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2014年1月19日日曜日

赤い靴と玄牝の門

エロスは死をめざしタナトスは生をめざす
”life drive aims towards death and the death drive towards life” (Paul Verhaeghe『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender』)
このいい方が気に入っちゃってね
なんだか長いあいだもやもやしていて
壁の手前で右顧左眄してたのが
壁の穴をあけて向こうにいったって感じだな
錯覚にきまってんだけどさ

エロスはなにか大きなものと融合したいという衝動ってことだ
でもそうしたらこの〈わたし〉が消滅しちゃうんだ
だから死をめざすだけでオーガズムの瞬間には
タナトスの衝動が〈わたし〉の回復をめざすのだな
それがTristis post Coitum(性交後の悲しみ)ってわけだ

びったりだね、やっぱり詩人はエライ

原始的淋しさは存在という情念から来る。
Tristis post Coitumの類で原始的だ。
孤独、絶望、は根本的なパンセだ。
生命の根本的情念である。
またこれは美の情念でもある。

ーー西脇順三郎『梨の女「詩の幽玄」』より

悲しみは永遠の生の、その享楽の刻限からさようならのせいだ
実際にはエロスとタナトスの衝動は混淆して活動するのだけど
つまりTriebmischung(欲動融合)ってわけだな
混淆したふたつの欲動が反復衝拍するってわけだ
ポール・ヴェルハーゲはいいこというぜ
ジジェクの「死の欲動」の説明もやっと腑に落ちたぜ

フロイトの「死の欲動」(……)。ここで忘れてはならないのは「死の欲動」は、逆説的に、その正反対のものを指すフロイト的な呼称だということである。精神分析における死の欲動とは、不滅性、生の不気味な過剰、生と死、生成と腐敗という(生物的な)循環を超えて生き続ける「死なない」衝動である。フロイトにとって、死の欲動とはいわゆる「反復強迫」とは同じものである。反復強迫とは、過去の辛い経験を繰り返したいという不気味な衝動であり、この衝動は、その衝動を抱いている生体の自然な限界を超えて、その生体が死んだ後まで生き続けるようにみえる。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

過去の辛い経験とは究極的には出産外傷だな
フロイトの最晩年の論文はいいところまでいってたんだけどな
エロス/タナトスの対立という思い込みからは逃れられなかった
っていうわけだ、ラカンやジジェク、ヴェルハーゲ曰くだがね

ランクは出生という行為は、一般に母にたいする(個体の)「原固着」Urfixerungが克服されないまま、「原抑圧」Urverdrängungを受けて存続する可能性をともなうものであるから、この出生外傷こそ神経症の真の源泉である、と仮定した。後になってランクは、この原外傷Urtraumaを分析的な操作で解決すれば神経症は総て治療することができるであろう、したがって、この一部分だけを分析するば、他のすべての分析の仕事はしないですますことができるであろう、と期待したのである。(『終りある分析と終りなき分析』1937

ラカンのややこしい語り口からのアリアドネの糸でもあるな
「永遠の生の喪失は、ひどく逆説的だが
性的存在としての出産の刻限に失われる
それはMeiosis(分裂)による」(ラカン「セミネールⅩⅠ」)

死の欲動とはアンデルセンの童話「赤い靴」なんだ
少女が赤い靴を履くと靴は勝手に動き出し
彼女はいつまでも踊り続けなければならない
靴は少女の無限の欲動ということになるわけだ
灯火にむれる蛾の、灯りを目ざしてはそれてゆく、その反復運動
おれたちの生はTriebmischungなのさ
いわれてみればあたりまえなんだけどな

ラカンの娘婿ミレールの言葉もあえて「誤読」して
大文字の母との融合は、永遠の生は、存在しない
だからわれわれはこのことに夢を見るってしたっていいんじゃないか

女は存在しない。われわれはまさにこのことについて夢見るのです。女はシニフィアンの水準では見いだせないからこそ我々は女について幻想をし、女の絵を画き、賛美し、写真を取って複製し、その本質を探ろうとすることをやめないのです。(ミレール 『エル ピロポ』

中井久夫のタナトスのとらえ方は
ジジェクなどの反復強迫よりも穏やかなものだけれど
つまり西欧的というより東洋的なタナトスだな
やっぱりわかってるんだろうな
「菌臭は死ー分解の匂いで気持ちを落ち着かせる
母胎の入り口の香りにも通じる匂い」なんてするところ
徴候感覚のひと中井久夫ももちろんエライ

菌臭は、死ー分解の匂いである。それが、一種独特の気持ちを落ち着かせる、ひんやりとした、なつかしい、少し胸のひろがるような感情を喚起するのは、われわれの心の隅に、死と分解というものをやさしく受け入れる準備のようなものがあるからのように思う。自分のかえってゆく先のかそかな世界を予感させる匂いである。

フロイトは、エロスという性(生)への傾斜とともに「タナトス」という死への傾斜を人間の心の深層にかいま見たけれども、このフロイトの「タナトス」は、どうも血の匂いのする、攻撃性の基盤になるようなイメージのものではなかろうか。(……)

菌臭は、われわれが生まれてきた、母胎の入り口の香りにも通じる匂いではなかろうか。ここで、「エロス」と「タナトス」とは匂いの世界では観念の世界よりもはるかに相互の距離が近いことに思い当たる。(中井久夫「きのこの匂いについて」より『家族の深淵』所収)

ということで「なんでもおまんこ」だな
谷川俊太郎の詩は書かれている内容はエロスだけれど
詩を書く行為はタナトス、あるいはエロスとタナトスのフュージョン
ってわけだな

なんでもおまんこ 谷川俊太郎


なんでもおまんこなんだよ
あっちに見えてるうぶ毛の生えた丘だってそうだよ
やれたらやりてえんだよ
おれ空に背がとどくほどでっかくなれねえかな
すっぱだかの巨人だよ
でもそうなったら空とやっちゃうかもしれねえな
空だって色っぽいよお
晴れてたって曇ってたってぞくぞくするぜ
空なんか抱いたらおれすぐいっちゃうよ
どうにかしてくれよ
そこに咲いてるその花とだってやりてえよ
形があれに似てるなんてそんなせこい話じゃねえよ
花ん中へ入っていきたくってしょうがねえよ
あれだけ入れるんじゃねえよお
ちっこくなってからだごとぐりぐり入っていくんだよお
どこ行くと思う?
わかるはずねえだろそんなこと
蜂がうらやましいよお
ああたまんねえ
風が吹いてくるよお
風とはもうやってるも同然だよ
頼みもしないのにさわってくるんだ
そよそよそよそようまいんだよさわりかたが
女なんかめじゃねえよお
ああ毛が立っちゃう
どうしてくれるんだよお
おれのからだ
おれの気持ち
溶けてなくなっちゃいそうだよ
おれ地面掘るよ
土の匂いだよ
水もじゅくじゅく湧いてくるよ
おれに土かけてくれよお
草も葉っぱも虫もいっしょくたによお
でもこれじゃまるで死んだみたいだなあ
笑っちゃうよ

おれ死にてえのかなあ

もちろんフロイトが偉大なのはわかりきっている
ラカンだってフロイトの解釈者にすぎない
シェイクスピアの『リア王』のフロイトの読解
「三人の女」ってのは
子宮的母親/エディプス的母親/口唇的な母親
すなわちエロスの女/性的対象の女/タナトスの女

エロスの女は生む女
性的対象の女は男が母の像を標準として選ぶ愛人
タナトスの女は最終的に男性を迎え入れる〈大文字の母親〉としての〈大地〉
というわけだ

エロスとタナトスの概念にこの1913年の段階で
限りなく近づいていたんだな

ここに描かれている三人の女たちは、生む女、性的対象としての女、破壊者としての女であって、それはつまり男にとって不可避的な、女にたいする三通りの関係なのだ。あるいはまたこれは、人生航路のうちに母性像が変遷していく三つの形態であることもできよう。

すなわち、母それ自身と、男が母の像を標準として選ぶ愛人と、最後にふたたび男を抱きとる母なる大地である。

そしてかの老人は、彼が最初母からそれを受けたような、そういう女の愛情をえようと空しく努める。しかしただ運命の女たちの三人目の者、沈黙の死の女神のみが彼をその腕に迎え入れるであろう。(フロイト『小箱選びのモティーフ』1913)

やっぱりシェイクスピアだな
やっぱり詩人や芸術家なんだ
もっとも近くまでいっているのは

文学や芸術を語らない思想家なんて信用しないぜ、オレは
感受性は深くて免疫のまだ薄い年頃
文芸から「幼少の砌の髑髏」の傷を受けなかった連中が
あとから付け焼き刃でなんたら書いても栓なきことだがね
慰めにはなるだろうよ

そうだな
欲望と快楽のなんたらなんてのをテーマにするのは
フロイトの死の欲動概念以降はやっぱりマがヌケてるぜ
ーーなんてことはオレは言わないがね
自らのテーマの矛盾に頭を悩ましているのだろう
倫理学じゃなくて反倫理学、いや非倫理学さ
もっとも世界はナイーヴな連中で占拠されてるわけだから
彼ら向けの慰安の言葉も必要なのだろうよ

現代ではストオリイは小説にあるだけではない。宗教もお話であり、批評もお話であると私は書いたが、政治も科学も歴史もお話になろうとしている。ラジオや テレビは一日中、料理や事件や宇宙について、甘いお話を流し続け、われわれは過去についてお話を作り上げ、お話で未来を占っている。

これらのお話を破壊しないものが、最も慰安的であるが、現実にもわれわれの内部にもお話の及ばない極地は存在する。人間はそこに止ることは出来ないにしても、常にその存在を意識していなければならない。だからこの不透明な部分を志向するお話が、よいお話である、というのが私の偏見である。(大岡昇平『常識的文学論』)


ところで老子はどうだったんだろう

谷間の神霊は永遠不滅。そを玄妙不可思議なメスと謂う。玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源。綿(なが)く綿く太古より存(ながら)えしか、疲れを知らぬその不死身さよ(老子「玄牝の門」 福永光司氏による書き下し)