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2014年5月28日水曜日

五月廿八日 『性欲論』におけるBemächtigungstrieb

『ヒトはなぜ戦争をするのか』におけるBemächtigungstrieb」に引き続き、Bemächtigungstrieb(征服欲動)をめぐる。これまでは1920年以降のいわゆる後期フロイトの論文からBemächtigungstriebという語が書かれる叙述を拾ったが、今回は前期フロイトの『性欲論三篇』DreiAbhandlungen zur Sexualthearie 1905(人文書院旧訳)より。

以下は幼児の性感帯は口唇領域や肛門領域が先に芽ばえると書かれた後の箇所。この幼児期性愛の口唇欲動と肛門欲動の指摘により人間はすべてもともと倒錯的である(多形倒錯性)、というフロイトの有名な、ヴィクトリア朝時代のモラルが支配的だった当時としてはスキャンダラスな言葉が生まれている。ラカンの四つの部分対象「乳房」「糞便」「眼差し」「声」のうちの前二つはこのフロイトの論から生まれているといってよいだろう(この部分対象にかかわる部分欲動をめぐっては、「症例ドラの象徴界/現実界、あるいは「ふたつの無意識」」の記事の後半を見よ)。

小児の身体の性感帯のなかには、確かに主な役割を演じているのでもなければ、またもっとも初期の性的興奮の担い手でもないが、しかし将来大事な役目を果たすように定められている一つの性感帯がある。それは男児の場合にも女児の場合にも、排尿に関係づけられており(亀頭、陰核)、それに男児の場合には粘膜嚢に包まれているので、その性感帯は早期に性的興奮を煽るかもしれないような分泌物からうける刺激にこと欠かないのである。実際の性器の一部分となっているこの性感帯の性的活動は、のちの「正常な」性生活の始まりなのである。

解剖学上の位置や分泌物の充溢のため、身体の洗浄や摩擦、さらにはある種の偶然的な刺激(女児のおける体内寄生虫の移動のような)などのために、この身体部位が生みだすことのできる快感が小児の乳幼児に早くも認められるようになったり、これを反復したいという欲求が、めざめさせられたりするというのは、避けがたいことであろう。こうした実状のすべてを概観し、また純潔保持のための方策もかえって不純化の効果しかあげることができないという事実を考えあわせるならば、ほとんどの個人のさけることのできないこの乳児期の手淫によって、この性感帯が将来の性活動に対してしめる優位が確保されるのだ、という見解は拒むことができないだろう。刺激をとり除き、満足感をよび起こす動作の実体は、手で摩擦しながらの接触とか、あらかじめ教えこまれたようになにか反射的に手によって圧迫することとか、太股を密着させることなどにある。このあとのやり方は女児の場合にはるかに多く行なわれるものである。男児の場合にはこのんで手を用いるこということがすでに、男性の性活動に対していずれは占有欲Bemächtigungstriebがいかに重要な貢献をするようになるであろうかということを示唆している。(フロイト『性欲論三篇』フロイト著作集 5 p51)

この訳文では占有欲となっているBemächtigungstrieb(支配欲動)について(欲動そのものの発露の仕方は男女の間に変わりがないのに))、なぜ男性ほうが女性に比べていっそう支配的傾向を帯びるのかについての一つの理由となるものが挙げられている。すなわち陰部が出っ張っているので、男児は性器を掴むことができる(占有しやすい)。これが男性の能動性につながり、逆に女児の場合は、そういうわけにはいかない。太腿を密着させるなど受動性への傾きがあるということになる。後年の筋肉の発達の相違が、男性の攻撃性を女性よりいっそう促すのは当然であるが、それ以前の幼児期段階での男女の肉体的特徴による支配性、能動性の傾きの違いが説かれている。

これ以外にも『欲動とその運命』1915において、サディズムの分析のあと、《覗見本能は、すなわち、その活動の端緒において自体愛的であり、たしかに対象を持ちはするものの、それを自分自身の身体に見出す》とされている(参照:「欲動と原トラウマ」の後半)。覗き見衝動は、男性に強く、女性には少ないだろう。これも能動性=支配欲動の一貫であるが、なぜ男のほうが視姦欲動が強いのか、と言えば、やはり陰茎が出っ張っていることに由来するという説明をしてもよいだろう。これらが後年の女性に比べて男性の支配欲動のより一層の強さの原因のいくつか(少なくとも外面的に現われた)であるに相違ない。

このあたりは、そんな馬鹿な! という反応があるのだろうが、男性ののぞきやフェティシズム的傾向をこれほど巧く説明して納得させる仮説がいまだほかにあるだろうか(ラカンの微調整を除いて)。やはりソーセージをもっているか、がま口をもっているかは決定的な原因のひとつではないか。

彼女は三歳と四歳とのあいだである。子守女が彼女と、十一ヶ月年下の弟と、この姉弟のちょうど中ごろのいとことの三人を、散歩に出かける用意のために便所に連れてゆく。彼女は最年長者として普通の便器に腰かけ、あとのふたりは壺で用を足す。彼女はいとこにたずねる、「あんたも蝦蟇口を持っているの? ヴァルターはソーセージよ。あたしは蝦蟇口なのよ」いとこが答える、「ええ、あたしも蝦蟇口よ」子守女はこれを笑いながらきいていて、このやりとりを奥様に申上げる、母は、そんなこといってはいけないと厳しく叱った。(フロイト『夢判断』 高橋義孝訳 新潮文庫下 P86)
子供が去勢コンプレックスの支配下に入る前、つまり彼にとって、女がまだ男と同等のものと考えられていた時期に、性愛的な欲動活動としてある激しい観察欲が子供に現われはじめる。子供は、本来はおそらくそれを自分のと比較して見るためであろうが、やたらと他人の性器を見たがる。母親から発した性愛的な魅力はやがて、やはりペニスだと思われている母親の性器を見たいという渇望において頂点に達する。ところが後になって女はペニスをもたないことがやっとわかるようになると、往々にしてこの渇望は一転して、嫌悪に変わる。そしてこの嫌悪は思春期の年頃になると心的インポテンツ、女嫌い、永続的同性愛などの原因となりうるものである。しかしかつて渇望された対象、女のペニスへの固執は、子供の心的生活に拭いがたい痕跡を残す。それというもの、子供は幼児的性探求のあの部分を特別な深刻さをもって通過したからである。女の足や靴などのフェティシズム症的崇拝は、足を、かつて崇敬し、それ以来、ないことに気づいた女のペニスにたいする代償象徴とみなしているもののようである。「女の毛髪を切る変態性欲者」は、それとしらずに、女の性器に断根去勢を行なう人間の役割を演じているのである。(『レオナルド・ダ・ヴィンチの幼年期のある思い出』1910  フロイト著作集3 P116)

レヴィ=ストロースは、若き彼の真の二人の師(マルクス、フロイト)を称揚しつつ次のように語っている。

分類から導かれた仮説が、決して真ではありえず、ただより高い説明価値があるかどうかだけが重要。(『悲しき熱帯』)

フロイトは、仮説に立つと、より多くのものを説明ができるといっている。そしてレヴィ=ストロースが言うのと同じように、別のより高い説明価値がある仮説があれば、いつでも乗り換える用意があるともしばしば語っている。

さらにフロイトーラカン派の見解から演繹すれば、これらの理由以外に、男性は標準的には最初の愛の対象である母=女を変える必要がないが、女性はこれも同じく最初の愛の対象、母=女を父=男に変換することによって支配欲動を諦める訓練が幼い頃になされているとすることができる。誰しも《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)のだが、女性は母への排他的な愛を転換する成長過程をもっているのだ。また、これは女性のエロトマニア(被愛妄想)的傾向を説明する。


このあたりについて、一般読者向けにとても分かり易く書かれたPaul Verhaegheの、『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』における叙述を見よ。いまはそこからいくらか抜粋するだけにする。

・男児はジェンダー的な意味での最初の愛の対象を維持できる。彼はただ母を他の女性に取り替えるだけでよい。

・反対に、女児は愛の対象のジェンダーを取り替えなければならない。具体的にいえば、最初の愛の対象であった母を父に取り替えなければならない。

・この少女たちの愛の対象の変換の最も重要な結果は、彼女たちは関係それ自体により多く注意を払うようになるということだ。それは男たちがファリックな面(部分対象へのフェティッシュ、あるいは対象支配ともしておこう:引用者)に囚われるのと対照的である。

こうして本来男女間に変わりがない欲動であるはずのBemächtigungstrieb(征服欲動)が、たとえばフロイトの別の論文では、《男性特有の獣的な征服欲Bemächtigungstrieb》などと書かれることになる。
抑圧された性的欲求が原因で第一の夢を見て以来、彼の妄想の中心部にその娘の身体の状態にたいする好奇心、嫉妬、そして男性特有の獣的な征服欲Bemächtigungstriebがいったいいかなる口実のもとに、いかなる変装をして現われたのか、そのことについてはすでに指摘しておいた。(W・イェンゼンの小説『グラディーヴァ』にみられる妄想と夢 Der Wahn und die Traume in W. Jensens ‘Gradiva1907 P73)

だが、女性の関係性志向とはいいつつ(たとえば斎藤環の『関係する女 所有する男』)、この抑圧された征服欲動は消滅してしまったわけではなく別の形で奔出する。Quirino Zangrilliが書く「冷感症と支配欲動」はその一例であるし、もっと一般的にはフェラチオそのものが、征服欲動(能動性)に由来するという調査・見解もある。

A recent survey showed that many women experience fellatio as a sense of power—on condition that they take the initiative, and that it is not imposed on them, in other words, on condition that they take the active role.(Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaegheーー低級な人種ですよ!/その種のものとしては最高さ

これは少し異なった文脈で語られた中井久夫の言葉なのだが、《他者巻き込み型》の暴力、ーー男性的な「肉体的」暴力ではなく、女性的な「関係性」のうちに奔出する言葉の暴力ーー「こういう暴力は、端的な物理的な暴力よりもあきらかに破壊的です」「物理的な暴力をふるわれて自殺した患者を私は知らないですから」(こんなとき私はどうしてきたか 中井久夫)ということはあるのではないか。もっともここでの「女性的な」というのは、セックスやジェンダーにおける「女性」とは関係がない。男性にも「関係性」の暴力に「秀でた」タイプはいるだろう。

ところでかつては攻撃欲動の社会的捌け口の仕組みがあった。祭りはその典型だろうし、もっと遡れば「歌垣」の集団的な性の饗宴もあった。いまはインターネットの書き込みか、スポーツぐらいか(個人的な話を書けば、妻がテニスをするようになって家庭にて「攻められる」こと甚だ少なくなった)。

「ヒステリー女が欲するものは何か?……」、ある日ファルスが言った、「彼女が支配するひとりの主人である」。深遠な言葉だ。ぼくはいつかこれを引用してルツに言ってやったことがあったが、彼は感じ入っていた。(ソレルス『女たち』鈴木創士訳)

ファルスはラカン、ルツがアルチュセール(妻エレーヌを絞殺している)がモデルであることが知られている。

ーーと引用して何を言おうとするわけでもない(まさか妻を絞め殺したい心持をもった時期があったなどと間違っても口から洩らすつもりはない)。ここでは、Bemächtigungstrieb(支配欲動)の飼い馴らしの話である。そしてそれは男も女も誰にでもある。《私たちの中には破壊性がある。自己破壊性と他者破壊性とは時に紙一重である、それは、天秤の左右の皿かもしれない。》(中井久夫


いずれにせよ、《愛の基本的モデルは、男と女の関係ではなく、母と子供の関係に求められるべきである》(『Love in a Time of Loneliness THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE』 Paul Verhaeghe)のに相違なく、ここで男性側のみの見解を言えば、自立した存在として幼少の砌の髑髏を振り払うべく男は女=〈母〉に対して受動性に置かれるのを一般的に倦厭するようになる。だがすべての女性には〈母〉の全能性の影が落ちている。ヴェルハーゲによって、ある種の男性の女性蔑視や女性嫌悪の理由が次のように書かれることになる。

The shadow of the mother falls on every woman so that she shares in the power, and even in the omnipotence, of the mother.

母の影はすべての女性に落ちている。つまりすべての女は母なる力を、さらには母なる全能性を共有している。
This is every young policeman's nightmare: a middle-aged woman rolls down her car window and asks, 'What is it, son?'

これはどの若い警察官の悪夢でもある、中年の女性が車の窓を下げて訊ねる、「なんなの、坊や?」
It is this original omnipotence that evokes fear in all its aspects, from sexism to misogyny

この原初の母なる全能性はあらゆる面で恐怖を惹き起こす、女性蔑視(セクシズム)から女性嫌悪(ミソジニー)まで。(同 Paul Verhaeghe 私訳)

もちろん敢えて子供のように振舞って、女性の支配欲動と巧みに操るというマゾヒズム的戦略家たちもいる。

マゾヒストは小さな、頼りない、依存した、ひとりでは生きてゆくことのできない子供、しかもとくにきかん気な子供として取り扱われることを欲している。》(フロイト『マゾヒズムの経済的問題』人文書院旧訳 p302

「きかん気な」はこの旧訳では「いたいけな」となっているが、「きかん気な」に変更した(英訳と原文の参照による)。

マゾヒズム? それは支配されることで支配する倒錯的な戦略なのだ。だが多くの女性がこのマゾヒスト的戦略をとっているとしたら?


…………


さて、--次の投稿にしたらいいのだが、「言葉の暴力」としたところで、ふと思いついたついでにそのまま書くのだがーー、男女のあり方が大きく変わりつつあると言われる現代、男の愛し方、女の愛し方は変わったのだろうか。女の男のもとめ方は、わたくしにはよく分からない。だが男の愛し方、というか、女への欲望のもち様は、かつて例えば、「一盗、二婢、三妾、四妓、五妻」と言われた。これはたちまちラカンの娘婿でもあるミレールの言葉、“You are the woman of the Other, always, and I desire you because you are the woman of the Other.”と重なる。女が〈他者〉の所有になっているから、その女を欲望するのだ。

ところで、ジジェクは『THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』にて、ファルスの享楽/〈大他者〉の享楽(女の享楽)に関して、サイバースセックスの例を挙げている。

男たちはネット空間にて、自慰行為の愚かな反復に耽ることが女たちに比べて格段に多い。他方、女たちはチャットルームにて、言葉の交換(誘惑的な)に享楽を見出す、と。

これはなにもセックスに限らなくてもよいのであり、たとえばツイッターでの男たちの発話は自慰的ではないか? そして女たちは誘惑的(関係的)ではないか? メンションを送ったり送られることに、男たちよりも格段に喜びを見出しているのではないか。仮に他者とのやりとりを拒んでいるふりをしていても、誘惑的な言葉(「この私を見て!」に象徴されるような)が呟かれることが男よりも格段に多いのではないか。

女性の愛のあり方はフェティシストというよりももっとエロトマニティック(被愛妄想的)です。女性は愛されたいのです。》(ミレール 愛について)ーーこれはフロイトの『性欲論三篇』におけるフェティストの男/エロトマニアの女という区分けに由来する。

Let us clarify this passage apropos of the opposition between the jouissance of the drives and the jouissance of the Other, elaborated by Lacan in Seminar XX, which also is sexualized according to the same matrix. On the one hand, we have the closed, ultimately solipsistic circuit of drives that find their satisfaction in idiotic masturbatory (auto-erotic) activity, in the perverse circulating around object a as the object of a drive. On the other hand, there are subjects for whom access to jouissance is much more closely linked to the domain of the Other's discourse, to how they not so much talk as are talked about: erotic pleasure hinges, for example, on the seductive talk of the lover, on the satisfaction provided by speech itself, not just on the act in its stupidity. Does this contrast not explain the long-observed difference in how the two sexes relate to cybersex? Men are much more prone to use cyber-space as a masturbatory device for their lone playing, immersed in stupid, repetitive pleasure, while women are more prone to participate in chat rooms, using cyberspace for seductive exchanges of speech(ZIZEK.THE REAL OF SEXUAL DIFFERENCE』)

もっとも現在は次のようなことはあるので、自慰的な女、誘惑的な男もそれぞれ漸次増えているのかもしれないが。

現在の真の社会的危機は、男のアイデンティティである、――すなわち男であるというのはどんな意味かという問い。女性たちは多少の差はあるにしろ、男性の領域に侵入している、女性のアイディンティティを失うことなしに社会生活における「男性的」役割を果たしている。他方、男性の女性の「親密さ」への領域への侵出は、はるかにトラウマ的な様相を呈している。(エリザベート・バダンテール)

The true social crisis today is the crisis of male identity, of “what it means to be a man”: women are more or less successfully invading man's territory, assuming male functions in social life without losing their feminine identity, while the obverse process, the male (re)conquest of the “feminine” territory of intimacy, is far more traumatic.(Élisabeth Badinter

…………

ジジェクは言語の世界に耽溺するのは女である、と言う。《woman is more fully “in language” than man.》

あるいは、《it is women who are immersed in the order of speech without exception. 》(The Real of Sexual Difference Slavoj Zizek)

この言語の世界に囚われるというのは、象徴界の囚人ということであり、旧来の通念、女性とは自然、身体などのより現実界的な世界に住まうという思い込み(男とは文化、論理などの象徴界的な生き物)とはやや異なる印象をまずは受けるだろう(たとえば「女は子宮で考える」)。

だがここでは中期以降のラカンの話をしている。前期の想像界/象徴界で語られたラカン理論なら、女性は想像界の住人とされるのはほぼ「常識的」だろう。。だがセミネールⅩⅠ移行のラカン、すなわち、「想像界と象徴界」/「現実界」のラカンであるならばどうだろう。そこでは想像界は象徴界によって構造化されているとされる。この意味で、「想像界と象徴界」=「象徴界」とした上での象徴界/現実界の対比における、女性の象徴界の住人という論旨である。

ここでジジェクとあわせて、同様の見解を示すヴェルハーゲの文を引用しておこう。

It seems as if woman stands for nature, drive, body, semiotic, and so on, and man for culture, symbolic, psyche, and so forth. Yet this is not confirmed by day- to-day experience, nor by clinical practice. Both feminine eroticism and feminine identity seem far more attracted to the symbolic than are their masculine counterparts. Biblically or not, woman conceives for the most part by the ear and is seduced by words. In contrast, an unmediated, drive-ridden sexuality seems much more characteristic of masculine eroticism, whether gay or straight. Nor does motherhood’s apparent linking of woman and Nature stands the test. In my clinical practice, I have seen far too many mothers who reject their children or–even worse–had no interest in them whatsoever. The maternal instinct is a myth, and maternal love is an effect of an obligatory alienation. Many new mothers must face the fact that their reactions to their new baby fail to coincide with this anticipated love.(Paul Verhaeghe『 Phallacies of binary reasoning:drive beyond gender 』)

All one should add here is that there is also a more literal reading of the jouissance féminine which totally breaks with the topos of the Unsayable―on this opposite reading, the “non-All” of the feminine implies that there is nothing in feminine subjectivity which is not marked by the phallic-symbolic function: if anything, woman is more fully “in language” than man. Which is why any reference to pre-symbolic “feminine substance” is misleading. (Slavoj Žižek: The Real of Sexual Difference

ジジェクはここで非-全体の論理(女性の論理)を使って、女性がより象徴界の住人であることを説明しているのだ。《the “non-All” of the feminine implies that there is nothing in feminine subjectivity which is not marked by the phallic-symbolic function》

さらに精神分析臨床家でもあるヴェルハーゲ曰く、《Both feminine eroticism and feminine identity seem far more attracted to the symbolic than are their masculine counterparts.》

「女性の享楽」というラカンの言葉がある。これは快原則の彼岸にある現実界にある享楽ということだが、「女性の享楽」における「女性」という言葉に騙されてはならない。

In a purely differential relationship, each entity consists in its difference from its opposite: woman is not‐man and man is not‐woman. Lacan’s complication with regard to sexual difference is that, while one may claim that “all (all elements of the human species) that is not‐man is woman,” the non‐All of woman precludes us from saying that “all that is not‐woman is man”: there is something of not‐woman which is not man; or, as Lacan put it succinctly: “since woman is ‘non‐all,’ why should all that is not woman be man?” (Slavoj Žižek: Formulae of Sexuation: The Non-All)

もっともこれらはいささか捕捉をしなければならないのは知っている(そうでないと女性に怒られる)。だが、それは次回? あるいはそのうち書くかもしれない。