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2014年2月14日金曜日

「バカジャナイノ?」

《プラグマティズムは、政治活動を日和見的な技術操作、文脈化された状況への戦略的限定介入に矮小化してしまう》(ジジェク)

――だけではないと祈るよ
でもミクロな政治活動から
「ガン細胞のようにして」
マクロの政治を変える
っていうのはクリシェ気味だな

資本主義的な現実が矛盾をきたしたときに、それを根底から批判しないまま、ある種の人間主義的モラリズムで彌縫する機しか果たしていない。上からの計画というのは、つまり構成的理念というのは、もうありえないので、私的所有と自由競争にもとづいた市場に任すほかない。しかし、弱肉強食であまりむちゃくちゃになっても困るから、例えば社会民主主義で「セイフティ・ネット」を整えておかないといかない。(浅田彰 シンポジウム「『倫理21』と『可能なるコミュニズム』」2000.11.27)

――だけでないことを祈るよ

なんだって?

・これからの民主主義が目指すべき道は見えている。立法権だけでなく、行政権にも民衆がオフィシャルに関われる制度を整えていくこと(國分功一郎

・「日本人は民主主義を捨てたがっているのか? 」(想田和弘)

こんな題名の本が岩波書店から出版されるようになった時代なのだな
いやいや皮肉をいうつもりはない
それぞれなかなかの男前じゃないか

《政治家のみならず官僚も批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。》(柄谷行人)

――などと考えている手合いでもないだろ?

バカジャナイノ?
なんてオレは決していわない

僕は國分功一郎というのに驚いたんだけど、「議会制民主主義には限界があるからデモや住民投票で補完しましょう」と。
21世紀にもなってそんなことを得々と言うか、と。あそこまでいくと、優等生どころかバカですね。

……住民投票による「来るべき民主主義」とか、おおむね情報社会工学ですむ話じゃないですか。哲学や思想というのは、何が可能で何が不可能かという前提そのものを考え直す試みなんで、可能な範囲での修正を目指すものじゃないはずです。(浅田彰

 代議制の可能性と限界については昔からいやというほど論じられてきた。そういう記憶が失われているのかもしれない・・・。》(浅田彰)

ーーてわけでもないだろ
お勉強家そうだからなあ
オレみたいにジジェクや柄谷行人を
すこし齧ったバカとは訳が違うハズだ

ああ、……
なぜか奇怪な文章が浮かび上がってきたぜ

《いまこそその脆弱な殻を破って世界へと向けて身を投じなければならぬと、相対的な聡明さは胸をはって宣言する。だが、その宣言が有効なのは、聡明さが相対的におとっている連中に対してだけである。》(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

まあ、ヒュームからプラグマティズムに至るアングロ=サクソン的な伝統が再び優位になっているということでしょう。およそ、ファウンデーショナリズム(基礎付け主義)というのは、いわば神学の世俗化に過ぎず、有害でしかない。そのようなファウンデーションを自己言及的なパラドクスに追い込んで脱構築するなどと言っても、いわば否定神学的な観念の遊戯を出ない。そもそも、ファウンデーションなしに、複数の独立したゲームを並列的にプレイしてみて、それぞれがそこそこうまくいけばいいではないか、と。そういうローティ流のプラグマティズムが、いまもっとも支配的な哲学――というか反哲学でしょう。それが人工知能論などから見た「心の社会」論などともフィットするわけですね。

しかし、多少とも哲学的な立場からすると、それですべてが片付くとはとても思えません。もちろん、いまさら超越論的なものを天下り式に持ってくることはできない。けれども、カントの言った超越論的統覚だって、予定調和的に与えられているのではなく、あくまでXとしてあるわけですからね。あるいは、時代は下るけれど、ジャネが水平の解離を強調したのに対して、フロイトは強引に垂直も抑圧によって無意識まで含めた統合を図ろうとし、ラカンはそれをされに徹底して体系化しようとした、それを思弁的に過ぎると言って批判するのは簡単だけれど、逆にそれなしではものすごく単純な経験論とプラグマティズムに戻ってしまうという危惧があるわけです。(浅田彰 共同討議「トラウマと解離」2001)

ところでーー
〈あなた〉はどの国のどの時代の〈民主主義〉が好きですか?
と訊かれれば誰もが口ごもらざるをえない
まさか朧なイメージだけで米国の名をあげるひとはいまい
だろ? どこかのスーパーバカのように
「金持のための社会主義国」でることが明らかになったのだから

一般市民は「理解」しないといけないのだろうか? 社会保障の不足を埋め合わせることはできないが、銀行があけた莫大な金額の損失の穴を埋めることは必須であると。厳粛に受け入れねばならないのか? 競争に追われ、何千人もの労働者を雇う工場を国有化できるなどと、もはや誰も想像しないのに、投機ですっからかんになった銀行を国有化すのは当然のことだと。Alain Badiou, “De quell reel cetre crise est-ellelespectacle?” Le Monde, October 17, 2008

◆二〇〇八年の金融大崩壊への緊急援助策

『この巨額な緊急援助は何の解決のもならない。これは財政社会主義であり、反アメリカ的である。』(ジム・バニング共和党上院議員)

共和党の緊急援助策への反対のしかたは階級闘争の様相を呈していた。つまり、ウォール街と目抜き通りとの闘争だ。なぜこの危機を招いた責任のあるウォー ル街の金持ちを助け、住宅ローンをかかえた目抜き通りの普通の人たちに犠牲を払うよう、求めねばならないのか?……
……マイケル・ムーアがこの緊急援助策を世紀の強盗事件であると避難する意見広告を出したのも無理はない。(……)

この左派と共和党保守主義者との見解の意外な一致点は、考察に値する。では、緊急援助策は本当に「社会主義」的な政策であり、ついにアメリカに社会主義国家が誕生したことを意味しているのか? もしそうなら、きわめて特殊な形態である。「社会主義」政策の第一の目的が、貧しい者ではなく富める者、債務者ではなく債権者を助けることになってしまうからだ。金融システムの「社会主義化」が資本主義を救うために役立つのならば認められるというのは、究極の皮肉である。社会主義は悪──のはずだが、ただし、資本主義の安定に資する場合にかぎり悪ではないと言うことだ(現代中国との対称性に注目を。中国共産党は同じように、「社会主義」体制を強化するために資本主義を利用している)。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』

※「目抜き通り」は、原著をみるとmain streetになっている。Wall street main streetであって、一般大衆の住むストリート、つまり「一般市民」として読もう。


どこにも〈民主主義〉の実現らしきものがないなら
来るべき民主主義〉とでも言って誤魔化さざるをえない


マルクスを「ラディカル化」するデリダの基本的前提は、具体的な経済的・政治的方策がラディカルになればなるほど(行き着く果てはクメール・ルージュやセンデロ・ルミノソによる殺戮の戦場だ)、そうした方策は事実上ラディカルではなくなっていき、ますます倫理-政治的な形而上学の地平に囚われてしまうというものだ。言いかえれば、デリダの「ラディカル化」が意味しているのは、或る意味で(正確を期せば、実践的な意味で、と言うべきだが)、「ラディカル化」とは正反対のことである。それはすなわち、真にラディカルな政治的方策を断念することなのだ(補足的に言っておくと、ネルソン・マンデラに対する賞賛や、共和主義下のチェコスロヴァキアの反体制哲学者のためのアンガージュマンから、湾岸戦争でのイラク空爆を条件付きで支持したことにいたるまで、デリダによる個々の政治的介入のすべては、左翼穏健派のスタンスと完璧に一致している)。

デリダの政治学のラディカリズムは、来るべき民主主義というメシア的約束とその積極的な実現とのギャップを伴っている。まさしくこのラディカリズムゆえに、メシア的約束は永遠に約束であるにとどまり、一連の具体的な経済的・政治的法則へと転化されえないのだ。決定不可能な<モノ>の深淵と個々の場面での決定との隔たりは埋められない。<他者>に対する負債は返済不可能であり、<他者>の呼びかけに対する応答は十分ではありえない。こうしたポジションに立つわれわれは、ギャップを無化する双子による誘惑、つまり無節操なプラグマティズムと全体主義による誘惑に抗わねばならない。プラグマティズムは、超越的<他者性>をまったく参照せずに、政治活動を日和見的な技術操作、文脈化された状況への戦略的限定介入に矮小化してしまう。他方、全体主義は、絶対的<他者性>を特定の歴史的形象と同一視する(<党>は直接的に具現化された歴史的理性である,等々)。ここに、脱構築による一定のひねりを加えられた全体主義の問題規制が浮かび上がる。全体主義は、そのもっとも基本的な姿において、社会生活の全体的支配、社会全体の透明化を目論む政治力であるのみならず、メシア的<他者性>と具体的な政治主体〔エージェント〕との短絡でもあるのだ。したがって、来るべき(à venir)というのは、民主主義に後から付け加えられたたんなる形容ではなく、その最深部にある核であり、民主主義を民主主義たらしめているものなのである。民主主義が来るべきものではなくなり、現実となったーー完全に現実化されたーーかのような様相を呈するやいなや、全体主義が到来する。(ジジェク「メランコリーと行為」)
Does this logic of the Idea as an “unfinished project” not commit us to Derrida’s notion of a gap between the spectral Idea that continues to haunt historical reality and the Idea in its positive form, as a determinate program to be realized? Every determinate form of the Idea, every translation of the Idea into a positive program, betrays the messianic Promise at its spectral core. We are thus back in pseudo-Kantian Levinasian territory, where eternal Truth is conceived as a regulative Idea which is forever “to come,” which never arrives in its full actuality. But is this the only solution? (Slavoj Žižek: Truth, Inconsistency, and the Symptomal Point

「同調圧力」やら「共感の共同体」
「絆」や「寄り添う」……
日本は「民主主義的」でありすぎるんじゃないかい?
などとバカなオレは口もとまで逆説を出したがっているから
要注意だぜ

《ぼくの考えでは、デモクラシーは基本的に「同質性」を確保することが目的だったと思う。》

柄谷行人 岩井克人対談(1990より

柄谷)ぼくは自由主義と民主主義ということをカール・シュミットの『議会主義の地位』を参考にして考えたんです。シュミットは民主主義と自由主義は対立する概念だと言う。民主主義は、基本的に共同体の同質性を目指すもので、異質なものを排除する。個々人はここでは、共同体に属している。そして、民主制においては、決定は無記名投票ではなく、いわば喝采によってなされる、と。つまり、全体主義であろうと、民主主義には矛盾しない。それに対して、自由主義は、同質的でない個々人に立脚している。それは個人主義であり、その個人が外国人であろうとかまわない。そして、議会制は、じつは自由主義に基づくと言っています。

民主主義と言うと、よくギリシャが例にとられますから、そこから始めてもいいと思うんですが。アテネのデモクラシーというのは、もともとアリストクラシー(貴族制)に対するものです。この民主制は奴隷や外国人をのぞいています。だからと言って、古いと言うことはできない。現在の近代国家でも、外国人に投票権は、ない。したがって、決定権は与えられないんだから。

ぼくの考えでは、デモクラシーは基本的に「同質性」を確保することが目的だったと思う。たとえば、貴族は血縁で外国とつながりやすいしね。ところで、アテネに来ていたソフィストと呼ばれた思想家たちは、いわば自由主義者ですね。ソクラテスは、外国人ではないが、それに近い者として処刑されたわけです。とにかく、同質性が第一です。

このことは、近代のナショナリズムを考える上で重要です。アンダーソンは、ナショナリズムには平等主義的夢想が含まれていると言っています。実際に実現されているか否かに関わらず、ナショナリズムは「想像の共同体」であって、それはまさに民主主義的なのです。ところが、ギリシャのデモクラシーにおいて、最も重要なのは、たんに議会制ではなく、無記名投票を導入したことではないかと思うんです。と言うのは、民主主義では、現にギリシャでそうだったけど、僭主、つまり独裁者が必ず出てしまうからです。それは喝采をもって出てくるわけで、べつにクーデターで出てくるわけじゃないんですね。むしろ、民主主義にはそういう不可避性があると言うべきでしょう。ヒットラーにしても、あの民主主義的なワイマール憲法のなかから出てきた独裁者です。ワイマール憲法四十八条に大統領の非常権限を認める条項があったし、ヒットラー「総統」は合法的に出現したわけです。これを民主的でないというのはおかしい。というより、「民主主義」が何であるかがわかっていない。

アテネの連中が僭主を防ぐために何を考えたかと言うと、投票の匿名性なんですね。無記名投票というのが、自由主義であり、また「言論の自由」というものの本質なんです。ぼくたちは言論の自由というのを表現のほうで考えがちです。しかし、言論の自由というものは、匿名制によってだけ確保されるのです。

菊池寛の『入札』という短編にも書かれているけれど、無記名投票をやり出すと突然疑心暗鬼になりますよね。教授会でも同じですけど(笑)、みんなが発言している時はわかるんですよ。だけど匿名になると、それまで何も言っていなかった人がいわば「表現」しはじめるわけでしょう。これは、なんか、不当な感じがあるじゃないですか。しかし、自由主義とは、真理がこういうものも言わない、言えない人たちの多数決によって決まるという考えに成り立っているのです。

岩井)それは正しく個人主義なんですね。つまり黙っている人が権力を持つ。

柄谷)民主主義はそれを認めない。たとえば、全共闘の集会というのは明らかに民主的なので。拍手喝采で決まる。あんな時に匿名投票なんてやったら、「いったい何だ」ということになりますね。

岩井)カトリックがなぜ告白制度を持っているかと言うと、それはまさにいま言われた匿名性を恐れているわけですね。だからそれをいろんな形で抑圧しようとするわけで、告白制度とは、そのもっとも巧妙な仕掛けであるわけですよね。ソ連だと、喝采してゴルバチョフを選ぶとか、それは同じですね。

柄谷)自由主義の本質といいうのは、まさに匿名性の制度的保証にあると言ってもいいくらいなんです。ソ連にはそれがなかった。しかし、真理が競争による均衡を通して決まるという考えには、何の根拠もない。古典経済学の「見えざる神の手」と同じ形而上学なんですよ。だから、プラトンが言うように、哲学者=王、すなわち共産党が決定すべきだということになる。だからと言って、これが民主的でないということにはならない。自由主義的でないというだけです。しかし、じつは、完全な自由主義も民主主義もないんですね。

岩井)柄谷さんは、自由主義と資本主義を対応させて、民主主義と国会主義あるいは共同体主義と対応させる。……(P116-119『終わりなき世界』)

◆ 柄谷行人「歴史の終焉について」(1990)

自由主義と民主主義は、資本主義の具体的な局面を抜いて語ることはできないと、私はいった。しかし、それをたんに原理として検討するとしても、決して和解しえない対立をはらんでいる。たとえば、自由主義と民主主義は、「真理」にかんする根本的な態度にかんして対立している。民主主義は、真理が存在あるいは神から直接的に来るという考え、あるいは、真理は個々人が議論や競争によって決めるものではなく、すべてを代表する傑出した指導者あるいは個別利害を越えた一般者のみが見いだしうるとみなすものである。民主主義においては、決定は無記名投票によってではなく、いわば喝采によってなされる(たとえば、これは「全共闘」の集会でも同じである。そして、それが反民主主義であるとは誰もいうまい)。

一方、自由主義は、真理が、競争による均衡を通して予定調和的に示されるという考えにもとづいている。つまり、これは本質的な「真理」なるものを形而上学として斥けるとはいえ、真理が均衡を通してあらわれるという、もう一つの形而上学に根ざしている。それは、本質的な価値なるものはなく競争による均衡としての相対的な価格しかない。しかもそこに「見えざる神の手」が働いているという古典経済学的な「自由主義」と結びついている。

自由主義にかんして重要なのは、たんにそれが「表現の自由」を強調することではない。「表現の自由」はむしろ人間的本質に属する。要は、それがいかに制度的に保証されるかということである。その場合、自由主義において不可欠なのは、意見の公開性よりも、匿名性(無記名制)であるといえる。匿名が人を「自由」にする、あるいは「個人」にする。アテネにおいては、それは僭主の出現を避けるために採用された。しかし、これは奇妙なことではないだろうか。口に出してものをいわない(いえない)ような人たちの多数意見が「真理」を決定するとは。実際、ヘラクレイトスからプラトン、アリストテレスにいたるまでのギリシャの哲学者はこのようなデモクラシーに反対していた。

そもそも「真理」は多数決によるのではないと思う者は、暗黙に反「自由主義」的である。たとえば、真に「プロレタリアート」の立場に立ったレーニン主義者は、個々の労働者・農民の意見に反して「一般意志」を代行しなければならない。共産党とはプラトンのいう哲学者=王の一種である。したがって、このような発想はレーニン主義者にかぎらない。どの国でも、官僚たちは議会を公然とあるいは暗黙に敵視している。彼らにとっては、自分たちが私的利害をこえて考えたと信ずる最善の案を議会によってねじ曲げられることは耐え難いからである。官僚が望むのは、彼らの案を実行してくれる強力且つ長期的な指導者である。また、政治家のみならず官僚も批判するオピニオン・リーダーたちは、自分たちのいうことが真理であるのに、いつも官僚や議会といった「衆愚」によって邪魔されていると考えている。だが、「真理」は得体の知れない均衡によって実現されるというのが自由主義なのだ。

もちろん、こうした「真理」論は、いずれも近代の主観性の哲学にもとづくものでしかないと批判することができる。ソクラテスあるいはデカルト以後の「真理」観を批判し、古代ギリシャにおいて「真理」は存在の「隠れ無さ」であると言った、ハイデッガーはつぎのように演説している。


ドイツの教職員諸君、ドイツ民族共同体の同胞諸君。 ドイツ民族はいま、党首に一票を投じるように呼びかけられている。ただ し党首は民族から何かをもらおうとしているのではない。そうではなくてむしろ、民族の全体がその本来の在りようをしたいと願うか、それともそうしたいと思わないのかという至高の決断をおのがじし下すことのできる直接の機会を、民族に与えてくれているのである。民族が明日選びとろうとしているのは他でもない、自分自身の未来なのである。 (ハイデガー「アドルフ・ヒットラ~と国家社会主義体制を支持する演説」1933年  石光泰夫訳)


これは、深遠な形而上学はどのような政治とつながるかを端的に示している。ハイデッガーにとっては、指導者を「選ぶ」といった自由主義的原理そのものが否定されなければならないのであり、真の「自由」は喝采によって決断を表明することにある。そのときにのみ、「民族の全体」の「本来の在り様」としての真理があらわれる、というのである。表象representationとしての真理観を否定することは、議会(=代表制〔リプレセンテーション〕)を否定することに導かれる。

したがって、自由・民主主義は西洋の原理であるというなら、それに敵対する原理の方も西洋の原理である。ハイデッガーもシュミットも標的としているのは、英米の「自由主義」である。普通に「民主主義」と呼ばれているのは本来自由主義であり、ナチズム(国家社会主義)こそ真に民主主義的なのだといいたいのだ。しかし、シュミットの鋭い原理的分析にもかかわらず、アングロ・サクソン系の「民主主義」が強いのは、もともとそれが原理的ではないからである。(柄谷行人「歴史の終焉について」『終焉をめぐって』所収 1990)

◆柄谷行人『トランスクリティーク』より

マルクスが、ブルジョワ独裁をむしろ「普通選挙」において見ていることに注意すべきである。『ブリュメール十八日』の背景に、それがあったことはいうまでもない。では、普通選挙を特徴づけるものは何か。それはたんに、あらゆる階級の人々が選挙に参与するということにだけあるのではない。それと同時に、諸個人があらゆる階級・生産関係から「原理的に」切り離されるということにある。議会は封建制や絶対主義王政においても存在した。しかし、こうした身分制議会においては「代表するもの」と「代表されるもの」が必然的につながっている。真に代表議会制が成立するのは、普通選挙によってであり、さらに、無記名投票を採用した時点からである。秘密投票は、ひとが誰に投票したかを隠すことによって、人々を自由にする。しかし、同時に、それは誰かに投票したという証拠を消してしまう。そのとき、「代表するもの」と「代表されるもの」は根本的に切断され、恣意的な関係になる。したがって、秘密投票で選ばれた「代表するもの」は「代表されるもの」から拘束されない。いいかえれば、「代表するもの」は実際はそうでないのに、万人を代表するかのように振舞うことができるし、またそうするのである。
 「ブルジョワ独裁」とは、ブルジョワ階級が議会を通して支配するということではない。それは「階級」や「支配」の中にある個人を、「自由な」諸個人に還元することによって、それの階級関係や支配関係を消してしまうことだ。このような装置そのものが「ブルジョワ独裁」なのである。議会選挙において、諸個人の自由はある。しかし、それが現実の生産関係における階級関係が捨象されたところに成立するものである。実際、選挙の場を離れると、資本制企業の中に「民主主義」などありえない。つまり、経営者が社員の秘密選挙で選ばれるというようなことはない。また、国家の官僚が人々によって選挙されるということはない。人々が自由なのは、たんに政治的選挙において「代表するもの」を選ぶことだけである。そして、実際は、普通選挙とは、国家機構(軍・官僚)がすでに決定していることに「公共的合意」を与えるための手の込んだ儀式でしかない。(柄谷行人『トランスクリティーク』p230-231 
周知のように、レーニンがいうプロレタリア独裁は共産党の独裁に帰結した。その結果、マルクス主義者もついにプロレタリア独裁という概念を放棄してしまった。だが、そのことが結局議会主義に帰着するのだとしたら、不毛というほかはない。プロレタリア独裁という誤解を生みやすいメタファーに固執する必要はないが、ここに重要な問題がふくまれていることを忘れるべきではない。マルクスがいう「プロレタリア独裁」は、いうまでもなく「ブルジョワ独裁」に対応する概念である。その場合、「ブルジョワ独裁」は議会制民主主義のことを意味している。絶対主義的専制を打倒してできた議会制民主主義こそブルジョワ独裁である。であるなら、マルクスがいう「プロレタリア独裁」が、ブルジョワ独裁以前の封建的専制や絶対主義的独裁に似たものに戻ることであるはずがない。ブルジョワ国家は独裁が再現されない仕組みを考えた。三権分立や無記名投票である。しかし、三権分立は事実上有名無実である。それはただ、市民社会と政治的国家の二重化を支える原理でしかない。一方、「プロレタリア独裁」は、独裁どころが、国家権力そのものを廃棄することを目指すものだ。したがって、それは、ブルジョワ国家以上に権力の固定化に対して敏感でなければならない。 
パリ・コンミューンは立法機関であると同時に行政機関であった。その意味で、これは近代国家における市民社会と政治的国家の二重性の揚棄である。しかし、そのように公人と私人の二重性が揚棄された「社会的国家」においても、立法・行政・司法という区分は残る。参加的民主主義を持続的に保証するためには、モンテスキューのいう三権分立とは違った意味で、これらの分立に注意しなければならない。たとえば、コンミューンもまた立法部門・行政的部門・司法部門をもっている。いいかえれば、代表制と官僚をもつのだ。コンミューンでは、すべての司法官と行政官僚を選挙するとともに解任できる制度があった。だが、それによって官僚制化、つまり立法・行政・司法の権力の固定化を阻むことができるだろうか。マックス・ウェーバーがいったように、官僚制は、分業の発展した社会においては不可避的であり、また不可欠である。それをただちに否定することはできない。そして、諸個人の能力の差異や多様性と権力欲が存在することを認めなければならない。ただ、それらが現実的な権力に固定的に転化しないようにすればいいのである。

この点で、われわれはアテネの民主主義から学ぶべきことが一つある。アテネの民主主義は、僭主制を打倒するところから生れたと同時に、僭主制を二度ともたらさないような周到な工夫によって成立している。アテネの民主主義を特徴づけるのは議会での全員参加などではなく、行政権力の制限である。それは官吏をくじ引きで選ぶこと、さらに、同じくくじ引きで選ばれた陪審員による弾劾裁判所によって徹底的に官吏を監視したことである。実際、こうした改革を成し遂げたペリクレス自身が裁判にかけられて失脚している。要するに、アテネの民主主義において、権力の固定化を阻止するためにとられたシステムの核心は、選挙ではなくくじ引きにある。くじ引きは、権力が集中する場に偶然性を導入することであり、そのことによってその固定化を阻止するものだ。そして、それのみが真に三権分立を保証するものである。かくして、もし匿名投票による普通選挙、つまり議会制民主主義がブルジョア的な独裁の形式であるとするならば、くじ引き制こそプロレタリア独裁の形式だというべきなのである。アソシエーションは中心をもつが、その中心はくじ引きによって偶然化されている。かくして、中心は在ると同時に無いといってよい。すなわち、それはいわば「超越論的統覚X」(カント)である。

一方、アテネ民主主義システムから多くを学んだにもかかわらず、プルードンはブルジョア的普通選挙を批判したとき、それをくじ引き同然だといって非難している。しかし、くじ引きは選挙を否定するものではなく、むしろ選挙を真に活かすために不可欠である。代表者選挙においては、代表するものと代表されるものが固定的に分離されてしまうが、コンミューンにおける選挙も結局はそうならざるをえないだろう。決まっておなじ人が選ばれることになり、また内部的な派閥が生み出されることになる。とはいえ、全部をくじ引きで決めることは無意味であり、結局、それ自体が否定されてしまう結果になるだろう。たとえば、アテネでも、軍人はくじ引き制にもとづいていない。ただ、将軍を毎日交替させることで、権力の固定化を阻止したのである。今日、くじ引きが採用されるのは、陪審員や、誰がやってもよく、そして誰もがやりたがらないようなポストに関してのみである。つまり、くじ引きは、能力が等しいか、あるいは能力が問われない時にのみ採用される。しかし、くじ引きを採用すべき理由はその逆である。それはむしろ選挙を腐敗させないため、また、相対的に優れた代表者を選ぶためである。

 それゆえ、われわれにとって望ましいのは、たとえば、無記名(連記)投票で三名を選び、その中から代表者をくじで選ぶというようなやり方である。そこでは、最後の段階が偶然性に左右されるため、派閥的な対立や後継者の争いは意味をなくす。その結果、最善でないにせよ、相対的に優れた代表者が選出されることになる。くじに通った者は自らの能力を誇示することができず、くじに落ちた者も代表者への協力を拒む理由がない。このような政治的技術は、「すべての権力は堕落する」などという陳腐な省察とはちがって、実際に効力がある。このように用いられるとき、くじ引きは、長期的に見て、権力を固定させることなく、優秀な経営者・指導者を選ぶ方法である。くりかえすが、われわれは、権力志向という「人間性」が変わることを前提とすべきでなく、また、個々人の諸能力の差異や多様性が無くなることを想定すべきではない。労働者の自主管理や生産協同組合においても、この問題は消滅しない。特に資本制企業と競争しなければならないとき、それらは大なり小なり資本制企業の組織原理を採用するか、さもなければ消滅するかを迫られる。であれば、最初から、ハイアラーキー(位階)が存在することを前提しておくべきである。ただ、それが各人の合意によって成立し権力の固定化が生じないように、選挙とくじ引きを導入すればよい。

 ところで、国家と資本に対抗する運動は、それ自身において、権力の集中する場に偶然性を導入するというシステムを導入していなければならない。そうでなければ、こうした運動は、それが対抗するものと似たようなものになるほかはない。他方、集権主義的なピラミッド型組織を否定するところから始まった、様々な市民運動は、逆に、離散的で断片的なままの離合集団に留まっている。そして、結局、議会政党の票田となるだけである。そうであるかぎり、それらが資本と国家に対して、有効な対抗をなしうるとは思えない。しかるに、もしこのような政治的技術を導入すれば、中心化をすこしも恐れる必要はないのだ。(柄谷行人『トランスクリティーク』P282-286)

 ところでカラタニさん
But is this really enough to undermine the “fetishism of power”?

This Kantian limitation of democracy is strictly homologous to the limitation of Kojin Karatani’s Kantian “transcendental” solution to the antinomy of money (we need an X which will be money and will not be money). When Karatani reapplies this solution to power (we need some centralized power, but not fetishized into a substance which is “in itself” Power)—and when he explicitly evokes the structural homology with Duchamp (the object becomes a work of art not because of its inherent properties, but simply by occupying a certain place in the structure)—does this not all exactly fit Lefort’s theorization of democracy as a political order in which the place of power is originally empty and is only temporarily occupied by the elected representatives? Along these lines, even Karatani’s apparently eccentric suggestion of combining elections with selection by lot is more traditional than it may appear (he himself mentions Ancient Greece)—paradoxically, it fulfills the same function as does Hegel’s theory of monarchy.

Karatani here takes a heroic risk in proposing a crazy‐sounding definition of the difference between the dictatorship of the bourgeoisie and the dictatorship of the proletariat: “If universal suffrage by secret ballot, namely, parliamentary democracy, is the dictatorship of the bourgeoisie, the introduction of lottery should be deemed the dictatorship of the proletariat.” In this way, “the center exists and does not exist at the same time”: it exists as an empty place, a transcendental X, and it does not exist as a substantial positive entity. But is this really enough to undermine the “fetishism of power”?

When an ordinary individual is allowed temporarily to occupy the place of power, the charisma of power is bestowed on him, following the usual logic of fetishistic disavowal: “I know very well that this is an ordinary person like me, but nonetheless … (while in power, he becomes the instrument of a transcendent force, power speaks and acts through him)!”
Does this not fit the general matrix of Kant’s solutions, where metaphysical propositions (God, immortality, etc.) are asserted, “under erasure,” as postulates? Consequently, would not the true task be precisely to get rid of the very mystique of the place of power? This is why, in his writings of 1917, Lenin reserves his most acerbic irony for those who engage in an endless search for some kind of “guarantee” for the revolution. This guarantee takes two main forms, in terms of either the reified notion of social Necessity (the revolution must not be risked too early; one has to wait for the right moment, when the situation is “mature” with regard to the laws of historical development) or the idea of normative (“democratic”) legitimacy (“the majority of the population is not on our side, so the revolution would not really be democratic”)—as if, before the revolutionary agent risks the seizure of state power, it should seek permission from some figure of the big Other (organize a referendum to ascertain whether the majority supports the revolution). Not surprisingly, a very Christian point.(Zizek”LESS THAN NOTHING”)


※補遺:民主主義の中の居心地悪さ(ジジェク)