このブログを検索

2014年3月18日火曜日

「欲動融合Triebmischung」と「差別」欲望

まずはポール・ヴェルハーゲの文を英訳のまま引用するが、これは読み飛ばしてもいい。個人的な資料である。

Eros has elements of fusion, amalgamation, the interconnection of disparate elements to form a larger entity, the fusion in which separate entities cease to exist. Thanatos is the fragmentation, the explosion, the bursting apart of an entity, the big bang, in which the accumulated force and tension are released and used up. Freud stops at this point and does not discuss the idea any further. A closer inspection reveals that within this argument, the idea of life and death is extremely relative. Thanatos is the death of Eros—the Thanatos drive destroys the unity and causes the greater whole to fall apart into separate elements. Eros is the death of Thanatos—the Eros drive destroys the separate elements by fusing them in one entity. The two drives keep each other going by alternating endlessly. The time perspective is circular, not linear. Isis and Dionysus/Bacchus die and are constantly reborn. In this sense, it is not so much a matter of the contrast between life and death, as Freud thought, but of the contrast between two different forms of life.(Paul Verhaeghe “Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE ”Paul Verhaeghe


エロスとは融合、「接続」の衝動であり、タナトスは分離、「切断」の衝動であると読める。だがエロスとタナトスは多くの場合混淆Triebmischungして働く。

どのような方法でこの二種の欲動がたがいに結合し、混合しているかは、まったく想像できないといってよい。しかし、それが規則的に、かつひろい範囲で起こるということは、われわれの構想では否定しがたい前提である。(フロイト『自我とエス』人文書院旧訳からだが、「本能Trieb」を「欲動」に修正)

上にあえて鉤括弧をつけて、エロスは「接続」の衝動、タナトスは「切断」の衝動としたが、浅田彰は東浩紀氏とのゲンロンカフェ対談における対談にて次のように語っている(もちろんこれは千葉雅也氏の評判の高い書への言及にかかわる)。

connecticutというのをconnecticutとする、直訳すると「接続せよ-私は-切断する」というように、コネクション(接続)とカット(切断)が同義であるようなものとして、リゾームと言っていたわけじゃないですか。

――というわけで、Connecticutやらリゾームは、この発言だけ読むと、なんだかTriebmischung(欲動融合)と似ているな

もっとも、わたくしは評判の書を読んでいないのだが、「つながりすぎ社会を生きる 浅田彰さん×千葉雅也さん」を読むかぎりでは、ただ似ているだけであまり関係がなさそうだ。ーーいや実はなんとか結び付けようとしたのだが、読んでいない書物の概念を勝手に憶測するのはやめにしておくべきだろう。

浅田)「逃走」とは簡単に言うと「マイノリティーになること」。在日韓国・朝鮮人へのヘイトスピーチのように、自分を「日本人」というマジョリティーに同化しようとすることで、激烈な排除が生まれる。しかし、自分も別の次元ではマイノリティーだと気づけば、対話や合意なしでも共存は可能になる。

 そこで、「優等生」は、ネットを使って声なき声を拾い上げ対話を密にするなど、民主主義のバージョンアップを目指す。それはそれでいい。しかし、「優等生」が「マイノリティーの声に耳を傾けよう」と熱弁をふるっているとき、そんな議論自体に耐えられなくて黙って出て行くのが真のマイノリティーたる「不良」でしょう。「切断」の思想は、そうやって対話から逃げる自由を重視する「不良」のすすめだと思います。

 千葉) そうですね。「不良」というのは、社会の多様性の別名ですから。対話を工夫することは必要だとしても、そもそも必要なのは、誰だって様々な面で「不良」でありうる、マイノリティーでありうるという自覚を活性化することである、と。「優等生」の良かれと思っての接続拡大の訴えからも「切断」される自由を認めなければ、「優等生」のその「良かれ」は機能しないということになるでしょう。多様な「不良」を擁護する、それが「切断」の哲学ですね。


さてすこし前にもどれば、ポール・ヴェルハーゲは次のようにも書いている(私訳)。

エロスとタナトスは切り離された欲動ではない。その二つは、生の過程を逆の方向を言い表わす。明らかにされることは、次の典型的な特徴である。二つの方向の一方がより現前化し優勢になると、他の方向がより強くなるということだ。それはエロスとタナトスの二組だけのことではない。ヨーロッパが統合すればするほど、ナショナリストや、さらには地域主義者さえより強くなる。

Eros and Thanatos are not separate drives: they indicate opposing directions for the course of life. This accounts for a typical characteristic—the more one of the two directions is present and predominates, the stronger the other will become as well. This does not only apply to couples. The more a united Europe is achieved, the stronger nationalist and even regionalist trends become. 

女性、享楽、不安はエロスの部分である。男性、ファリックな快楽、悲哀はタナトスの部分である。この性向が意味する分岐は、快楽はあまりにも大きな喪失を生み出すということだ。不安は自我の消滅にかかわり、それが享楽の条件である(たとえば性的融合によってエゴは消え去る刻限があるだろう:引用者)。悲哀はファリックな快楽(たとえばオーガズム)の結果による共生の喪失にかかわる。この観点から言えば、男性と女性の対立は、まったく相対的なものであり、それは能動性と受動性の対立として捉えなおすべきだ、すなわち、どの主体も他者に相対するときに取り得る態度として。

…woman, jouissance and anxiety are part of Eros; man, phallic pleasure and sadness are part of Thanatos. The affect indicates the break where pleasure results in too great a loss: anxiety relates to the disappearance of the ego that is a condition for jouissance. Sadness relates to the loss of symbiosis as a result of phallic pleasure. In this respect, the opposition between man and woman is extremely relative and should be interpreted more as an active versus a passive position, which any subject can adopt vis-a-vis the other. (Paul Verhaeghe 『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』)

ヴェルハーゲの別の論からもうひとつ引けば、次のようにある。

フロイトの快原則の彼岸の発見はエロスとタナトスの対立に終結する。それを理解するには愛と闘争のタームで理解すべきだ。エロスはより大きな統合へのカップリング、合同、合併を追い求める(自我の主要な機能としての合成を考えてみよ)、反対に、タナトスは切断、分解、破壊を追い求める。

Freud's discovery of a Beyond of the Pleasure Principle ended with an opposition between Eras and Thanatos, to be understood in terms of Philia and Neikos. Eros is supposed to pursue coupling, association, and mergers into ever-larger unities - just think of the ego's main function : synthesis. At the other end, Thanatos pursues disconnection, disintegration, and destruction.(『BEYOND GENDER. From subject to drive』)

ここにある「Philia 愛とNeikos闘争」とは、フロイトの晩年の論文1937の記述による。一般にエロスとタナトス概念は、『快原則の彼岸』(1920)に最初に現れたこともあり、そこからばかり引用されることが多いのだが、ーーあるいはせいぜい『自我とエス』(1923)『文化への不満』(1930)などからが目立つーーラカンがフロイトの遺書と呼んだ『終りある分析と終りなき分析』には次のように書かれている。

アクラガス(ギルゲンティ)のエンペドクレスは、ギリシア文化史中もっとも偉大な注目すべき人物の一人のようである。(……)彼は事物がそれぞれにみな異なったものであるという事実を、四つの元素、地・水・火・風の組合せによって説明し、自然のすべてに生命があるということと魂の輪廻とを信じていた。(……)

……この哲学者は、世俗の生活の中の出来事にも、魂の生活の中の出来事にも、互いに永遠の闘争を行っている二つの原理があると教えている。彼はその二つを 愛philia – Liebe と闘争 neikos – Streitと呼んだ。彼にとっては根柢において「本能的にtriebhaft作用する自然力であり、けっして目的を意識した知性ではない」これらの力のうちの一つ、すなわち愛は、四つの元素の原子を集めて一つの統一体をなそうとするものであり、他の一つ、すなわち闘争は反対にこれらの組合せを元に戻して元素の原子をばらばらに分離しようとするものである。彼はこの世界の時間的な発展過程を、さまざまの時期の持続的な、けっして熄むことのない交替と考えている。そして各時期においては二つの基本的な力のうちのいずれかが勝利を得て、あるときは愛が、あるときは闘争がその意図を完全に遂行して世界を支配するのであるが、その後、他の屈服した方の力がその持ち前を発揮して今度は相手を屈服させてしまうというわけである。

エンペドクレスの二つの根本原理――philia 愛とneikos闘争 ――は、その名称からいっても機能からいっても、われわれの二つの根源的本能、エロスと破壊と同じものである。その一方は現に存在しているものをますます大きな統一に包括しようと努め、他のものはこの統一を解消し、統一によって生れたものを破壊しようとする。(フロイト『終りある分析と終りなき分析』人文書院 旧訳


エンペドクレスについては全く不詳の身であるが、この愛philiaと闘争 neikos、すなわちエロスとタナトスの混合衝動に、われわれの日常生活も衝き動かされているといってよいのではないか。

あるいはまた次の文を読んでみよう。

『法哲学』の中で、ヘーゲルは、人間のモノに対する欲求が、他者によって認められたいという社会的な欲望になり、それが逆にモノをのものあるいはモノの獲得の目的になってしまうことを論じた後、次のように述べている。

[欲望の社会化という]この契機は、さらに直接に、他者との平等への要求をそのうちに含む。一方で、この平等化への欲望および自己を他者と同一化したいという模倣への欲望が、他方で、それと同時に存在している、自己を他者と区別させることによって自己を主張したいという独自性への欲望が、それ自身欲望を多様化しかつそれを増殖していく事実上の源泉となるのである。

すなわち、人間の社会的欲望には、他人を模倣して他人と同一の存在であると認めてもらいたい模倣への欲望と、他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望とのふたつがあるのである。(岩井克人『ヴェニスの商人の資本論』)


他人を模倣して他人と同一の存在でありたい欲望とは、本来エロス欲動を基するものなのではないか。そして他人との差異を際立たせ自己の独自性をのぞむ欲望とは、タナトス欲動に基するものではないか。

もちろんタナトスとは上に見られたように攻撃欲動、闘争neikosなのであるから、《他人との差異を際立たせ自己の独自性を認めてもらいたい差異化への欲望》とは、「差別」欲望と結びつくことがあり得る。

非常に多くのものが権力欲の道具になりうる。教育も治療も介護も布教もーー。(……)個人、家庭から国家、国際社会まで、人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。より下位のものがいることを確認するのは自らが支配の梯子を登るよりも楽であり容易であり、また競争とちがって結果が裏目に出ることがまずない。差別された者、抑圧されている者がしばしば差別者になる機微の一つでもある。(中井久夫「いじめの政治学」『アリアドネからの糸』所収)
私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。先の引き合わない犯罪者のなかにもそれが働いているが、できすぎた模範患者が回復の最終段階で自殺する時、ひょっとしたら、と思う。再発の直前、本当に治った気がするのも、これかもしれない。私たちは、自分たちの中の破壊性を何とか手なずけなければならない。かつては、そのために多くの社会的捌け口があった。今、その相当部分はインターネットの書き込みに集中しているのではないだろうか。(中井久夫「「踏み越え」について」『徴候・記憶・外傷』所収)

タナトス、すなわち死の欲動についてはいろいろな解釈がある。上に挙げられたものは、ポール・ヴェルハーゲの解釈をもとに書かれたものに過ぎないのはいうまでもないが、やはり念押ししておこう。

またタナトスが分離、独立、切断の欲動であるとしても、それを「差別」欲望にすぐさまつなげてしまうのはいささか短絡的であるのは十分承知している。

だが多くのひとたちが感じているだろうように、「差別」はなくならない。《人類は権力欲をコントロールする道筋を見いだしているとはいいがたい。差別は純粋に権力欲の問題である。》ーーここに書かれる「権力欲」が「差別」にかかわるのであれば、いっそうのこと。

あるいはまた、《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)であるならば、愛さえ差別的だといってよい。母の愛を独占したいという願いは根源的なものなのだ。そこでは兄弟を、あるいは父を排除することを願う。
主体は、己のa(対象a)への完全な応答を得る/与えるのを確信するために、母他〔(m)other〕を独占したい。だがそのような完全な応答は不可能である。そこにはつねに残余があり、“ Encore”(もっと、またもっと)の必要の切迫がある。“ Drang ”(衝拍、もしくは圧力)は、ドライブ〔欲動の継続〕したままだ。
The subject wants the (m)other all to itself, to be sure of getting/giving a complete answer to (a). Such a complete answer is impossible, there is always a remainder and a necessity for an “ Encore ” : the “ Drang ” keeps driving .……(『Sexuality in the Formation of the Subject』 Paul Verhaegheーー部分欲動と死の欲動をめぐる覚書

ところで、ここで唐突に別の問いかけをしてみよう、ひとは「差別」のない社会をほんとうに望むのか、と。

本当に、そのもっともひどかった時代にすべての共産主義国の映画館に氾濫していたソビエト映画は、信じがたい無辜の善良さで満ち溢れていた。二人のロシア人の間でおこりうる最大の衝突は愛の誤解であって、彼は彼女がもう自分を愛していないと思い、彼女も彼について同じことを思っていた。だが、ラストで二人は抱き合い、幸福の涙に頬を濡らすのである。

今日これらの映画の通俗的な説明は次のようなものである。それらの映画は共産主義の理想を示したものであるが、共産主義の現実はもっと悪いものであった。

サビナはこのような説明に対して反抗した。ソビエトのキッチュなものの世界が現実となり、彼女がそこで生きることになっていると考えたとき、身震いが彼女の背筋を走った。サビナはいささかの躊躇なしに、あらゆる迫害もあり、肉を買うための行列もある本当の共産主義体制のほうを好んだであろう。本当の共産主義世界なら生きていくことができた。共産主義の理想が現実化された世界、白痴が微笑むその世界では、彼女には彼らと交わすべき一語もないであろうし、一週間のうちに恐怖で死んでしまうであろう。(クンデラ『存在の耐えられない軽さ』)

おそらく「差別のない社会」とは統整的理念というべきもので、それを目的として想定しなければならないが、仮にほんとうに実現されてしまったら「白痴が微笑む」身震いする世界でありうる。

われわれは《未知の未来に対して、何らかの目的論を想定する必要がある。理性の統整的使用とは、目的がある「かのように」想定することである。》(柄谷行人『第一回 長池講義 講義録』


※附記:「悪い年」を超えて(1996 批評空間 坂本龍一 浅田彰 柄谷行人)より。

柄谷)後期のフロイト、第一次世界大戦の後、ガンになってからのフロイトは、前記のフロイトから見ると大転回しています。前期では、超自我というのは外から来るものだった。親とか社会とか。前期の精神分析は、現実原則と快感原則の二元論、つまり文化的秩序とそれに抑圧された内なる自然というロマン主義的な構図を出ていない。言い換えると、文化によって抑圧されている自然を解放しようとかいう話になる。ところが、フロイトは第一次世界大戦の後に180度転回する。それは1920年、『快感原則の彼岸』で「死の欲動」という概念を提出してからです。超自我は外的なものではなくて、攻撃欲動が自分自身に向かうことによって形成されるという見方になる。文化の否定が跳梁していた1920年代に、彼はそういう形で「文化」擁護論に回るわけね。ぼくは現在それが非常に重要だと思う。(……)
柄谷)ただぼくは、死の衝動や攻撃衝動は生物学的概念ではないと思うんです。つまり、死の衝動は感情や情動に属するのではなく、むしろカントが「理性」と呼んだものと結びついていると思う。カントにとって、感覚や感情が犯す誤謬などは高が知れていて、理性そのものが犯す誤謬こそが問題だった。理性のやみがたい欲動を何とか抑制しようというのがカントの「批評」の狙いです。しかし、ロマン派にはそういう認識はない、それは、平たく言えば、感情対理性の二元論で、それを想像力(美)によって統合するというものです。そして、ロマン派が保守化すると、現実の秩序が保たれるためには感情を、あるいは快感原則を抑制しなければならない、というようなことをいいはじめる。「成熟と喪失」とかね(笑)。

浅田)子供っぽいロマン派の夢を捨てて、「現実」に「責任」のとれる「大人」になろうという、最近また流行っている擬似ヘーゲル主義もそうでしょ。それこそがいちばん子供っぽいロマン派の考えなんだけど。

柄谷)そうですね。文化に対して自然を回復せよというロマン派と、それを成熟によって乗り越えよというロマン派がいて、それらは現在をくりかえされている。後期フロイトはそのような枠組を脱構築する形で考えたと思います。文化あるいは超自我とは、死の衝動そのものが自分に向かったものだという、これはすごく大きな転回だと思う。彼はある意味で、逃げ道を絶ってしまった。

浅田)ニーチェが言っていたのもそういうことなんじゃないか。力が自由に展開されるとき、それが自分自身に回帰して、自分自身を律するようになる。ドゥルーズやフーコーがニーチェから取り出したのもそういう見方なんで、それがさっきストア派的と言っていた姿勢にも結びつくわけでしょ。