このブログを検索

2014年2月13日木曜日

死んだ文章

わたくしはつねづね思うのだが、「貴君」は、誠実に、正確に、論理的に書こうとするあまり、生きた文章が書けていない、死んだ文章なのだ。

この「貴君」とは、わたくしがそう書く場合、自己吟味も含んでそう書く場合が多いのだが、今回はわたくしのことではない。すなわち論理的に、誠実に書こうとしたことなど稀なわたくしが「貴君」のなかに含まれるわけがない。だが生きた文が書けているかどうかは、わたくしも自信がないという意味では、いくらかわたくしも含まれる。生きた文章とは「身体」からくるものだ。

二十世紀においてもっとも「生きた文章」の書き手のひとりであったろうセリーヌを真似してみなさいなどと忠告するつもりはないが、ここでは次の文章を引用しておこう。

《読者はせいぜい自分で按配していただきたい……時間も! 空間も!》(セリーヌ『北』)

《私ばっかり、歴史家ばっかり、継ぎ接ぎやっちゃいけないってのか?》(同セリーヌ)

セリーヌの文体は、「激しく下品で汚い言葉、破綻した文法、ありえない文体…」などと言われるが、下品な言葉でなくても、突如、日常語が混じりこんでくるときの驚き、――あの工夫は論理が固着しないためのすぐれて生成変化的な方法だ。


『なしくずしの死』が発表された当時、セリーヌ と対立していたモスクワ の左翼 ジャーナリスト ・ピエール=シーズでさえ、大賛辞を送ったのだ。

この驚くべき嘆声、この底知れぬ呻き、抑えがたく響きわたり、ページを追ってますます高鳴りゆくこの絶望の叫び、これこそは今まさに人類が発している赤裸々な叫びそのものである。(……)
セリーヌ を嫌うものは誰か?おお! 私は連中のことなら百も承知だ、一人残らず。それはこの人生の一切を容認し、何事にも逆らわず、あらゆる卑劣と妥協し、あらゆる不正に目を塞ぐ、あの数え切れない愚者の郡だ!--おとなしく、諦めきった、生ぬるい連中--あの神にも唾棄される連中だ!--満ち足りた、おめでたい、何不足ない連中だ。(……)

セリーヌ は、彼は何物をも容認せず、抗い、反対し、罵り、怒号する種族である。(……)
怒りを爆発させ、破城槌のように叩きつけるこの狂憤の書、われわれは到底その輪郭を測り知ることもできないだろう。地獄とは希望の剥奪のことであるというのが本当なら、これこそは悪魔の書である。これは人生の提起するあらゆる問いに対して浴びせられた大いなる≪否ノン!≫だ。(……)


セリーヌ よ、あなたは今こそ欲するままに語り、行動するがいい、あなたは人類の絶望に声を与えたのだ。もはや黙することのない声を。(……)
あなたがわれわれの努力をいかに非難しようとも私ははっきり言っておこう、≪あなたはわれわれのこの仕事を助けることになるのだ≫と。(ルイ-フェルディナン・セリーヌ 『なしくずしの死』-訳者解説-より)

バルトにいわせればエクリチュールとは生成変化するものだ。

『批評的エッセー』の中によく見てとれるように、エクリチュールの主体は「進化する」のである(荷担〔アンガーシュマン〕の道徳から、記号表現の道徳性へと移行して)。彼は、みずからが対象として扱う著作者たちに応じて、順を追って進化する。けれどもそれを導くものは、私がそれについて語る著作者自身ではなく、むしろ、《その著作者によってしむけられて私がその人について語るにいたることがら》である。つまり、私は《その人の認可のもとに》私自身から影響を受ける。私が彼について語ることがらによって、私は、私自身についてその同じことを考えさせられる(あるいは、そのことを考えないようにさせられる)、と、そんなふうに言ってもいい。

だから二種類の著作者たちを区別しなければならない。第一は、人がある著作者たちについて書く、そういう対象としての著作者たちであり、彼らからの影響は、人が彼らについて語ることがらの外にはなく、そのことがらに先立つものではない。そして第二は(もっと古典的な考えかたであり)、人が読む対象としての著作者たちである。ところで、第二の著作者たちから私に及ぼされるものはいったい何だろうか。一種の音楽、一種思索的な音の調子、程度の差はあるがともかく厳密なアナグラムのゲームである。(私の頭はニーチェでいっぱいであった。読んだばかりだったのである。しかし私が欲していたもの、私が手に入れたがっていたものは、文である思想、という歌唱であった。影響は純粋に音調上のものであった。)(『彼自身によるロラン・バルト』)

ニーチェの音調、--翻訳で読むだけなのに、なぜあれほど快いのだろう。

ひとは何よりもまず、この人物の口から発せられる調子、あの晴れた冬空に似た静穏な調子を、正しく聴きとらねばならぬ。そうしてこそ、かれの英知にふくまれた意味をみじめに誤解することがなくなるのだ。「嵐をもたらすものは、もっとも静寂な言葉だ。鳩の足で歩んでくる思想が、世界を左右するのだーー」

「いちじくの実が木から落ちる。それはふくよかな、甘い果実だ。落ちながら、その赤い皮は裂ける。わたしは熟したいちじくの実を落とす北風だ。

このようにいちじくの実に似て、これらの教えは君たちに落ちかかる。さあ、その果汁と甘い果肉をすするがいい。時は秋だ、澄んだ空、そして午後――」

ここで語っているのは、狂信家ではない。ここで行われているのは「説教」ではない。ここで求められているのは信仰ではない。無限の光の充溢と幸福の深みから、一滴また一滴、一語また一語としたたってくるのだ。ねんごろの緩徐調が、この説話のテンポだ。こういう調子は、選り抜きの人々の耳にしかはいらない。ここで聴き手になれるということは、比類のない特権だ。ツァラトゥストラの言葉を聴く耳をもつことは、誰にでも許されていることではないのだから……。(ニーチェ『この人を見よ』手塚富雄訳)

バルトはまた概念/生成の二項対立のようなものとして次のように書く。まず文章から生成変化させねばならない。

彼が好んで使う語は、対立関係によってグループ分けされている場合が多い。対になっている二語のうちの、一方に対して彼は《賛成》であり、他方に対しては《反対》である。たとえば、《産出/産出物》、《構造化/構造》、《小説的〔ロマネスク〕/小説〔ロマン〕》、《体系的/体系》、《詩的/詩》、《透けて見える/空気のような》〔ajouré/aérien〕、《コピー/アナロジー》、《剽窃/模作》、《形象化/表象化》〔figuration/ représentation〕 、《所有化/所有物》、《言表行為/言表》、《ざわめき/雑音》、《模型/図面》、《覆滅/異議申し立て》、《テクスト関連/コンテクスト》、《エロス化/エロティック》、など。ときには、(ふたつの語の間の)対立関係ばかりではなく、(単一の語の)断層化が重要となる場合もある。たとえば《自動車》は、運転行為としては善であり、品物としては悪だ。《行為者》は、反“ピュシス〔自然〕”に参与するものであれば救われ、擬似“ピュシス”に属している場合は有罪だ。《人工性》は、ボードレール的(“自然”に対して端的に対立する)なら望ましいし、《擬似性》としては(その同じ“自然”を真似するつもりなら)見くだされる。このように、語と語の間に、そして語そのものの中に、「“価値”のナイフ」の刃が通っている。(『彼自身のよるロラン・バルト』)

セリーヌとは逆に、つねに気品を保つ文章を書く中井久夫だが、たとえば松浦寿輝は次のように言う。

わたしは今の高校生と大学生に、中井久夫の文章を読むことを勧めたい。(……)

日本語の「風味絶佳」とは何かということを若いうちに自分の身体で体験することは重要だ。(……)ぜひ中井久夫を読んでほしい。現代日本語の書き言葉がそれでもなお辛うじて保っている品格は、カヴァフィスやヴァレリーの翻訳を含む中井久夫の文業に多くを負っているからである。(松浦寿輝『クロニクル』)

だが、中井久夫の文章に親しめばすぐ分かるように、その「風味絶佳」には「身体的な」工夫がある。

私は匿名で二十代に三冊の本を書いているが、この時の文体は現在でも私の基本文体である、その名残りは、私の文章にアリテレーション(頭韻)が比較的多いことにもあるといえそうである。英語は詩はもちろん、散文にもこれが目立つ。 Free and fairとか、 sane and sober societyというたぐいである。(中井久夫「執筆過程の生理学」)

もちろんこれだけではない。

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。(中井久夫「創造と癒し序説」)

一度、「世界における索引と徴候」『徴候・記憶・外傷』所収)の冒頭の文の音韻などの工夫をみてみてことがある。

まあこんなややこしいことはいわずにも、そして趣味の問題もあり、文学的な感性の問題もあるのだから、押しつけるつもりは毛頭ないが、では、たとえばヴァレリーを引いておこう。破綻を怖れていては、説得力は生まれないことが多いのではないか。

「おお、パイドロス、きみはかならずや気がついたことがあるはずだ、政治に関することであれ、市民の個人的利害に関することであれ、もっとも重要な論議のなかで、あるいはぎりぎりに切迫した状況で愛するひとに言わねばならぬ微妙な言葉のなかで、―― そう、きみはたしかに気がついたはずだ、そういう言葉にはさまれるごくささやかな言葉やこの上なくわずかな沈黙が、どれほどの重みをもち、どれほどの影響力を産み出すものかということを。相手を説得しようという飽くなき欲求とともに、あれほどしゃべりまくったこのわたしにしても、とどのつまりはこう納得したのだ、この上なく重大な論拠も、どれほど巧みに導かれた論証も、一見無意味なこうした細部の助けを借りなければ、ほとんど効果がないということを。また逆に、凡庸な理屈でも、機転のきいた言葉や王冠のように金色に塗られた言葉のなかにちょうどうまい具合に吊りさげてあれば、長いあいだ耳を愉しませてくれるということを」(ヴァレリー「エウパリノス」清水徹訳)


「他者」としての言葉を書き連ねるうちに、突如その細部が艶かしい運動ぶりを示してしまう、筋の持続を散逸させかねない描写の自己増殖、因果論的な意味の開花を超えたイメージの喚起性。訳知らず細部がときならぬ肥大化を見せ、言葉の独走が起ってしまう。もちろん言葉が独走するといっても常に迅速さを齎しわけではない、それは停滞としても、迂回としても、無方向な横滑りとしても起る。これがエクリチュールというものだ。

書くことは〔エクリチュール〕とは意味することとは縁もゆかりもなく、測量すること、地図化すること、来るべき地方さえも測量し、地図化することにかかわるのだ。(『千のプラトー』ーーエクリチュールをめぐってのいくつか