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2014年1月16日木曜日

承認欲望と承認欲動

乳児はおそらく原初の内的な欲動をなにか周辺的なもとのして経験するだろう。どんな場合でも、その欲動は<他者>の現存を通してのみ姿を消すことができるにすぎない。<他者>の不在は、内部の緊張の継続の原因として見なされるだろう。しかしこの<他者>が傍らにいて言動によって応えても、この応答はけっして十全なものではない。というのは、<他者>は継続的に子供の叫び声を解釈しなければならないし、解釈と緊張のあいだに完全な照合はありえないのだから。この時点で、われわれはアイデンティティの形成の中心的な要素に直面する。すなわち、欠如、――欲動の緊張(強い不安)に完全に応答することの不可能性。要求、――それを通して乳児が欲求を表現するとき、残余が生ずること。この意味は<他者>の要求の解釈はけっして本来の欲求とは合致しないというとだ。<他者>の不完全性が、いつでも、内的にうまくいかないことの責めを負わされる最初のもののようにみえる。(ポール・ヴェルハーゲ 私訳)(ポール・ヴェルハーゲ 私訳ーーPaul Verhaeghe, "On Being Normal and Other Disorders: A Manual for Clinical Psychodiagnostics"ーーラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書より)

この文をより詳細に、そして〈他者〉の欲望に同一化する(想像的ファルスになる、とラカン派では言われる)ことまで含めて書かれている文を次に掲げる。

Paul Verhaeghe(ポール・ヴェルハーゲ)の『Sexuality in the Formation of the Subject』 より(同私訳)。

フロイトにとって、人間の成長の出発点は最初の不快の経験である。その不快とは、「痛みSchmerz」と呼ばれ、すなわち典型としては空腹や渇きにより齎される内的な欲求の結果としての痛みだ。フロイトはこの痛みを緊張の蓄積として理解する。この興奮を、「寄せあつめられた欲動component drives」(ほぼ「部分欲動」に等しいが、いくつかの部分欲動ということだろう:訳者)によるものとして理解するのはそんなに難しくはない。この不快な状態への乳児の反応は典型的なものであり、引き続いておこる間主観的な関係の基礎となるものだ。すなわち無力な赤子は他者に向かって泣き叫ぶ。他者は、乳児の内的な緊張をやわらげる「具体的な行動」に気を配る者と見なされる。そのような介入はつねに言葉と行動の組合せによって成り立っている。すなわち、〈他者〉は要求を理解しそれに応えることを子どもに示す。

この原初の相互作用の重要性を買いかぶってはならない。というのはそれに引き続く関係の基礎を構成するからだ。

まず第一に、寄せ集められた欲動によってひき起こされた最初の身体的な緊張は、永続的に〈他者〉に繋がることになる。その意味するところは、部分欲動はまさに最初から間主観的な次元をもつということだ。なおさらに、〈他者〉は己れの緊張をやわらげる責任があるものとして捉えられる。

二番目には、初期から、未来の主体subject-to-beは受身的な立場をとる必要がある。彼、あるいは彼女は、〈他者〉に完全に隷属している。

三番目に、われわれはここに、すべての主体における原初の不安に出逢う。すなわち引き離される不安separation anxietyだ。〈他者〉の不在や〈他者〉反応の欠如は耐えがたい。その結果、われわれは原初的な憧憬をも見出すことができるだろう、そのあこがれとは、〈他者〉と一緒にいたい存在ということだ。ーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書より
欲動の緊張に対処しようとするなか、子どもは、最初の〈他者〉に訴えかける。母はこの訴えかけを要求として解釈するが、それは彼女自身の部分欲動に向けた自己の立場を元にする。そしてこのようにして自己の欲望を含んだ答えをつくり出す。結果として、子どもはこの〈他者〉によって現わされたイメージに自己自身を同一化する。すなわち、自己の興奮に応答を受け取るために、〈他者〉の欲望に同一化するということだ。

簡単な例をあげよう。子どもの泣き叫びは食べ物への要求として最初の〈他者〉により解釈される。その結果、子どもは、ただ食べなければならないのではなく、この〈母〉の解釈を元にして、自分自身の興奮を食べ物の欠如として解釈することを余儀なくされる(引用者:場合によってはほかの興奮であることもあるのだ、たとえば、寒い、おっしこをして不快だ、抱っこしてほしいなど。究極的には母と合体(融合)したいということ)。

この解釈とともに、最初の〈他者〉は彼女自身の欲望を表現するのだが、その〈母〉の欲望に子供は服従しなければならないのだ、もし子ども自身の欲動の応答を受け取るためには。他者が子どもの欲求に応答する責任をもつという原初的な相互関係と比較して、われわれはここにふたたびおどろくべき逆転に出逢う。自己の欠如の応答をえるためには、子どもは〈他者〉の欲望に従いつつ己れの手本model itselfにしなければならない。〈他者〉の欲望に同一化しなくてはならないのだ。これ以降、主体は〈他者〉の欲望に応答する責任をもつ。そして主体と〈他者〉の欲望の相違はぼんやりしてくる。すなわち、主体の欲望は〈他者〉の欲望である。

主体は、己のa(対象a)への完全な応答を得る/与えるのを確信するために、母他〔(m)other〕を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。(同ポール・ヴェルハーゲ)

さらに想像的ファルスと象徴的ファルスの相違が書かれているのは向井雅明氏の次の文がよいだろう。
一般にはラカンのファルスの話(想像的ファルス(φ)、象徴的ファルス(Φ)はこう語られる。子供は母親から生まれ、まず母親と二人だけの関係にある。この時点ではよく母親と子どもの間には融合的関係があり、子供はまだ外世界に興味を持っていないと言われるが、ラカンはそれをはっきりと批判し、子どもは殆ど生まれてからすぐに外世界、他者(A)にたいして開かれていると主張する。そしてこの時点からすでに母親の欲望というものを想定する。母親の欲望とは子どもが母親にたいして持つ欲望という客体的意味もあるが、それよりもまして母親の持っている欲望という主体的な意味が決定的である。母親はまず欲望を持っている者とされるのだ。そして人間の欲望は他者の欲望であるという定式から、子供にとって他者はまず母親であるから、子供の欲望は母親の欲望、つまり母親を満足させようという欲望となる。母親の前で子供は母親を満足させる対象の場にみずからを置き母親を満足させようとする。つまり母親のファルスとなる。だが、母親の欲望の法は気まぐれな法であって、子どもはあるときは母親に飲み込まれてしまう存在となり、あるときは母親から捨て去られる存在となる。母親の欲望というものは恐ろしいもので、それをうまく制御することは子どもの小さなファルスにとって不可能である。ラカンは母親の欲望とは大きく開いたワニの口のようなものであると言っている。その中で子どもは常に恐ろしい歯が並んだあごによってかみ砕かれる不安におののいていなければならない。

漫画に恐ろしいワニの口から逃れるために、つっかえ棒をするシーンがある。ラカンはそれに倣って、このワニの恐ろしい口の中で子どもが生きるには、口の中につっかえ棒をすればよいと言う。ファルスとは実はつっかえ棒のようなもので、父親はこのファルスを持つ者である。そして父親のファルスは子供の小さいファルス(φ)ではなく、大きなファルス(Φ)である。つまり正義の騎士が万能の剣をたずさえて現れるように、父親がファルスを持って子供を助けてくれるのだ。 (向井雅明『精神分析と心理学』)psychanalyse.jp/archives/M_MUKAI/Psychanalyse_et_psychologie.doc‎

「父の機能」が不充分なとき、つまり「去勢」がされていない、あるいは「去勢」が不充分だ、というとき、この象徴的ファルスの介入が不充分だということになる。

もっともこのあたりの言葉遣いは微妙なところがあり、ラカン派(日本で言えば向井雅明派にあたるはずだ)の若き俊英松本卓也氏のツイートでは次のようなことらしい。このあたりは混乱するところで、傾聴に値する指摘だ。

たとえば、あまりよくないラカン本ではΦ(象徴的ファルス)と父の名NdPを区別していなかったりするのですが、Phallus et fonction phalliqueの説明では、この2つは水準が違うことが明記されています。Φは全体としてのシニフィエの諸効果を指し示すシニフィアンであって、つまるところシニフィアンとシニフィエの結びつきを調整するもの。一方、父の名のほうは、意味作用が関わってくる水準。つまり、ファルス享楽についての謎に答えるために、先行する母の欲望(=シニフィアン)を隠喩化することでファリックな意味作用を作り出すという機能が父の名にはある

父の名は意味作用に関わる。だからこそ、父の名の隠喩が不成立であった場合(排除)、通常成立するはずのファリックな意味作用が成立せず、世界が「謎めいた意味」の総体になるわけです。

…………

ところで承認欲求という言葉が巷に跳梁跋扈している。それは実はラカン派的観点からは、承認欲望、あるいは承認欲動と呼ぶほうが正しいのではないか。

ひとが絶え間なくイマジネールな(想像的な)他者の欲望の対象になろうとする振舞いは、承認欲望とすることができる。

他方、より根源的な、ヴェルハーゲの云うところの、《己のa(対象a)への完全な応答を得る/与えるのを確信するために、母他〔(m)other〕を独占したい》という意味では、承認欲動とすることができる。ここでのa(対象a)は、《永遠に到達できない究極的な愛》と呼んでもいい。

仮に承認欲望をひとがコントロールできても、承認欲動をコントロールすることはできない。それは〈愛〉を失うことになる。

…………

《誰もが、誰かに見られていることを求める》。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

クンデラはこう書き、四つの視線のカテゴリーをあげる。

①限りなく多数の無名の目による視線(大衆の視線)
②数多くの知人の目という視線
③愛している人たちの視線
④想像上の視線(死者の視線、理念の視線など)

①②は、鏡像的他者の視線(想像的ファルスになること)、③が<対象a>の視線、は、「想像上の視線」と書かれているにもかかわらず、大文字の他者の視線(象徴的ファルスの眼差し)などとすることが、ひょっとしてできるのかもしれないが、このあたりはもう少し考えてみる必要があるだろう。③は、ラカンの中期までの解釈による自己愛的な〈愛〉ではなく、後期の、神への愛、無償の愛(見返りのない愛)として捉えたら、さてどうなるのかという問いも生まれる(参照:ラカンの愛の定義)。

晩年のラカンは、ほとんどドゥイノ悲歌のリルケに近づいたといってもよい。

愛の応答〔いらえ〕を求めての叫びかけではない、もはやそのような呼びかけではなく/おさえてもおさえきれぬ声のほとばしり、それがおまえの叫びの本性であれ。おまえは鳥のように無垢にさけびもしよう、/……/思ってはいけない、運命は幼い日の密度よりゆたかだと。/いかにしばしばおんみらは恋人を追いぬいたことか、いかなる獲得をも目ざさず、/ただ自由の世界へ突きすすむ至福の疾駆に息をはずませながら。/……/ただわれわれは、笑いさざめく隣人たちが/承認してはくれぬもの、うらやんではくれぬものを忘れやすいのだ。疑いようのないものとして/われわれは隣人たちに承認された幸福を高くかかげようとする。疑いようのない幸福が/われわれに顕現するのは、ただわれわれがそれをわれわれの内部において変化さすときだけなのに。/……/天使よ、そしてたとい、わたしがおんみを求愛〔もと〕めたとして! おんみは来はしない。なぜならわたしの/声は、呼びかけながら、押しもどす拒絶〔こばみ〕につねに充ちているのだから。このように強い/気流に逢ってはおんみはそれを冒して歩みよることはできない。さながら高くさしのべられた/腕だ、わたしの呼びかけは。そして摑もうとして花さいた指は、/捉ええぬもの天使よ、おんみを前にして/大きく押しひろげられたままなのだ/さながら拒否と警告のしるしとして。(リルケ『ドゥイノの悲歌』「第七の悲歌」(手塚富雄訳)

いずれにせよ、ひとは誰かに見られることを求めることから逃れることはできない。この「求める」を、欲求と翻訳するなら、「承認欲求」という語彙に文句をつけるつもりはない。ただし、上に書かれたように、承認欲望はコントロール可能だが、承認欲動はコントロールし難い。その区別をしないと、だれもが承認欲求があるのさ、ということで済んでしまう(もっとも「承認「という語も検証されなければならないだろう、それは究極的には大文字の母と融合したいというエロス欲動であるのだから)。


さてクンデラの小説の四つの視線の箇所を抜き出しておく。

誰もが、誰かに見られていることを求める。どのようなタイプの視線の下で生きていたいかによって、われわれは四つのカテゴリーに区分されるであろう。

第一のカテゴリーは限りなく多数の無名の目による視線、すなわち別なことばでいえば、大衆の視線に憧れる。これはドイツの歌手、アメリカの女優、それにまた、大きなあごをした編集者のケースである。彼は自分の読者に慣れており、ある日ロシア人が彼の週刊誌を廃止したとき、百倍も薄い大気の中に残されたように感じた。何人〔なんびと〕も、知らない人びとの目という視線を彼におぎなってやることはできなかった。彼は息がつまるように思えた。するとある日のこと、たえず警察につけられ、電話が盗聴され、それどころか路上で密かに写真を撮られていることに気がついた。無名の目が突然いたるところで彼と共にあり、彼はふたたび息をふきかえすことができた。幸福になった! 壁に仕込まれたマイクに芝居のせりふのように話しかけた。警察の中に失われた大衆を見出したのである。

第二のカテゴリーは、生きるために数多くの知人の目という視線を必要とする人びとから成る。この人たちはカクテル・パーティや、夕食会を疲れを知らずに開催する。この人たちは大衆を失ったとき、彼らの人生の広間から火が消えたような気持ちになる第一のカテゴリーの人たちより幸福である。このことは第一のカテゴリーの人たちのほとんどすべてに遅かれ早かれ一度はおこる。それに反して第二のカテゴリーの人はそのような視線をいつでも見つけ出す。ここにマリー・クロードとその娘が入る。

次に愛している人たちの眼差しを必要とする、第三のカテゴリーがある。この人たちの状況は第一のカテゴリーの人の状況のように危険である。愛している人の目が、あるとき閉ざされると、広間は闇となる。この人たちの中にテレザとトマーシュが入る。

そしてもう一つ、そこにいない人びとの想像上の視線の下に生きる人たちという、もっとも珍しい第四のカテゴリーがある。これは夢見る人たちである。例えば、フランツ。彼はただサビナのためにのみカンボジア国境まで歩を運んでいる。バスはタイの道路をがたがたと走り、フランツは彼のことをじっと見ているサビナの長い視線を感ずるのである。

その同じカテゴリーにトマーシュの息子も入る。彼をシモンと呼ぼう(父と同じく、聖書にある名を与えられて嬉しいであろう)。憧れを抱く目はトマーシュの目である。署名運動にまき込まれた後、彼は大学からほうり出された。彼がつき合っていた娘は田舎の司祭の姪であった。彼女と結婚し、集団農場のトラクター運転手、カトリック信者、父親になった。そのあと誰からか、トマーシュも田舎に住んでいることをきき、喜んだ。運命が二人の人生をつり合いのとれた道へと導いた! このことが、トマーシュへ手紙を書かせる勇気を与えた。返事は要求しなかった。ただトマーシュが視線を彼の人生にあてることだけを欲した。 P310-312

中井久夫は、作家の孤独を強調しすぎてはいけない、と書いている。作家の孤独とは「承認欲望」の拒絶としてみることができないか。そして《彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠》と書かれるときに、それは「承認欲動」に近いことを語っているのではないか。

創作の全過程は精神分裂病(統合失調症)の発病過程にも、神秘家の完成過程にも、恋愛過程にも似ている。これらにおいても権力欲あるいはキリスト教に言う傲慢(ヒュプリス)は最大の陥穽である。逆に、ある種の無私な友情は保護的である。作家の伝記における孤独の強調にもかかわらず、完全な孤独で創造的たりえた作家を私は知らない。もっとも不毛な時に彼を「白紙委任状」を以て信頼する同性あるいは異性の友人はほとんど不可欠である。多くの作家は「甘え」の対象を必ず準備している。逆に、それだけの人間的魅力を持ちえない、持ちつづけえない人はこの時期を通り抜けることができない。(中井久夫「創造と癒し序説」——創作の生理学に向けて)

承認欲望とは次のようなものだろう。

公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消する。そしてついには栄光を求めて演じられるこうしたぶざまな演技を、自らを他に類例のない唯一無二の存在と感じる喜ぴ――大いなる個人的快楽―――になぞらえるにいたるのだ。(ヴァレリー『テスト氏との一夜』ーー合理的な守銭奴より)

なお欲望と欲動の相違の説明のいくらかは、「資料:欲望と欲動(ミレールのセミネールより)」にある。

…………


二十世紀前半の三大詩人の二人の名を出したのだ。もう一人の詩人エリオットをめぐって、そして最晩年のラカンのピュアラブを語るジジェクの『LESS THAN NOTHING』の叙述を資料として附記しておこう。

We now know that Emily Hale was T. S. Eliot’s “lady of silences,” the object of his discreet love attachment, in the long years of separation from his wife Vivienne: all this time, almost two decades, was spent waiting for the moment when Eliot would be free to marry her. However, here is what happened when, on January 23, 1947, Eliot was informed that Vivienne had died:

He was shocked by his wife’s death, but even more by its consequences. For now, unexpectedly, he was free to marry Emily Hale, which, for the last fifteen years, she and his family had believed was what he wanted. Yet at once he realized that he had no emotions or desires to share … “I have met myself as a middle‐aged man,” says the hero of Eliot’s new play, The Cocktail Party, when he discovers, after his wife departs, that he has lost his wish to marry the shining, devoted Celia. The worst moment, he adds, is when you feel that you have lost the desire for all that was most desirable.

The problem was that Vivienne remained Eliot’s symptom throughout, the “knot” of his ambiguous libidinal investment: “The death of Vivienne meant the loss of Eliot’s focus of torment,” or, as Eliot himself put it through his hero in The Cocktail Party, a fictional account of this trauma: “I cannot live with her, but also cannot live without her.” The unbearable core of the Vivienne‐Thing was concentrated in her hysterical outbursts: Eliot never visited Vivienne in the asylum, because he feared “the nakedness of her emotional demands … the compelling power of her ‘Welsh shriek’.” Vivienne was like Rebecca versus Emily as the new Mrs. De Winter: “The whole oppression, the unreality / Of the role she had almost imposed upon me / With the obstinate, unconscious, sub‐human strength / That some woman have.” As such, she was the object‐cause of Eliot’s desire, that which made him desire Emily, or believe that he desired her—no wonder, then, that the moment she disappeared the desire for Emily disappeared with her. The conclusion to be drawn from Eliot’s imbroglio is clear: there was no love in his relationship to either Vivienne or Emily, for, as Lacan pointed out, love supplements the impossibility of sexual relationship. It can do this in different ways, one of which is for love to function as perversion: a perverse supplement which makes the Other exist through love, and in this sense a pervert is a “knight of love.” Historical forms of love are thus, from a clinical standpoint, forms of perversion (and Lacan complains here that psychoanalysis did not invent any new perversions). In clear contrast, the late Lacan affirms love as a contingent encounter between two subjects, of their unconsciousnesses, subtracted from narcissism—in this authentic love, sexual relationship “cesse de ne pas s’écrire.” Here we are beyond pure and impure, love for the Other and self‐love, disinterested and interested: “Love is nothing more than a saying [un dire] as event.”

The standard notion of love in psychoanalysis is reductionist: there is no pure love, love is just “sublimated” sexual lust. Until his late teaching, Lacan also insisted on the narcissistic character of love: in loving an Other, I love myself in the Other; even if the Other is more to me than myself, even if I am ready to sacrifice myself for the Other, what I love in the Other is my idealized perfected Ego, my Supreme Good—but still my Good. The surprise here is that Lacan inverts the usual opposition of love versus desire as ethics versus pathological lust: he locates the ethical dimension not in love but in desire—ethics is for him the ethics of desire, of the fidelity to desire, of not compromising on one’s desire.

Furthermore, the late Lacan surprisingly reasserts the possibility of another, authentic or pure love of the Other, of the Other as such, not my imaginary other. He refers here to medieval and early modern theology (Fénélon) which distinguished between “physical” love and pure “ecstatic” love. In the first (developed by Aristotle and Aquinas), one can only love another if he is my good, so we love God as our supreme Good. In the second, the loving subject enacts a complete self‐erasure, a complete dedication to the Other in its alterity, without return, without benefice, whose exemplary case is mystical self‐erasure. Here Lacan engages in an extreme theological speculation, imagining an impossible situation: “the peak of the love for God should have been to tell him ‘if this is thy will, condemn me,’ that is to say, the exact opposite of the aspiration to the supreme good.” Even if there is no mercy from God, even if God were to damn me completely to external suffering, my love for Him is so great that I would still fully love him. This would be love, if love is to have le moindre sens. François Balmès here asks the right question: where is God in all this, why theology? As he perceptively notes, pure love must be distinguished from pure desire: the latter implies the murder of its object, it is a desire purified of all pathological objects, as desire for the void or lack itself, while pure love needs a radical Other to refer to.This is why the radical Other (as one of the names of the divine) is a necessary correlate of pure love.