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2013年12月3日火曜日

トラウマを飼い馴らす音楽

ラップミュージックの誕生の場は196070年代、アメリカニューヨークでみられたブロック・パーティーだというのが通説である。ラカン派精神分析医のPaul Verhaegheは、このラップをベトナム戦争に参戦してトラウマを負ったアメリカ黒人兵のグループが、その心的外傷に対処するために生まれたものとしている。

次の英文は、個人的な備忘として附記する。読み飛ばしてもらっていい。

in the case of the Vietnam soldiers it often occurred after their always individual—and therefore isolated—return from their tour of duty. Separated from the group and the rules of the group, they were confronted with what retrospectively became traumatic. In popular terminology, they were 'haunted by images and memories.' But this expression is not correct— the veterans were actually haunted by the impossibility of expressing 'it' in words and images. It was the unimagin-able that continued to persecute them in a real way. A traumatised person does not remember the trauma, but experiences it over and over again.
The result is now widely known as rap music. The drive lies on the boundary between the body and the mind, between immediate wordlessness and its representation, the element that cannot or can hardly be expressed, and that operates in a shadow zone. Rap is, in its origin, a primitive primal attempt at mastery through a first step towards symbolisation. The primitive element lies in the choice of the rhythm, subordinating unprocessed pieces of jouissance to rhythmic shouting in a group, for the group, by the group, thus actively creating an ecstatic enthusiasm, one that, moreover, allows for a return of the ego. It is precisely because this active rhythm breaks through the timeless, unmediated aspect of jouissance and announces the return of the self, that it is so effective.(“Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe)

いまでは商業化したラップがほとんどなのかもしれないが、詳しいことは分らない。

欲望は個人的なものであり、享楽はエゴの消滅にかかわる、という文脈で語られている。ラップは、言葉に出来ない原初の心的外傷の過剰を、リズムと叫び、そのエクスタシー的熱狂によって'、治療としてのL'efficacite symbolique'. 「象徴的効果」(レヴィ=ストロース)を生みだす。

シャーマンは,その患者にいい表されず,またほかにいい表しようのない諸状態が,それによって直ちに表されることができるような言葉をあたえるのである。そして,生理過程の解放,すなわち患者がその進行に悩んでいた一連の過程の好ましい方向への再組織をひき起こすのは,この言語表現への移行である」(レヴィ=ストロース『構造人類学』)


レヴィ=ストロースは「言語表現」としているが、ラップでは、歌詞ではなく、リズムでありとりわけ韻による再組織化ということになるのだろう。


Verhaegheは過去の音楽と対比して、ブルースが欲望に関係し、ジャズが欲動を刺激し、ラップが野生の馬である不気味な享楽を飼い馴らすものとしている。

With rap, the Vietnam groups—peer groups, that is to say, fatherless groups—intuitively discovered this way of working through their trauma. The comparison with previous musical currents reveals changes from the past to the present: what rap does for jouissance, the blues did for desire. Desire relates to the individual, the intensified sense of self that sings out its impotence, and therefore its shortcomings, in long drawn-out tones. Jazz anticipates the drive and requires more processing. Rap is an attempt at dealing with the excess. On the fringe of this collective processing, the members developed a group identity. It is not surprising that they were popularly known as 'the brothers'. Consequently every member could distil his own identity, his own ego, from this group. Group identity essentially megns rules, and therefore security. Every group is concerned with regulating jouissance. (“Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe)

これはいささか単純化されすぎている見解だとはいえ、とても示唆あふれる指摘であり、なにもブルース、ジャズ、ラップだけの話ではないだろう。すべての芸術作品の享受にこういった区別がありうる。もちろん同じ作品でも受け手によって、欲望のレベル、欲動(享楽)のレベルとして享受されうるだろうが、その観点はここでは省いて、話を単純化して進める。

なお、欲望と欲動の相違は、「資料:欲望と欲動」にやや詳しい。欲動と享楽の関連は、後ほど資料をつけ加える。いまはほぼ同じものとして話を進める。


①欲望(快楽)のための作品
②欲動(享楽)を刺激する作品
③享楽(トラウマ)を飼い馴らす作品

①以前に、おそらく慰安の作品、カタルシスの作品というものがあるのかもしれないが、それは場合によって③と重なるのかもしれない。ようするにポストモダンがプレモダンと外見上区別がつかない場合が多いように、行進曲やウインナーワルツの類は、①とは単純に言い難く、もしこのみっつの範疇のどれかでないなら、①以前のゼロという項目が必要である。


いや、昨日、結婚式に招かれて、ヴェルディを歌ってきたのだけれど、あれはカタルシスだな、かなりウケがよかったぜ(自慢じゃないがオレはもともと合唱団員で、かつてはバリトンの美声で?、いまは美声の凋落は激しいが、まだやたらにでかい腹式呼吸の声はでる)。



息子にギターで伴奏してもらったのだが、もちろんキーはだいぶ落としてね。

さきほど、①以前のゼロの項目としたが、これは軽蔑的に語っているのではなく、ニーチェの言葉を想いだして書いている。このニーチェの叙述からすれば、欲望の領域にあるといっていいのかもしれない。くり返せば、この仮定は、とりあえずのものであり、それぞれの音楽には、三つの領域の要素がその多寡は別にしてそれぞれあるだろう。

――なおひとこと、選り抜きの耳をもつ人々のために言っておこう、わたしが本来音楽に何を求めているかを。それは、音楽が十月のある日の午後のように晴れやかで深いことである。音楽が独特で、放恣で、情愛ふかく、愛想のよさと優雅さを兼ねそなえた小柄のかわいい女であることである。……わたしは、ドイツ人が音楽とは何かであるかを知りうる力のあることを、断じて認めないだろう。世にドイツの音楽家と呼ばれている者たち、とくにその最大の者たちはみな外国人だ。スラヴ人、クロアチア人、イタリア人、オランダ人――もしくはユダヤ人である。そうでなければ、協力な種族に属するドイツ人、いまは死に絶えたドイツ人、たとえばハインリヒ・シュッツ、バッハ、ヘンデルなどである。わたし自身は、依然としてポーランド人であることが抜けきらないので、ショパンを残すためには他の音楽を全部放棄してもよいという気持はある。ただし、三つの理由から、ワーグナーのジークフリート牧歌は例外としたい。おそらくはまた、すべての音楽家にまさって高貴なオーケストラ的アクセントをもつリストの作若干をも例外としよう。なお最後に、アルプスのあちら側でーー(いまのわたしから言えば)こちら側でーー育った音楽一切も、そのなかに加えよう……わたしは、ロッシーニなしではすまされまい、……(ニーチェ『この人を見よ』(手塚富雄訳)

わたくしはヴェルディなしではすまされない、としておく。



さて話を元に戻せば、たとえば中井久夫が次のように書くとき、どうなるのだろう。

二十世紀をもっとも大きく動かした詩は結局、フランス詩のポール・ヴァレリー( 1871-1945年)の「若きパルク」『魅惑』の一対、ドイツ詩のライナー・マリア・リルケ(1875-1926年)の『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』の一対、そして英詩のT・S・エリオット(1888-1965年)の『荒地』に落ちつくかと私は思う。

これらの詩は一九二二年を中心とするごく狭い時期に出ている。「若きパルク」だけは一七年春に刊行されたが、この詩人が世に広く知られるのは一九年である。二二年は『魅惑』『荒地』との刊行の年である。翌二三年早々に『ドゥイノの悲歌』『オルフォイスへのソネット』が伝説的な短期間で完成する。

これらの詩は成立の時間が近いだけではなく、互いに密接な関係にある。「若きパルク」『魅惑』の衝撃がリルケが書き悩んでいた『ドゥイノの悲歌』を完成させ、その傍らに『オルフォイスへのソネット』を生んだ。リルケは『魅惑』の独訳にその後の短い晩年の多くを費やすとともに、フランス語で詩作するようになる。エリオットの『荒地』だけは詩でなく十九年に英国の雑誌に掲載されたヴァレリーのエッセイ「精神の危機」と密接な関係にある。ともに西洋の精神的危機を正面からとりあげたものである。(中井久夫「私の三冊」)

①の欲望の詩が、ロマン派の時代の詩だとしたら、 ヴァレリー、リルケ、エリオットは、精神の危機のトラウマを刺激する詩人たち②ということになるだろう。


だが、次のようにパウル・ツェランの詩を「冥府からの途切れがちの声」とされるとき、享楽を飼い馴らすための詩③ということが言いうるだろうか。


「若きパルク」も『ドゥイノの悲歌』も、『荒地』でさえも、映像も言語も成人型の記憶のように動き流れていく。断絶や飛躍を越えて連続性がある。前後関係があり遠近がある。

これに対して、二十世紀後半の詩は孤立した鋭い断片であって、成人以前の記憶が禁止を破って突き上げてきた印象がある。このタイプの映像は幼い時の記憶だけでなく、たとえ成人であっても耐えがたい心の傷を負った時には、その記憶がとる形である。

たとえばパウル・ツェランの詩が痛ましさを以て迫るのは、その内容だけでなく詩句もそれが呼び起こす映像も外傷的記憶の形をとっているからであると私は思う。それはもはや冥府下りでなく、冥府からの途切れがちの声である。(同 中井久夫)

ツェランの詩は、ツェランのエゴが消滅して、なにかと一体化しているとすることが出来るだろうか。翻訳だから「冥府からの途切れがちの声」が聴きにくいということはある。

…………


死のフーガ          
                    パウル・ツェラン(1920~70)
                         飯吉光夫訳


夜明けの黒いミルクぼくらはそれを晩にのむ
ぼくらはそれを昼にのむ朝にのむぼくらはそれを夜にのむ
ぼくらはのむそしてのむ
ぼくらは宙に墓をほるそこなら寝るのにせまくない
ひとりの男が家にすむその男は蛇どもとたわむれるその男は書く
その男は書く暗くなるとドイツにあててきみの金色の髪マルガレーテ
かれはそう書くそして家のまえに出るすると星がきらめいているかれは
                        口笛を吹き犬どもをよびよせる
かれは口笛を吹きユダヤ人たちをそとへとよびだす地面に墓をほらせる
かれはぼくらに命じる奏でろさあダンスの曲だ

夜明けの黒いミルクぼくらはそれを夜にのむ
ぼくらはおまえを朝にのむ昼にのむぼくらはおまえを晩にのむ
ぼくらはのむそしてのむ
ひとりの男が家にすむそして蛇どもとたわむれるその男は書く
その男は書く暗くなるとドイツにあててきみの金色の髪マルガレーテ
きみの灰色の髪ズラミートぼくらは宙に墓をほるそこなら寝るのにせまく
                                        ない
かれは叫ぶもっとふかく地面をほれこっちのやつらそっちのやつら歌え
                                      奏でろ
かれはベルトの金具に手をのばすふりまわすかれの眼は青い
もっとふかくシャベルをいれろこっちのやつらそっちのやつら奏でろどん
                               どんダンスの曲だ

夜明けの黒いミルクぼくらはおまえを夜にのむ
ぼくらはおまえを昼にのむ朝にのむぼくらはおまえを晩にのむ
ぼくらはのむそしてのむ
ひとりの男がすむきみの金色の髪マルガレーテ
きみの灰色の髪ズラミートかれは蛇どもとたわむれる

かれは叫ぶもっと甘美に死を奏でろ死はドイツから来た名手
かれは叫ぶもっと暗くヴァイオリンをならせそうすればおまえらは煙となって宙へたちのぼ
 る
そうすればおまえらは雲のなかに墓をもてるそこなら寝るのにせまくない
夜明けの黒いミルクぼくらはおまえを夜にのむ
ぼくらはおまえを昼にのむ死はドイツから来た名手
ぼくらはおまえを晩にのむぼくらはのむそしてのむ

死はドイツから来た名手かれの目は青い
かれは鉛の弾できみを撃つかれはねらいたがわずきみを撃つ
ひとりの男が家にすむきみの金色の髪マルガレーテ
かれは犬どもをぼくらにけしかけるかれはぼくらに宙の墓を贈る
かれは蛇どもとたわむれるそして夢想にふける死はドイツから来た名手

きみの金色の髪マルガレーテ
きみの灰色の髪ズラミート


…………

まあそのあたりーーつまりツェランの詩をどうどらえるかーーの判断は各人にまかせる。

ただここは至高の③として、アルトーのグロソラリを想起せざるをえない。

regheghi
geghena
a reghena
a gegha
riri

といったアントナン・アルトーの言葉がそうした限界体験の一例であり、意味の生産機能をまったく欠いた獰猛な叫びをそのまま文字に置き換えたといった趣きのこのような言表は、挑発と秩序紊乱をめざしたダダの詩というよりもむしろ、「舌語〔グロソラリ〕」、すなわち宗教的恍惚状態や夢中遊行のただなかで人が洩らす意味不明の呟きの方にはあるかに近い何かだとと言うべきだろうが、こうした言葉に声を息遣いを貸し与えるとき、人はもはや何ものでもなくなってしまう。そこではもはや「わたし」は存続することができない。(松浦寿輝『官能の哲学』)

さて音楽の話に戻れば、たとえば欲動の刺激を望んでいるときに、欲望の音楽を聴かされたりしたら、我慢できないとか、あるいは享楽を飼い馴らそうとしているのに、欲動を刺激する音楽を聴かされたらたまらない、ということは、時と場合によってあるだろう。

たとえば徴候感覚の人(あるいは心的外傷感覚の人)古井由吉が、次のように書くとき、②から③への領域に移る狭間で、音楽を聴いているのではないか。

音楽こそ人生の苦悶の精華ではないか。どこかで血が流れていると、響きがいよいよ冴える。

ところがたった一人の恍惚者は果てた後の沈黙を心の静かさと取り違えて、祭司みたいな手つきでレコードを替えて塵を払い、また始める。これにはよほどの神経の鈍磨が必要だ。そうそう自らを固く戒めてきたはずなのに、近頃私はまた、夜中にステレオの前に坐りこんでレコードを取っ替え引っ替え回す悪癖に馴染んでしまった。 ただ、音の流れが跡切れると、間がもてない。音が消えたとたんに、自分を囲む空間のまとまりがつかないような、物がひとつひとつ荒涼とした素顔を見せて、私を中心にまとまるのを拒むような、そんな所在なさを覚える。

しかしさいわい、音楽と私とは、相変らず折合いが良くない。一節がこちらの身体の奥へすこしく深く響き入って来ると、私の神経はたちまちざわめき立ち、音楽のほうもなにか耳ざわりすれすれのところまで張りつめ、両者は互いを憎むことにならぬようあっさり別れる。(古井由吉『哀原』赤牛)

どの音楽がいいというのは、各人の育った環境や教養、あるいは性格類型などの影響もあるが、こういった面だってある。それはすべての芸術作品の享受にかかわるだろう。

いくらすぐれた作品でも、「めがね」が合わないということがあるものである。

私の読者たちというのは、私のつもりでは、私を読んでくれる人たちではなくて、彼ら自身を読む人たちなのであって、私の書物は、コンブレーのめがね屋が客にさしだす拡大鏡のような、一種の拡大鏡でしかない、つまり私の書物は、私がそれをさしだして、読者たちに、彼ら自身を読む手段を提供する、そういうものでしかないだろうから。したがって、私は彼らに私をほめるとかけなすとかいうことを求めるのではなくて、私の書いていることがたしかにその通りであるかどうか、彼らが自身のなかに読みとる言葉がたしかに私の書いた言葉であるかどうかを、私に告げることを求めるだけであろう(その点に関して、両者の意見に相違を来たすこともありうる、といってもそれは、かならずしも私がまちがっていたからそういうことが起こるとはかぎらないのであって、じつはときどきあることだが、その読者の目にとって、私の書物が、彼自身をよく読むことに適していない、ということから起こるのであろう)。(プルースト『見出された時』)

わたくしが音楽を聴くのは、主にクラッシック音楽と一部ジャズなのだが、①欲望(快楽)のための作品②欲動(享楽)を刺激する作品という相違は、ある程度自分のなかにはある。いまは何がどれで、どれがあれとは言わないが。

快楽plasirのテクスト。それは、満足させ、充実させ、快感を与えるもの。文化から生れ、それと縁を切らず、読書という快適な実践に結びついているもの。

悦楽jouissanceのテクスト。それは、忘我の状態に至らしめるもの、落胆させるもの(恐らく、退屈になるまでに)、読者の、歴史的、文化的、心理的土台、読者の趣味、価値、追憶の擬着を揺るがすもの、読者と言語活動を危機に陥れるもの。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)

わたくしにとっては、このロラン・バルトの①の快楽と②の悦楽(享楽)の相違が決定的だ。

あるいは。
美には傷以外の起源はない。どんな人もおのれのうちに保持し保存している傷、独異な、人によって異なる、隠れた、あるいは眼に見える傷、その人が世界を離れたくなったとき、短い、だが深い孤独にふけるためそこへと退却するあの傷以外には。(ジャン・ジュネ『アルベルト・ジャコメッティのアトリエ』宮川淳訳)

③の享楽を飼い馴らす音楽というのは、わたくしには、いまのところ幸か不幸か、たいして必要ない。①もわずかでよい。

わたくしは③を聴く耳をもたない、といってもいいのかもしれない。《正弦波同士が相殺しあって無音に聴こえるといった「知覚の機械学」》と語られるとき、③の享楽を飼い馴らす作品に近似したことをいっているのではないか、とは思う。

60年代のミニマル・ミュージックは、西洋楽器や民俗楽器で単純な音形を反復し、それらの重ね合わせがモワレ効果で意識をトリップに誘い込むといった「知覚の現象学」を追求したが、テクノミニマル・ミュージックは、正弦波や白色雑音[ホワイト・ノイズ]といったもっと基本的な要素を反復し、正弦波同士が相殺しあって無音に聴こえるといった「知覚の機械学」を追求する。それは20世紀音楽が最後に到達した文字通りの零度なのだ。》(浅田彰

…………

欲望、欲動、あるいは享楽の関係の資料を付記しておこう。

死の欲動は、主体における絶え間ない欲望に与えられた名前であり、快感原則を通り越して「物」に向かう、あるいは過剰な享楽に向かうものである。こういうわけで、享楽とは“死への道”(ラカン S17)である。欲動は享楽を求めて快原則のかなたに向おうとする点で、すべての欲動は死の欲動である。(An Introductory Dictionary of Lacanian Psychoanalysis  Dylan Evans 私訳)

一般に上のように、「絶え間ない欲望」が死の欲動とされる。だがこれはいささか誤解を招き易い表現であり、ここでジジェクの文を補完しておこう。

欲動と欲望の関係について、われわれは精神分析の倫理に関するラカンの有名な格言ーーー「自分の欲望を諦めてはいけない」---を少々修正してもよいだろう。欲望そのものはすでにある種の屈服、ある種の妥協形成物、換喩的置換、退却、手に負えない欲動に対する防衛なのではあるまいか。「欲望する」ということは、欲動に道を譲ることを意味する。アンティゴネーに従い、「自分の欲望を諦めない」かぎり、われわれは欲望の領域から外へと足を踏み出し、欲望の様相から欲動の様相へと移行するのではないか。(『斜めから見る』)


「欲望は防衛」とあるが、何を防衛するのか。エゴの消滅を怖れ防衛をするといってよい。

享楽とはまずは不安として現れる。ラカン的には不安は現実界に近すぎたときに生じるものであり、不安とはエゴの消滅にかかわり、エゴの消滅そのものが享楽の条件でもある。

ラカンによれば、不安は欲望の対象=原因が欠けているときに起るのではない。不安を引き起こすのは対象の欠如ではない。反対に、われわれが対象に近づきすぎて欠如そのものを失ってしまいそうな危険が、不安を引き起こすのだ。つまり、不安は欲望の消滅によってもたらされるのである。(ジジェク『斜めから見る』)

Leaving ourselves behind is the precondition for jouissance. The question is then—who or what enjoys the plea-sure here? It is the rule rather than the exception that for the ego, the very first appearance of this jouissance is nothing more than anxiety, the harbinger of one's own disappearance. I disappear, and being takes over. No wonder that jouissance is what the ego does not want. The price is ceasing to exist as an ego. The fact that this anxiety is transformed into ecstasy does not reduce the price to be paid. In this light, desire should be seen as a defence against the drive and jouissance.“Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe)
死の本能(欲動)を、仮面や 仮装との関係において理解すれば、 それで十分である。反復とは、 まことに、 構成されながら偽装されるもの、偽装されながらでなければ構成されないも のである。 (ドゥルーズ『差異と反復』)
reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, 『Ce que Lacan dit de l'être』 1999)――Zizek『LESS THAN NOTHIG』(2012)より孫引き)

 一番注意しなければならないのは、エロスとタナトスは対立概念ではないということだ。エロス、すなわち性の欲動、生きる欲動、タナトスは死の欲動とされるが、タナトスは死ぬ欲動ではない、ということだ。

フロイトの「死の欲動」( ……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動といわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(『ラカンはこう読め!』)

ドゥルーズは『マゾッホとサド』で次のように書く。

快感原則はすべてに支配権をふるいはするが、それを統禦するものではないというべきなのだ。快感原則に例外はないが、その原則には還元しがたり残滓が存在するのである。快感原則に逆らうものは何もないが、その原則の外部にあるもの、異質な何ものかーーつまり彼岸……が存在するということなのである。

続けて、《ここに到って、哲学的考察の必要性が明白なものになる》とし、
まず、一領域を統轄するものを人は原則と呼ぶ、その場合は、原則とは経験的な原理または法である。かくして快感原則は、<エス>にあって心的生活を統轄する(例外なしに)。だが、その領域を原則に従属せしめるものが何かを知ることは、まったく別の問題なのである。それとは違った別の原理、次元が一段上の原則が必要であり、それが、経験的原理へと領域が従属する必然性を説明することになるのだ。超越的とはこの別の原理のことである。快感は、心的生活を統轄する限りにおいて原則なのである。

ここでの別の原理が、すなわち「死の欲動」タナトスということになる。そして快感原則に従うものが、生の欲動、エロスということになる。

《欲望は<他者>からやってくる、そして享楽は<もの>の側にある》(ラカン)、あるいは《欲望はつねに享楽の禁止に繋がれており、欲望は<法>の側にある》(ミレール=ラカン)と言われるときの<法>とは、欲望は法の禁止があって初めて欲望としてあり、あるいは快感原則の文化的な<法>から縁を切っていないからである。


最後に、ジジェクがドゥルーズの見解に沿うようにして(ここでは『差異と反復』への言及だが)、eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment(Jouissance)と語る箇所をすこし長めに抜き出しておく(下記にMalabouが出てくるのは、この論はカトリーヌ・マラブー批判=吟味としてあるため)。――――Zizek Descartes and the Post-Traumatic Subject

ジジェクは、フロイトは自分自身の発見への誤解によりエロスとタナトスを対立的なものとしてみなした、と書いていることに注意。

Freud, taking Freud too (not literally, but) “hermeneutically,” not distinguishing between the true core of Freud's discovery and the different ways he himself misunderstood the scope of his own discovery. Malabou accepts his dualism of drives as it is formulated, ignoring those precise readings (from lacan to laplanche) which convincingly demonstrated that this dual-ism a false way out, a theoretical regression. so, ironically, when Malabou opposes Freud and Jung, emphasizing Freud's dualism of drives against Jung's monism of (desexualized) libido, she missed the crucial paradox: it is at this very point, when he resorts to the dualism of drives, that Freud is at his most Jungian, regressing to a pre-modern mythic agonism of opposite primordial cosmic forces. How, then, are we to grasp properly what eluded Freud and pushed him to take recourse in this dualism? When Malabou varies the motif that, for Freud, eros always relates to and encompasses its opposite other, the destructive death drive, she – following Freud's mislead-ing formulations – conceives this opposition as the conflict of two opposed forces, not, in a more proper sense, as the inherent self-blockade of the drive: “death drive” is not an opposite force with regard to libido, but a constitutive gap which makes drive distinct from instinct (significantly, Malabou prefers translating Trieb as “instinct”), always derailed, caught in a loop of repetition, marked by an impossible excess. Deleuze, on whom Malabou otherwise constantly relies, made this point clear in his Difference and repetition: eros and thanatos are not two opposite drives that compete and combine their forces (as in eroticized masochism); there is only one drive, libido, striving for enjoyment, and “death drive” is the curved space of its formal structure – it“plays the role of a transcendental principle, while the pleasure principle is only psychological. this is why it is above all silent (not given in ex-perience), while the pleasure principle is flourishing. the first question is thus: how can the motif of death which appears to assemble the most negative aspects of the psychic life be in itself what is most positive, transcendentally positive, to the point to affirm repetition? […] eros and thanatos differ in that eros has to be repeated, can be experienced only in repetition, while thanatos (as the transcendental principle) is that what gives repetition to eros, what submits eros to repetition.

もっともこの見解も、ドゥルーズ、ジジェク、あるいはPaul Verhaegheなどのものだけであり、別の見方もあるのだろう。

ここでVerhaegheのとても分りやすい説明を附記すれば次の通り。

Eros has elements of fusion, amalgamation, the interconnection of disparate elements to form a larger entity, the fusion in which separate entities cease to exist. Thanatos is the fragmentation, the explosion, the bursting apart of an entity, the big bang, in which the accumulated force and tension are released and used up. Freud stops at this point and does not discuss the idea any further. A closer inspection reveals that within this argument, the idea of life and death is extremely relative. Thanatos is the death of Erosthe Thanatos drive destroys the unity and causes the greater whole to fall apart into separate elements. Eros is the death of Thanatosthe Eros drive destroys the separate elements by fusing them in one entity. The two drives keep each other going by alternating endlessly. The time perspective is circular, not linear. Isis and Dionysus/Bacchus die and are constantly reborn. In this sense, it is not so much a matter of the contrast between life and death, as Freud thought, but of the contrast between two different forms of life. On the one hand, there is life as an individual, as a separate and limited being with a clearly finite nature; on the other hand, there is life beyond this as part of a larger whole that continues to exist far beyond the individual.(“Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe)


上でジジェクを引用するとき、最後に、としたが、ダメ押しの最後として《フロイトのタナトス概念は血なまぐさい》、とする中井久夫をさらにつけ加えよう。われわれの(日本人の、東アジア人の?)タナトスはフロイトのいうようなものではなく、なつかしい菌臭のようなもの、死と分解の心を落ちつかせる匂いのようなものではないだろうか、と。すくなくともエロスとタナトスは、匂いの世界では、観念の世界とは違って、はるかに距離が近いだろう、と。

もっとも菌臭への愛着は、キノコ研究家のジョン・ケージや、東欧のバルトーク(バルトークの母語マジャル語は、アルタイ諸語や日本語と共通する特徴をもつなどとも云われる)にもある。


「膝くらいつもっている。何百年もかかって堆積されたんだ。あなた方御婦人は、こういう種類のカーペットをお宅の床にほしいとは思わないだろうけれど、これは飛びっきり高価な手織りのカーペットより、ずっと時間も労力もかかっていることはわかるだろう。太陽、雨、霜、雪、風が私たちの頭上にあるこの木々にふりそそぎ、季節がめまぐるしく変わる毎に、葉は落ちて死に、それに代わって生まれるべき無数の新しいもの、こうした生命のための場を整えるんだ。それに昆虫や鳥、毛虫のことも忘れちゃいけない。それぞれのやり方で、この過程を助けているのだから。彼らはみんな、この生と死とが相半ばしてできているこの刺激臭のあるカーペットの生成に関わっているんだ」(あんた方はみんなつんぼだっていったんだ。そら、あれが聞こえないのかい? (バルトーク)

あるいは、ホルクハイマー&アドルノも次のように書いている。

匂いを嗅ごうとする欲望のうちには、さまざまの傾向が混じり合っているが、そのうちには、下等なものへの昔からの憧れ、周りをとり巻く自然との、土と泥との、直接的合一への憧れが生き残っている。対象化することなしに魅せられる匂いを嗅ぐという働きは、あらゆる感性の特徴について、もっとも感覚的には、自分を失い他人と同化しようとする衝動について、証しするものである。だからこそ匂いを嗅ぐことは、知覚の対象と同時に作用であり ──両者は実際の行為のうちでは一つになる ──、他の感覚よりは多くを表現する。見ることにおいては、人は人である誰かにとどまっている。しかし嗅ぐことにおいて、人は消えてしまう。だから文明にとって嗅覚は恥辱であり、社会的に低い階層、少数民族と卑しい動物たちの特徴という意味を持つ。 (ホルクハイマー&アドルノ『啓蒙の弁証法』)

タナトス(死ー分解)の《奇妙な静けさとざわめきとひしめき》、そしてときおり燦めくエロスの《ゆらめく閃光》の作品、バルトークの夜の音楽。




……カビや茸の匂いーーこれからまとめて菌臭と言おうーーは、家への馴染みを作る大きな要素だけでなく、一般にかなりの鎮静効果を持つのではないか。すべてのカビ・キノコの匂いではないが、奥床しいと感じる家や森には気持ちを落ち着ける菌臭がそこはかとなく漂っているのではないか。それが精神に鎮静的にはたらくとすればなぜだろう。

菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。

フロイトは、エロスという性(生)への傾斜とともに「タナトス」という死への傾斜を人間の心の深層にかいま見たけれども、このフロイトの「タナトス」は、どうも血の匂いのする、攻撃性の基盤になるようなイメージのものではなかろうか。それは強迫という現象と結びつけてフロイトが考えたからであろう。一般に強迫症的な取り澄ましたきちんとした表層の一枚下には血みどろの幻想が渦を巻いている。うっかり精神分析でこの地獄の釜の蓋を開けないようにという警告が精神療法家の間では行き渡っている。

フロイトは八十三歳まで生きて、最後の十六年は上顎癌の手術につぐ手術で、それでも死の一か月前まで仕事をして、友人に「もういいよ」とささやいて、かねて約束の致死量のモルヒネを打ってもらって死んでいった。それはそれで首尾一貫した生き死にだけれども、彼のもっぱら親しんだのがギリシャ悲劇であるのは、タナトスの血なまぐささと無関係でないような気がする。

ギリシャの文学に親しんでいささか参るのは、裏も表もない若さの賛美である。山間で老人が背を曲げて碁でも打っているといった南画の世界がギリシャから一番遠いものであるという、どなたかの指摘を読んでなるほどと思ったことがある。だから、カヴァフィスのような現代ギリシャ詩人も若い時から老・病・死を恐れる強迫を持ち、この強迫がその詩に隠顕するのだろう。私はたまたま彼の詩をだいたい全部訳したけれども、時には非常に違和感を感じて手に取れないことがある。それは一言にしていえば、菌臭の持つ安らぎから実に遠いということである。

菌臭の持つ死ー分解への誘いは、腐葉土の中へふかぶかと沈みこんでゆくことへの誘いといえそうである。こういう死の観念のない世界がいくらでもある。ロメオとジュリエットの墓は、収納ケースのたくさんある地下室である。そこでは死体は乾いてミイラになるのであろうが、さらに砂漠の中での徹底的に乾燥した死となると、これは実にわれわれから遠い。旧約やイスラムの死とはそういうものだろうが、私などがあの苛烈な宗教に馴染めないとしたら、死にまつわる匂いのこの違いも一役買っているかもしれない。われわれの宗教は、逆に、菌臭のただよう世界にしか安住できないのかもしれない。神道が、すでに、森の奥の空き地に石を一つ置いたものを拝むところから始まっている。樹脂と腐葉土の匂いの世界を聖としたのである。

京都の街々、家々を思うと、いかにも底深い腐葉土の上に建てられているという感じがある。いたるところに過去のものがカビ類に洗われて骨格だけをとどめながら埋もれているのは周知のとおりである。菌臭のただようひんやりした露地は、それが地表にたまたま現れたもので、いずれまた地下に沈みこんでゆく運命である。

とりわけ、寺院というものは、京都であれ熊野であれ信州であれ、特別に腐葉土の深いところに建てられているように感じる。平安以後、日本の仏教は山岳仏教になったというが、寺は菌臭の深いところを求めて次第に山にはいったのではないか。それ以前に建った奈良の寺だけは、なぜか、菌臭が不足しているように思う。からりと明るい。ギリシャ神殿の面影があっても可笑しくない。唐招提寺など、裏の森にはいって初めて鎮静的なものが私を包みこむように感じる。それまでは何か外国にいる感じがする。寺の雰囲気を抹香臭いというが、あれは単に線香の匂いではあるまい。線香の匂いも寺の持つ鎮静的な菌臭の一部である。話は逆で、寺の匂いと馴染むものが線香の匂いとして採用されたのではないか。

菌臭は、単一の匂いではないと思う。カビや茸の種類は多いし、変な物質を作りだすことにかけては第一の生物だから、実にいろいろな物質が混じりあっているのだろう。私は、今までにとおってきたさまざまの、それぞれ独特のなつかしい匂いの中にほとんどすべて何らかの菌臭の混じるのを感じる。幼い日の母の郷里の古い離れ座敷の匂いに、小さな神社に、森の中の池に。日陰ばかりではない。草いきれにむせる夏の休墾地に、登山の途中に谷から上がってくる風に。あるいは夜の川べりに、湖の静かな渚に。

実際、背の下にふかぶかと腐葉土の積み重なるのを感じながら、かすかに漂う菌臭をかぎつつ往生するのをよしとし、大病院の無菌室で死を迎えるのを一種の拷問のように感じるのは、人類の歴史で野ざらしが死の原型であるからかもしれない。野ざらしの死を迎える時、まさに腐葉土はふかぶかと背の下にあっただろうし、菌臭のただよってきたこともまず間違いない。

もっとも、それは過去の歴史の記憶だけだろうか。菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。恋人たちに森が似合うのも、これがあってのことかもしれない。公園に森があって彼らのために備えているのも、そのためかもしれない。(中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収)