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2014年3月11日火曜日

「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」

前回、表題を「なにが言いたいわけでもない」としたが、正確には「何を言おうとするわけでもない」だった。出典不記載はいいにしろ、敬愛してやまない作家の文の不正確な「剽窃」は堪えがたい。――などと書いたら真に受けてなんたら言ってくるやつらがいるかもしれないから敢えて書いておくが、もちろん半ばジョークで半ば本気だよ。

金剛石も磨かずば
珠の光は添はざらん
人も学びて後にこそ
まことの徳は現るれ


これは昭憲皇太后が作詞して女子学習院に下賜された御歌の冒頭の四行であるが、章は小学生のじぶんに女の教師から習って地久節のたびごとに合唱していたから、今でもその全節をまちがいなく歌うことができるのである。

そのとき章は、この「たま」とは金玉のことであると一人合点で思いこんでいた。それで或る日父に
「父ちゃん、なぜ女が金玉を磨くだかえ」
と訊ねた。すると父は、
「なによ馬鹿を言うだ」
と答えた。しかし後々まで、不合理とは知りながらも、章の脳裡には、裾の長い洋服に鍔広の帽子をかぶった皇太后陛下が、どこかで熱心に睾丸を磨いている光景が残った。今でもこの歌を思い出すたびに(ごく微かにではあるが)同じ映像の頭に浮かぶことを防ぎ得ないのである。

こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない。

次手に言うと、章は同じく小学校入りたての七つ八つのころ父から「蒙求」と「孝経」の素読を授けられていたが、ときおり父が「子曰ク」という個所を煙管の雁首で押さえながら「師の玉あ食う」と発音してみせて、厭気のさしかかった章を慰めるようなふうをしたことを、無限の懐かしさで思い起こすことができる。多分、父はかつての貧しい書生生活のなかで、ある日そういう読みかたを心に考えつき、それによって僅かながらでもゆとりと反抗の慰めを得たのであったろう。そしてその形骸を幼い章に伝えたのであろうと想像するのである。(藤枝静男「土中の庭」1970初出)

上の藤枝静男の文は、わたくしには「無限の懐かしさ」を与えてくれる。似たような感慨を与えてくれる「作品」というものは稀だ。侯孝賢の映像作品が僅かにそれに並ぶ。プルーストような文章で、わたくしの幼少年期に馴染んだ風景を描いてくれる作品があればまた別だが、そんなものは現れそうもない、ーーといったら言い過ぎかもしれない。安岡章太郎や大江健三郎、中上健次、最近では田中慎弥の小説の断片に無限の懐かしさを感じたことがないでもない(「今日も割れ目やねえ」)。

あるいはまた昨年の初頭めぐり合った黒田夏子の小説の冒頭近くにある魅されてやまない表現、《またある朝はみゃくらくもなく,前夜むかれた多肉果の紅いらせん状の皮が匂いさざめいたが,それはそのおだやかな目ざめへとまさぐりとどいた者が遠い日に住みあきらめた海辺の町の小いえの,淡い夕ばえのえんさきからの帰着だった.》という文章はこれからも長いあいだ慈しむことになるだろう。

そして西脇順三郎や田村隆一、谷川俊太郎などの詩句をどうして忘れることができよう、--というわけでやや言葉の綾の気味があるが、今その名を出しているのだから堀江敏幸が次のように書くほどではないにしろ、あまり安易に名を出したくない作家なのだ。書けば「濡れすぎる」。

心を寄せていた異性の名を口にできないのとおなじように、ほんとうに好きな作家、好きだった詩人の名はぜったいに明かせない。(堀江敏幸『河岸忘日抄』)


まずは静岡方言がある。わたくしは静岡生まれではないが静岡県との県境の西側にある地方都市に生まれ、多くの親族は静岡県の西部に住んでいた。あの訛りは、わたくしにとって「濡れて」いるのだ。

人間は胎内で母からその言語のリズムを体に刻みつけ、その上に一歳までの間に喃語を呟きながらその言語の音素とその組み合わせの刻印を受け取り、その言語の単語によって世界を分節化し、最後のおおよそ二歳半から三歳にかけての「言語爆発」によって一挙に「成人文法性 adult grammaticality」を獲得する。これが言語発達の初期に起こることである。これは成人になってからでは絶対に習得して身につけることができない能力であると決っているわけではないけれども、なまなかの語学の専門家養成過程ぐらいで身につくものではないからである。

それを疑う人は、あなたが男性ならば女性性器を指す語をあなたの方言でそっと呟いてみられよ。周囲に聴く者がいなくても、あなたの体はよじれて身も世もあらぬ思いをされるであろう。ところが、三文字に身をよじる関西人も関東の四文字語ならまあ冷静に口にすることができる。英語、フランス語ならばなおさらである。これは母語が肉体化しているということだ。

いかに原文に通じている人も、全身を戦慄させるほどにはその言語によって総身が「濡れて」いると私は思わない。よい訳とは単なる注釈の一つの形ではない。母語による戦慄をあなたの中に蘇えらせるものである。「かけがえのない価値」とはそういうことである。(中井久夫「訳詩の生理学」)

そして藤枝静男が父の思出を書く語り口のなんという寡黙な抒情。わたくしにとって幼少期の記憶を蘇らせる「かけがえのない」文章なのだ。ーーと、「寡黙な抒情」と劣化した剽窃をまたしてしまった。ここはやはり次の文を引用せざるをえない。

藤枝文学においてその父親のイメージがまとっている鮮烈な抒情、そして愛と呼ぶにはあまりに寡黙なその言動につつまれて藤枝少年が過ごした大正期の東海地方の風景といったものの美しさについては、すでに度々書く機会を持ったので、もう繰り返すにはおよばない。『藤枝静男著作集』も刊行され始めたので、まさに「毅」の一語がこの作者のために存在しているとしか思えない文章に、じかに触れていただくことにする。と、ここまで書いてきた瞬間、机上の電話が鳴って、受話器のむこう側から、遂に藤枝さんに確定しましたというはずんだ声が鼓膜をふるわせる。本年度の谷崎潤一郎賞が、藤枝静男氏に決定したというニュースを、親しい編集者の安原顯氏が知らせてくれたのである。われわれは、こんなとき誰もが口にする祝福の言葉をかわしあってたがいの喜びを確認しあうのだが、しかしその喜びには、どこかがっかりしたような調子がただよっている。すでにその名声が高まっているとはいえ、これを機に、あれほど絶版が続いて読むのがむずかしかった藤枝文学が、とうとう読者の前にいかにもたやすく投げだされてしまうことを、二人してそれと口にせずに惜しんでいるようだ。

そうか、藤枝氏が谷崎賞を受賞されることになったのか。まるで年甲斐もない恋文のような藤枝静男論を発表したばかりのころ、安原氏の後について行って一度だけお逢いしたことのある藤枝氏に心からの祝福をささげながらも、これでは何かできずぎているような気がする。この一文を『欣求浄土』の「土中の庭」の冒頭の挿話から始めたものの、残りがどんなふうに書きつがれ、どんなふうに書き終わるのか、不意にわからなくなってしまう。藤枝氏にならって、「こういうことを書いて何を言おうとするわけでもない」と書き記し、しかしいつとはなしに一篇がいかにも「毅」の字にふさわしく書きつがれてゆく言葉を絶ち切るといって芸当はどうもできそうにない。いったい、どうすればよいか。(蓮實重彦「皇太后の睾丸」『反=日本語論』所収)

藤枝静男は戦後、奥さんの実家浜名郡積志村(現浜松市に合併)で家業の眼科医を手伝われ、その後四十二歳時(1950年)、浜松市内に眼科医院を開業している。このあたりの土地もわたくしには親しい。わたくしの一家は、浜名湖の古い旅館に宿泊して海水浴する習慣があった。

わたくしの遠縁が住んでいた三ケ日近辺にもしばしば小旅行されたことを書き綴る藤枝静男への変則的なオマージュとして、「毅」とは程遠いながら、幼少時の夏の思出とでもすべき文を挿入しよう。

…………

小学校の夏休み、叔父たちにつれられて、奥浜名湖の三ケ日にある谷川での鮎獲りに何度か出かけた。母方の祖父が始めた小さな事業の従業員慰安旅行のようなものだったのだろう、かなり多人数の参加があり、肉体労働の逞しさをみせる男たちが川に潜って銛を使い鮎を突き刺す。三人の伯叔父たちももちろんその仲間に加わり、少年も促されて銛を手に持ってみはしたが巧く扱えない。谷川の深みの上流と下流のそれぞれに川幅いっぱいに網を立てて張ってあり、追い込まれた鮎が彷徨い逃げている。それが潜水眼鏡の端を頻りに掠めるのだが手掴みという具合にはいかない。深い処は、三、四メートルほどは間違いなくあり、臆病で華奢な少年は筋骨隆々とした敏捷な男たちの邪魔にならないように比較的浅い場所でパチャパチャと鮎を追いかけるのが関の山だ。向かいの崖の上には遠縁のみかん農家があり、そそり立った白灰色の岩の壁とその崖上の蒼黒い喬木が日ざしを遮り、深みの水は碧色に沈む。だが石ころだらけの河原はバス何台かで訪れた従業員家族が憩うに十分の広さをもっており、そこでは日の光は十分すぎるほどふり注いでいる。よく乾燥して日なたくさい岩を腰かけのようにした女たちは、川底から水滴をはじき飛ばして浮び上ってくる男たち、その片手を高々と掲げて銛の先に銀色に輝き跳ねるものを見やって、つばびろの麦藁帽の翳になっていた顔を上方に傾け輝かす。《あなたは初夏の光の中で大きく笑った。わたしはその日、河原に降りて笹舟を流し、あふれる夢を絵の具のように水に溶いた。空の高みへ小鳥の群れはひっきりなしに突き抜けていた。空はいつでも青かった。わたしはわたしの夢の過剰で一杯だった。白い花は梢でゆさゆさ揺れていた》(大岡信)捕獲された鮎は手ごろな石を囲炉裏状に組み、串刺しにされ塩をまぶした鮎を炭火で炙ってかぶり喰う。あのときほどに鮎が旨かった記憶はその後ない。それは夏の日のかけがえのない記憶のひとつ。

…………

それ以外にも当地に住むようになって、次男と姪の会話ーー姪とは、ほとんど毎日曜日遊びに来る息子の一歳上の従姉なのだがーーその幼いふたりの風呂場での会話を偶然耳にして苦笑しつつ、藤枝静男の文を痛いように思い起すなどということもあった。

当地の隠語では、女陰をダイヤモンド(金剛石)という意味の言葉でいう(キンクン)。男性器のほうは金の塊という(コプヤン)。

ねえ、あんたコプヤンある?
あたしはキンクンよ

「金剛石も磨かずば/珠の光は添はざらん」とひそかに口ずさむことになる。

キンクンも磨かずば/コプヤンの光は添はざらん


ここでなぜかヴァレリーの「若きパルク」の冒頭三行を挿入する。

《すぎゆく ひとすじの風ならで 誰が泣くのか?
いやはての金剛石〔ほしぼし〕とともにひとりある このひとときに ……
誰が泣くのか? だが その泣くときに かくもわが身に近く。》(中井久夫訳)

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86)





白と云っても実際は薄クリーム色で、実も黄色っぽい色をしている。 十年ほどまえ志賀直哉氏が「珍しいからと云ってこのあいだ植木屋が持ってきてくれたんだ」と喜んで見ておられたが、昭和三十九年の十一月一日にうかがうと客間の南側の間近い低い塀の 前に大きい実をいっぱいにつけていた。氏は満足そうな顔をして私の注意をうながし「うまいから持って帰って食ってみたまえ」と云われて、鋏を鳴らしながら大きめの二個を選んで枝のまま切って下さっ た。私は浜松に帰るとその甘い実を一個食いつくしたのち、種を乾かして蜜柑箱にまいた。(略) 私の蒔いた種は、一年して無数の芽が出たので丈夫そうなのを選んで二回移植したのち鉢に 移し、二年して四〇センチばかりに伸びたところで四本を庭に二本を故郷の家に植えて、一本を弟 にやり二本は鉢のまま志賀さん方に持って行った。その次うかがうと「あれは瀧井と網野さんにやっ た」と言われた。 家の玄関前に植えた二本が、高さ三メートルほどに育ったと思うと 昨年になって急に沢山の花をつけ、続いて細い枝が地に垂れ下るほ ど沢山の実をむすんだ。そのころから志賀さんの身体の衰えがひどくなりはじめたことを聞き、またごく稀にうかがって客間のベッドに静かに寝ておられる姿を拝見したりしたので、家に帰って白柘榴の実がだんだんにふくらんでくるのを見るたびに、早くこれを切っておめにかけたいと願わぬことはなかった。その一粒二粒を口に入れて微笑される場面を空想したが、しかし正直に云うと「もうそんなことは面倒になった」というふうにチラリと見て首をふられる様を心細く思い浮かべることの方が多かったのだ。そのことはもう入院されていた。( 『藤枝静男著作集第一巻「白柘榴」』より)