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2014年5月22日木曜日

五月廿二日 冷感症と支配欲動Bemächtigungstrieb

フロイトの著作には、“Bemächtigungstrieb”という用語が1905年に上梓された『性欲論三篇』以降、しばしば出現する。この語は、人文書院旧訳では、支配欲、占有欲、征服欲などと訳されている。岩波書店の新訳ではどうなのかは詳らかにしないが、Triebという語が含まれていることから分かるように、末尾に「欲動」という訳語を使用して訳されているのかもしれない、たとえば「支配欲動」と(人文書院のフロイト著作集においても一部「征服欲動」という訳語が当てられている論がある)。

Bemächtigungstrieb”は、フロイトの標準的な英訳(Freud - Complete Works. Ivan Smith 2000, 2007, 2010)では、“instinct for masteryという訳語にされているようだ(別にinstinct of masteryともいくつかの論文の数箇所では訳されている)。そもそもこの英訳では“trieb”という語自体が、すべて“instinct”とされていおり、ラカンの吟味を経た後なら“drive”とされるところだろう(ラカン派の精神分析医Paul Verhaegheの論文の英訳では、”drive for mastery”となっている)。


以下、試しに訳出したQuirino Zangrilliの小論では、“Bemächtigungstriebという用語が出現する論文としてフロイトの『性欲論三篇』1905、『強迫神経症の素因』1913、『欲動とその運命』1915に言及されているが、これ以外にも、なかんずく後期フロイトの時代(1920以降)の論、『快感原則の彼岸』1920、『マゾヒスムの経済的問題』1924、『文化への不満』1930(岩波書店新訳名『文化の中の居心地の悪さ』))、『ヒトはなぜ戦争をするのか?』1933(アインシュタインとの書簡)などがある。

とくに『マゾヒスムの経済的問題』においては、「破壊欲動とか征服欲動とか権力への意志」(英訳 the destructive instinct, the instinct for mastery, or the will to power)という形であらわれており、フロイトの死の欲動、タナトス概念の周縁をとりまく用語のひとつとしてよい。あるいはまた見てのとおりニーチェの「権力の意志」と並べて書かれてもいる。イタリアの精神分析医Quirino Zangrilliの指摘する以上の含意をもって、後期フロイトではこの”Bemächtigungstrieb”という用語が使われているとしてよいだろう。

たとえばPaul Verhaegheの論文の英訳では、”drive for mastery”が、エロス欲動とタナトス欲動との対立をめぐる叙述箇所に次のように現れる(男性性と女性性をめぐって書かれており、注目すべき箇所なので、やや長く引用する)。

……Rather than interpreting this opposition as masculine versus feminine, it is much more interesting to read it as active versus passive. However, this does not imply that passive represents feminine and active masculine. Freud describes a “drive for mastery” through which the subject tries to master the object. Both man and woman fear being reduced to the passive object of enjoyment of the Other because such a reduction entails the disappearance of a separate existence. As a result, every subject actively strives for independence and autonomy. At the same time, however, everyone–whether masculine or feminine–aims to fuse with the lost part and be reduced to its passive object. This explains why every subject suffers from separation anxiety as well.   (Paul Verhaeghe “Phallacies of binary reasoning:drive beyond gender”)

男性性と女性性は能動性と受動性とされるべきであり、かつ、男性性は能動性、女性性が受動性を意味しない。Bemächtigungstrieb(支配欲動)を通して、主体は「対象」を支配する。というのは男も女も他者の享楽の受動的対象に陥るのを怖れるから、とある。それは「個」としての主体の消滅を伴うので、すべての主体は能動的に独立と自律を求める。だが同時にすべての主体は、受動的な対象になることを目指す、と。

最後の表現は、ここだけ抜き出すといささか奇妙であるかもしれないが、これはエロス欲動にかかわり、エロスとはある大きなものへの融合の欲動(たとえば〈母なる大地〉への)であり、これが受動的な対象になるという意味である。そして融合してしまうということは個の消滅に繋がり、そこから分離しようとする欲動が、ヴェルハーゲの主張ではタナトスということになる(これはラカン派内でも種々の異論があるだろう)。

ヴェルハーゲの見解は、この同じ論で次のような簡潔に書かれる文に収斂する。

生の欲動(エロス)は死に向かい、死の欲動(タナトス)は生に向かう。
life drive aims towards death and the death drive towards life 

だがいまの話題は直接的にはエロスとタナトス概念ではなく、“Bemächtigungstrieb”(支配欲動)である。

この概念で注目すべきなのは、初期フロイトの『性欲論三篇』と後期フロイトの代表的な論文に同時に表れていることだ。欲動概念をめぐり、たとえば「部分欲動」として現われた前期フロイトとエロスとタナトスとして現れる後期フロイトの「欲動」の橋渡しになる概念ではないか、という問いが生ずる。

原 和之)
 フロイトでは、いわゆる二大欲動である「生の欲動」と「死の欲動」、それから部分欲動という二つのものが同じ「欲動」というタームで語られてしまっているところがありますが、十川さんが「欲動」とおっしゃる時の欲動概念をフロイトの二つの欲動、つまり生の欲動と死の欲動のレベルと関連させると、どういうことになるんでしょうか?

(十川幸司)
 それはフロイトがかなりあとになって使った欲動の概念ですよね? 私が論じているのはもっぱら『性理論三篇』(1905年)の欲動論で、のちの生の欲動と死の欲動は、厳密には欲動の問題ではないと思いますが……。(来るべき精神分析のために

ーーこういった議論は、エロスとタナトス欲動と部分欲動の関連がまったく理解されていない、というのがヴェルハーゲの立場であるが、いまそれはここでは触れることはしない。ここでは、Quirino Zangrilliの「冷感症と支配欲動」の拙訳をしめすのが当面の目的である。


…………


「冷感症と支配欲動」ーー「Frigidity and The Drive ForMastery Quirino Zangrilli」からだが、かなり意訳しているので、--そもそもこの文はイタリア語からの英訳であり、英訳文にもいささか雑なところがあるのではないか、と憶測されるのは気のせいか?--とはいえわたくしの訳文はいっそう信用してはならない。すなわちより正確には英訳を参照のこと。


”支配欲動”(Bemächtigungstrieb)は、精神分析に於て定義されることの最も少ない用語のひとつである。ラプランシュとポンタリスの『精神分析用語辞典』には、明瞭にコード化されえない形でフロイトによって時折使われている言葉とされている。

フロイトは、いくつかの論文(『性欲論三篇』1905、『強迫神経症の素因』1913、『欲動とその運命』1915)にて、この用語によって非性的な欲動を意味させようとしているようにみえる。仮にセクシュアリティに関連させるとしても二次的であり、その究極の目標は、力(強制)によって対象を支配することである。今われわれが何について語っているのかをはっきりさせるために、幼児期にしばしば行なわれる遊戯に言及しよう。子供たちは強制の力によって小さな生物を支配しようとする(蟻、蠕虫、蜥蜴、子猫、蝶など)。彼らの動きを妨害し子供自身の意志に服従させる。子供は対象を完全に支配下に置くことを愉しみ、対象を自分のなすがままの状態にする。

この独特の欲動は異なった方向に向うこともできる。セクシュアリテの領域に向えば、サディズムという活動に染められうる。崇高化に向うこともある(スポーツでの闘争)。この欲動が弱まれば、ただわずかの痕跡した残さないだろうし、あるいはまた強い仕方で固着すれば、性的攻撃性や人の性格に刻み込まれることになる。

人格に銘記されるという最後のケースでは、私は次のように信じている。女性のセックスにおいて、対象を支配する快楽に占有されると、いまだよく知られていない女性の冷感症においては、ある決定的な役割を演じるようになる、と。私は完全な不感症の話をしているのではない。それはよく知られているように、性的無感覚、性的無関心、膣痙攣がある。もっともそれらが性交疼痛症を伴うか否かはここでは不問にする(女性でこの症状に苦しむタイプは一般的に性交渉を相手に余儀なくされたときのみに持つ)。そうではなく私は相対的な冷感症の話をしている。このケースは、膣腔の半ば無感覚があり、性感度はクリトリスの領域に限定されている。またオーガズムの直前における性的興奮の突然のそっけない中断がある。彼女らにとっては、性的交渉はみたところ不快でないようであるにもかかわらず、そのようなそっけない立ち消えがあるのだ。

性興奮不全の冷感症のタイプの女性たちは、飽くことを知らない性的な欲求を持っているように見える。もし彼女らが超自我の抑圧に打ち勝つのなら、ひとりのパートナーから他のパートナーたちに渡り歩いていく、だが、ああ、なんという空しく! すなわち新しい経験が熱望されたオーガズムを齎してくれるのではないか、というわけだ。稀なケースでは、レイプ、鞭打や暴力の無理強いの様相を想定する限定されたファンタジーに拘わってのみ膣によるオーガズムが実現されることがある。

フロイトは、『強迫神経症の素因』(1913)にて、支配欲動を能動性と受動性の二面の関係に関連づけて語っている、「能動性は一般的には支配欲動に起因する。この欲動は性的欲動に奉仕されれば、サディスムの名を明示することができる」。『性欲論三篇』にては、フロイトは支配欲動の支柱として筋肉組織を提示している。事実、私が個人的に確めたところでは、相対的な冷感症を表わす多くの女性には、スポーツ活動に傾く目立った特徴がある。スポーツはエロス化され、かりに部分的であれ、性的攻撃性の蓄積を発散させるに至る。子供における支配欲動は他者への寛容という目標はもともと示さない(一方では、サディズムにおいてさえ寛容は生じるにも拘わらず)。子供たちは寛容などということは単純に考えもしない(われわれはそこに、憐れみや必要かつ予備的な罪の感覚に先行した、あるいはまたサディズムにも先行した状態を見出すとしてよいだろう)。

子供は単純に対象を支配しているという感じ方から楽しみをひき出している(自己愛的な安全装置を通しての愉悦)。そしてまた対象を滅ぼすというファンタジーからの楽しみ(身動きのできない物に陥れるという愉悦)。

これらの欲動満足の状態への重要な固着とは、受動的なくつろぎの不可能性を決定的に示していると、私は仮定する。すなわち能動性や支配の気配りに固執するのは、くつろぎに必要不可欠な絶頂(オーガズム)が得られないことが原因だとする。

冷感症の起源にかかわるほかの重要な考え方についてはここでは言わないでおこう(性行為の近親相姦的な含意、ホモセクシャルな潜在する欲動、性的攻撃性混淆の督促)。この記事では、キルケ(淫婦)シンドロームとして定義されうるものに言及したい。それは現代女性の心理学上のひとつのタイプで、とてもしばしば語られる。キルケ、すなわちヘリオスとペルセイスの娘、並外れたパワーを授けられた魔女。彼女の美しさによって人を蠱惑させることからよろこびを得るキルケは、己れの征服欲によって男たちを動物に変えてしまう。

私は、精神分析の場にて、このキルケタイプの数人の女性に関心をもったことがある。それらの女性のすべてはオーガズムに至らないことに不満を洩らした。彼女たちはクリトリスの刺激を顕著に楽しみ、しばしば男たちへの支配的なポジションにて摩擦刺激を得るのだが、最終的な絶頂には達しない。

魅惑的な女性たち、人魚のように誘惑的で、のみこみが早く、肉体的トーンを発散させる、そのような女には今ではこと欠かない。

どんなケースでも、精神分析は絶え間ない男への支配の幻想的な行動に光を照射する。中心的な幻想は、己れの美とエロティックな手腕によってパートナーの意志を揺るがせることによって成りたっている。彼女らの目標は男を欲望に渦によって我を失うまで狂わせてしまうことである。そして男を彼女らの掌中における動物に陥らせることだ。

絶え間ない能動性の女たち、くつろぎに必要な受動性の感覚、すべてのコントロールが無効にされる快楽の未知の奈落に身を委ねるために欠くべからざる受動感覚にまったく縁がないあの女たち。