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2014年3月16日日曜日

犬のお尻にほれてしまえば、 犬のお尻もばらの花

以下の文は、前回引用された、ルソー『エミール』の三つの格率ーーそれになんとか結びつけようと当初は考えたプルーストの「同情」をめぐる叙述だが、やはりそんなオロカな真似はやめて(だがいささかの痕跡は残して)、ほぼ純粋に文章を楽しむことにする。

《われわれのすぐそばで日々の生活の卑俗さのなかにいる連中よりは、よく知らぬ人々、想像に描く人々のほうに、われわれはより多くの同情をよせる》(失われた時最終巻「見出された時」)

あるいは、《彼女から遠く離れている人間の不幸ほど彼女のあわれみをそそったことを私は知った。》(失われた時第一巻「スワン家のほうへ」)

ーーここでキルケゴール=ジジェクを挿入しておこう。

《I admire Kierkegaard — he was a genius. Do you know what he said about the idea of "love thy neighbor?" You should take it literally. You should love your neighbor as if he were already dead, because the only good neighbor is a dead neighbor.》

…………

プルーストの小説『失われた時をもとめて』の主要登場人物シャルリュス男爵は当時の仏国で屈指の名門家系の出として設定されている。成り上がりのブルジョワたちを嘲弄するとともに、《憐憫の情が深く、相手が敗北者だとわかると胸が痛む》つねに弱者の味方である人物として描かれている。下記に引用される文は第一次世界大戦時の叙述であり、その前後の文章から、ブルジョワたちの権勢の猖獗が顕著になった時代だと読むことができる。シャリュリス男爵の心の内では、成り上がり者たちは、かつての社交界で君臨した花形のポジションを奪ってしまった手合いであり、彼は《時代から取り残されている》。シャルリュス男爵は己れの係累に属するものたちが戦争の成行きの決定権をもった「タレーランやウィーン会議の伝統」に郷愁を抱く人物なのだ。《世俗的な社交界の雰囲気のなかから、歴史と、美と、絵画性と、諧謔と、はなやかなエレガンスをふくむ、一種の詩情をひきだすことのできた詩人》として振舞っていた彼を社交界はもはや必要とはしてない。

他方、成り上がり者たちは、政財界や軍部にわたりをつけて情報提供者として会話の花形となっている。新聞発表以前に知りえた政府の公式発表を参列者に告げ得る役割を担っているのだ。

《一般の人が翌日またはもっとおそくでなくては知らないことを、せめて電話でなりとも、きいてからでなくては、誰一人として眠れなかったであろう》とは、かつてはたかだか芸術愛好家のサロンの女主人にすぎながった新興ブルジョワのヴェルデュラン夫人やそのまわりの者たちの様子だが、電話をするのは、総司令部のしかるべき高官のところにである。

下に書かれるシャルリュス氏が憐憫の情を振り向ける相手は、敗北者とあるように、《自分より同情すべき人》であり、かつ名門貴族の格式が地に堕ちたことが明らかである当時は、己れを《自分もそれを免れていない》(ルソー 第二格率)敗北者とひそかに感じていたということがいえるかもしれない。それ以外にも、もちろん、倒錯した男色家としてソドムの館に出入りする男爵には「刑を宣告された人間の苦悩で骨身をけずられ」る要因は、充分にある。シャルリュス男爵は、いかがわしいホテルに入りびたって、人殺しの牛乳配達とか、外国人の自動車運転手とかいった「下層社会の人間」たちの、ときに「残忍性が足りない」と思われもする鞭の一撃に裸身をさらすという快楽にふけっているわけだから。ーー《「あの子がいては言いにくかったものだからね、あれはたいへん素直で一所懸命やってくれる。だが残忍性が足りないと思うんだ。顔は気に入った、だが教えられたことを復習するような調子で、ぼくを極道と呼ぶんだよ。」――「とんでもない! 誰もひところも教えてはいませんよ」とジュピアンは答えたが、そんな言いわけがいかにもうそのようにきこえることに気づきはしなかった。》


……シャルリュス氏は、憐憫の情が深く、相手が敗北者だと思うと、胸が痛むのであった、彼はつねに弱者の味方だった、彼が裁判の諸記録を読まないのは、刑を宣告された人間の苦悩で骨身をけずられたくないからであり、裁判官と、刑の執行者と、「裁きがおわった」のを見てよろこぶ群衆とを、一思いに殺してしまえないことで骨身をけずられたくないからだった。いずれにしても、彼にとってたしかなのは、フランスがもはや敗北しそうもないということであり、逆に、彼にわかっているのは、ドイツが飢えに苦しみ、早晩無条件降伏をしなくてはならないだろうということであった。この考もまた、彼がフランスに生きているという事実によって、彼にはいっそう不愉快なものになるのだった。ドイツの思出は、なんといっても彼にとってははるかに遠い過去であり、それにひきかえ、フランス人たちときたら、彼に不快な思いをさせるようなよろこびようでドイツの壊滅を語っていて、彼にはその欠点が見えすいている連中、反感をそそる面構えの連中ばかりなのだ。そんな場合、われわれのすぐそばで日々の生活の卑俗さのなかにいる連中よりは、よく知らぬ人々、想像に描く人々のほうに、われわれはより多くの同情をよせるのである、といっても、そのとき、われわれがまわりの連中に完全に同化し、彼らと一体でしかないというならべつで、愛国心はよくあのような奇蹟をなしとげるのであり、人は恋のあらそいで自分の立場をまもるように、自分の国をまもるのである。(プルースト「見出された時」 井上究一郎訳 文庫 p154)

もっとも《われわれのすぐそばで日々の生活の卑俗さのなかにいる連中よりは、よく知らぬ人々、想像に描く人々のほうに、われわれはより多くの同情をよせる》と書かれたあと、すぐさま《われわれがまわりの連中に完全に同化し、彼らと一体でしかないというならべつ》とあることにも注目をしておこう。これはラカン派文脈なら「想像的同一化」と呼ばれるものだ、


《よく知らぬ人々、想像に描く人々のほうに、われわれはより多くの同情をよせる》をめぐっては、冒頭に抜き出したように、プルーストの長い小説の第一巻「スワン家のほうへ」に家政婦フランソワーズの描写に似たような叙述がある(最終巻「見出された時」と第一巻は、草稿研究によればほぼ同時期に書かれたとされる)。

たとえばレオニー叔母はーーこのころ私がまだ知らなかったことだがーーフランソワーズがその娘や甥たちのためなら惜気もなく命を投げだしたであろうのに、他人には奇妙に冷酷であることを知っていた。にもかかわらず、叔母はフランソワーズを家にひきとめていた、というのも、フランソワーズの冷酷さは知りながら、その奉公ぶりを買っていたからだ。私にすこしずつわかったことは、フランソワーズのやさしさ、悔いあらため、さまざまな美徳が、下台所のさまざまの悲劇を秘めていたことで、教会のステーンド・グラスのなかに合掌した姿で描かれている王や王妃の治世が血なまぐさい事変に色どられたことを歴史があばくのと似ているのである。身内のものを除けば、彼女から遠く離れている人間の不幸ほど彼女のあわれみをそそったことを私は知った。新聞を読んでいて、彼女が見知らぬ人たちの不幸に流すおびただしい涙は、すこしでも明確に当人を思いうかべることができると、たちまちとまってしまうのであった。下働の女中がお産をしてからあとのある夜なかに、この女がはげしい腹痛に襲われた、ママはその悲鳴をきくと、とびおきて、寝ているフランソワーズを起こしたが、フランソワーズは平気で、そんな泣声はみんなお芝居だ、「奥さまぶり」たいのだ、と言いはなった。そういう発作をおそれていた医師は、私たちの家にそなえてあった医書のその症状が記載されているページにしおりをはさんで、最初にどんな手当が必要であるかを知るときに参照するようにと教えてくれていた。母はしおりを落とさないようにと注意をあたえながら、フランソワーズにその医書をさがしにやった。一時間経ってもフランソワーズはもどってこなかったので、腹を立てた母は、フランソワーズがまた寝てしまったのだと思い、私に自分で本棚のことろへ見に行くようにといった。私はそこにフランソワーズがいるのを見つけたが、彼女はしおりがはさんであるところをひらき、その発作の臨床記述を読んでいて、そこに出ている彼女が知りもしないあるモデル・ケースの病人の身の上に声をあげてすすり泣いているのであった。解説書の著者が挙げている苦しい徴候の一つ一つに彼女は大きな声をあげていた、「なんとまあ! 聖女さま、そんなことがあるのでしょうか、神さまが不幸なひとをこれほど苦しめようとなさるなんて? ああ! かわいそうなひと!」

ところが、私に呼びとめられ、ジョットーの慈悲(下働きの女中のあだ名、スワンの命名による:引用者)のそばにもどるやいなや、フランソワーズの涙はたちまち流れなくなった。彼女のお手のものであり、彼女が新聞を読んでいてしばしばそそられた、あわれみと涙もろさのあの快い感覚も、またそれど同系統のどんなたのしさも、真夜なかに下働の女中のために起こされたというにくらしさといらだたしさで、何一つ感じることができず、さきほどの記述にあったのとおなじ苦しみを目のまえにしながら、彼女はおそろしいあてこすりさえまじった不機嫌な小言を口にするだけであった、そして自分のいうことが部屋を出ていった私たちにもうきこえるはずがないと思ったとき、彼女がいったのはこうだった、「この女もあんなことさえしなければこうはならなかったのに! さんざんおたのしみをしたのだからね! いまさらもったいぶるのはごめんだよ! とにかくこいつといっしょになったために、あたら若い男が一人神さまから見はなされなくてはならなかったのだもの。ああ! 死んだ母さんの田舎の言葉でよく人がこういっていた、

犬のお尻にほれてしまえば、
犬のお尻もばらの花。」(プルースト「スワン家のほうへ」井上究一郎訳 厚表紙版 P154-159)

…………

シャルリュス男爵のブルジョワ侮蔑、その成り上がり者批判に戻れば、成り上がり者といえば、関西人にとって関東、あるいは東京人は成り上がりものという意識がいまだどこかにあるのかもしれない。わたくしが比較的よく読む「穏和で品位高い」奈良盆地生まれで神戸に住む中井久夫の文章には、その侮蔑の毒をほのかに垣間読める、--いや時にそういう錯覚に閉じこもることができる。

現地は精神科医はもう間に合っているようだということを厚生省の現地本部は中央へ報告しているが、これは人間の疲労度を知らない話である。最初の三日間というのは大体食料補給無しで頑張ってるが、被災地で自己激励してやれるのは三日であり、三日以後になると過剰な自己激励で躁状態になり、ついには躁病になり急に鬱に転じて自殺した人も残念ながらいないわけではない。だいたい三日経つと視野狭窄が起こり、とにかく目の前の仕事をやるというふうになってくる。それで頑張れるのが七日で、七日目になるとやはり士気の低下が目立ってくる。

私はこの時に九州の大学にとにかく緊急に来てくれと要請した。どうして九州かというと、九州人というのはこういう時、理屈をいわないであろう、助けてくれといって断らないだろうというのが私の読みであった。おそらく東京だと大会議を開くのではないかと思った。これはたいへん失礼な推測だがやはりそうであった。

九州は「二時間後に送る」「一切の費用は自己負担でやる」「費用は君達に心配かけない」と言ってきた。このことの最大の効果は、とにかく援軍が来る、そう聞くと残ったスタミナを安心して使い果たせるのである。(中井久夫「災害がほんとうに襲った時」ー「再・読とは傑作ねえ! 何よ! そんなもの、とんでもない」より)



◆「微視的群れ論」(中井久夫 『精神科医がものを書くとき』〔Ⅰ〕より)

雑踏・人の流れ


神戸の町を歩いていますと、人間と人間の間隔が広いということを感じます。元町通りなんていう繁華街でも、人間と人間とのあいだが透けて見えるんです。神戸にも多少のラッシュアワーはありますが、東京のようなラッシュアワーではない。みな次の電車を待ちます。無理して乗らない。

都市それぞれには定数のようなものがあって、大阪に行けば、大阪ってなんて人が多いんだろうとぼくらは思うし、東京に来ると、さらにさらにそう思います。ぼくは東京で神戸にいるときのように行動するかというと、そうではないですね。定数に応じて行動形態が違ってきます。東京では雑踏のなかに身をゆだねます。しかし、神戸なら、誰もそういうゆだね方をしないし、私ももとよりです。こういう混み合いのかたち、あるいはどの程度の混み合いとするかというのは、場所によって違うんですね。私は、それぞれの町によって、自分が変身する、群れのなかで自分が変身していくということを感じますね。私だけではないでしょう。

(……)

東京や大阪の雑踏をただちにアジア的雑踏と言っていいのかどうか、わからないですけれども、インドネシアのバンドンという古い町に行ったわずかな経験ですが、そこは一人か二人歩けるぐらいの市場なんです。両側はぎっしり店で、商品が両側にそそり立つ中を人が行くんだけれども、その中に入ってしまえば、それほど苦痛ではない。それなりに楽しいものなんですね。むろん、その時に自分のペースを主張しすぎると、それは大変な苦痛ですね。

両側の店の人が声を掛けてくるし、前も後ろも人が詰まっている。ある人は突然閉所恐怖に襲われるかもしれないけれども、水泳と同じで、いったん水に入って馴染んでしまえば何ということはない。ある臨界線さえ通りこえれば何ともないわけです。夜店の雑踏をうんとつめ合わせたようなものですね。

さて、こういう定数の違いは国単位なのか、都市単位なのか。都市単位でしょうね。人間がつくった都市というのは、エルサレムでも何でもそうですけれども、千年単位でもちます。しかし、国というのはそんなにもちませんね。日本も、応仁の乱あたりで一編切れたと考えてもいいぐらいだと、司馬遼太郎さんは言っておられるけれでも、都市というのはしぶとい。

私は、二十八歳ぐらいではじめて東京に出てきたんですけれども、東京の知識人というのは、時間が明治維新から始まるんですね。関西では、明治維新というのは、ある過程の中のひとつの中間駅にすぎないんだけれどもーー。始まりというのは、だいたい織田信長から徳川家康あたりです。あのあたりから「現在」なんだという意識ですね。ぼくは東京に出てこんなに明治維新が大きな比重をもっているのかと思って、非常にびっくりしたものです。

実際、京都の町並みなどは、江戸の中期のものを反映しています。奈良と和歌山にある私の両親の実家も、私が子どものときに二百五十年たっていた家でしたから、二百五十年までは実在感、連続感、現在感があったわけです。たしかにそこから先は茫漠としています。しかし、島根県とか兵庫県の播磨のあたりみたいに戦乱がないところだと、鎌倉時代まではすっと行ってしまうらしい。

私は行ったことがないけれども、エルサレムなんていうのは、ここをキリストが歩んだという石畳が残っていて、オリーブの園も残っている。二千年前の当時としては小さな事件の跡が生きている。つまり、都市それぞれの歴史に、人間を方向づけるような歩き方から、振る舞い方、人間と人間の距離の取り方までを、規定するところがあるという気がしますね。当然かな。

だから、ある町に引っ越していって溶け込めるかどうかということも、そういうことと関係しているのではないかな。田舎の何とかという町へ赴任したけれども、さっぱり溶け込めないといっても、溶け込むとはどういうことをいうのか。その町の重要人物と知り合いになって付き合うことですか? 土地の人がそうしているかというと、べつにそういうことはないですね。ある村に生まれついて、村の指導者層とは全然付き合いがなくても、では溶け込んでないと言えるかどうかというと、そうじゃないですね。もっと都市固有のリズムとか時間とか、あるいは匂いとか、肌ざわりとか、そういうものに、うまく乗るかどうかというようなことなんでしょうね。

日本人論なんかのなかには、その人が育ったところが日本だと思っているようなところがあって、「ぼくも日本にいるけれども、そうばかりは言えないよ」ということが、それぞれいっぱいあるのではないでしょうか。

アジア的雑踏ということに関して、大阪というと、大阪――台北――シンガポールというように連続するものがあるだろうと思うんです。大阪の雑踏はアジア的雑踏といえても、東京の雑踏というのはどうなんでしょうか。

私が東京にいたころと、いまの東京の雑踏とは、ちょっと違うかもしれません。東京という都市は、オリンピックから変わったのかな。

私は、一九六四年ぐらいから七五年までいましたから、ちょうど変わるときを見ていたんだけれども、東京だろうが大阪だろうが戦後のヤミ市の雑踏は、まさにアジア的雑踏だったと思います。これは記憶にありますよ。一九八〇年にバンドンに行って、自分の少年時代に再会したという感覚をもちましたね。ほっとして、気がゆるんだくらいです。