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2014年2月5日水曜日

ああ、ツマンネエ!

左膝が張れてきた
一週間ぐらいかかりそうだ
食事も二階の書斎兼寝室に運んでもらう
寝ころがって音楽を聴きつづける
ああ、ツマンネエ!
フォレやショパンは飽きた
ベートーヴェンやモーツアルトなんて
とっくの昔からウンザリだ
シューベルトやシューマンも飽きた




読めば読むほどよいかというと、これにも限度がある。文章というものにはすべて、一定時間内にある程度以上の回数を反復して読書すると「意味飽和」という心理現象が起こる。つまり、いかにすばらしい詩も散文もしらじらしい無意味・無感動の音の列になってしまう。これはむしろ生理学的現象である。音楽で早く知られた現象である。詩というものは一定時間内には有限の回数しか読めない。つまり詩との出会いはいくらかは一期一会である。それだけではない。無意味化するよりも先に、その詩人の毒のようなものが読む者の中に溜まってきて、耐えられなくなる。ヴァレリー詩の翻訳の際に、彼のフランス語の「イディオシンクラシー」(医学でいえばまさに体質的特異性!)が私の中で煮詰まってきて、生理的な不快感となった時期があった。(中井久夫「訳詩の生理学」 『アリアドネからの糸』所収)

グールドだって「意味飽和」だ
めったに聴かない
単純な曲だけがすくいだ




グールドのCD版なんてのもウンザリだ


◆ブルーノ・モンサンジョンとの An Art of the Fugue DVD版より(おそらく1979年製作)




◆CD版(1964年録音)





…………

グールド1957年モスクワ・ライヴ録音シンフォニア(ここではハ長調は演奏されていない)。





彼のスタジオ擁護論は、同一楽曲をコンサート録音で聴く人間を納得させるにはいたらない。一九五九年八月二十五日ザルツブルグでの<ゴールドベルク変奏曲>、一九五七年五月十二日モスクワで演奏されたベルクのピアノ・ソナタ、あるいは一九五八年六月十日ストックホルムで演奏された同じ曲、ストックホルムでのベートーヴェンのピアノ・ソナタ作品110などはスタジオ録音によるそれらの姉妹よりもはるかに美しい。

スタジオ録音が絶対的にすぐれているとするグールドの主張は間違っていた。ストックホルムでのピアノ・ソナタ作品110の実況録音には厚みがある。時間に対してどこか緊張したところ、なにか奪われたもの、最後のシカゴ・コンサートで同じ曲目の演奏がどのようなものだったかを想像させるに足るなにかが存在する。時間の切迫が動作を鋭くし思考の速度をはやめるチェスの勝負のように、ある種の絶対的必然性があるのだ。スタジオの場合、時間はじゅうぶんにある。あらゆる方向で時間をたどりなおすことができる。自由だともいえるが、それなりの代価を払わねばならない。

同じようにグールドはつねに同一例をもちいてコンサート演奏が外面的なものに終わる点を批判する。バッハの<パルティータ>第五番の例であり、この曲は一九五七年にソ連各地で彼が演奏し、その年の夏の終りに帰国して録音されたものだ。彼の主張によれば、<パルティータ>の録音のなかでこの曲が一番ひどい出来であり、「ことさらピアニスティックで」あり、「バッハではなくリスト編曲のバッハ」だというのだ。

欠点はまさにコンサートが演奏におよぼす変形作用によるものだった。カデンツァはあまりにも奔放であり、元の楽譜にフレーズとパラグラフの切れ目をたどれないほどであり、強弱の急速な変化、クレッシェンドとデクレッシェンドが演奏に「侵入」している。というのも「チャイコフスキー・ホール二階のバルコニー席まで音楽を届かせる」必要があったからだ。たしかに演奏は場所によって変化するわけであり、たとえばホロビッツは彼のピアノのテクニックの大部分(ことにペダルの使用法)は大ホールでの演奏の必要から生み出されたものだとみずから認めている。

しかしながらグールドがマイクに托したこの二種類の演奏を数小節ばかり聞きくらべてみると呆然とせざるをえない。たしかに「冷たい」ヴァージョンでは構造がよりはっきりと浮き彫りにされている。だが、「実況録音」ヴァージョンでは息づかい、時間の呼び声、不可抗力などによって独特の緊迫した感じが生まれている。(ミシェル・シュネデール『グレン・グールド 孤独のアリア』)
…………

【三種類のパルティータ五番】


◆1957年ライブ録音




◆1954年トロントラジオ放送(it's a radio broadcast, June 7, 1954 - "Distinguished Artists". CBC)





◆1957年12月、ニューヨークスタジオ録音