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2014年5月1日木曜日

五月朔 「旅宿の境界」

総じて大名の第一とすべきことは、家中の治、民の治を善して、身帯を磨切らず、武備を不失、末永く参勤交代を勤て、上を守護し奉ること也。(荻生徂徠『政談』)

とする徂徠の政談は徳川八代将軍吉宗の諮問に応えて、1726(享保11)年頃に書かれたわけだが、前回の鷗外による史伝の「参勤交代」の時期より一世紀ほど前のことになる。

だが西鶴が1688(貞享5)年に次のように書いてからは、すでに半世紀ほど経っている。

一生一大事身を過ぐるの業、士農工商の外、出家・神職にかぎらず、始末大明神の御託宣にまかせ、金銀を溜むべし。これ、二親の外に命の親なり。人間、長く見れば朝をしらず、短くおもへば夕におどろく。されば、天地は万物の逆旅、光陰は百代の過客、浮世は夢幻といふ。時の間の煙、死すれば、何ぞ金銀瓦石にはおとれり。黄泉の用には立ちがたし。しかりといへども、残して子孫のためとはなりぬ。ひそかに思ふに、世にある程の願ひ、何によらず銀徳にて叶はざる事、天の下に五つあり。それより外はなかりき。これにましたる宝船のあるべきや。(井原西鶴『日本永代蔵』)

すなわち徂徠は参勤交代の基本政策については冒頭に引かれたように擁護するが、《兎角金なければならぬ世界となり極まりたり》(『政談』)の時代である。

昔は大名に物をつかはする事上策なれ共、今は諸大名の困窮至極に成たれば、身上をよくたもちて永々参勤交替のなる様にする事、是当時の良策成べし。 (『政談』)

前回引用した鷗外の記述によれば、福山から江戸に至るには約二十日ほど掛かる。《二月六日福山発、二十五六日頃入府の予定》(『伊沢蘭軒』)。

また梅谷文夫氏の記述では、「越中守信順は、天保八年七月十二日申刻に藩邸を発駕して、着城は八月七日であった。翌九年十月十五日に弘前城を発駕して,十一月九日に着府」とあり、これも弘前―江戸間は、二五日ほど掛かっている。もっとも津軽信順は、歴代一のダメ藩主、「夜鷹殿様」などと称されることもあるらしく、《参勤交代で宿泊した所で、夜中は女と酒に入りびたりであった。しかも信順は昼頃に起きるという不健全な生活を繰り返した。そのため、参勤交代の行列の進み具合は遅れる一方であった》とウィキペディアにはあるので多少は日数を割引く必要がある。《信順は頗る華美を好み、動もすれば夜宴を催しなどして、財政の窮迫を馴致し、遂に引退したのだそうである》と鷗外の抽斎伝にはあっさり書かれているだけだが。

いずれにせよ遠方の藩であればひと月以上かかることになる。参勤交代の費用としては足軽給金、馬代、食費や土産物、運賃、宿泊費などがある。街道沿線の宿場町はさぞ潤ったことだろう。

・武家御城下に聚居るは旅宿也。諸大名の家来も其城下に居るを、江戸に対して在所といへ共、是又己が知行所に非ざれば旅宿也。其子細は,衣食住を初め箸一本も買調ねばならぬ故旅宿なり。故に武家を御城下に差置時は、一年の知行米を売り払ふてそれにて物を買調え、一年中に使切る故、精を出して上へする奉公は、皆御城下の町人の為になる也。

・元来旅宿の境界に制度なき故、世界の商人盛に成より事起て、種々の事を取まぜて、次第次第に物の直段高く成たる上に、元禄に金銀ふゑたるより、人の奢益々盛になり、田舎までも商人行渡り、諸色を用ゆる人ますます多くなる故、ますます高直に成たる也。左様に成たる世の有様をば其儘に仕置きて、当時金銀斗を半減になしたる故、世界みな半身代に成て、金銀引はりたらず。是によりて世界困窮したる事明らか也。

・是によりて御城下の町人盛になりて、世界次第に悪敷なり、物の直段次第に高直に成て、武家の困窮当時に至りては、もはや可為様なく成たり。(荻生徂徠『政談』)

さて、以上は前置きであり、次の図表をウェブ上で見つけたので、ここではそれを備忘として貼り付けるのが目的である。([江戸時代が長く続いた理由を説明しよう]http://www.pref.hiroshima.lg.jp/uploaded/attachment/91885.pdf)



ほかにも、 水谷文俊神戸大学大学院経営学研究科教授による随筆「参勤交代」の記述を附記しておく。

ある資料によれば, 安政6年 (1859年) の鳥取藩池田家の場合には鳥取・江戸の行程約720kmを21泊22日 で移動し ている.1日平均で約33kmを移動し ている こ とになる.10時間歩く とすると時速3kmのスピー ドとなる. 途中には坂もあったであろう し,大人数の行列でしかも大名の駕籠を担ぎながら移動するこ と を考えると結構なスピー ドで移動し ている こ とになる. 加賀百万石の前田家の場合には, 行列は1,969人に達し ていたと記録されているから, 大大名になればなるほど大変だったであろ う. それにしても, 1年のう ちの1ヶ月 弱を費やし ての移動は大変だったであろ う .
それでは, 参勤交代には一体どれく らいの費用がかかったのであろうか?鳥取藩池田家の場合, 江戸から鳥取までの21泊22日の行程で総額1957両かかったとの記録が残っ ている. 内訳は,足軽給金, 馬代, 諸品購入費, 運賃, 宿泊費などである. 当時の貨幣価値は1両十数万円と言われているので, 現在の価格に換算する と, 江戸・鳥取間の1行程で, 総額約2億9千万円かかったという計算になる. 一行の行列規模を500人程度とする と, 1日 ・1人当り約2万7千円程度の費用という こ とになるので, あながちおかしな数字ではない. しかし, 32万石の藩で総額約3億円の参勤交代の費用がかかるのであるから, よ り遠方の藩にと っ ては大変な出費となったであろう こ とは想像に難く ない. しかも街道沿いには人々の目 もあ り, 諸藩が家格を競っ て行列が華美になったと言われているので, 参勤交代の費用を簡単には削減できなかったのではないか.
参勤交代の際の従者数に関し ては, 享保6年(1721年) に出された幕府指針によれば, 10万石の藩においては足軽・人足を含めて230~240人となっ ている. 実際には幕府の指針は守られずに指針以上の規模の行列となっ ていたそうである.

参勤交代という制度は, 徳川幕府の維持のため始められた制度で, なんという無駄使いをさせたものだという意見もあるが,他方で江戸の文化・上方の文化を地方に, また地方の文化を江戸・上方にもたら した恩恵も大きい. そし て, 街道沿線の宿場町に経済的な潤いを もたら し, 様々な文化を生み出す源泉となった.現在ある全国の特産物の多く が江戸時代に生まれたそう である.

ただし《当時の貨幣価値は1両十数万円と言われている》とあるのは、たとえば次の資料とともに読んでおくべきだろう。

江戸時代の一両は今のいくら?」という日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料によれば、そこには、《江戸時代のお米の値段 米1石(約150kg)=1両とすると……18世紀》という記述があり、《一両が今のいくらかは、簡単には言えません》となっている(そして米との比較だけでは判断できないとして、大工の賃金、そばの代金などとの比較がある)。

そして米についてだけ言えば、

江戸の各時期に1両で買えた量をみると、目安としては江戸初期で約350kg、中~後期で約150kg、幕末の1867(慶応3年)頃で約15~30kgとなり、それぞれ現在の値段に仮に計算すると、おおよその目安として、江戸初期で約10万円前後、中~後期で約4~6万円、幕末で約4千円~1万円程になります。

とあるのだが、これもどう一石高と一両を関連させたらよいのか、ちょっと分からない。単純に計算すれば、江戸初期1両で350kg(2.3石高)ならば、この時期の1石高は0.43両、江戸中期~後期は150kg1石高=1両、幕末は15kg(0.1石高)としたら1石高10両(30kgであったら5両)となるはず(だが、ここでは幕末の急激なハイパーインフレは考慮の外にしよう)。ーー計算が間違っていないかどうかあやしいので、信用しないように(二日酔いで、いまは数字は御免蒙る、そのうち訂正するかも。すなわち未定稿と胡麻化しておく)。

武士階級の給料は石高でもらっていたと言われるので、この江戸中期~後期の石高1両を基準として、後期にかけてのインフレも加味して一両十数万円とされるのだろうか。日本銀行金融研究所貨幣博物館の資料には次のような記載もあり、わたくしの頭はいっそう混乱する。


■三貨制度

江戸時代は金・銀・銅(銭)の貨幣が使われ(三貨制度)、それぞれの交換レートとして幕府による公定相場がありましたが、実際には毎日変動しました。仮に、そば1杯16文としても、1両が何文であるかによって、1両でそばを何杯食べられるかは変わってくるため、そばで換算する1両の現在価格も異なってきます。

 参 考 ) 三 貨 公 定 相 場
・ 江 戸 初 期 ( 1 6 0 9 年 ~ ) 1 両 = 銀 5 0 匁 = 銭 4 0 0 0 文
・ 中 期 ( 1 7 0 0 年 ~ ) 1 両 = 銀 6 0 匁 = 銭 4 0 0 0 文
・ 後 期 ( 1 8 4 2 年 ~ ) 1 両 = 銀 6 0 匁 = 銭 6 5 0 0 文


※ 幕末の実勢相場は1両が8000文を上回る状況でした。

ここで岩井克人のエッセイ「西鶴の大晦日」(『二十一世紀の資本主義論』所収)から三貨制度をめぐる叙述を抜き出しておこう。

三貨制度は、三貨制度とよばれてはいるが、その実、それを構成する金貨、銀貨、銅銭の金属貨幣は、それぞれ貨幣としての用いられかたも、その流通範囲も大きく異なっている。

金貨である小判や一分判、および銅銭である寛永通宝は、「定位貨幣」として流通していた。(……)一両小判の場合は、それにふくまれている金の重さとは独立に表に刻印された一両という価値をもつ貨幣として流通し、一文銭の場合も、それにふくまれる銅の重さとは独立に表に刻印された一文という価値をもつ貨幣として流通していたのである。

これにたいして、丁銀や豆板銀といった銀貨は、「秤量貨幣」としてもちいられていた。一貫目の重さをもつ丁銀はつねい一貫目の価値をもつ貨幣として流通し、一匁の重さをもつ豆板銀はつねに一分の価値をもつ貨幣として流通していたのである。それゆえ、丁銀や豆板銀を取り引きの支払いとして受け取るときには、ひとびとはその重さをいちいち秤ではからなければならなかったのである。

(……)関東では定位貨幣である金貨をもちい、関西では秤量貨幣である銀貨をもちいるという、二つの貨幣圏が並存することになったのである。「関東の金づかい、上方の銀づかい」というわけである。ただし、銅銭にかんしては、小額取り引き用の貨幣として、関東であるか関西であるかを問わずひろく全国に流通していた。

「銀つかい」の大坂においては丁銀や豆板銀がもちいられ、商売の支払いのためにはいちいちその品位を吟味し秤で重さをはからなければなかなかった(……)。もちろん、これはひどく不便なことである。そこで、この不便さをとりのぞくために大坂で考えだされたのが、「預り手形」や「振り手形」といった手形による支払い方法である。

(……)銀そのものの代わりに手形を廻すーー「銀づかい」といわれた大坂では、結局、銀を使わないというかたちで「貨幣の論理」を貫徹させていたというわけである。いや、いくら「かるきをとれば、又そのままにさきへわたし」たといっても、実際の金そのものを廻していた「金づかい」の江戸よりも、たんなる紙切れである手形を廻してしまう「銀づかい」の大坂のほうが、「貨幣の論理」のはたらきをはるかに徹底して作動させていたというわけである。

こうして堂島には世界に先駆けた「先物市場」が整備される。

柄谷行人)江戸初期の体制はともかくとして、元禄(1688年から1704年)のころは、完全に大阪の商人が全国のコメの流通を握っていまして……

岩井克人)そうですよ。江戸の大名は参勤交代があって、一年に一回江戸に出てこなくちゃならない。しかも正妻と子供は江戸に残さなくちゃならないから、どうしてもお金が必要なんですね。領地でコメを収穫してもそれを大阪に回して、堂島のコメ市場で現金にかえて、さらにたりないぶんは両替屋にどんどん借金するんだけど、それでも収入が足りなくて、特産品を奨励するわけです。(……)(コメは)生産する側にとってみればたんなる食べ物ではなかったわけですよ。食べるものではなく、流通するものとして、ほとんどお金同然だったわけですね。

だから、大阪の堂島にはじつに整備された大規模なコメ市場が成立したわけです。たとえば、現代資本主義のシンボルとして、シカゴの商品取引所の先物市場がよくあげられるけれども、堂島にもちゃんと先物市場があったんですね。「張合い」といって、将来に収穫されるコメをいま売り買いするわけです。と言うか、堂島の張合い取引が世界最初の整備された先物市場であったという説さえある。(『終りなき世界』1990)