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2014年1月12日日曜日

自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わる(古井由吉)

ある一時期に おけるある分野の歴史を細かく調べてみると、いろんな理論が概念や観測や装置に応用される際に、標準らしき一連の説明の仕方が繰り返されていることに気付く。これらがその専門家集団のパラダイムであって、教科書や講義や実験指導の際に現れてくるものである。(T・S・クーン『科学革命の構造(The structure of scientific revolutions)』)

いまさらトーマス・クーンのパラダイム概念を復習するつもりもないが、そうはいっても、凡徒の身には、ついついうっかりと忘れてしまっているということはある。

クーンは、観察そのものが「理論」に依存していること、理論の優劣をはから客観的基準としての「純粋無垢なデータ」が存在しないとしたのだが、せんずるに、経験的なデータが理論の真理性を保証しているのではなく、逆に経験的データこそ一つの「理論」の下で、すなわり認識論的パラダイムで見出される、ということだ。

クーン曰くの「それを学び実地に適用することによって、その集団のメンバーは仕事に習熟してゆく」、教育装置としてのパラダイム。

だが教育装置として機能するといっても、《それは、パラダイムが、特定の「知」をめぐる個々の規則だの仮説だのの総体として、解釈すべき風景 の合理的整合性を存在に納得させるからではなく、「知」の体系性と真実の客観性の確証以前に律する拘束力がそこにそなわっている》(蓮實重彦)

……解釈される風景と解釈する視線という抽象的な対応性を超えて、解釈する視線が解釈される風景による解釈をすでに蒙った解釈される視線でしかなく、つまり視線が世界の物語を語る話者である以前にそれじたいが物語の説話論的要素として風景の一部に分節化されてしまっており、したがって視線が分節化する風景の物語は風景が分節化する視線の物語にそれと知らずに汚染しているということ、しかもその事実によって視線同士がた がいに確認しあう風景の解釈は、遂に風景が語る物語を超えることがないという視点は、なにも科学史という「知」の一領域に限らず、こんにち、「文化」と呼ばれる「制度」のあらゆる領域で問題とされているごく退屈な議論にすぎないことは誰もが知っている。(蓮實重彦『表層批判宣言』「風景をこえて」より)

「誰もが知っている」にもかかわらず、その罠にはまりこんでいることが凡庸の徒には容易に気づきがたい蓮實重彦のこの議論は、フーコーのエピステーメ(パラダイムとはやや異なる)から導きだされているはずで、ここでフーコーの『言葉と物』冒頭のボルヘスの「シナのある百科事典」や失語症者の赤い糸の分類の話を想い起こしてもよいが、今はあえて引用はすまい。

フロイトが『欲動とその運命』の冒頭にて同じことを言っている。欲動Triebという基礎概念も認識論的パラダイムに過ぎないと語っているとしてよいだろう。

科学が明確な、厳密に規定された基礎概念の上に築かれるべきだという要請は、われわれがしばしば耳にしてきたところである。しかし実際には、そのような厳密な規定から出発する科学はない。もっとも精密な科学といえどもそうなのである。科学的研究活動の正しい端緒は、むしろ諸現象を記述することにあり、しかるのちにそれをさらに分類し、整理し、関連づけていくのである。すでにこの記述の段階でも、ある種の抽象的理念をどこからか導いてきて素材に適用することは避けられない。そのような抽象的理念は、記述されるべき新しい経験だけから得られたものでないことは確かである。そしてこのような理念――のちには、その科学の基礎となるような理念――は、素材をさらに加工していくさいにいっそう不可欠なものになってくる。最初これらの理念にはある程度の不確かさがつきまとうものであり、その内容を明確に示すことは不可能である。理念がこんな状態にあるかぎり、理念の意味を理解するためには、経験素材を繰り返し参照してみなければならない。そのような理念は、経験素材からとられたものであるようにも見えるが、現実には経験素材のほうが理念に従属しているのである。したがって厳密にいえば、かかる諸理念は仮説的な性格をもっている。ただその場合もっとも問題となるのは、経験的素材にたいする重要な意味を持った関係によって定められる点である。その重要な関係というのは、まだ認識されたり、実証されたりしていなくて、ただ推測されているだけである。当面の現象領域をさらに徹底的に究明したのちになってはじめて、その科学的基礎概念もいっそう厳密に把握することができるようになるし、さらに修正が加えられていくことによって、基礎概念はより広い範囲にわたって使用可能になり、しかもまったく矛盾しないものになるのである。そうなった時こそ、この基礎概念を定義するのにふさわしい時であろう。しかし、認識はたえず進歩しているので、定義も固定してしまうことは許されない。物理学が見事に実例を示してくれているように、定義された「基礎概念」もまた、たえずその内容を変遷させていくのである。

このような仮説的な基礎概念で、さしあたりまだかなり曖昧ではあるが、心理学に欠くことのできない概念がある。それは欲動Triebという基礎概念である。……(フロイト『欲動とその運命』人文書院 フロイト著作集6からだが、一部訳語を変えた。たとえば「本能」→「欲動」)

科学でさえこうなのだから、「自己」もいっそう然り。

自分が見る、自分を見る、見られた自分は見られることによって変わるわけです。見た自分は、見たことによって、また変わる。(古井由吉『「私」という白道』)
「私」が「私」を客観する時の、その主体も「私」ですね。客体としての「私」があって、主体としての「私」がある。客体としての「私」を分解していけば、当然、主体としての「私」も分解しなくてはならない。主体としての「私」がアルキメデスの支点みたいな、系からはずれた所にいるわけではないんで、自分を分析していくぶんだけ、分析していく自分もやはり変質していく。ひょっとして「私」というのは、ある程度以上は客観できないもの、分解できない何ものかなのかもしれない。しかし「私」を分解していくというのも近代の文学においては宿命みたいなもので、「私」を描く以上は分解に向かう。その時、主体としての「私」はどこにあるのか。(中略)この「私」をどう限定するか。「私」を超えるものにどういう態度をとるか。それによって現代の文体は決まってくると思うんです。 (古井由吉『ムージル 観念のエロス (作家の方法)』)


※ヘルダーリンがすでに似たようなことを書いているのは、すこし前みた。→「わたしは聴く耳をもつ者たちに警告の歌をうたってきかせる(ヘルダーリン)


…………

さてフロイトの『欲動とその運命』1915から引用したのだから、もう少しそれに触れるとするなら、フロイトによる「欲動」概念(性欲論1905で初めて現われた)は、のちに『快感原則の彼岸』1920だ提出された「死の欲動(タナトス)」(生の欲動(エロス)も含め)ーーあるいは、その後のラカンやジジェクらのタナトスの再解釈へと変遷してゆく。

だが、その彼らにしても、その多寡は別にして、解釈する思弁が解釈される概念による解釈をすでに蒙った解釈される思弁であるのは免れない。相手が欲望や欲動ならことさらのことだ。というのは主体における「死の欲動」が、客体としての「死の欲動」を解釈するとすれば、それは己れのうちにある欲動の翳をひき摺らざるをえない。仮にフロイトならヴィクトリア朝期の規範やら父親とのエディプス的葛藤、ラカンなら母親とのプレエディプス的心的外傷記憶としてみよう。とすればジジェクならなんと仮定したらよいのだろう。ジジェクは自殺間際の悲惨な恋愛体験が若き日にあり、ラカンの娘婿のジャック=アラン・ミレールのもとの寝椅子に横たわる時間を持っている。あのときは最悪の危機だったと。

ーーBut you went into analysis with Miller?

Yeah, but it was very perverted, strange analysis. I went into analysis because I was for private reasons, unfortunate love affair, into deep, deep, deep crisis. And then it worked in a purely bureaucratic way. He told me, come next week, come tomorrow at 5pm. I was really in a suicidal mood for about a month and the idea was, wait a minute, I can not kill myself because I have to be tomorrow at five with Miller. The purely formally bureaucratic structure of obligation allowed me to survive the worst crisis, and then it went on for years.(Parker, (2003) ‘Critical Psychology: A Conversation with Slavoj Žižekより)



欲動やら欲望概念は、主体や自己概念とともに、ほかの概念にもましてことさら困難な道程をゆくのは、次に示す松浦寿輝の文がたくみに表現している。

「ついて」と「めぐって」 

自分にとってはごくありふれた日々の体験として十分以上に自明のことと見えるにもかかわらず、いざそれについて語り出そうと口を開くやいなや不意に言葉を失って狼狽することになる不思議にも厄介な主題が幾つかあるとして、たとえば試しにその一つを「欲望」、いま一つを「修辞」と名づけてみたうえで、意識の内をまさぐってみてもどうにも形をなすにいたなない言葉を何とかかんとか誘い出し、それらを改めて隠喩的実践としての欲望とかエロス的体験としての修辞とか呼び直してみたくなるのだが、そうした吃音的な同義反復そのものがもっとも単純な意味での修辞的身振りにすぎない以上、語る意識と語られる主題とは互いに互いの尾を噛み合うウロボロスの蛇に似た円環の中に閉じこめられ、前にもまして居心地の悪い沈黙を強いられることになる。欲望も修辞もともに日常的で自然な営みなのだから、その様態や機能や帰結を記述しようとする試みにさしたる困難があるようにも思われないのに、ひとたびそれをめぐって語り始めようとすると言葉は奇妙に滞り、ウロボロスの蛇のようななどという類の死んだ比喩を安易に引っ張り出してきたりした挙げ句のはて、性は修辞的にしか語りえないし修辞は性的にしか実践しえないといった堂々めぐりの命題の内に囚われたまま、語ろうとする意識としての「わたし」そのものが頼りなく輪郭を失い曖昧に溶け出してゆくような不安を覚えずにはいられない。いったいここで起っていることは何なのか。

欲望と修辞という二つの主題に関するかぎり、それについて、あるいはそれをめぐって語ることそのものを徒労と錯覚させるような匿名の力がたちどころに唇を凍えさせずにおかないのは、恐らく「ついて」や「めぐって」というこうしたありきたりな主題化の装置としっくり折り合うことのない何ものかがそこで問題になっているがゆえに相違あるまい。何かについて語るとは、そのものよりも一段階次元が高い視点に立ってそのものの上に言葉を差し向けることであり、何かをめぐって語るとは、中心に置かれたそのものの周囲に言葉を旋回させるということであろうが、いずれにしても、何事かが主題として提示されるとは、それ自身とは水準を異にする超越的な言説との対比においてその何事かをくっきり際立たせるという操作でなければなるまい。ところが、思弁的な言説がいかなるメタ・レヴェルにも自分自身を支ええず、水準においても位置においても形式においても濃度においても当の主題そのものと曖昧に同化してしまい、それの上から覆い被さろうとしてもたちまちするりとそれの下に潜りこんでしってしまったり、それの周囲をめぐろうとしてもいつしかそれの内部に曖昧に浸透していってしまうといったことが絶えず起こるとしたらどうか。「ついて」や「めぐって」が欲望と修辞を主題化するに当たってうまく機能しないのは、沈黙から発語への閾を超えて唇のうえに言葉を呼び起こすという行為そのものがここで実はもっとも始原的な欲望発現の場にほかならず、また同時に不可避な修辞的体験の場たらざるをえないからでもあるだろう。表象と実践とが相互に嵌入しあってしまうと言ってもよい。

だがそれは、他方、「表象」そのものを主題化したり「言語」そのものを主題化したりすることの困難ともいささか趣きを異にするものであるように思われる。「言語」そのものについて言語で語ること、「表象」そのものを表象体系の中に位置づけることが、「物語」をめぐって物語ることと同様、自己言及的な実践として或る特有の困難な、ないし戦略的な位相に身を置くことを主体に強いるという点については、アナグラム理論の模索の途上で斃れたソシュールや、ベラスケスの《ラス・メニナス(侍女たち)》をめぐって蜘蛛の巣のような記述を紡ぎ出すフーコーといった先例を参照すればよい。しかしそこでの問題は、「言語」や「表象」が高度に思弁的な抽象概念であるという事実が示す通り、或る程度までは知的な操作によって片がつくことであるようにも思われる。主題を主題として維持するためにそれをカギ括弧で厳重に梱包し、概念として自立させ、<地>の部分をなす分析と思弁の言説から隔離された<図>として目立つように留意しさえすれば、哲学はさほどの困難もなく「言語」や「表象」をめぐって語ることができるだろう。概念の抽象化の水準を取り違えさえしなければ、表象の言語や表象の表象や表象言語の表象、さらにはそれらの表象的な体系化などを弁別しつつ、整合的な知的思弁の内部で展開することも容易だろう。そうした水準の弁別を食い破って語られるものが唐突に膨張し、語るものを浸蝕しはじめる異形の瞬間を予感させるサスペンスが、たとえば『知の考古学』で「言表」をめぐって展開されるフーコーの思考に異常な緊張感を漲らせていたことは事実としても、そうした限界点の手前で自足しながらみずからを語り継いでいこうとするかぎりの知的言説にとって、あれもこれもすべてはとりあえず精密な概念操作によって統禦することの可能な抽象的主題群でしかないと言ってよい。

それと比べた場合、「欲望」と「修辞」は、それをカギ括弧で梱包し概念として定立しようとする抽象化の操作そのものに逆らう何かを孕んでいる。主題化されることに抵抗するその何かこそ、この文章がここに書き継がれてゆくことを促す唯一の動機にほかならないが、以下は、それの上に被さりにゆくこともなくまたそれの周囲を旋回することもなく、しかし最終的にそれを虚空にくっきりと浮かびあがらせうるような言葉がいかにして可能かを模索する曖昧な試みというか、「欲望」と「修辞」とが主題たりえない条件を闡明したいという欲望に衝き動かされた修辞的実践とでもいったものとして読まれなければならない。(松浦寿輝『官能の哲学』より)