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2014年1月15日水曜日

エロスとゆらめく閃光

備忘:ドゥルーズとジジェクの死の欲動」から引き続く。

生の欲動(エロス)は死を目指し、死の欲動(タナトス)は生を目指す。

life drive aims towards death and the death drive towards life (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』ーーポール・ヴェルハーゲ(Paul Verhaeghe)とジジェクをめぐる備忘より)

いっけん奇妙な言い方だ。エロスとタナトスにはいろいろな見解がある。すぐれたフロイト・ラカン読みであることは明らかなベルギーの精神分析医ポール・ヴェルハーゲの見解もそのまま受け取る必要はない。


ところでエロスが死をめざす、というとき、ヴェルハーゲはなにを言おうとしているのか。

◆『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』(Paul Verhaeghe)より(私意訳)。
エロスとタナトスは切り離された欲動ではない。その二つは、生の過程を逆の方向を言い表わす。明らかにされることは、次の典型的な特徴である。二つの方向の一方がより現前化し優勢になると、他の方向がより強くなるということだ。それはエロスとタナトスの二組だけのことではない。ヨーロッパが統合すればするほど、ナショナリストへの傾き、さらには地域主義者さえへの誘因がより強くなる。

Eros and Thanatos are not separate drives: they indicate opposing directions for the course of life. This accounts for a typical characteristic—the more one of the two directions is present and predominates, the stronger the other will become as well. This does not only apply to couples. The more a united Europe is achieved, the stronger nationalist and even regionalist trends become.
女性、享楽、不安はエロスの部分である。男性、ファリックな快楽、悲哀はタナトスの部分である。この性向が意味する分岐は、快楽はあまりにも大きな喪失を生み出すということだ(Tristis post Coitum 性交後の悲しみ)。不安は自我の消滅にかかわり、それが享楽の条件である(たとえば性的融合によってエゴは消え去る刻限がある)。悲哀はファリックな快楽(たとえばオーガズム)の結果による共生の喪失にかかわる。この観点から言えば、男性と女性の対立は、まったく相対的なものであり、それは能動性と受動性の対立として捉えなおすべきだ、すなわち、どの主体も他者に相対するときに取り得る態度として。

woman, jouissance and anxiety are part of Eros; man, phallic pleasure and sadness are part of Thanatos. The affect indicates the break where pleasure results in too great a loss: anxiety relates to the disappearance of the ego that is a condition for jouissance. Sadness relates to the loss of symbiosis as a result of phallic pleasure. In this respect, the opposition between man and woman is extremely relative and should be interpreted more as an active versus a passive position, which any subject can adopt vis-a-vis the other.

どうやら、オーガズムの瞬間の「小さな死」が、エロスとタナトス概念の重要なヒントのようらしい。

生の欲動/死の欲動を峻別しているかのように読まれもするフロイトの後期欲動論のもうひとつの鍵言葉は、 drive fusion (Triebmischung)だ。すなわちエロスとタナトスの欲動の融合であり、別々に現われるのは稀である、とされている。

エロスが死をめざす、という意味は、〈母〉との融合を目指すということであり、だがそのとき個体は消滅する。不安とはその消滅の怖れの不安だ。

タナトスが生をめざす、という意味は、エクスタシーの瞬間の個体の消滅から逃れだし、しかしながらつねにエロスの欲動と合体して、ファリックな快楽(性交に代表される)の反復衝動をするということだ。灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動。

ラカンの『セミネールⅩⅩ』(『アンコール』)の、”ENCORE”は、もっと、もっと何度も、という意味だ。すなわち反復衝動。ラカンはそのセミネールで、ふたつの享楽を示す、男性的なファリックな享楽と女性的な〈他者〉の享楽。後者は「快原則の彼岸」にあるものとされる。

あるいはセミネールⅩⅠには、次のような言葉もある、
The loss of eternal life, which paradoxically enough is lost at the moment of birth, that is, birth as a sexed being, because of meiosis (Seminar 11, 205; Seminar XI, 187).

母との出産時の分裂により、永遠の生が失われる。エロスとはその永遠の生に回帰したいという衝動であるということになる。だがそれは不可能であり、タナトスはエロスの衝動と融合して、永遠の反復運動をする。どうやらヴェルハーゲの主張はそういうことらしい。

もっとも〈母〉との融合の永遠の生というが、いろんな母がいる。

フロイトは、シェイクスピアの『リア王』の叙述を引用して次のように書いている。

ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『三つの小箱』)

ドゥルーズのマゾッホ論なら次の如し。

マゾッホによる三人の女性は、母性的なるものの基本的イメージに符号している。すなわちまず原始的で、子宮としてあり古代ギリシャの娼妓を思わせる 母親、不潔な下水溝や沼沢地を思わせる母親がある。―――それから、愛を与える女のイメージとしてのエディプス的な母親、つまりあるいは犠牲者として、あ るいは共犯者としてサディストの父親と関係を結ぶことになろう女がある。―――だがその中間に、口唇的な母親がいる。ロシアの草原を思わせ、豊かな滋養を さずけ、死をもたらす母親である。(……)滋養をさずけ、しかも無言であることによって、彼女は他を圧する……。彼女は最終的な勝利者となる。(ドゥルーズ『マゾッホとサド』蓮實重彦訳)

精神分析的なエロスとタナトスをめぐる覚書をめぐっては、ここでいったん離れる。小説家や詩人の言葉に耳を傾けてみよう。

川は光っていた。水の青が、岩場の多い山に植えられた木の暗い緑の中で、そこだけ生きて動いている証しのように秋幸には思えた。明るく青い水が自分のひらいた二つの眼から血管に流れ込み、自分の体が明るく青く染まっていく気がした。そんな感じはよくあった。土方仕事をしている時はじょっちゅうだった。汗を流して掘り方をしながら秋幸は、自分が考えることも判断することもいらない力を入れて堀りすくう動く体になっているのを感じた。土の命じるままに従っているのだった。硬い土はそのように、柔らかい土にはそれに合うように。秋幸はその現場に染まっている。時々、ふっとそんな自分が土を相手に自瀆をしていた気がした。いまもそうだった。(中上健次『枯木灘』)

究極のエロスとは〈母〉なる大地との合体のことだ。エロス欲動によって惹きおこされる高揚感は、母なる大地に吸いこまれるような感覚であり、なにものかか大きなものへの融合感覚のめまいだ。エロスは決して主体の能動性から生じるものではない。受動性からだ。襲われるものであり、刺し貫ぬかれるものだ。見るのではなく見られる、聞くのではなく聞かれる、触れるのではなく触れられるのであり、では嗅覚はといえば、においとはそもそも襲われるものだろう。その意味で嗅覚は触覚とともに、もっともエロスを呼びおこすことの多い感覚だ。


いやプルーストのマドレーヌの味覚はどうだというのか。刺し貫かれるのがどの感覚によるのかは、ひとによるのだろう。運動感覚、振動感覚、視覚の場合は色彩感覚がことさらエロスを齎すのは、中上健次が書くとおり。染まる、日に染まる、青い水の色彩が血管に流れ込む。

秋幸は単につるはしを土にふりおろす掘り方が好きだった。日は秋幸を風景の中の、動く一本の木と同じように染めた。風は秋幸を草のように嬲った。秋幸は土方をやりながら、自分が考えることも知ることもない、見ることも口をきくことも言葉を聴くこともないものになるのがわかった。いま、つるはしにすぎなかった。土の肉の中に硬いつるはしはくい込み、ひき起こし、またくい込む。なにもかもが愛しかった。秋幸は秋幸ではなく、空、空にある日、日を受けた山々、点在する家々、光を受けた葉、土、石、それら秋幸の周りにある風景のひとつひとつへの愛しさが自分なのだった。秋幸はそれらのひとつひとつだった。土方をやっている秋幸には日に染まった風景は音楽に似ていた。さっきまで意味ありげになむあみだぶとともなむほうれんぎょとも聴こえていた蝉の声さえ、いま山の呼吸する音だった。

つるはしはもちろん母なる大地に向かう性器だ。秋幸のファリックな享楽は、大地を犯す、永遠の生を目ざして。〈母〉との融合を目ざして。

秋幸はまた働いた。自分が考えることもない一本の草の状態にひたっていたかった。過去も未来もない。風を受けとめ、光にあぶられて働く。土がつるはしを引くと共に捲れ、黒く水気をたくわえた中を見せる。それは土の肉だった。土の中に埋まって掘り出された石はさながら大きな固い甲羅を持つ動物が身を丸めて眠っている姿だった。いや死体に見えた。土の中の石は死そのものだ。肉も死も日に晒され、においを放ち、乾いた。掘り出され十分もすればそれらは風景の中に同化した。

〈母〉との融合感覚は束の間のものだ。そこで〈死〉にめぐり会う。タナトスの衝動が繰り返される。この長篇の言葉にただならぬ震えや脈動を与えているのは、エロスとタナトスの至高のエクリチュールがあるからだ。

梢の葉は柔らかく若く、両腕に道具をかかえ倉庫とダンプカーの間を行き来する秋幸の頭に触れた。その感触が短かく刈った髪を上から撫ぜおろす女の手を思い出させた。

光が、風が、自然が、秋幸を愛撫する。そして中上の震えた言葉がわれわれを刺し貫く。

《丘のうなじがまるで光つたやうではないか/灌木の葉がいつせいにひるがへつたにすぎないのに》(大岡信「春 少女に」より)

だれもも知っているはずだ、この「ゆらめく閃光」(ロラン・バルト)の感覚の襲撃を。
触れえないものに何とか触れようとして虚空をまさぐる宙吊りの時間のもどかしさに耐えながら、「わたし」は言葉を欲望する。言葉という他者に刺し貫かれることで豊かになりたいと願うのだ。そんなとき、言葉は、まさしくあの「わたし」をうっとりさせる春宵の風の正確な等価物となる。むしろ、受精の機会を求めて風に乗って飛散する花粉のような何ものかと言うべきかもしれぬ。そして、よそよそしさともどかしさそのものを快楽に転じながら「わたし」が辛うじて声に出したり紙に書きつけたりしえた発語の軌跡とは、あたかもこの濃密な花粉を顔いっぱいに浴びてしまった人体に現われる過剰な免疫反応としての花粉症の症状にでも譬えられるかもしれぬ。他者のシステムとしての言語を前にした発語のもどかしさの快楽とは、眼の痒さやくしゃみを堪えながらしかし鼻孔をくすぐる花の香に陶然とすることをやめられずにいる者の、甘美なジレンマに似ている。(松浦寿輝『官能の哲学』より)

いや評論文ではなく、松浦寿輝の「実践」をみよう。

一人称の物語はここで終る もう手袋のほころびやテーブルの上の焼け焦げをかすめては消えてゆく 曇った眼差しだけしか残っていない 濡れた壜の口のあたりをたゆたう 倦み疲れた冬の光だけしか残っていない 波のざわめき 鳥の声 石灰がにおう世界の夕暮 書かれたものはもう声にはのらないから「うしろへ」とか「あとで」といったつつましい嘘をひっそり呟くだけだ「蒼ざめた女の薫る髪」や「唾液に光る山狼の白い牙」を裏側からなぞりかえし 消しつくし 眼前をよぎって無意味に堕ちてゆく濡れた光景から目を逸らすだけだ 寝台の上に降り出す雪の翳った白さに耐えながら 充血した性器を押しひらく 欲望もなく 熱もなく 掃海作業のようにすすむ さめた劇 牛乳がしたたる小さな尻 掘り起こされたばかりの百合の球根 何ひとつ口にせずただひらいた両手を暗い天候の愛撫にゆだねる 濁った時間 媚薬のように 浚渫機はゆっくりとまわり 静脈のなかに朽ちた溺死者を探す 骨と骨とが響きあう つめたい透視図法 魚のひれ 藻 息 彼は彼女が彼らの 彼女に彼らを彼と あるかなきかの明るみに目を凝らす 修辞は狂い 構文も曖昧にただよいはじめ よどんだ室内が窓の外に流れ出し すべてが無色に溶けてゆく 手と足は相殺しあい 髪は水にそよぎ 失墜や遭遇や別離といった熱すぎる文字が削り落とされてゆく 歌ってはならぬ楽譜 投げてはならぬ石 揺れる吊り橋 視界を埋めつくす水母の死骸 それは物語の終焉ではなくて 終焉の物語のはじまりにすぎないのか 愛しています あなたを愛しています あなたを愛しています あなたを愛しています あなたを(松浦寿輝『ウサギのダンス』より)

あるいは、中井久夫のエッセイはときに驚くほどのエロスとタナトスの混淆から生じる官能、その震えと脈動を伝えてくれる。次の文は、まずは「におい」だ。それは死臭でもある。--《花の腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り》、《すれちがう少女の残す腋臭のほのか》なにおい。そして、《ひしひしとひとを包む透明な気配》の無形の力に吸い込まれていく、中上健次が大地に吸いこまれたように、日の光を浴びたように。

ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香りーー、それと気づけばにわかにきつい匂いである。

それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨あがりの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いをふりこぼしていた。

金銀花の蔓が幹ごとにまつわり、ほとんど樹皮をおおいつくし、その硬質の葉は樹のいつわりの毛羽となっていた。かすかに雨後の湿り気がたちのぼる。

二週間後には、このあたりは、この多年生蔓草の花の、すれちがう少女の残す腋臭のほのかさに通じる、さわやかな酸味をまじえたかおりがたちこめて、ひとは、おのれをつつむこの香の出どころはどこかととまどうはずだ。小さい十字の銀花も、それがすがれちぢれてできた金花の濃い黄色も、ちょっと見には眼にとまらないだろう。

この木立は、桜樹が枝をさしかわしてほのかな木下闇をただよわせている並木道の入口にあった。桜たちがいっせいにひらいて下をとおるひとを花酔いに酔わせていたのはわずか一月まえであったはずだ。しかし、今、それは遠い昔であったかのように、桜は変貌して、道におおいかぶさっているのはただ目に見える葉むらばかりでなく、ひしひしとひとを包む透明な気配がじかに私を打った。この無形の力にやぶれてか、道にはほとんど草をみず、桜んぼうの茎の、楊枝を思わせるのがはらはらと散らばっていた。(中井久夫「世界の徴候と索引」より)

さらにまた、《女体を思わせる地形がかすかにしかし確実にエロスを感じさせる陰影の地に直立して立つ優雅な姿》と書かれる次の文はどうだろう。

……山桜の大木はかならずといってよいほど、二つの丘の相会うところ、やわらかにくぼんでやさしい陰影を作るところ、かすかな湿りを帯びたあたりにある。

(…… )本居宣長は、けっして散る桜を歌わなかった。「敷島の大和心をひと問はば朝日に匂ふ山ざくら」 ――。匂いは、嗅覚だけのことではない。花咲く山桜の大樹の周りの風景へのみごとなとけこみを「匂う」と表したにちがいない。実際、私の家の背山、向山にも、周囲の春の浅みどりに、あるいはまだ山肌を透けてみせる樹々の裸の枝のあいだに、ひっそりと、ほのかな淡い桜色のしずかなほのおをにじませている山桜の一もと二もとが、みうけられる。

そのとおり。山ざくら、この日本原種の桜は、けっして群がって咲きはしない。山あいの窪に、ひっそりと、かならず一もとだけいるのである。そして、女体を思わせる地形がかすかにしかし確実にエロスを感じさせる陰影の地に直立して立つ優雅な姿のゆえに、桜は、古代の人の心を捉えたのであろう。(中井久夫「桜は何の象徴か」)

《私が名指すことのできるものは、事実上、私を突き刺すことができないのだ。名指すことができないということは、乱れを示す良い徴候である。》(ロラン・バルト)--快原則の彼岸にあるものとはこういうことだ。たとえば西脇順三郎の詩は、そのことばかりを謳っているようにみえる。束の間の永遠、その垂直に立つ刻限を。

《とつぜん夏が背中をすきとおした/石垣の間からとかげが/赤い舌をペロペロと出している》

《柿の木の杖をつき/坂を上っていく/女の旅人突然後を向き/なめらかな舌を出した正午》

ーー「正午」?!

まさに、ごくわずかなこと。ごくかすかなこと、ごく軽やかなこと、ちょろりと走るとかげ。一つの息、一つの疾駆、一つのまばたきーーまさに、わずかこそが、最善のたぐいの幸福をつくるのだ。静かに。

――わたしに何事が起ったのだろう。聞け! 時間は飛び去ってしまったのだろうか。わたしは落ちてゆくのではなかろうか。落ちたのではなかろうか、――耳をこらせ! 永遠という泉のなかに。(『ツァラトゥストラ』第四部「正午」)

この「ゆらめく閃光」。
その効果は切れ味がよいのだが、しかしそれが達しているのは、私の心の漠とした地帯である。それは鋭いが覆い隠され、沈黙のなかで叫んでいる。奇妙に矛盾した言い方だが、それはゆらめく閃光なのである。(ロラン・バルト『明るい部屋』)

ポルノグラフィにはエロスもタナトスもない。肝腎なのは「ゆらめく閃光」である。

身体の中で最もエロティックなのは衣服が口を開けている所ではないだろうか。倒錯(それがテクストの快楽のあり方である)においては、《性感帯》(ずい分耳ざわりな表現だ)はない。精神分析がいっているように、エロティックなのは間歇である。二つの衣服(パンタロンとセーター)、二つの縁(半ば開いた肌着、手袋と袖)の間にちららと見える肌の間歇。誘惑的なのはこのちらちら見えることそれ自体である。更にいいかえれば、出現ー消滅の演出である。

それはストリップ・ショーや物語のサスペンスの快楽ではない。この二つは、いずれの場合も、裂け目もなく、縁もない、順序正しく暴露されるだけである。すべての興奮は、セックスを見たいという(高校生の夢)、あるいは、ストーリーの結末を知りたいという(ロマネスクな満足)希望に包含される。(ロラン・バルト『テクストの快楽』)
バルトが『テクストの快楽』で巧みに表現している「出現=消滅の演出」、つまり、最終的な真相の暴露へと向けて衣裳を脱ぎすててゆくストリップ・ショーの観客を捉える欲望ではなく、衣服の縁と縁とが間歇的にのぞかせる素肌の誘惑、ほとんど偶発的といえる裂け目の戯れ、距離でも密着でもなく、それじたいが不断の運動である「出現=消滅の演出」。それを肯定することを快楽と呼ぶことも、おそらくはとりあえずの命名法でしかないだろう。それは苦痛と呼ばれてもよかろうし、受難と名指されることさえ不自然とも思われぬほどに致命的な体験である。「出現=消滅」の戯れを組織する演出とは、傍観者としての観客が享受しうる距離を廃棄し、距離でもあり密着でもあるための不断の変容を要請するものであるからだ。その点において、いったん秩序に順応しさえすれば露呈の瞬間へと導かれる物語の欲望とはまったく異質の欲望が、「テクスト」の快楽を煽りたてていることがわかる。その体験は、たしかに誰もが気軽に試みてみるわけにはゆくまいが、だからといって特権的な個体だけに許されているわけでもない。原理的にはあらゆる存在に向けて開かれていさえいるはずなのに、現実には、その受難=快楽に進んで身をまかせようとする者はごく稀である。それが権利だとは思われていないからだ。誰もが真実の露呈という永遠の儀式にたどりついて終りとなる物語を欲望し、その欲望を漸進的に満足させる説話論的な秩序に埋没することこそが快楽なのだと確信している。受難=快楽としての浅さは、かくして、いたるところで回避されることになるだろう。(蓮實重彦『物語批判序説』)
…………


ほかにも触感の作家谷崎潤一郎ならば、羊水に全身を浸して暗闇を漂うかのごとき視力の喪失による、無意識的な乳幼児期における乳首と唇との至福の交合の不意の再現、《私をしっかりと抱きしめたまゝ立ちすくんだ。私も一生懸命に抱き附いて離れなかつた。甘い乳房の匂が暖かく籠もっていた》(『母を恋ふる記』)――このようなエロス感覚がある。次の吸い物椀は、母の乳房に違いない。

私は、吸い物椀を手に持った時の、掌が受ける汁の重みの感覚と、生あたゝかい温味(ぬくみ)とを何よりも好む。それは生れたての赤ん坊のぷよぷよした肉体を支えたような感じでもある。吸い物椀に今も塗り物が用いられるのは全く理由のあることであって、陶器の容れ物ではあゝは行かない。第一、蓋を取った時に、陶器では中にある汁の身や色合いが皆見えてしまう。漆器の椀のいゝことは、まずその蓋を取って、口に持って行くまでの間、暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいるのを眺めた瞬間の気持である。人は、その椀の中の闇に何があるかを見分けることは出来ないが、汁がゆるやかに動揺するのを手の上に感じ、椀の縁(ふち)がほんのり汗を掻いているので、そこから湯気が立ち昇りつゝあることを知り、その湯気が運ぶ匂に依って口に啣(ふく)む前にぼんやり味わいを豫覚する。その瞬間の心特、スープを浅い白ちゃけた皿に入れて出す西洋流に比べて何と云う相違か。それは一種の神秘であり、禅味であるとも云えなくはない。(……)

 私は、吸い物椀を前にして、椀が微かに耳の奥へ沁むようにジイと鳴っている、あの遠い虫の音のようなおとを聴きつゝこれから食べる物の味わいに思いをひそめる時、いつも自分が三昧境に惹き入れられるのを覚える。茶人が湯のたぎるおとに尾上の松風を連想しながら無我の境に入ると云うのも、恐らくそれに似た心特なのであろう。日本の料理は食うものでなくて見るものだと云われるが、こう云う場合、私は見るものである以上に瞑想するものであると云おう。そうしてそれは、闇にまたゝく蝋燭(ろうそく)の灯と漆の器とが合奏する無言の音楽の作用なのである。(谷崎潤一郎『陰翳礼讃』)


長くなった。次の「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」へ引き続く。