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2014年2月10日月曜日

「えらくなろう」という不滅の幼児願望

蓮實重彦の伝説の言葉(真偽は確かではない)「私を偉そうと言う人がいますが、偉そうなのではなく、偉いのです」における「偉い」というのは、承認欲求のみみっちい競争をやめて、非意味的切断で勝手なことをやるということです。だから若者には「偉そうなのではなく偉い」態度で行け、と言いたい。(千葉雅也ツイート)

この「偉い」は、『スポーツ批評宣言あるいは運動の擁護』における渡部直巳との対談のなかでの発言だったはず。

ところで浅田彰が最近の対談で《不良なんだからもっと偉そうにしてりゃいいじゃないですか》と発言しているようだ(インターネット上から拾ったので前後関係は不詳)。

この「偉そう」は、蓮實重彦の発言の文脈では、「偉そう」ではなく、「偉くしていればいいじゃないですか」としたほうがいいだろう。


 ◆SPA抜粋 2/11・18合併号 
浅田彰)……東浩紀さんなんてとても優秀な人だと思うし、柄谷行人さんと僕で編集していた『批評空間』でデリダ論(『存在論的,郵便的』)を書いてくれたことはありがたいですよ。あれは単行本で一万部くらい出て、15年たった今でも本屋で売れている。それが最大の承認でしょ?
ところが、例えばアニメについてツイートしたら、すぐにレスポンスが来る。それが承認だと思っちゃったんじゃないか-そんなの、翌日にはなかったも同然なのに。

そういう即時的レスポンスを求めて、彼は情報社会論とおたく文化論に行った。彼の時代認識に基づく決断だったから反対はしないけど、 何十年も読まれる本を書ける人なのにもったいない気がするんだな。やっぱり、反時代的な孤高の姿勢を、演技でもいいから貫かないと、思想や文学なんて不可能じゃないですか。

ツイッターなんかでの評価を気にしすぎなんですよ。千葉さんのドゥルーズ論『動きすぎてはいけない』について、僕は「不良の思想であるところが面白い」と褒めたけれど、不良なんだからもっと偉そうにしてりゃいいじゃないですか。もっとも、東浩紀がオタクをデータベース的動物として評価したのに対し、単に動物的なものとして切り捨てられたヤンキーの一部であるギャル男も実はデータベース消費をしてるってのが千葉さんの論点なんで、どうしてもネットでのコミュニケーションを過剰に意識しちゃうのかもしれない。

NHKの討論番組に若手論客と呼ばれう人たちがよく出てくるじゃないですか。2、3分しか見ないけれど、情報の整理も討論もなかなか上手だと思いますよ。
しかし、あれではほとんど学級会でしょう。「良心的」な「優等生」が、ネットも駆使してマイノリティの声を取り入れましょう、民主主義をヴァージョン・アップしましょう、と。
僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

福田和也)「それ、本気で言ってんの?」という。最初はジョークかと思ってたけれど。

浅田彰)代議制の可能性と限界については昔からいやというほど論じられてきた。そういう記憶が失われているのかもしれない・・・。

浅田彰)京大の人文研にいる、東浩紀の同級生でディドロ研究者の王寺賢太が、國分を呼んでスピノザ論を聞いたことがあるんです。
僕は昔から、先行研究を踏まえた手堅い優等生研究ってのは好きじゃなかったんだけど、國分は、驚くべきことに、ドゥルーズやネグリのみならず、古典的なスピノザ研究の蓄積についてもほとんど言及せず、ひたすら「僕のスピノザ」を大声で得々と語るわけ-腐っても人文研の研究会で。 思わず「あなた、バカって言われない?」と聞いちゃった。

もちろん、先行研究うんぬんで既存の記憶に押しつぶされるより、ちょっとは蛮勇を奮ったほうがいい。でも、逆に言えば、蛮勇は過去の蓄積を突き破るように生まれるわけですよ。哲学の理論体系はだいたいヘーゲルで完成されており、それと現実とのずれの中でヘーゲル的な円環を突き破るようにしてマルクスの意味での批判=批評というのが始まり、我々もその前提の上でやってきた。ところが、國分なんかは自前の哲学を語りたいらしい。
じゃあ何を言うのかと思えば、住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。

ともかく國分のような「似非優等生」よりは千葉のような「不良」のほうが面白い。
ただ、自己批判しておくと、僕はガキのアナーキーをあえて肯定する立場だったんだけど、その前提をもっと強調しておくべきだったかもしれない。
ドゥルーズ&ガタリの概念に「マイナーになる」-女性に、子供に、動物に、知覚不能になる、というのがありますね。
しかし、子供に「なる」のと、子供で「ある」ことに居直るのは、全然別のことです。
大江健三郎がアドルノやサイードを踏まえて言う「晩年様式」じゃないけれど、老人が子供に「なる」ときに新鮮な驚きを感じたりするのであって、子供で「ある」ことに居直ったままでは子供に「なる」ことはできない。
というわけで、死にそびれたことでもあり、ここは潔く転向して・・・。福田さんは昔から一貫して、「成熟が必要だ」と。
僕は僕で、子供に「なる」ためにこそ成熟が必要である、という当たり前のことを言っておかざるをえない、と。

この発言の一部は浅田彰ならそう語るだろうと以前に推測したもので、浅田彰と蓮實重彦の対談「空白の時代」以後の二〇年」(蓮實重彦+浅田彰中央公論20101 月号、)を引用したことがある(ふたりの対談内容はくどくなるので再掲しない)。

そこでは己れの拙い印象を次のように書き始めている。

《ドゥルーズ研究者の評判の書を、序章、一章、二章と読みつつ、ツイッター上やらブログで感想を呟き、それを著者がリツイートしたり、感謝の念を表明する。

こんな現象がこの一週間ほど頻発している。

ダイジョウブカネ
クルッテルゼ
ハシタナイ連中ダ

…………》

もっとも浅田彰は福田和也氏の対談では千葉雅也氏のヤンキー論ベースの切り口にも言及しており、その立場を顧慮して、《単に動物的なものとして切り捨てられたヤンキーの一部であるギャル男も実はデータベース消費をしてるってのが千葉さんの論点なんで、どうしてもネットでのコミュニケーションを過剰に意識しちゃうのかもしれない。》と語っているが、このあたりのことについてはわたくしは全く不案内である。

いずれにせよ、冒頭の千葉雅也氏のツイートは、昨年末来、蓮實重彦との対談や、浅田彰の批評(吟味)を織り込んでの《承認欲求のみみっちい競争をやめて、非意味的切断で勝手なことを》やりましょうという若者へ向けてのメッセージのはずだ。

すなわち千葉氏からみても《承認欲求のみみっちい競争》ばかりが目につくということだろう。

実際ツイッターを眺めていると、人文学系の研究者だけでなくたとえば「芸術家」の範疇に括られる仕事をしている人たちでも、もっと「偉そう」、いや「偉く」していたらいいのに、と感じることがある。そんなに媚をふりまいて気に入られようとしなくてもいいのではないかと。

だが彼らも生活がかかっているはずであり、人文学や文芸への公衆の関心が凋落しつつあるのが事実とするならば《公衆から酒手をもらうのとひきかえに、彼ぱ己れの存在を世に知らしむるために必要な時間をさき、己れを伝達し、己れとは本来無縁な満足を準備するためにエネルギーを費消》(ヴァレリーーー「承認欲望と承認欲動」より)せざるをえない状況にあるのかもしれない。

だがそうして自らの作品や書き物の宣伝活動をすると失われるものがある。ジョン・エルスターが「本質的な副産物であるような状態」といったものの「魅惑」、すなわち〈対象a〉としてのアウラが。もちろんいまどきアウラなどというのは時代錯誤もはなはだしいという立場があるのを知らないわけではない。

もし私が意識的に威厳を保とうとしたり、他人から尊敬を集めようとしたら、滑稽な結果になってしまうだろう。きっと私は下手な役者のように見えることだろう。これらの状態の根本的パラドックスはこうだーーそれらはきわめて重要なのだが、それをわれわれの行動の直接的な目標にしたとたん、逃げていってしまうのである。そうした状態をもたらす唯一の方法は、その状態をめざして行動するのではなく、他の目標を追求し、それらが「自然」に生まれるのを望むことである。たしかにそれらはわれわれの行動に属しているが、究極的には、われわれが何をするかによってではなく、われわれが何であるかによってわれわれに属している何かなのである。このわれわれの行動の「副産物」にラカンが与えた名前は<対象a>である。これは隠された財宝、「われわれの中にあって、われわれ以上のもの」、すなわち、われわれの肯定的特質のいずれと結びつけることもできないにもかかわらず、われわれの行動すべてに魔法のオーラを投げかける、捉えどころがなく、手の届かないXである。(ジジェク『斜めから見る』p148

蓮實重彦が《読むという秘儀がもたらす淫靡な体験が何の羞恥心もなく共有されてしまっているという不吉さ》と比較的最近のエッセイ(『随想』)で書くのも、ある部分ではそれにかかわるのではないか。

もっとも若いひとたちからは、次のような反発はあるだろう、蓮實重彦や浅田彰はすでにある時期に大いに「承認」された人物であり、承認欲求うんぬんを批判するのはもうすでに承認に食傷しているからにすぎない、と。

たとえば《隠れた人生が最高の人生である》(デカルト)やら《自己でありたくない欲望》(ヴァレリー)としたひとたちでさえ、実際にそうであったかは疑わしい。

デカルトがスウェーデン女王クリスティーナに招聘された(女王のために講義をしてわずか1ヶ月で体調を崩し、肺炎で亡くなった)のは、ただ生活のためだけだったとは思われない。

またしてもヴァレリーであるが、「あなたはなぜ書くか」というアンケートに「弱さから」と答えていたのは、そのとおりだと思う。執筆者とは自己不確実に悩み、批評に傷つき、ひそかに称賛によって傷口に包帯を当てている存在だと仮定して、編集者は間違わないだろう。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

ほかにも職業としての詩人の立場を固持した谷川俊太郎、すなわち大学の先生とかの定職をもたなかった谷川は、公衆に承認される試みをときにはせざるをえなかったとすることができるだろう。《まあちょっと世間にサービスしすぎじゃないのかな、こういうのは歌謡曲の作詞家に任しておけば良いんじゃないのかな、なんて僕などはつい意地悪く考えてしまうこともある》(松浦寿輝 現代詩――その自由とエロス


ところでフロイトは『夢判断』で、己れの夢を分析して《不滅の幼児願望たる「えらくなろう」》と書いている。

……なぜ私が日中思想の、ほかならぬこの代用物を選ばなければならなかったのか。これに対しては、ただ一個の説明があるのみであった。R教授との同一化に対しては、この同一化によって不滅の幼児願望たる「えらくなろう」という願望が充足させられるのであるから、私はすでに無意識裡にいつもその用意をしていたのである。(フロイト『夢判断』高橋義孝訳)

「えらくなろう」などという「はしたない」幼児願望はすでに拭い去ったよ、と「成熟」したつもりのひとたちもいるだろう。だがそれはそんなに簡単に払拭できるものではないのではないだろうか。

小児性を克服できずに育った、とこれを咎める者もいるだろうが、とても、当の小児にとっても後の大人にとってもおのれの力だけで克服できるようなしろものではない、小児期の深傷〔ふかで〕というものは。やわらかな感受性を衝いて、人間苦の真中へ、まっすぐに入った打撃であるのだ。(古井由吉――幼少の砌の髑髏

「えらくなろう」という言い方に抵抗があるのならば、「愛されたい」でもよい。それは「母」の愛を独占したい、という願いだ。

人間の幼時がながいあいだもちつづける無力さと依存性……。人間が子宮の中にある期間は、たいていの動物にくらべて比較的に短縮され、動物よりも未熟のままで世の中におくられてくるように思われる。したがって、現実の外界の影響が強くなり、エスからの自我の分化が早い時期に行なわれ、外界の危険の意義が高くなり、この危険からまもってくれ、失われた子宮内生活をつぐなってくれる唯一の対象は、極度にたかい価値をおびてくる。この生物的要素は最初の危険状況をつくりだし、人間につきまとってはなれない、愛されたいという要求を生みだす。(フロイト『制止、症状、不安』 フロイト著作集 旧訳)

これは無力な乳児として生れたわれわれ人間の原トラウマのようなものであり、誰もが否定するわけにはいかず、いくら後年「成熟」して拭い去ったつもりでも、ふとしたはずみにこの心的外傷は露顕する。

愛されたい欲望、それは、愛する対象objet aimantがそれとして捉えられる、対象としての自分自身の絶対的個別性のうちに鳥もちづけられ、隷属させられる欲望です。愛されることを熱望する人は、自分の美点son bienのため愛されることにはほとんど満足しません。これはよく知られています。彼の希求は、主体が個別性への完全なsubversionに行くほど愛されること、この個別性がもちうる最も不透明で最もimpensableなものにsubversionされることです。人はすべてが愛されたいのです。On veut être aimé pour tout.彼の自我のためだけではありません。デカル卜はこう言います。彼の髪の色、奇癖、弱さ、すべてのために愛されたいのです。(ラカン セミネール一巻『フロイトの技法論』)

巷間に「承認欲求」といわれるものの起源のひとつはこのフロイトやラカンの指摘にあるはずだ。

…………

ところでもう一度浅田彰のSPAの対談の発言に戻れば、「哲学者」として、もう一人の人気者國分功一郎に対し、「似非優等生」「あれではほとんど学級会でしょう」などとしている。

國分功一郎氏はキルケゴールのシンポジウム開催をめぐって、次のようにツイッターで発言している。

研究者に限らないかもしれないが、世の中には「…しないと…できない」という発想が多すぎる。僕は「…すれば…できる」という発想を多くの人に持ってもらいたい。どこぞの組織が後ろ盾にならなくても、こんな素晴らしいシンポが開けるし、それを出版もできるんだ。

これは通俗道徳としては「正しい」のだろうし、「啓蒙」哲学者、モラリストの言葉としては肯うのを躊躇うつもりはない(たとえばアランならそんなことを言いそうだ)。大学教師の言葉としてもふさわしいのだろう。また國分功一郎氏は若き仲間たちの「アニキ」分として振舞っており「オトウト」分たちには頼もしい存在なのだろう。もっともこうやって育てられた「弟」たちは恩義を感じて、後年互いの「批判」(吟味)がしにくくなるのではないかと邪推しないでもないが。

かれらのうちの若干の者は意志をもっている。しかし大多数の者は、ただ他人の意志によって動かされるだけである。かれらのうち、まがいものでないものも若干はいる。しかし大多数はへたな俳優だ。

かれらのうちには自分で知らずに俳優である者と、自分の意に反して俳優である者とがいる。――まがいものでない者は、いつもまれだ。ことにまがいものでない俳優は。
(……)

かれらのもとでわたしが最悪の瞞着と見なしたことはこれだ。それは命令する者も、仕える者の徳の面をかぶることである (ニーチェ『ツァラトゥストラ』「卑小化する徳」手塚富雄訳)


ところで浅田彰のいう「哲学者」、すなわち《哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試み》の存在であるならば、國分功一郎氏の発言はあまりにも「哲学者」から遠く離れている、あるいは高校学園祭メンタリティのように感じられないでもないのだ。もともとそういう資質なのか、あるいはなにか深謀遠慮があって「俳優」をやっているのかはわたくしには窺知できないが。

もっとも、《いまは当たり前のことを当たり前にいわなきゃいけないんだ》、と中上健次は死ぬ一年前(1991)に語っており、学級会や学園祭メンタリティーを敢えて引き受けて、若者を鼓舞するそれなりに影響力のある人物は、現代ならいっそう不可欠であるには違いない。


ここで、ニーチェの『ツァラトゥストラ』第二部の「対人的知恵」の、「虚栄的な人間」と「誇りの高い者」を、冒頭に掲げた千葉雅也氏のツイート「偉そうなひと」と「偉いひと」として読んでみよう。《虚栄的な人間にたいしては、誇りの高い者にたいしてよりも寛大だ》とニーチェが書いているのは、もちろんジョークであり、虚栄的な人間の振舞いは、見世物としては面白いということだ。

わたしの第一の対人的知恵は、人間たちがわたしを欺くのにまかせて、詐欺漢を警戒せずにいるということである。(……)

さらに、わたしの第二の対人的知恵は、虚栄的な人間にたいしては、誇りの高い者にたいしてよりも寛大だということである。

傷つけられた虚栄心はあらゆる悲劇の母ではなかろうか。それとは反対に、誇りが傷つけられた場合には、おそらく誇りよりももっとよいものが生まれるであろう。

人生がおもしろい見ものであるためには、人生の劇がよく演じられねばならぬ。しかしそのためにはよい俳優が必要である。

わたしは、虚栄的な者がみなよい俳優であることを発見した。かれらは人々がかれらを喜んで見物することを望んで演技するーーかれらの全精神はこの意志と結んでいる。

かれらは舞台にあがり、自分の工夫した姿態を演ずる。かれらのほど近くにいて、人生劇を見物することを、わたしは好む。――それは憂鬱を癒してくれる。

そういうわけで、わたしは虚栄的な人間たちを大目に見る。かれらはわたしの憂鬱の医者であり、わたしを一つの演劇に結びつけるように、人間というものに結びつけるのである。

それにまた、だれが虚栄的な人間の謙遜の深さを測りつくすことができよう。わたしはかれの謙遜ゆえに、かれに好意をもち、かれをあわれむ。

虚栄的な人間は、おのれに寄せる自信を、君たちの手からもらおうとする。かれは君たちの視線を食料にしている。賞賛を君たちの手からもらい、かぶりついてそれを食う。

この虚栄的な人間は、君たちがかれを褒めて耳をくすぐる嘘をつけば、嘘でもそれを信ずる。というのは、心の奥底でかれは、「自分はいったい何者だろう」と嘆いているからだ。

もっともニーチェがこう書くのは、彼がひどく己れの虚栄心に悩んだせいではなかったか、とすこしは疑ったほうがいいだろう。

ニーチェを読むと、彼はこのキリスト教的美徳〔すなわち同情〕を口を極めて排撃しているけれど、それはつまりは、彼がどんなに自分の中のその能力のために悩み苦しんだかの証拠に他ならない。(吉田秀和  神崎繁『ニーチェ――どうして同情してはいけないのか』からの孫引き)
人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

最後にクンデラの『不滅』から、おそらくほとんど多くのひとがやっている自分のイメージづくりの指摘を掲げておこう。果たしてどれほどの数のひとがこの機制から免れているだろう。

《自分自身のイメージにたいする気づかい、こいつはどうも、人間の矯正しようのない未熟さなんですねえ。自分のイメージに無関心でいるのはなんとも難しい! そういう無関心は人間の力を超えている》(クンデラ『不滅』P328)
哲学者たちは、世の中の意見などどうでもいい、あるがままのぼくらだけが大事なんだと巧みに説明するかもしれない。しかし、哲学者たちには何も分かっていないのさ。ぼくたちが人類諸氏のなかで生きている限り、ぼくたちは人類諸氏によってこうだと見られる人間にされるだろうね。他のひとたちがぼくたちのことをどう見ているだろうかと考えこんだり、ひとの眼にできるだけ感じよく見られようと努力したりすると、腹黒い奴とか策士だとみなされるものなんだな。だけど、ぼくの自我と他人の自我のあいだに、直接の接触が存在するものなのかね、視線をおたがいに交わしあわなくても? 愛している相手の心のなかで自分がどう思われているか、その自分自身のイメージを不安な気持で追跡しないで、愛が考えられるものなのかね? 他人がぼくたちをどう見ているか、その見方が気にならなくなったら、ぼくらはその他人をもう愛していないことなんだよ(『不滅』P194ーー自己模倣と自己破壊

浅田彰が《反時代的な孤高の姿勢を、演技でもいいから貫かないと、思想や文学なんて不可能じゃないですか。》と発言するときの《演技でもいいから》とは、ほとんど演技でしかありえないけれど、というふうに読んでみていいだろう。