましい顔つきで連帯などと口にするその連中が、そのありもしない罠に向かって自分だけは罠にはまるまいといっせいに身がまえたりするし、そんなありさまをいささかの距離をおいてながめている者たちも、彼らの身がまえる表情がそのときばかりは妙に真剣なので、それをあからさまに無視するのも何か気がひけてしまうのだが、たぶん善意にほどよく湿っているのであろう瞳をこらして見えない悪意をじっと見すえている仕草はなかなか堂に入っていて、まんざらの冗談とも思えず、ついついそれほどのことならひとつ連中とつきあってみようかとも思ってしまうものがでてくるのも無理からぬ話だ。(蓮實重彦「倒錯者の「戦略」」『表層批判宣言』所収)