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2014年1月17日金曜日

かつて二度訪ねたことのある家(フロイトと漱石)

風景あるいは土地の夢で、われわれが「ここへは一度きたことがある」とはっきりと自分にいってきかせるような場合がある。さてこの「既視感〔デジャ・ヴエ〕」は、夢の中では特別の意味を持っている。その場所はいつでも母親の性器である。事実「すでに一度そこにいたことがある」ということを、これほどはっきりと断言しうる場所がほかにあるであろうか。ただ一度だけ私はある強迫神経症患者の見た「自分がかつて二度訪ねたことのある家を訪ねる」という夢の報告に接して、解釈に戸惑ったことがあるが、ほかならぬこの患者は、かなり以前私に、彼の六歳のおりの一事件を話してくれたことがある。彼は六歳の時分にかつて一度、母のベッドに寝て、その機会を悪用して、眠っている母親の陰部に指をつっこんだことがあった。(フロイト『夢判断』高橋義孝訳)




神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』著作集3 P350)





ある暑い日の午後、イタリアの小都会の、人通りの少ない、未知の通りをぶらぶら歩いていた私は、とある一角に踏み込んだが、そこがどういう性質の場所であるかは一見してすぐにわかった。小さな家々の窓に見受けられるのは、化粧した女ばかりだったので、私は急ぎ足に、すぐ次の曲り角をまがってその狭い通りを立ち去った。ところが、しばらくのあいだ、道を知らず歩いていると、突然またしても自分がさっきと同じ通りにいることに気づいた。そうなると私の姿は人眼を惹きはじめたので、急いでまたそこを遠ざかったのだが、急いだ結果は、新しい廻り道をしたあげくに三度同じ通りに入りこむことになっただけであった。すると私は無気味なというよりほかにいいようのないある感情に捉えられた。そこで、それ以上道をさがしまわることを諦めて、つい今しがた立ち去ったばかりの広場に戻った時はほっとした。他の点ではこの話とは根本的に違っていても、意図せずして同じ場所に戻ってくるという点では共通の他の諸状況も、やはりその結果としてはこれと同じような、途方にくれた感じ、無気味な感じを起こさせるものである。(……)

不断ならただの「偶然」と片づけてしまうようななんでもないことを、無気味な、宿命的な、遁るべからざるもののように思い込ませるのは、意図せざる繰返しであることは、他の系列の経験においても苦もなく認められる。(……)

同種のものの繰返しの無気味さがいかにして幼児の心的生活から演繹されうるか(……)。つまり心の無意識のうちには、欲動生活から発する反復強迫の支配が認められる。これはおそらく諸欲動それ自身のもっとも奥深い性質に依存するものであって、快不快原則を超越してしまうほどに強いもので、心的生活の若干の面に魔力的な性格を与えるものであるし、また、幼児の諸行為のうちにはまだきわめて明瞭に現われており、神経症者の精神分析過程の一段階を支配している。そこで、われわれとしては、以上一切の推論からして、まさにこの内的反復強迫を思い出させうるものこそ無気味なものとして感ぜられると見ていいように思う。(同 P343-344)




二重自我のモティーフは、オットー・ランクの同名の研究論文で、きわめて詳細に論及されている。第二の自我の、鏡にうつる像、影の像、守護神、生霊説、死の恐怖などにたいする諸関係がここに研究されているが、このモティーフの驚くべき発展史もまたここに明らかにされている。というのは、ドッペルゲンゲル(二重自我)とは、そもそも自我の消滅にたいする保障、ランクの言葉によれば、「死の偉力を断固として否定すること」であったのである。どうやらあの「不死」の魂こそは、肉体の最初のドッペルゲンゲルであったらしいのである。死滅にたいして防御するための、そのような換え玉作製は、性器象徴の倍加、あるいは複数化によって去勢を表現したがる夢言葉の描写のうちにその対応物ともいうべきものをもっている。これこそ古代エジプト文化において、死者の像を永続する素材のうちに形どっておく技術の原動力となったものである。しかしこれらの諸表象は、原始人や子供の精神生活を支配している無限のナルシシズム、原始的ナルシシズムの基盤の上に生じきたったものであって、この段階を克服すると、ドッペルゲンゲルの形にも変化が起こって、かつては永生の保証であったものが、今は無気味な死の前触れとなるのである。

ドッペルゲンゲルという表象はこの原始的ナルシシズムとともに没落することを要しない。なぜならこの表象は、自我のその後の発展段階から新しい内容を獲得することができるからである、自我のうちには徐々に、爾余の自我と対立する特殊な一部分が形成されて、この一部分が自己観察、自己批評の役割を果たし、心的検閲の仕事を行ない、やがてわれわれの意識にたいして「良心」として立ち現われてくるものなのである。監視妄想の病的ケースにあってはこの一部分が孤立し、爾余の自我から分離されて、医師に気づかれるようになる。爾余の自我をまるで他人のもののように扱いうるような自我の一部分が存在するという事実、つまり人間は自己観察をする能力があるという事実が、古いドッペルゲンゲルの表象を新しい内容をもってみたし、またこの表象にいろいろなものを、なかんずく自己批評の眼には原始時代の、あの古い、すでに克服されたナルシシズムに属するかのように見えるもの一切をなすりつけることを可能にするのである。

しかし自己批評にとって不快な内容のみがドッペルゲンゲルになすりつけられるのではなくて、空想がいまだにそれに執着しているところ、実現されることのなかった運命形成の一切の可能性、また外的な不運によって貫徹されなかったところの、一切の自我の目標、同様にまた自由意志という錯覚を生んだところの、あらゆる禁圧された意志決定も同じくこのドッペルゲンゲルに委譲されるのである。(同 P341-342――一部、フロイト翻訳正誤表案より語句変更)






漱石の未完の遺作『明暗』が驚くべき作品なのは、この「不気味なもの」と「ドッペルゲンゲル」の二つのモチーフが、その百七十二章から百七十六章までに現われることだ。「明」の世界から、「暗」の世界へ突入していく主人公津田になにが起こるのか。

温泉宿に訪れたばかりの津田は女=清子に翌朝果物籠を送り届ける予定だ。この果物籠は、かつてふたりを縁づけようとして成就間際に女にかわされた思惑外れを密に根にもつ裕福な中年の女からの贈物であり、手術後の療養の名目もある津田は、別の男と結婚・流産による療養中の「逃げ去った女」の滞在する湯治場まで、その果物籠を携えてきた(この果物籠は「明」の世界に君臨する中年女の「悪意」の贈物であり、「暗」の世界の女清子に手渡そうとするが、清子はその悪意を果物籠を無頓着に扱うことによって、悪意の受け取りを曖昧化するという「贈与」のテーマもある)。

津田は到宿当夜湯を浴びたあと自分の部屋に戻ろうとして、建て増しのために錯綜としている宿の廊下に迷ってしまう。広い宿は深閑としており部屋の在り処を尋ねる女中も見当たらない。行き当たりばったりに、ふと筋違いの階子段を二、三段あがると、《洗面台の白い金盥が四つほど並んでいる中へ、ニッケルの栓の口から流れる山水だか清水だか、絶えずざあざあ落ち》ているのに、眼が、が、吸い込まれていく。《縁を溢れる水晶のような薄い水の幕の綺麗に滑って行く様が鮮やかに眺められた。金盥の中の水は後から押されるのと、上から打たれるのと両方で、静かなうちに微細な震盪を感ずるものの如くに揺れた。》津田はその水の渦巻に魅入られる。《ただ彼の眼の前にある水だけが動いた。渦らしい形を描いた。そうしてその渦は伸びたり縮んだりした。》大きな鏡があって、「自分の影像」が映る。


彼はすぐ水から視線を外した。すると同じ視線が突然人の姿に行き当ったので、彼ははっとして、眼を据えた。しかしそれは洗面所の横に懸けられた大きな鏡に映る自分の影像に過ぎなかった。鏡は等身と云えないまでも大きかった。少くとも普通床屋に具えつけてあるものぐらいの尺はあった。そうして位地の都合上、やはり床屋のそれのごとくに直立していた。したがって彼の顔、顔ばかりでなく彼の肩も胴も腰も、彼と同じ平面に足を置いて、彼と向き合ったままで映った。彼は相手の自分である事に気がついた後でも、なお鏡から眼を放す事ができなかった。湯上りの彼の血色はむしろ蒼かった。彼にはその意味が解せなかった。久しく刈込を怠った髪は乱れたままで頭に生い被さっていた。風呂で濡らしたばかりの色が漆のように光った。なぜだかそれが彼の眼には暴風雨に荒らされた後の庭先らしく思えた。

 彼は眼鼻立の整った好男子であった。顔の肌理も男としてはもったいないくらい濃かに出来上っていた。彼はいつでもそこに自信をもっていた。鏡に対する結果としてはこの自信を確かめる場合ばかりが彼の記憶に残っていた。だからいつもと違った不満足な印象が鏡の中に現われた時に、彼は少し驚ろいた。これが自分だと認定する前に、これは自分の幽霊だという気がまず彼の心を襲った。凄くなった彼には、抵抗力があった。彼は眼を大きくして、なおの事自分の姿を見つめた。すぐ二足ばかり前へ出て鏡の前にある櫛を取上げた。それからわざと落ちついて綺麗に自分の髪を分けた。

 しかし彼の所作は櫛を投げ出すと共に尽きてしまった。彼は再び自分の室を探すもとの我に立ち返った。彼は洗面所と向い合せに付けられた階子段を見上げた。そうしてその階子段には一種の特徴のある事を発見した。第一に、それは普通のものより幅が約三分一ほど広かった。第二に象が乗っても音がしまいと思われるくらい巌丈にできていた。第三に尋常のものと違って、擬いの西洋館らしく、一面に仮漆が塗っていた。

 胡乱なうちにも、この階子段だけはけっして先刻下りなかったというたしかな記憶が彼にあった。そこを上っても自分の室へは帰れないと気がついた彼は、もう一遍後戻りをする覚悟で、鏡から離れた身体を横へ向け直した。(『明暗』第百七十五章)

このようにして、津田は、彼自身のなかにあって彼以上のもの(対象a)、「私」であるのに手の出せない/思いもよらない対象、彼の分身、ドッペルゲンガーに出逢う。

しかもその「意図せずに」辿り着いた洗面所は、清子の部屋から階段を降りたすぐそこにあるのだ。清子は、結婚間際まで漕ぎつけて津田には理由も判然とせず翻意してしまった女である。清子とはかつて「ここへは一度きたことがある」女に相違ない。

《するとその二階にある一室の障子を開けて、開けた後をまた閉て切る音が聴えた。》

ひっそりした中に、突然この音を聞いた津田は、始めて階上にも客のいる事を悟った。というより、彼はようやく人間の存在に気がついた。今までまるで方角違いの刺戟に気を奪られていた彼は驚ろいた。もちろんその驚きは微弱なものであった。けれども性質からいうと、すでに死んだと思ったものが急に蘇った時に感ずる驚ろきと同じであった。彼はすぐ逃げ出そうとした。それは部屋へ帰れずに迷児ついている今の自分に付着する間抜さ加減を他に見せるのが厭だったからでもあるが、実を云うと、この驚ろきによって、多少なりとも度を失なった己れの醜くさを人前に曝すのが恥ずかしかったからでもある。

 けれども自然の成行はもう少し複雑であった。いったん歩を回らそうとした刹那に彼は気がついた。

「ことによると下女かも知れない」

 こう思い直した彼の度胸はたちまち回復した。すでに驚ろきの上を超える事のできた彼の心には、続いて、なに客でも構わないという余裕が生れた。

「誰でもいい、来たら方角を教えて貰おう」

 彼は決心して姿見の横に立ったまま、階子段の上を見つめた。すると静かな足音が彼の予期通り壁の後で聴え出した。その足音は実際静かであった。踵へ跳ね上る上靴の薄い尾がなかったなら、彼はついにそれを聴き逃してしまわなければならないほど静かであった。その時彼の心を卒然として襲って来たものがあった。

「これは女だ。しかし下女ではない。ことによると……」

 不意にこう感づいた彼の前に、もしやと思ったその本人が容赦なく現われた時、今しがた受けたより何十倍か強烈な驚ろきに囚われた津田の足はたちまち立ち竦んだ。眼は動かなかった。(百七十六章)





漱石のなかにある「彼自身にあって彼以上のもの」とはなにか。

漱石は幼児に養子にやられ、ある年齢まで養父母を本当の両親と思って育っている。彼は「とりかえ」られたのである。漱石にとって、親子関係はけっして自然ではなく、とりかえ可能なものにほかならなかった。ひとがもし自らの血統〔アイデンティティ〕に充足するならば、それはそこにある残酷なたわむれをみないことになる。しかし、漱石の疑問は、たとえそうだとしても、なぜ自分はここにいてあそこにいないかというところにあった。すでにとりかえ不可能なものとして存在するからだ。おそらく、こうした疑問の上に、彼の創作活動がある。(柄谷行人『日本近代文学の起源』)

ここにある幼少の砌の髑髏、漱石のトラウマが、《日常的な叙述のレヴェルから、夢の叙述のレヴェルに転換する、あるいはリアリズムから反・リアルへと乗り越える、不思議な変化を示》しつつ(大江健三郎 『明暗』解説 岩波文庫)、異様な密度を以て書かれることになるのが、その百七十二章から百七十六章である。清子は津田を唐突に見限った<女>であり、漱石の母も理由はともあれ(当時は奇異なことではないにもかかわらず)、彼を見捨てた<女>だ。しかも養父母をある時期までほんとうの親子だと思っていたとすれば(漱石は養父母の離婚により実家に戻っている)、二度の衝撃があったはずだ。


頼朝公卿幼少の砌の髑髏〔しゃれこうべ〕、という古い笑い話があるが、誰しも幼少年期の傷の後遺はある。感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃なので、傷はたいてい思いのほか深い。はるか後年に、すでに癒着したと見えて、かえって肥大して表れたりする。しかも質は幼年の砌のままで。小児の傷を内に包んで肥えていくのはむしろまっとうな、人の成熟だと言えるのかもしれない。幼い頃の痕跡すら残さないというのも、これはこれで過去を葬る苦闘の、なかなか凄惨な人生を歩んできたしるしかと想像される。しかしまた傷に晩くまで固着するという悲喜劇もある。平成は年相応のところを保っていても、難事が身に起ると、あるいは長い矛盾が露呈すると、幼年の苦についてしまう。現在の関係に対処できなくなる。幼少の砌の髑髏が疼いて啜り泣く。笑い話ではない。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。これをどう生きながらえる。たいていはしばらく、五年十年あるいは二十年三十年と、自身の業苦からわずかに剥離したかたちで生きるのだろう。一身の苦にあまり耽りこむものではない、という戒めがすくなくとも昔の人生智にはあったに違いない。一身の苦を離れてそれぞれの年齢での、家での、社会での役割のほうに付いて。芯がむなしいような心地でながらく過すうちに、傷を克服したとは言わないが、さほど歪まずとも受け止めていられるだけの、社会的人格の《体力》がついてくる。人の親となる頃からそろそろ、と俗には思われているようだ。

しかし一身の傷はあくまでも一身の内面にゆだねられる、個人において精神的に克服されなくてはならない、克服されなくては前へ進めない、偽善は許されない、という一般的な感じ方の世の中であるとすれば、どういうことになるだろう。また社会的な役割の、観念も実態もよほど薄い、個人がいつまでもただの個人として留まることを許される、あるいは放置される世の中であるとすれば。(古井由吉「幼少の砌の」『東京物語考』)






もちろんこの箇所だけでなく、『明暗』の前半、あるいはそれ以前の作品にも、漱石の心的外傷性記憶の痕は歴然としている、とする読み手もいるだろう。

溢れる水は漱石的存在に異性との遭遇の場を提供する。しかも、そこで身近に相手を確認しあう男女は、水の横溢によって外界から完全に遮断されてしまっているかにみえる。(……)

あまたの漱石的「存在」が雨と呼ばれる厚い水滴の層をくぐりぬけたはてに出会うべきものは、ときには那美さんと呼ばれ、あるいは清子、あるいは嫂と呼ばれもする具体的な一人の女性ではなく、そうした水の女たちが体現する垂直の力学圏というか、縦に働く磁場そのものだということになろう。(蓮實重彦『夏目漱石論』)

しかしながら、漱石のほかの作品に『明暗』の最後の箇所ほどの密度で享楽の核をまさぐるエクリチュールがほかにあっただろうか。


通常、ひとはその存在の最も貴重な部分、己の享楽の核を切り離して生きている。この享楽の核が対象aだーー「わたしのなかにあってわたし以上のもの」。ひとは己れを対象aに耐えられない。

《万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)》(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』)とは、中井久夫のエリオット『四つの四重奏』の詩句の超訳だが、逐語訳すれば「人というものはあまりに大きな現実には堪えられない」である。この「あまりに大きな現実」とはラカンのいう「現実界real」であり、けっして「現実reality」ではない。現実とは幻想の側にある。自分につごうのよい自己像であったり世界像である。現実は幻想(フロイトの後期幻想)によって構造化されており、象徴化に抵抗する言葉にできないもの、享楽の核、その現実界をていよく糊塗する「防衛」機能をもっている。そしてそのことがしばしば当人を生かしているとさえいえる。

ラカンが『テレヴィジョン』で、《現実は現実界のしかめっ面である》とするのはそのことだ。

あるいはFrançois Balmèsなら次のように言う。

現実は象徴界によって多かれ少なかれ不器用に飼い馴らされた現実界である。そして現実界は、この象徴的な空間に、傷、裂け目、不可能性の接点として回帰する。

reality is the Real as domesticated—more or less awkwardly—by the symbolic; within this symbolic space, the Real returns as its cut, gap, point of impossibility(François Balmès, Ce que Lacan dit de l'être)――ジジェク『LESS THAN NOTHING』 より孫引き






最後に、漱石は《『明暗』によって、又『明暗』によってのみ、不朽である》とする加藤周一の文を付記しておこう。

加藤周一は、『明暗』の創造のからくりのなかに潜むデモーニッシュな力の大きな役割を強調し、《そのデーモンは、『明暗』の作者を、捉えたのであり、生涯に一度ただその時にのみ捉えたのである。それが修繕時の大患にはじまったか、何にはじまったか、私は知らない。確実なのは、小説の世界が今日なお新しい現実を我々に示すということであり、それに較べれば、知的な漱石の数々の試みなどは何ものでもないということである》、と。

我々の憎悪や愛情やその他もろもろの情念は、しばしば極端に到り、爆発的に意識をかき乱し、ながく注意され、ながく論理的に追求されれば、意識の底からは奇怪なさまざまの物が現れるであろう。我々の日常生活にそういうことが少ないのは、我々の習慣が危険なものを避け、深淵が口を開いても、その底を見極めようとはしないからである。しかし、その底に、我々の行動を決定する現実があり、日常的意識の奥に、我々を支配する愛憎や不安や希望がある。それは、日常的生の表面に多様な形をとって現れるが、その多様な現象の背後に、常に変らざる本質があり、プラトン風に言えば、影なる現象世界の背後に、観念なる実在がなければならない。観念的なものは現実的であり得るし、むしろ観念的なもののみが現実的であり得る。なぜなら、それが、小説家に、深く体験され、動かしがたく確実に直感されたものであるからだ。(加藤周一『漱石に於ける現実 ――殊に『明暗』に就いて――』)


加藤周一がこのように書いたのは、1948年のことであり、そのときまだ29歳前後だったことになる。

※画像は荒木経惟の一枚とウィトキンの「接吻」(解剖学の講義のために縦に真っ二つに割られた一人の老人の頭部による)を除いて、ロバート・メイプルソープの作品。