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2013年12月17日火曜日

プラトンとフロイトの野生の馬

……魂の似すがたを、翼を持った一組の馬と、その手綱をとる翼を持った馭者とが、一体になってはたらく力であるというふうに、思いうかべよう。――神々の場合は、その馬と馭者とは、それ自身の性質も、またその血すじからいっても、すべて善きものばかりであるが、神以外のものにおいては、善いものと悪いものとがまじり合っている。そして、われわれ人間の場合、まず第一に、馭者が手綱をとるのは二頭の馬であること、しかもつぎに、彼の一頭の馬のほうは、資質も血すじも、美しく善い馬であるけれども、もう一頭のほうは、資質も血すじも、これと反対の性格であること、これらの理由によって、われわれ人間にあっては、馭者の仕事はどうしても困難となり、厄介なものとならざるをえないのである。(プラトン『パイドロス』)





いわゆるプラトンの「魂の三区分説」を説く箇所のひとつだが、ほかにも『国家』では<知を愛する人>、<勝利を愛する人>、<利得を愛する人>、あるいは、理(ロゴス)を知る「理性的部分」、怒りや情熱をおぼえる部分「気概的部分」、飢えや金銭欲感じる部分「欲望的部分」と区分けされる。

馭者が「ロゴス」、美しい馬は白い馬ともされ「気概」、醜い馬は黒い馬で「欲望」ということにもなる。

ここでの白い馬、「気概的部分」というのが曲者で、実は欲望的部分と同じではないか、として二分説をとる者がいるかといえば(ペナー)、気概的部分をさらにふたつに分けて「気高い気概」と「低級な気概」として四分説とする解釈もある(クレイグ)。

『国家』の英訳をいくつか見比べると、「気概」は、Thumos, Passion,Spiritと訳されている。日本語でいえば根性、情熱、闘志などという訳語を思い浮かべてもよいだろう。

ところで、フロイトの『自我とエス』には似たような野生の馬の比喩がある。

自我は、われわれが理性または分別と名づけるものを代表し、情熱をふくむエスに対立している》とされたあと、次の文があらわれる。

自我の、エスにたいする関係は、奔馬を統御する騎手に比較される。騎手はこれを自分の力で行なうが、自我はかくれた力で行う、という相違がある。この比較をつづけると、騎手が馬から落ちたくなければ、しばしば馬の行こうとするほうに進むしかないように、自我もエスの意志を、あたかもそれが自分の意志ででもあるかのように、実行にうつすことがある。(『自我とエス』著作集6 人文書院  p274 ―――同じ比喩が『夢判断』のなかにもある)

ここで「自我はかくれた力で行う」とあり、フロイト理論では、理性の力のみでは奔馬を飼いならすことが不可能なのだ。

ところで「かくれた力」とはなんなのだろうか。『自我とエス』では上の叙述のあと、しばらくして「自我理想」あるいは「超自我」という語が出てくる(なお、フロイトの自我理想と超自我をほぼ等しいものとする叙述に反して、ラカンージジェクはこのふたつをはっきりと分けている。ジジェクによれば自我理想は象徴界、超自我は現実界の審級に属する)。

《自我はその超自我のために、またその依頼によって抑圧を行なうのだが、この場合は、自我がおなじ武器を、その主人にむけている。》あるいは、《正常な人間は、自分で考えているよりもはるかに反道徳的であるだけでなく、自分が知っているよりもはるかに道徳的である》と、考えている/知っているという多くの者を悩ました表現(後述)のあと、次のようにある。

エスはまったく無道徳であり、自我は道徳的であるように努力し、超自我は、過度に道徳的で、エスに似て非常に残酷になる可能性がある。人間が外部にむかう攻撃を抑制すればするほど、その自我理想の中では、ますます厳格になり、攻撃的になるということは注目に値する。(……)人間がその攻撃を統御すればするだけ、その自我理想にたいする攻撃欲動は昂進する。(同 p296)

こうしてフロイト的には、自我は理性または分別と名づけるものを代表し、情熱をふくむエスに対立しているにもかかわらず、エスを飼いならすには超自我の助けがなくてはならず、その超自我もときと場合によれば、残酷な振舞いをする。

プラトンの「理性的部分」(馭者)、「欲望的部分」(黒い馬)、「気概的部分」(白い馬)はフロイトによってこのように再構築されているのだ。

もっともプラトンの「欲望」は、単純にフロイトの「欲望」と同じように捉えてはならないだろう。フロイトにとっての欲望は一神教的父権制社会の禁止によって生じる「欲望」の意味が強く、多神教的なギリシャでは、むしろ禁止のないところにある、禁止の彼岸にある「欲動」として捉えるべきだろう。ギリシャ人は欲動の節制(自己陶冶)を教え、一神教は欲望を(さえ)禁止する。ギリシャに学んだ『性の歴史』におけるフーコーの克己enkrateia、節制sophrosyneは、精神分析的文脈においては欲動に対するもので欲望に対するものではないとポール・ヴェルハーゲはしている(Paul Verhaeghe『THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』)。

ラカンが欲望を説明するときのひとつとして引用する聖パウロの「ローマの信徒への手紙」は次のようなものだ。
では、どういうことになるのか。
律法は罪であろうか。決してそうではない。
しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。
たとえば、律法が「むさぼるな」と言わなかったら、
わたしはむさぼりを知らなかったでしょう。
ところが、罪は掟によって機会を得、
あらゆる種類のむさぼりをわたしの内に起こしました。
律法がなければ罪は死んでいるのです。
(ローマの信徒への手紙7章7、8節)

「律法」の禁止によって初めて「むさぼり」を知るというのが、フロイトーラカンの欲望である。


他方、欲動については、後期フロイトの「死の欲動」概念や、ギリシャに拘ったフロイトのエロス/タナトスにおける二項対立におけるタナトスなどを想起もできようがこれはいろいろな見解があるのでここでは触れない。むしろ前期フロイトの自己保存欲動/性欲動(リビドー)におけるリビドーがプラトンの欲望(=欲動)に限りなく近いのではないか。

フーコーの克己や節制とは、欲動への内なる隷属にたいする自由を意味しているのであり、欲望に対してではない(ポール・ヴェルハーゲによる)。

さて少し前に戻って、プラトンの「理性的部分」(馭者)、「欲望的部分」(黒い馬)、「気概的部分」(白い馬)はフロイトによって「自我」「エス」「超自我」と再構築されたとしたが、これはなにもフロイトだけの手柄ではないのであり、ほぼ同時代人のニーチェの理知的なアポロンと享楽的なディオニソスやら、力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる、というニーチェの考えはフロイトの「超自我」や「死の欲動」につながる。

さらにはカントの理性の欲動、つまりカントにとって、《感覚や感情が犯す誤謬などは高が知れていて、理性そのものが犯す誤謬こそが問題だった。理性のやみがたい欲動を何とか抑制するのがカントの「批判」》(柄谷行人)にもフロイトの考えの起源のひとつがある。

・みずからのぎりぎりの信念に対しても、「心があらかじめ偏して」いる可能性を留保し、したがって、自らのどんな「正当化の根拠」をも警戒する究極の底にある態度

・きわめて積極的な貴重な本来の「知恵」あるいは、みずからをみずからたらめる ratio (理性 - 根拠)をもあえて疑問に付し、夢とうつつの区別すらさだかでなくなる無定形な不安のうちにたゆたうことをあえてする、もっともラディカルな思考のあらわれ(坂部恵『理性の不安』

※上に引用されたフロイトの『自我とエス』における「考えている/知っているという多くの者を悩ました表現」をめぐるジジェクの説明。

……無意識は野蛮で無法な欲動の「貯水池」であるという通常の考え方は捨てなければならない。無意識は同時に(何よりもまず、とすら言いたくなる)、外傷的で、残酷で、気まぐれで、「理解できない」、「不合理な」、法のテクスト、すなわち一連の禁止と命令の、断片の集積でもある。いいかえれば、「正常な人間は、自分で考えているよりもはるかに反道徳的であるだけでなく、自分が知っているよりもはるかに道徳的である、という逆説的な命題を提出」しなければならないのである。これは『自我とエス』からの引用だが、この「考えている」と「知っている」の区別は、正確には何を意味しているのだろうか。まるでちょっと筆が滑っただけのように見えるし、実際、この部分に添えられた註ではこの区別は失われている。その註において、フロイトは次のように述べているーーこの命題は「たんに、人間の性質は、善に関しても悪に関しても、自分で考えているglaubtよりも、つまり自我がその意識的知覚を通して気づいているよりも、はるかに程度が大きい」ということを言っているのだ、と。ラカンはわれわれに教えてくれたーーこのように一瞬あらわれてはその後すぐに忘れられる区別には最大限の注意を払わなければならない、なぜならそれらを通して、フロイトの決定的に重要な洞察を探り当てることができるからだ、フロイト自信はその洞察の重大な意義に気づいていないのだ、と(一例だけ挙げるならば、ラカンが、これと同様の、自我理想と理想自我との「口がすべったかのような」区別から何を引き出したかを思い出してみようではないか)。

では、「考えている」と「知っている」との束の間の区別は何を意味しているのか。結局のところ、答えは一つしかない。もし人間が、自分が(意識的に)考えているよりも反道徳的で、(意識的に)知っているよりも道徳的だとしたら、いいかえれば、もしエス(禁じられた欲動)に対する彼の関係が「考えている(考えていない)」という関係で、超自我(とその外傷的な禁止と命令)に対する関係が「知っている(知らない)」という関係、つまり無知の関係だとしたら、次のように結論しなけらばならないのではなかろうか。すなわち、エスそのものは抑圧された無意識的な考えからなり、超自我は無意識的な知からなる(その知は、主体の知らない逆説的な知である)、と。すでに見たように、フロイト自身は超自我を一種の知と見なしている(「超自我は無意識的なエスについて自我よりも多くを知っている」)。(ジジェク『斜めから見る』)


…………

さて、プラトンの白い馬としての「気概」をどのように捉えるかは、わたくしにはいまだ判然としていない。ただ近代人の特徴は「気概」の過小評価、あるいは欠如があるとの評言はいままでくり返して流通してきただろう。ニーチェもフーコーもそれに苛立っていたに相違ない。

実際、気概というのかスピリットがなければ、理性が判断した考えを行動に移せない。ひどく理知的であっても見て見ないふりができる。逃げ出したり、高みの見物に耽る。他方、すべてのパフォーマー(戦士、運動家、踊り手、演奏者や講演者、あるいは対談者でさえ)は「気概」の能力のいかんが成否の多くを決定するだろう。

そしてそこにニーチェやハイデガーの生の哲学、ファシズムの臭いを嗅ぎだし、二〇世紀後半以降、気概、スピリットはことさら抑圧されたとしてよいのかもしれない。

・・・われわれの疑問は、たとえば「生の肯定」、「生の蕩尽」としてカーニバル的にあらわれたものが必ずファシズムに転化するのはなぜかということだ。ニーチェやベルグソンはファシストではないといってもはじまらない。もはや純粋なカーニバルなどありえないように、純粋な「生の哲学」もありえない。それはいったん歴史的な文脈に存在するやいなや、思いもよらぬ反転や置換を強いられるのだ。本当は、「暴力的なもの」は《近代》に出現するのだといってもよい。・・・(柄谷行人『歴史と反復』)

あるいはまた、チェーザレ・ボルジアを至高の君主としたマキャベリの運(ファルトゥナfortuna)/力(ヴィルトゥVirtù)のヴィルトゥは気概のことだ。

善とは何か? ――権力の感情を、権力への意志を、権力自身において高めるすべてのもの。
劣悪とは何か? ――弱さから由来するすべてのもの。
幸福とは何か? ――権力が生長するということの、抵抗が超克されるということの感情。
満足ではなくて、より以上の権力。総じて平和ではなくて、戦い。徳ではなくて、有能性(ルネッサンス式の徳、Virtù 道徳に拘束されない徳)。(ニーチェ『反キリスト者』)

フロイトやラカンを読んでいても、この「気概」への導きの糸がいささかすくなく (攻撃欲動にかかわるタナトス、あるいは”passage à act”くらいか?)、憂鬱になることがある。ときにニーチェのビタミン剤を飲む必要がでてくる。

※おそらくフロイトなら、気概などというものはない、自我理想への同一化によるだけだ、と言うのだろう(象徴的な権威としての「自我理想」であり、それは人物像だけではなく、社会の理念、家族の理念であってもよい)。


《ぼくの意見では、ラカンは十分に滑空しなかったんだな》、生の寄生者さ、フロイト? ラカンよりいっそうフロイトの天性の資質だよ……

「男と女のあいだは、うまくいかんもんだよ」、ファルスは始終それを繰り返していた…これは彼の教義の隅石だった。彼はそれをいつまでも声高に主張していた…彼が自分の後で根本的動揺をいだく者がもうひとりもいないことを望んでいたのを思えば、享楽の没収、享楽は結局何にもならないということの証明…だが、それが「うまくいく」ようにできていると言った者がかつていたのだろうか? 面白いのは、そいつが時どき期待を裏切ることができるってことだ…吹っ飛んでしまう前に…もっとも、それがひと度ほんとうに期待を裏切ったとしたら、そいつはとにかく少しはうまくいっている…憎しみのこもった固着に至り着くのでなければ…でもそれだって避けることはできる…ぼくの意見では、ファルスは十分に滑空しなかったんだな…かれはそのことでまいっていたのだと思う…どんな女も彼の解剖学にしびれなかったのだろうか? そうかもしれない…実際にはちがう…気違いじみてもいなかった…後になって「うまくいっている」か、いってないかってことが彼にとってどうでもよくなるには十分じゃなかった…そこから他者たちの生の寄生者たる彼の天性がもたらされる…大いなる天性だ…浸透し、干渉し、妨害し、どこに不一致があるか目星をつけ、そこに居座り、駆り立て、穿ち、悪化させること…ファルスがぼくたちの家でぐずぐずしていたそのやり方のことをぼくはもう一度考えてみる…眼鏡越しにデボラに注がれる彼の長い眼差し…見下げ果てた野郎だ…それは痛ましかった、それだけだ…(ソレルス『女たち』p183)

《法に抑えられていた力が暴発するのではない、力が自由に発揮されるところで自分自身を矯めるのだ》というフーコーの節度と克己はラカンやフロイトにはないね

フーコーの死後、その自室から性具・猿ぐつわ等のSM性癖関係の拘束具が数多く出てきたことが伝えられている(出典:ギベール著『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』訳者あとがき)。
さっき、ディシプリンによって生み出される自律は、内面化された他律としての自律でしかない、と言った。そこでのパラダイムはカントだけれど、それはサドと背中合わせになっている。いわば法と侵犯という図式で、法の絶対性とそれを侵犯することの絶対性が見合うようになっているわけです。ところが、キリスト教以前の古代ギリシア・ローマには、性の問題に関しても、そういう厳格な法はほとんどない。法のないところで、自分が好きなことをして、しかし行き過ぎると自分にとってもおぞましい結果になってしまうから、自ずと程を得たところに行き着く、それが自律だと言っているわけです。法に抑えられていた力が暴発するのではない、力が自由に発揮されるところで自分自身を矯めるのだ、と。

ずいぶんきれいごとめいて聞こえますが、フーコーはハードゲイSMの実践者で、晩年はとくにアメリカのゲイ・コミュニティにひかれていったんですね。SMというのはまさに法に対する侵犯でめちゃくちゃなことをやっているように思えるけれど、それはヨーロッパのキリスト教国でのイメージ、まさにカント/サド図式にそったイメージでしかない。そういう禁止から解放されたところでは、好き放題やれるわけだけれど、フィスト・ファックとかもやっているわけだから、本当に好き放題やったら死んじゃう(笑)、むしろ、だからこそ、非常に繊細な自他への配慮、苦痛を与えることがお互いにとって快楽になるようなある種の技術というのが必要になるわけです。たぶん、フーコーは、そういう現代のアメリカと古代のギリシア・ローマを結びつけながら、自律――しかも他律(法)の内面化ではない自律を考えようとしていたのではないか。(浅田彰『不安から自律へ』)


…………





◆以下、資料。

1、多くの読み手が頭を悩ます「気概」の箇所をプラトンの『国家』(藤沢令夫訳)から。


「ところで、人がのどは渇いているけれども、飲むことを望まないという場合も時にはあると、われわれは言うべきだろうか?」

「ええ、それはもう」と彼は答えた、「たくさんの人たちが何度もそういう経験をすると言うべきでしょう」

「すると、そういう人たちについてどのようなことが言えるだろうか」とぼくは言った、「その人たちの魂のなかには、飲むことを命じるものがあるとともに、他方では、それを禁止するもうひとつの別のものがあって、飲むことを命じるものを制圧していると言うべきではないだろうか?」(……)
「そして、そのような行為を禁止する要因が発動する場合には、それは理を知るはたらきから生じて来るのであり、他方、そのほうへ駆り立て引きずって行く諸要因は、さまざまな身体条件や病的状態を通じて生じて来るのではないだろうか?」

「そうすると……されわれがこう主張するのは、けっしていわれのないことではないというべきだろうーーすなわち、それらは互いに異なった二つの別の要素であって、一方の、魂がそれによって理を知るところのものは、魂のなかの<理知的部分>と呼ばれるべきであり、他方、魂がそれによって恋し、飢え、渇き、その他もろもろの欲望を感じて興奮するところのものは、魂のなかの非理知的な<欲望的部分>であり、さまざまの充足と快楽の親しい仲間であると呼ばれるのがふさわしい、と」

(……)「こうした二つのはたらきが、魂のなかに内在する二つの種類の要素として、われわれによって区別されて確認されたことにしよう。そこでこんどは気概、すなわち、われわれがそれによって憤慨するところのものだが、いったいこれは第三の要素なのだろうか、それとも、先の二つのどちらかと同種族のものなのだろうか?」

「おそらくは」と彼は言った、「その一方、すなわち<欲望的部分>と同種族のものでしょう」
「しかしね」とぼくは言った、「いつかぼくはある話を聞いたことがあって、それを信じているのだよ。それによると、アグライオンの子レオンティオスがペイライエウスから、北の城壁の外側に沿ってやって来る途中、処刑吏のそばに屍体が横たわっているのに気づき、見たいという欲望にとらえられると同時に、他方では嫌惡の気持がはたらいて、身をひるがそうとした。そしてしばらくは、そうやって心の中で闘いながら顔をおおっていたが、ついに欲望に打ち負かされて、目をかっと見開き、屍体のところへ駆け寄ってこう叫んだというのだ。「さあお前たち、呪われたやつらめ、この美しい観物を堪能するまで味わうがよい!』」

(……)「この話は間違いなく」とぼくは言った、「怒りは時によって欲望と戦うとことがあり、この戦い合うものどうしは互いに別のものであることを示している」(439c-440A)
……気概ということならば、子供たちのなかにもそれを見ることができますからね。すなわち子供でも、生れるとすぐ気概には充ち充ちていますが、理を知るはたらきとなると、ある者たちはいつまでもそれに無縁であるようにさえ思われますし、多くの者はずっと遅くなってからそれを身につけるように思われます(441B)



2、「魂の三分説」を説く箇所のひとつ

魂のひとつの部分は、人間がそれによって物を学ぶところの部分であり、もうひとつは、それによって気概にかられるところの部分であった。そして第三の部分は、多くの姿をとるために、それに固有であるような単一の名前でこれを呼ぶことができずに、それ自身のなかにある最も主要で最も強いものを、この部分の名前として当てることにした。すなわち、われわれはこの部分を、食物や飲み物や性愛やその他それに準ずるものに対する欲望のはげしさにもとづいて、欲望的部分と呼んだのであった。また金銭を愛する部分とも呼んだが、これは、その種の欲望が何よりも金の力によって遂げられるからである。(……)

そうするとまた、この部分がもつ快楽と愛は利得を目ざしているというふうに言うならば、われわれは議論のうえで、これを最もうまく一つの特性に確実にまとめ上げることができて、魂のこの部分を語るときに、その意味がわれわれ自身に明らかになるのではないだろうか。そして呼び名としては、これを<金銭を愛する部分>とか<利得を愛する部分>とか呼ぶなら、正しい呼び方になるのではなかろうか?(……)

ではどうだろう、――<気概の部分>については、その全体がつねに、支配し勝利し名声を得ることへと突き進むのだと、われわれは言うのではないか(……)

だからそれを<勝利を愛する部分>とか<名誉を愛する部分>とか呼べば、ふさわしい呼び方になるのではなかろうか?(……)

さらにまた、われわれがそれによって物を学ぶところの部分については、誰にも明らかなように、その全体がつねに、真実がいかにあるかを知ることへと向かっていて、金銭や評判のことなどには、三つの部分のうち最も関心をもたない部分なのだ(……)

したがって、これを<学びを愛する部分>とか<知を愛する部分>とか呼べば、当を得た呼び方となあるだろうね?(……)

そしてまた……ある人びとの魂の内では、この部分が支配しているが、別のある人々の魂の内では、他の二つの部分のどちらかが支配するのではないか。そのときどきの事情によってね(……)

それゆえにこそ、われわれはまた人間の最も基本的な分類として、<知を愛する人>、<勝利を愛する人>、<利得を愛する人>、という三つの種類があると言うのではないかね?(580D-581C)
気概の部分についても、(……)もし人が理知と知性に従うことなく、名誉と勝利と怒りによる充足のみを追い求めながら、名誉への野心に駆られるときには妬み心によって、勝利への渇望に駆られるときには力の行使によって、怒りっぽい不満に駆られるときには怒り狂うことによって、この気概の部分そのものの欲求を遂げさせるとしたならば?(……)

それならば、どうだろう……われわれは、心安んじて次のように言うべきではないだろうかーーすなわち、利得を愛する部分にしても勝利を愛する部分にしても、もしこれらの部分がもつ欲望が知識と道理の導きに従って、後者と共々に快楽を追い求めながら、知的部分が命じるような快楽だけを取るとしたならば、その場合それらの欲望は、ほかならぬ真理に従っているわけであるから、そうした欲望にとって把握が可能なかぎりでの、最も真実な快楽をとらえることになるだろうと? またさらに、それらの欲望自身に本来ふさわしい快楽をとらえることになるとも、言うべきではなかろうか? いやしくも、それぞれにとって最も善きものはまた、最もふさわしいものであるとするならばね(……)

してみると、魂の全体が知を愛する部分の導きに従っていて、そこに内部分裂がないような場合には、それぞれの部分は、一般に他の事柄に関しても、自己自身の仕事と任務を果しつつ、<正しくある>ことができるとともに、とくに快楽に関しても、それぞれが自己本来の快楽、最もすぐれた快楽、そして可能なかぎりでの最も真実な快楽を、享受することができるのだ(……)

したがってまた、逆に、他の二つの部分のどちらかが支配権をにぎるような場合には、その部分自身が自己本来の快楽を見出すことができないだけでなく、その他の部分に対しても自己本来のものではなくまた真実でない快楽を、追い求めるように強いることになるわけだ(586D-587A)


アランの「四つの徳」に引き続く。