このブログを検索

2014年1月1日水曜日

あけましておめでとう

あけましておめでとうございます、ーーということで本日はごたごた書かずに好きな文章を引用するだけにしよう。


                   (杉本邸宅)




暮れの二十四、五日頃に、隣家から餅つきの音が聞こえてくる。台所のたたきに臼を据えて搗いている。こちらの台所にまで、地響きが伝わってくる。裏庭にまわると、地響きに代わって、杵音が聞こえる。隣家の餅つきの気配だけで、こちらも気分がゆったりするのはありがたい。

わたしの家では、正月に、輪取りという形式の鏡餅を祖先にお供えする習慣がある。輪取りというのは、径二寸五分のまんまるい檜のたがをはめた、厚さ一寸の餅で、これを三つ重ねにしたものを左右一対、三方に載せて仏壇に供えるのである。この輪取りを承知している餅屋は、いまではほとんどないが、蛸薬師通りの新町東入ル鳴海餅という店だけは、いまでもきちんと作ってくれる。年の暮れに輪取りをこの店に注文するのは、順照寺という真宗西本願寺派のお寺と私のところと、二口だけになったそうである。私の家は西の門徒である。輪取りは、この筋からきているしきたりのようである。

序でながら、門松というものを、私の家では昔から立てたことがない。子どもの時分、どの家にの門口にも、根引きの小松が水引で結わえて柱の袖に掛けてあるのに、うちにはそれがないのがさびしく、父にわけをたずねたことがある。
「門徒物知らず、というてな。諸事簡素にするのがしきたりになっている」
と父が応じたような記憶がある。そういえば、他宗でするような盆のお精霊さんの行事もなければ、歳徳棚や荒神松も、うちには見当たらなかった。大晦日の夜のおけら参りというものさえしなかった。柳田国男が浄土真宗を目の敵に、いやむしろ眼中にも置かなかったのはもっともである。

したがって、正月の用意といっても、さして煩雑ではない。テレビが普及するにつれて恐るべき勢いで流行し、いつのまにやらあらゆる家庭が正月の準備の中心みたいになったおせちというものも、私のところでは従来作らなかった。年始のあいさつにきた人は、玄関で応々と呼ばわり、はきものを脱ぐことはせず、その場であいさつして、さっさと帰っていくのがしきたりだったからである。店の間に、ひつじ草の池沼を描いた時代屏風を立てかけ、そのまえに名刺受けをととのえておくと、名刺を投じただけでそのまま去ってゆく人を少なくなかった。年始の客は数が多いということくらい、だれも心得ていたから、あいさつ以外の冗語は互いに遠慮しながら、年始の往来をとり交わしたのだ。これを水くさいというなかれ。礼節は、形式的であればあるほど虚礼から遠ざかるものである。砕けた付合いがもてはやされる時代は、かえって虚礼がはびこる時代であろう。

ところで、八坂神社におけら参りをし、知恩院の除夜の鐘を聞いて帰れば、もう真夜中ということになるが、私の家でおけら参りをしなかった理由は、元旦が一年を通じてもっとも早起きしなければならない朝だったからだ。戦後も、これは当分そのとおりだった。夜ふかし朝寝坊のくせがついた学生時代には、早朝五時に叩き起こされるというだけで正月がいやだった。六時前にはもう来訪する分家の家族を仏間に迎え入れ、仏壇を正面にして左右に分かれて対面し、家族すべて顔をそろえて新年のあいさつを交すーーーこれが中京の多くが、心学の教訓にのっとった家訓にもとづき、長いあいだ実行してきた元旦のしきたりである。

集合の時間が、いつの間にか七時になった。やがて七時半にまで繰り下がった。こうなれば、廃絶までは時間の問題だ。三年まえ、分家の家族ふくめての参集のしきたりは絶えた。

いまでは八時頃、お雑煮を祝うまえに、私の家だけの親子三代が仏間に顔をそろえる。そしていささか堅苦しく「あけましておめどうとうございます。旧年中は……」と型通りのあいさつを表白する。小学生の娘がくすくす笑っている。

正月三ガ日のお雑煮は白味噌、七日は七草粥、十五日は小豆粥というしきたりは、いまもつづいている。食事というものが儀式の一端であるとすれば、この点では、正月は猶かすかに節を保ち、時の折り目の名ごりを、暮しの中にとどめている。(杉本秀太郎『洛中生息』1976)

…………

除夜の鐘がきけない海外に住んでいるのだが、 知り合いがそれを癒してくれる素晴らしい演奏をアップしてくれた。





すばらしい素材のシャツだが、シルク入りかな、演奏もビロードの肌触りとしておこう。

《音が遠くからやってくればくるほど、音は近くからわたしに触れる》

沈黙とスカンシオン(どもるかのような)を綯い混ぜたこの演奏は、コルトーでもリヒテルなどの著名な演奏ともまた異なる、ちょっとビックリさせるものだね


ああ遠くからやってくる鐘の音を聴きながら
異国の屠蘇を飲もう
美容師の妻の妹が肴をもってきた
さて痛風のぐあいはダイジョウブか

詩人は葡萄畑へ出かけて
こい葡萄酒をただでのむだろう
クレーの夜の庭で満月をみながら
美容師と女あんまは愛らしいひようたんを
かたむけてシェリー酒をのんでいる
ああ無限の淋しさはつまらないもの
からほとばしり出るのだ
お寺の庭の池のそばにはもう
クコの実が真赤になってぶらさがる
ダンテの翻訳者はクコ酒をつくる季節だ(西脇順三郎『失われた時』から)

実はあの曲は、宴のときのオレのレパートリーのひとつだった。





「おめでたう」はお正月の専用語になつたが、実は二度の藪入りに、子と名のつく者即子分・子方が、親分・親方の家へ出て言うた語なのである。上は一天万乗の天子も、上皇・皇太后の内に到られた。公家・武家・庶民を通じて、常々目上と頼む人の家に「おめでたう」を言ひに行つたなごりである。「おめでたくおはしませ」の意で、御同慶の春を欣ぶのではない。「おめでたう」をかけられた目上の人の魂は、其にかぶれてめでたくなるのだ。此が奉公人・嫁壻の藪入りに固定して、「おめでたう」は生徒にかけられると、先生からでも言ふやうになつて了うた。此は間違ひで、昔なら大変である。一気に其目下の者の下につく誓ひをしたことになる。盆に「おめでたう」を言うてゐる地方は、あるかなきかになつた。でも生盆・生御霊と言ふ語は御存じであらう。聖霊迎への盆前に、生御魂を鎮めに行くのであつた。室町頃からは「おめでたごと」と言うた様であるから、盆でも「おめでたう」を唱へたのである。正月の「おめでたう」は年頭の祝儀として、本義は忘れられ、盆だけは変な風習として行はれて来たのだ。(折口信夫『若水の話』)