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2014年1月27日月曜日

「言葉のコラージュ」と「原典のない翻訳」

前回、《自分が書く詩に飽きたので、「現代詩年鑑2013」掲載の作品から、無断でコラージュしてみました》とする谷川俊太郎のコラージュ詩を掲げた。

ところでアンドレ・ブルトンにも次のようなコラージュ詩がある。

軍人たち
かまうものか 私の詩句 のろのろしたことの
運び
活気
言わせておいた方がましだ
間接税収税人の
アンドレ・ブルトンが
退却を待ちながら
コラージュにふけっていると  André Breton, « Pour Lafcadio » [1919]

「自動記述」の手法によってより知られているアンドレ・ブルトンだが、そもそも自動記述の代表作『溶ける魚』の草稿には、新聞の切り抜きによるコラージュ詩が含まれていたようだ。
(中田健太郎『アンドレ・ブルトンにおける自動記述とコラージュ』による)


 …………

わたくしは「自分の言葉」で表現しようとすると、これはどこかで覚えこんでいた台詞を無意識的に劣化させた表現ではないか、と思えてしまうタチで、とくに海外住まいで日常的に日本語を使うことが稀なせいもあり、ーーと書いたところですでに劣化させた表現をしているわけだ、《昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象》という文を。

『大戦の終末』はきわめて素直な文章だといえるかもしれない。素直な、というのは誰かに教えこまれたのでもないのに、昔からひそかにくりかえし暗記していた台詞が、ふと口から漏れてしまったような印象を与えるからだ。事実、人間の死の予言は、神の死という言葉が流通しうる文化的な圏域にあっては、いずれ誰かが口にすべき言葉として予定に組みこまれていたもののはずである。あからさまに言明されることはなくとも、そうした命題が論じられて何の不思議でもない文脈が用意されていたのであり、それにふさわしいきっかけが与えられればたちどころに顕在化するはずの、潜在的な主題でさえあったといえるだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)

この文は紋切型表現批判をめぐる箇所なのだが、蓮實重彦に言わせれば、サルトルの『大戦の終末』でさえこのようなのだから、凡人はあまり気にすることはないともいえる。

さらには、書くことはみな「なぞり書き」であるという福田和也=ド・マンの発言がある。
ぼくは、書くことはみな「なぞり書き」だと思う。あらゆる意味でなぞり書きであって、それこそド・マンが、古典主義は意識的ななぞり書きをやって、ロマン主義は無自覚ななぞり書きだという言い方をしている。要するになんにもなしに書くことなんていうことはありえないわけで、いずれもなぞり書きである。ただそれに対して自覚的な人が批評家で、無自覚な人が批評家でないというわけではない。自覚的でありながら、それを非顕在的にするのが一応近代小説だったと思う。それがなぞり書きであるということは、非顕在的で、ナラティヴには表われない。それに対して批評というのは、無自覚な人であっても、それはなぞり書きだということがわかる構造になっているのが近代までの性格だったのでしょうね。(共同討議「批評の場所をめぐって」『批評空間』1996Ⅱ-10 福田和也発言))

そもそも美文家として誉れ高い三島由紀夫の文章について、こんな言葉さえある。

・三島さんのレトリック、美文は、いわば死体に化粧をする、アメリカの葬儀屋のやっているような作業の成果(大江健三郎)

・「目の前の現実に対して言葉は既成の言葉の中からほとんど自動的に選ばれる。つまりは美文が生まれる訳である」と大岡昇平は言っている。要するに銭湯の壁画みたいだと(丹生谷貴志)

ーー三島由紀夫の文章がこのようであるかどうかは評者により見解の相違があるだろうが、中途半端な才能の持ち主が文学的表現をしようとすると、「銭湯の壁画」のようにみえたり、「死体に化粧」であるのは、ツイッターやブログなどでうんざりするほど見られるだろう。

さて少し前に戻って、「自分の言葉」をめぐって鈴木創士氏は次のように書く。

「自分の言葉で表現しろ」は誤解を生む言いかたである。言葉は本来他人のものであり、その他人もまた別の他人から借りてきたのであって、言葉の使用法などというものはすでにして言葉の誤りである。規則や慣習に反抗した程度で損なわれる「自分」など、もともと表現するに値しないお粗末なものなのだ(鈴木創士ツイート)

ただしその剽窃やら引用やらなぞり書きでさえ才能は現われるもので、それは次の通りである。

文章など何をやってもいい。自分を引用しようが、引用を捏造しようが、自分を根絶やしにしようが、自分は自分などと言えないようにするためにどんな手を使おうが構わない。ただ全くピアノをやらない人に五分間滅茶苦茶の即興をやれと言っても続かないように、文章にもそういうところがあります。ばあ!(鈴木創士)

いわば語彙の豊富さ、音調、リズム、歯切れのよさ、ドモリよう、立ち止まり方などに才能が現われるのであって、ーーと書けば、これも劣化された要約であり、《細部がときならぬ肥大化を見せ、言葉の独走が起る》、あるいは、《言葉が独走するときに起るその種の衝突は、必ずしも迅速さの印象を与えるとは限らない。それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起りうる》(蓮實重彦『小説から遠く離れて』)と引用しておくほうがよい。

あるいはドモリとか立ち止まり方などというのは、ドゥルーズやアランの言葉を頭の片隅に覚えこんでいるのだが、正確に記憶しているわけではないための劣化である。

文体とは、自らの言語のなかでどもるようになること。難しい。なぜなら、そのようにどもる必要がなければならないのだから。発語(パロール)でどもるのではない、言語活動(ランガージュ)そのものによるどもりなのだ。自国語そのものの中で異邦人のごとくであること。逃走の線をひくこと。(ドゥルーズ『ディアローグ』)

ーーこのドゥルーズの発言には、プルーストの「美しい書物は一種の外国語で書かれている」がベースにある。

アランの文も並べておこう。

・散文にも、かならず一種の歌は聞こえる。フレーズの円環というべきかもしれないが。ただし、私にいわせるあんら、散文作家はそういう形をずたずたに切ってしまうという点で、詩人からきっぱり区別されるものだ。

・脚が悪い者だけがしつかりと見る。かうして、 散文は、正義と同様に、脚を引きずりながら進む。

・散文には媚がない。耳の期待をうらぎる。散文は絶対に歌おうとはしない。あの巫女の痙攣など散文は知らない。


さて、ここで基本に立ち戻るならば中井久夫の文がよい。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)

これらの才能の顕れの肝要な技法として、《「軽薄にソネットを扱いそこにピタゴラス的な美をみないのは馬鹿げている」(ボードレール)。ピタゴラス的な美とは、”現実”や”意味”と無関係に形式的な項の関係のみで成り立つものである》(柄谷行人『隠喩としての建築』)ということを忘れてはならない。

他にも、言葉の意味とはけっして無関係でないにもかかわらず「形式的」といえる技法として、オクシモロンというものがある(以下は、安永愛「 ポール・ヴァレリーのオクシモロンをめぐって」より)。

ヴァレリーはオクシモロンを多用した、《修辞学で言うオクシモロンoxymoronという言葉は、語源の上ではギリシャ語で「鋭い」を表すoxyと「愚か」の意味のmorosとが結びついたもので、「無冠の帝王」とか「輝ける闇」などの表現のように、通念の上では相反する、あるいは結びつき難い意味を持つ二つの言葉が結びつき、ぶつかりあいながら、思いがけない第三の意味を生み出すという一つの表現技法》。

魅惑の岩、豊かな砂漠、黄金の闇、さすらふ囚われびと、おぞましい補ひ合ひ、昏い百合、凍る火花、世に古る若さ、はかない不死、正しい詐欺、不吉な名誉、敬虔な計略、最高の落下(中井久夫訳ヴァレリー『若きパルク 魅惑』巻末の「オクシモロンー覧表」より)

シェイクスピアなら次の如し。

ああ喧嘩しながらの恋 、ああ恋しながらの憎しみ、ああ無から創られたあらゆるもの、ああ心の重い浮気、真剣な戯れ、美しい形の醜い混沌、鉛の羽根、輝く煙、燃えない火、病める健康、綺麗は汚い、汚いはきれい……

たとえば蓮實重彦のいくつかの概念《魂の唯物論》、《表象の奈落》などがオクシモロンでなくてなんだろう。

これはオクシモロンとはやや異なるが、偉大な思想家により、ひとつの言葉が相反する意味を示すことが説かれるのを知っていると、その語は特別な輝きをもつということがある。

神経症者が、女の性器はどうもなにか君が悪いということがよくある。しかしこの女の性器という気味の悪いものは、誰しもが一度は、そして最初はそこにいたことのある場所への、人の子の故郷への入口である。冗談にも「恋愛とは郷愁だ」という。もし夢の中で「これは自分の知っている場所だ、昔一度ここにいたことがある」と思うような場所とか風景などがあったならば、それはかならず女の性器、あるいは母胎であると見ていい。したがって無気味なものとはこの場合においてもまた、かつて親しかったもの、昔なじみのものなのである。しかしこの言葉(unhemlich)の前綴unは抑圧の刻印である。(フロイト『無気味なもの』)


 で、なんの話であったか。

前回の谷川俊太郎のコラージュは、一行毎のコラージュであるようだが、文章といいうものは、実は単語のコラージュのようなところがあるわけだ、ということを言いたいために、松浦寿輝の次の文を引用するつもりだったのだ。

どの語彙を選ぶかどの構文を採るか、その選択の前で迷う自由はあっても、新たな選択肢そのものを好き勝手に発明することは禁じられているのだから、語る主体としての「わたし」が自分自身の口にする言葉に対して発揮できる個性など高が知れている。

しかし、実はこの制約と不自由こそ、逆に「わたし」が独我論的閉域から開放されるための絶好の契機なのである。どんな些細な言葉ひとつでもそれを唇に乗せたとたん、「わたし」は他者のシステムに乗り入れることになる。それを言い表そうとしないかぎり「わたし」自身に属する独自な感覚であり思考であると思われたものも、口に出すやいなや如何ともしがたく凡庸な言葉の連なりとして「わたし」自身の鼓膜によそよそしく響き、幻滅を味わうというのはよくある体験なのではあるまいか。自分の奥底まで届いた唯一のかけがえのない貴重な出来事を言葉にしようと試みて、語れば語るほど言葉がよそよそしく遠ざかってゆくというもどかしさが、われわれをしばしば苛立たせていないか。

だが、このよそよそしさとこのもどかしさこそ、言語の実践を彩っているもっとも豊かなアウラと言うべきものなのである。よそよそしさの溝を何とか跨ぎ越えよう、触れえないものに何とか触れようとして虚空をまさぐる宙吊りの時間のもどかしさに耐えながら、「わたし」は言葉を欲望する。言葉という他者に刺し貫かれることで豊かになりたいと願うのだ。

そんなとき、言葉は、まさしくあの「わたし」をうっとりさせる春宵の風の正確な等価物となる。むしろ、受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものかと言うべきかもしれぬ。そして、よそよそしさともどかしさそのものを快楽に転じながら「わたし」が辛うじて声に出したり紙に書き付けたりしえた発語の軌跡とは、あたかもこの濃密な花粉を顔いっぱいに浴びてしまった人体に現れる過剰な免疫反応としての花粉症の症状にでも譬えられるかもしれぬ。他者のシステムとしての言語を前にした発語のもどかしさの快楽とは、眼の痒さやくしゃみを堪えながらしかし鼻孔をくすぐる花の香に陶然とすることをやめられずにいる者の、甘美なジレンマに似ている。(松浦寿輝『官能の哲学』)

さて最後に、次の古井由吉の驚くべき言葉をもう一度考えてみる「ふり」をするために掲げておこう。

……自分のは原文のない翻訳みたいなものだと言っていたこともあります。実際に原典があったらどんなに幸せだろうと思いますよ。ただ、原典のない翻訳というものは、文学一般のことかもしれないとも思っているんです。(古井由吉「文藝」2012年夏号)