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2014年3月11日火曜日

みにくさはたやすく美しくなるような顔立ちにおいていっそうよく目立つ

 《生まれつきよく出来た人といわれている人間は、自己統御をまったく怠ると、最悪のところまで、しかもひとより早く達することが、しばしばある》(アラン)

《みにくさは、たやすく美しくなるような顔立ちにおいて、いっそうよく目立つ》

――だな。

スピノザという人はわかりにくい師匠だ。そうはいっても、彼を底まで理解しなくても、おそらくそんなことは断念しなければならないのだが、彼のほとんど激烈といってもよい言い方のうちに、こんな意味を読み取ることはできよう。美徳は英雄的な自己愛である。他人の完成によって自己を救うことはだれにもできないからだ。いや、人は自己の誤謬をもって真理を作り出さねばならない。そして、自己の怒りをもって公憤を、自己の野心をもって高邁を作り出さねばならぬと。打つその手が手伝いうる。憎むその心が愛しうるのである。言いつけを少しも守らぬ子供に、こんなにいっているのがよく聞かれる、「姉さんを見習いなさい。あんな風におとなしくしているものだ。」茶の毛で痩せた女の子に、その姉のようにブロンドになってよくふとりなさい、などと忠告さえしかねないだろう。美は各人に固有のものであり、各人に固有な調和にもとづくものだ、とまでいいたいと思う。なぜなら、美の一定基準というごときものは絶対にないからである。それに、私がしばしば指摘したように、美の常識的概念にもとづくなら美しいといえる顔立ちは、恐怖、羨望ないし悪意によってたやすく醜悪になるものである。みにくさは、たやすく美しくなるような顔立ちにおいて、いっそうよく目立つ、とさえいえる。同様にして、強情と偏見は、たくましい精神、そして生まれつきよく出来たと人からいわれそうな精神において、いっそう目ざわりだといえる。だが、ひとの気に入りたい誘惑に屈服するなら、よく出来た精神とは何か。いかに小さなことがらにしろ理解しうるなら、出来のわるい精神とは何か。その精神が理解というあの動きをなす、ということ。それなら、それはまさに、正しき精神である。明日のために正しき精神とはちがう。だが、明日のために今日ただしくあるような精神がどこにあろう。誤謬はだれにとってもたやすい。多くを知っているつもりの人にとっては、おそらくなおたやすい。まさにこのゆえに、歩みののろく、そして夢想の厚い雲に掩われている精神のほうが、しばしばはるかに遠くにまで進むのである。しかし、彼らのどちらも、それぞれどこへ行くにしろ、めいめいは自分の足でゆくところまでゆくであろう。隣人の足を使ってゆくわけではない。(アラン プロポ「性格と教育」『人生語録集』(プロポ集 )所収 彌生選書 1978 井沢義雄・杉本秀太郎訳)


《強情と偏見は、たくましい精神、そして生まれつきよく出来たと人からいわれそうな精神において、いっそう目ざわりだといえる》、あるいは《ひとの気に入りたい誘惑に屈服する》ともある。

ところで貴君は小生の書き物は批判ばかりだって言うがね、批判=自己吟味なんだよ、わかんねえかな。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! 感受性の強い人で、自分自身がおさえている涙を他人の目に見てやりきれなくなる人がいるものだ。愛情があっても、またときには愛情が大きければ大きいほど、分裂が家族を支配することになるのは、あまりにも類似点が大きすぎるせいである。(プルースト『囚われの女』井上究一郎訳)

《……つまり、われわれとは正反対の人間よりも、むしろわれわれに似そこなっている人間がそそる反発がそれであって、われわれはそうした人間のなかに自分がもっているよくない部分を見せつけられるのであり、自分がやっとそこから救われた欠点が、いまの状態になるまでに自分が人からそう思われていたにちがいなかったものをいまいましく思いださせるのである。》(プルースト「ソドムとゴモラ」)

性格の法則を研究する場合でさえ、われわれはまじめな人間を選んでも、浮薄な人間を選んでも、べつに変わりなく性格の法則を研究できるのだ、あたかも解剖学教室の助手が、ばかな人間の屍体についても、才能ある人間の屍体についても、おなじように解剖学の法則を研究できるように。つまり精神を支配する大法則は、血液の循環または腎臓の排泄の法則とおなじく、個人の知的価値によって異なることはほとんどないのである。(プルースト「見出された時」)

…………


《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)

――フロイトがそう言っている(ここでのフロイトは、正常さの典型とみなされるだろう)。(ロラン・バルト『恋愛のディスクール』「嫉妬」の項より)

「排他的」という語を、「差別的」と置きかえてみるなら、愛は「差別的」だよ。

母の愛を掠めとる乳幼児や父の存在に嫉妬するなら、ひとは生まれながら「差別的」なのだよ

《私自身、幼児が、まだ口もきけないのに、嫉妬しているのを見て、知っています。青い顔をして、きつい目で乳兄弟を睨みつけていました。》(アウグスティヌス『告白』)

われわれの出発点はやはり、われわれが理解できると思われる状況であって、それは母のかわりに知らぬ人を見つけた乳児の状況である。乳児は対象喪失の危険についての不安とわれわれに解釈される不安を示す。だがこの不安はいかにも複雑で、立ち入った検討を要する。乳児の不安についてはなんの疑いもないのだが、表情や泣くという反応は、彼が不安のほかに苦痛を感じていることを推定させる。のちには区別されるいくつかのものが、乳児では一緒になっていると思われる。一時的に見えなくなることと、つづいていなくなることが、まだ区別されていない。母が一度目の前から消えると、乳児は、母をもう二度と見られないかのように思いこんでしまう。母がこうして消えてもまだ現われるのだということを、乳児が学ぶまでには、何回も繰り返してなだめられる経験が必要である。母は、だれもが知っている遊び、顔をかくしてまた出してみせてよろこばせる遊戯「いないいないばあ」をして、この大切な知識を乳児に教えるのである。乳児は、いわば絶望をともなわぬ憧れを感ずるようになる。

《母の見えないという状況は、乳児が誤解しているせいで外傷的状況になるのであって、けっして危険の状況ではない。いやもっと正しくいうと、乳児がこの瞬間に、母によって満足〈=解消〉させてもらわねばならない欲求を感じていてはじめて、外傷的状況といえるのであり、この状況は、この欲求が当座のものでなくなると危険状況に変わるのである。》自我がみずからみちびく最初の不安条件は、対象の喪失と同じに考えられる知覚の喪失である。愛情の喪失はまだ現われていない。もっと大きくなると、対象はちゃんといるが、ときどき子供に意地悪をする、という経験をする。そしてこんどは、対象からの愛情を失うことが、新たな永続する危険と不安の条件になるのである。 (フロイト『制止、症状、不安』人文書院 旧訳からだが山括弧の個所は「翻訳正誤表」にて修正――「部分欲動と死の欲動をめぐる覚書」より)


アラン曰く、《人は自己の誤謬をもって真理を作り出さねばならない》というわけで、たとえば「差別的」言動に激しい反撥をするひとは、すべてではないかもしれないが、かつて(あるいは今も)、ひどく「差別的」な人間なのかもしれない、と疑ったほうがいいんじゃないか。

すなわち、《自分がやっとそこから救われた欠点が、いまの状態になるまでに自分が人からそう思われていたにちがいなかったものをいまいましく思いださせる》のかもしれない、と。

だが、これが「正義」の原動力なのかもしれないし、それまで批判するつもりはないね。

すなわち、《自己の怒りをもって公憤を、自己の野心をもって高邁を作り出さねばならぬ》〔アラン)

このあたりのメカニズムを意識的にせよ無意識的にせよ分かっている人は、「差別」に直面しても平然としていることがあるかもしれない。

その人間とまったく差別に無関心な人間との区別がつき難いのがやっかいなのだが。

つまり「完全な無視」をしているナルシシズム(自己愛)の人間がいるわけで、《もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している》というわけだな

器質的な痛苦や不快に苦しめられている者が外界の事物に対して、それらが自分の苦痛と無関係なものであるかぎりは関心を失うというのは周知の事実であるし、また自明のことであるように思われる。これをさらに詳しく観察してみると、病気に苦しめられているかぎりは、彼はリピドー的関心を自分の愛の対象から引きあげ、愛することをやめているのがわかる。(……)W・ブッシュは歯痛に悩む詩人のことを、「もっぱら奥歯の小さな洞のなかに逗留している」と述べている。リビドーと自我への関心とがこの場合は同じ運命をもち、またしても互いに分かちがたいものになっている。周知の病人のエゴイズムなるものはこの両者をうちにふくんでいる。われわれが病人のエゴイズムを分かりきったものと考えているが、それは病気になればわれわれもまた同じように振舞うことを確信しているからである。激しく燃えあがっている恋心が、肉体上の障害のために追いはらわれ、完全な無関心が突然それにとってかわる有様は、喜劇にふさわしい好題目である。(フロイト「ナルシシズム入門」『フロイト著作集5』p117)

このタイプの人間は、いわゆる「父権的権威の凋落の時代」、「自我理想」の消滅の時代には、ますます跳梁跋扈するようになっている、というのがジジェクのかねてからの見解だ。

「病的ナルシスト」の出現は、それ以前の二形態の根底に共通してあった自我理想の枠と絶縁する。象徴的法を自分の中に取り入れるのではなく、複数の規則、すなわち「いかに成功するか」を教えてくれる便利な規則がいろいろ与えられる。ナルシスト的な主体は、他者たちを操るための「(社会的)ゲームの規則」だけを知っている。社会的関係は、彼にとってはゲームのためのグラウンドである。彼はそこで、本来の象徴的任務ではなく、さまざまな「役割」を演じる。本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者(アウトロー)として経験する。(ジジェク『斜めから見る』ーー現代の「病的ナルシスト」たち、あるいは「母なる超自我」と「内的な自由」


いくらでもヴァリエーションはある。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

で、「差別」に対してどう対応したらいいのだろう。わからんね、ーーというかオレもナルシシストの一員かもしれないからな、たぶん。犠牲者に「本気で同情する」だけではラチが明かないのはたしかだよ。

……たとえば、ユダヤ人虐待のための暴動を例にとろう。そうした暴動にたいして、われわれはありとあらゆる戦略をとりうる。たとえば完全な無視。あるいは嘆かわしく恐ろしい事態として憂う(ただし本気で憂慮するわけではない。これは野蛮な儀式であって、われわれはいつでも身を引くことができるのだから)。あるいは犠牲者に「本気で同情する」。こうした戦略によって、われわれは、ユダヤ人迫害がわれわれの文明のある抑圧された真実に属しているという事実から目を背けることができる。われわれが真正な態度に達するの葉、けっして比喩的ではなく「われわれはみんなユダヤ人である」という経験に到達したときである。このことは、統合に抵抗する「不可能な」核が社会的領域に闖入してくるという、あらゆる外傷的な瞬間にあてはまる。「われわれはみんなチェルノブイリで暮らしているのだ!」「われわれはみんなボートピープルなのだ」等々。(ジジェク『斜めから見る』p260

社会で生きていくには、たとえばサラリーマンなどやっていれば、「笑顔・優しさ・癒し・生き甲斐・許し」を顕揚するのも分かるけど、小生は幸か不幸か、その立場にはないから、それだけはやめとこうという態度を取ることができるってわけだな。

@AtaruSasaki: 「怒りはネガティヴ」「ポジティヴに」と言い「笑顔・優しさ・癒し・生き甲斐・許し」などを他人に「強制」する。そして正当な要求を前もって怨恨扱いして封じ込める。ビジネス書で撒き散らされる自己啓発的思考の罠、搾取する側に都合がいいプロパガンダ。ハッキリ言おう。これは最悪最低のカルトだ。(佐々木中)

ーーで、またつっこむなよ、資料を並べただけで、「同情」やら「差別」「正義」のメカニズムってのは、オレの知りうるかぎり、誰もがたいしたこと言ってないんだから。まあせいぜいこの程度だね。

社会的公正の意味するところは、自分も多くのことを断念するから、他の人々もそれを断念しなければならない、また、おなじことであるが他人もそれを要求することはできない、ということである。この平等の要求こそ社会的良心と義務感の根元である。(フロイト『集団心理学と自我の分析』)
ラカンは、ニーチェやフロイトと同じく、平等としての正義は羨望にもとづいていると考えている。われわれがもっていない物をもち、それを楽しんでいる人びとに対する羨望である。正義への要求は、究極的には、過剰に楽しんでいる人を抑制し、誰もが平等に楽しめるようにしろという要求である。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

人間とは、生まれながらの「差別的」な生き物だ、ということだな、まずはオレの出発点は。それをどう「高邁」に反転するのか、というのは、「聡明な」貴君に任せるよ

浅田彰は、フロイトの死の欲動とニーチェの永劫回帰に結び付けつつ(あるいはドゥルーズ、さらにはフーコーの「自己統御」を)、こういう発言をしたことがあるがね。《力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。》(『批評空間』1996-Ⅱー9 座談会「悪い年」を超えて(坂本龍一/浅田彰/柄谷行人)


…………

※附記


アランの本名は、エミール=オーギュスト・シャルティエで、父親はルソーの『エミール』を読んでいたらしい。『エミール』の教育方針に則って、息子を育てたかどうかは分からないが。いまでは自己啓発書的に読まれるアランだが、けっしてそれだけではない。

ルソー『エミール』より。

第一の格率

人間の心は自分よりも幸福な人の地位に自分をおいて考えることはできない。自分よりもあわれな人の地位に自分をおいて考えることができるだけである。 
この格率に例外がみいだされるとしても、それは現実的なことであるよりも、表面的なことであるばあいのほうが多い。だから人は、愛着を感じている金持ちや貴族の地位に自分をおいて考えることはない。心から愛着を感じているばあいにも、その楽な生活の一部分を同化するにすぎない。ときとして、人は不幸な境遇にあるかれらを愛することはある。しかし、輝かしい状態にあるかぎり、かれらのほんとうの友人になれる人は、表面的なことにだまされないで、どんなにかれらが富み栄えていようとも、それをうらやむようなことはなく、むしろあわれんでいる人だけだ。

 ある種の状態の幸福、たとえば田園の牧歌的生活の幸福には、人は心を動かされる。あの幸福で善良な人たちをながめる魅力は羨望の念によって毒されることはない。人はかれらにたいしては心から興味を感じる。それはなぜか。あの平和で純朴な人々の身分に身を落として、同じような幸福を楽しもうとは思えば、いつでも自由にそうすることができることがわかっているからだ。それは考えても愉快に感じられるだけの最低の生活だ。そういう生活は楽しもうと思えば楽しむことができるのだ。いつでも自分に残されている生活手段を見るのは、自分の財産をながめるのは、さしあたってそれをもちいようとは思っていないときでも、いつも楽しいことだ。

 そこで、青年に人間愛を感じさせるには、ほかの人たちの輝かしい身分を感嘆させるようなことはしないで、それをみじめな側面から示してやらなければならない。それを恐れさせなければならない。そうすれば、明瞭な結果として、かれは人が歩いた道とはちがう幸福への道を切りひらいていくはずだ。

第二の格率

人はただ自分もまぬがれられないと考えている他人の不幸だけをあわれむ。
 「不幸を知っていればこそ不幸なかたをお助けしたいと思うのです」この詩句のように美しく、意味ふかく、心にふれる、真実なことばを私は知らない。

なぜ王たちは臣下にたいして無慈悲なのか。けっしてふつうの人間になるつもりはないからだ。なぜ金持ちは貧乏人にたいしてあんなに苛酷なのか。貧乏人になる心配はないからだ。なぜ貴族は民衆をあんなに軽蔑するのか。けっして平民になることはないからだ。なぜトルコ人は一般にわたしたちよりも情けぶかく、快く人をもてなすのか。かれらはまったく恣意的な統治のもとにあるために、個人の地位や財産はいつも一時的なもの、変わりやすいものなので、卑しい身分や貧困を自分に無縁の状態とは考えないからだ。だれでもきょう助けてやっている者と同じような者にあしたにでもなるかもしれないのだ。こういう考えは東洋の物語にたえずくりかえし述べられているのだが、それは読者になんともいえない感動を呼び起こす。それはわたしたちのひからびた教訓のあらゆるこしらえごとにみいだされないものだ。

第三の格率

他人の不幸にたいして感じる同情は、その不幸の大小ではなく、その不幸に悩んでいる人が感じていると思われる感情に左右される。
わたしたちが不幸な人をあわれむのは、その人があわれむべき状態にあると考えられるかぎりにおいてである。わたしたちの不幸の肉体的な感じは見かけ以上にかぎられている。それを連続的にわたしたちに感じさせるのは記憶力なのだ。それを未来にひきのばして、わたしたちをほんとうにあわれな人間にするのは想像力なのだ。共通の感受性はわたしたちを同じように動物にも同化させることになるとしても、動物の苦しみにたいしては人間の苦しみにたいしてよりもわたしたちが冷淡である原因の一つはそこにある、とわたしは考える。荷馬車ひきの馬が馬小屋にいるのを見てあわれみを感じるような人はほとんどいない。その馬は、まぐさを食いながら、さっき打たれたことや、これから骨を折らなければならないことを考えているとは思われないのだ。あの羊はまもなく殺されるだろうとわかっていても、それが草をはんでいるのを見て、やはり人はかわいそうだとは思わない。羊は自分の運命を見透してはいないと考えられるからだ。この考えをおしすすめると、人は人間の運命にたいしても冷淡になる。そして金持ちは、貧乏人を苦しめながらも、かれらは愚鈍だからなんにも感じはしないのだと考えて、みずからなぐさめている。一般的にいって、それぞれの人が自分と同じ人間の幸福をどのくらい重くみているかは、かれらがそれらの人間にたいしてはらっているようにみえる尊敬の程度によってわかるとわたしは考える。軽蔑している人間の幸福を軽く考えるのはあたりまえのことだ。だから、政治家があんなに軽蔑した調子で民衆について語るとしても、多くの哲学者が人間をごくたちの悪い者にしようとしているとしても、もう驚くにはあたるまい。


ラカンによる利他主義の定義: 《私が欲するもの、それは私の善のイマージュに照らしての他者たちの善である》 (SVII, 220)  

私の愛は私の貴重な財産なのだから、十分な理由もなしに大盤振舞いすることなどは許されない。 〔〕私が誰か他人を愛するとすれば、その他人はなんらかの意味で私の愛に値しなければならない。 〔〕その他人が私と縁もゆかりもない人間で、その人自身の価値や私の感情生活にたいしてすでにもっている意味などによって私を惹きつけることができないとすれば、その人間を愛することは私にとって困難になる。それどころか、そんなことをすれば、私は間違いを犯すことになる。なぜなら、私の家族は私の愛を自分たちだけの持ち物だと思っているのだから。  (フロイト『文化への不満』)
人間は、せいぜいのところ他人の攻撃を受けた場合に限って自衛本能が働く、他人の愛に餓えた柔和な動物なのではなく、人間が持って生まれた欲動にはずいぶん多量の攻撃本能も含まれていると言っていいということである。したがって、われわれにとって隣人は、たんにわれわれの助手や性的対象たりうる存在である ばかりでなく、われわれを誘惑して、自分の攻撃本能を満足させ、相手の労働力をただで利用し、相手を貶め・苦しめ・虐待し・殺害するようにさせる存在でもあるのだ。「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)といわれるが、人生および歴史においてあらゆる経験をしたあとでは、この格言を否定する勇気のある人はまずいないだろう。通例この残忍な攻撃本能は、挑発されるのを待ちうけているか、あるいは、もっと穏やかな方法でも手に入るような目的を持つある別の意図のために奉仕する。けれども、ふだんは阻止力として働いている反対の心理エネルギーが不在だというような有利な条件に恵まれると、この攻撃本能は、自発的にも表面にあらわれ、自分自身が属する種族の存続する意に介しない野獣としての人間の本性を暴露する。民族大移動、フン族――ジンギス・カーンおよびティームールにひきいられたモンゴル人――の侵入、信心深い十字軍戦士たちによるエルサレムの征服などに伴って起こった数々の残虐事件を、いや、さらに最近の世界大戦中」の身の毛もよだつ事件までを想起するならば、こういう考え方を正しいとする見方にたいし、一言半句でも抗弁できる人はあるまい。(フロイト『文化への不満』)


「人間は人間にとって狼である」(Homo homini lupus)とはホッブスの言葉であり、一般に「同情」の思想家と思われている反ルソー的立場であると思われているが、ルソーの三つの格率ってのはどうもそれだけではないのだな。


…………

というわけだが、上に引用されたものは単純すぎる。たとえば「愛」についても、愛が「排他的」であるのは間違いないとして、《自己愛の核には根源的な他者性が刻まれているというフロイト的ナルシシズムの論理》(うぬぼれとナルシシズム)が、《人間を社会的にするのはかれの弱さだ。わたしたちの心に人間愛を感じさせるのはわた したちに共通のみじめさなのだ。》(ルソー『エミール』)に繋がることもあり得る。

すなわち、《愛するためには、あなたは自分の欠如を認め、あなたが他者を必要とすることに気づかなければなりません。》(ラカン派における「主体と大他者の欠如」、あるいは「疎外と分離」の覚書)

もっともルソーの考え方の少なくともある側面は、ニーチェの「同喜共歓」によって批判されているのだが。

『悦ばしき知識』より338 苦悩への意志と同情者たち

何はさておいても同情深い人間であるということは、君たち自身の身のためになることであろうか? さてまた、…苦悩している人たちの身のためになることだろうか?

―我々は最も深刻に、最も個人的に悩んでいるものは、他人の誰にもほとんど理解されえないし、窺い知られないものである。…それなのに、我々が苦悩者だと気づかれる際は、いつも、我々の苦悩は浅薄な解釈を蒙る。他人の苦悩から、その独特に個人的な契機を剥ぎ取ってしまうのが、同情という感情の本質に属したことだ。…不幸な人たちに施される大方の慈悲には、同情深い者が運命をいじり回す知的軽率さが見られて、何となく腹立たしい気持ちになる。

同情深い者は、私や君にとって不幸とされているもの、内面的いきさつやもつれの全体について、何ひとつ知るところがない! …彼らは援助しようとするが、不幸の個人的必要性というものが存在することには思いつかない。のみならず私にも君にも恐怖・窮乏・零落・暗夜・冒険・離れ業・失敗など が、その反対のものと同様に必要であることに、いや、神秘的な言いあらわしをすれば、自分の極楽に至る道が、いつでも自分の地獄の歓楽を突っ切っていくも のだということに、思い及ばない。

ああ、君たち安楽で善良なる方々よ、君たちは人間の幸福について何と僅かしか知っていないことか! ―なぜかといって、幸福と不幸とは兄弟であり双生児であって、そろって大きく育ってゆくか、あるいは君たちの場合のように、そろって―小さいままでいるからである!……

……さもあれ私は自分に次のように告げる私の道徳を秘密にしておく気はない、―お前はお前自身を生きうるために、隠れて生きよ!お前と現代との間に、少なくとも三世紀の皮膚を張りわたせ! …お前とて人を助けようとはするだろうが、しかし、お前と苦悩を一にし希望を同じくするがゆえに、その人の憂苦をお前が残らず了知している者たちだけを、助けよ、―つまり、お前の友達だけを助けよ。それも、お前がお前自身を助けるようなやり方でだけ助けるがいい。―…私は、彼らに、こんにちごく僅かな者だけが理解して、あの同情共苦の説教家たちがほとんど理解しないものを、教えようと思う、―つまり同喜共歓をだ!

ーーで、そのうち? ゆっくり捕捉するかもしれない。