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2014年5月30日金曜日

五月卅日 「どうやら気付いておられない」

廣瀬浩司氏というフーコー、メルロ=ポンティの研究者の方が次のようなツイートをされている。

‏@parergon2 メルロ=ポンティ『知覚の現象学』において、「知覚」は意味の生成の全階梯を横断する究極の哲学的実践であった。なのに現象学的心理学に貶められた。「制度化」も同様で、現象学的社会学にとどまる危険に晒されている。フーコーが「制度」の用語を放棄したのもそこにかかわるだろう。

わたくしは、三十年以上前、サルトルとボーヴォワールの若くからの親しい友人の一人のメルロ=ポンティとして、雑に数冊の彼の書を読んだ切りなので、なにやら自分の見解らしきものがあるわけではない。

ドームでメルロー=ポンティに会ったのを覚えている。彼とはジャンソン=ド=サイイー高等中学校での教育実習以来ほとんど顔を合わせたことがなかったが、その日は長いあいだしゃべった。私は彼に、チェコスロヴァキアがイギリスとフランスの裏切りにたいして憤慨するのは当然だが、どんなことでも、もっとも残酷な不正でさえも、戦争よりはましだといった。私の考え方はメルロー=ポンティにも、サルトルにも、近視眼的だといわれた。

《きりもなくヒトラーに譲歩することはできない》
とサルトルは私にいった。しかし彼もたとえ頭では戦争を承知するつもりになっていたにせよ、やはり、ほんとうに戦争が始まることを思うと厭でたまらなかったのだ。(ボーヴォワール『女ざかり』上)

しかしながら、どうもわたくしにも、彼の哲学は「現象学的心理学」に過ぎないのではないか、という偏見が残っているのを否定するわけにはいかない。たとえばメルロー=ポンティの親しい友人だったラカンの「追悼文」Maurice Merleau-Ponty, 1961にこうある。

モーリス・メルロー=ポンティーでさえこの一歩を踏み超えていないようなので言いたいのだが、科学が物理学においてわれわれに捉えさせてくれた現実の構造はもはや知覚理論には関与しないということを、なぜ認めようとしないのだろうか。科学史においても科学の成果においても、知覚から生まれた科学的構築は、常に知覚に立ち戻らなければならないという、彼が自らの探求を正当化し始めるこの動機ほど疑わしいものはない。むしろあらゆることが示しているのは、ガリレオの動力学が天体を大地に組み込むことは重さに関するものやimpetusの知覚的直感の拒否によって得られたのだということである。

この後半に語られているのは、簡単に言えば次のようなことだ。

近代科学では、仮説にもとづく実験によって、経験的には不可視であるような“関係”を取り出すのである。われわれの経験では、たとえば、重い物の方が軽い物より速く落下するように思われる。ガリレオがそえをくつがえしたが、彼が明らかにしたのは、(……数式が書かれているが割愛:引用者)“関係”である。これは、仮説と実験によって見いだされる。客観性は、われわれの感覚によってではなくそれに反して見いだされる。つまり、それは、主観性によって構成されるということになる。(柄谷行人『探求Ⅱ』P112)
コペルニクス以前にも以後にも太陽はある。それは東に昇り、西に沈む。しかし、コペルニクス以後の太陽は、計算体系から想定されたものである。つまり、同じ太陽でありながら、われわれは違った「対象」をもっているのである。(『トランスクリティーク』p61)

冒頭のツイートに、《メルロ=ポンティ『知覚の現象学』において、「知覚」は意味の生成の全階梯を横断する究極の哲学的実践であった》などとある。この「知覚」が何を意味しているのかは窺い知れないが、上のラカンの指摘をメルロ=ポンティ研究者はどのように処理しているのかというのは、門外漢には不明だし、このようなスローガン的短文による顕揚では読み返してみる気は毛筋ほども芽ばえない。メルロ=ポンティにもかすかな記憶を辿り直せば魅力的な面はあるに相違ないのだが、知覚の「究極の哲学的実践」などという語り口こそ、短文で語らざるをえないツイッターだから止む得ないとは云え、われわれは避けるべきなのではないか。

また浅田彰の『構造と力』にも、ラカンと比較してのメルロ=ポンティ批判があるが、いまさら引用するには及ぶまい(『構造と力』P135~)

ラカンの見解、メルロ=ポンティについての評価すべき点、あるいは否定すべき点については、「APound of Flesh Lacan’s Readingof The Visible and the Invisible Charles Shepherdson」に比較的詳しい。結局、プラト二ズム的な「metaphysical tradition」から逃れていないかという疑義もある。あるいはまたドゥルーズなら次のように語っているようだ(メルロ=ポンティはここから逃れているのかどうかは知るところではないが)。

哲学にとって、光は精神の側にあるもので、意識と呼ばれるものは、さまざまな事物をそれらが本来住んでいる暗闇から引き出してくる光の束である。意識という内面の光が。外側の暗闇に潜んでいる事物を照らし出す。

ドゥルーズによれば、現象学でさえこうした考えに哲学的伝統には忠実だったのであり、ただ現象学はかつて内面性の光とされていたものを、まるで電灯の光線のようにすべて外側に向けて開いていったに過ぎない

これに対して、ベルクソンは、事物というのはどんな光によって照らされているわけでもない、すでにそれ自体が光なのである、と。では意識とは何かというと、この光を屈折させ、停止させ、遮断するもの、言わば光にとっての障害物にほかならない。事物のイマージュは、意識の光によって照らし出されて浮かび上がるのではなく、意識をとおした光の屈折や遮断によって、つまり光の部分的な否定によって視えるものとなる。(前田英樹 「イマージュと美、あるいは感性の形式と悟性のカテゴリー」)

…………

メルロー=ポンティは、「観念連合」説をゲシュタルト心理学の成果にもとづいて批判し、われわれの知覚ははじめから「地」の上の「図」として与えられるのだといった。しかし、おそらくそれが「現象学」的内省の限界であろう。「地」と「図」という把握こそ写真装置が与えたものである。のみならず、エッシャーの絵画のように、「地」と「図」が決定不可能であることこそ、現象学的にはついに接近不可能な分裂病的世界の必然性を開示する。(柄谷行人は異質である。(柄谷行人「「写真という装置」をめぐって」『隠喩としての建築』所収)

…………

冒頭の広瀬氏のツイートは、実はさる人物のリツイートとして読んだのだが、そのリツイートのあと、この「さる人物」は次のような発話をしている。

知覚をめぐる現象学が、メタ言説を気取る「現象学的心理学」でしかないなら、読む意義がない。

制度をめぐる試行錯誤が、メタな学問言説を気取る「現象学的社会学」でしかないなら、読む意義がない。

論じる作業そのものがオブジェクトレベルで問われない議論に、読む意義はない。

この方の言説には特徴があって、他に「彼らは気づいておられません」とか「どなたも分かっておられません」の類のツイートがしばしば見られる。あまり批判はしたくないのだが(ツイッター上におけるさる若い精神医師とこの方の論争時に、いささか応援したことがある)、残念ながら上のような発話こそ「メタ」言説というものではないか。

他の人間が夢をみているだけだから眼ざめさせねばならぬと考える者、つまり自らを”超越的”な立場にあるとみなす者こそ、夢をみているだけなのだ。(柄谷行人『探求 Ⅱ』P90)

なぜ、〈私〉は、他の人が「気づいておられません」「分かっておられません」と言ってしまうのか、ーーたしかにそう思うこともあろうーーだが、他者批判だけでなく、自己を振り返って、そのように繰り返し語ってしまうときに〈私〉は何に囚われているのか、と問うのが、超越的な態度から逃れる重要な方法だろう、《超越論的とは、上方や下方に向うことではない。それはいわば横に出ることだ》(同 柄谷行人)。もっともメタ言説もときには有効ではあり(たとえば挑発の発話として)、わたくし自身はメタに立って敢えて書く場合もある。だが、メタ言説批判自体がメタ言説によってなされてしまうことが反復されれば、これは、なんというか、残念ながら見るに耐えない。

ためしに「気づいて」と「気付いて」だけをtwilogからいくつか拾ってみよう。まさに口癖の如くである(内容はある側面からは正しいものも多いだろう。だがこれをメタ言説と言わずになんというおう)。《ドストエフスキーは、人々は「自由」など望んでいないといったが、同様に、”精神”であることを人々は望んでいない。自分はめざめて、現実を直視し、ほかの人々は幻想に支配されていると説くあの連中のように、夢をみていることを望むのである》(柄谷行人『探求Ⅱ』p95)


・浅田彰氏は、ガタリを単に「過激な交通の人」と言ってるけど、 (1)その交通には《制度分析》が必須であること、 (2)ご自分のドゥルーズ論が、すでにラボルド病院の技法に触れていること に、どうやら気づいておられない。

・「弱者の100%肯定」を気取る、風紀委員みたいなインテリ言説。これが悪のフォーマットであると、どうやったら気づいてもらえるか。

・《単なる甘やかしか、自己責任による競争か》――この単純な対立が、すでに耐用年数を過ぎた論点であることに気づいてほしい。

・医師・学者・評論家は、一方的に誰かを《対象化》する権利があると思い込んでいる。そう論じる自分が実作者として批評《される側》にいると、気づいていない。

・ラボルド病院やグアタリ(Félix Guattari)、メルロ=ポンティなどの《制度》概念も(……)――しかし、研究者や臨床家でこういう《制度》概念に気付いているかたは、あまりおられません。

・なんだか、根本的な趣旨に気付いておられないようですが…
このあなたのツイートこそが、私に対する洗脳努力ではないですか、と申し上げているのです。(私の指摘を、遂行的に証明してしまっているような形です)


人は「気付いて」いても、それを括弧に括って語ることがある。

あるいは、

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)

だれもこの「万人」から逃れ得はしない。

さらに付け加えれば、上の「気づいて」をめぐるツイートには、「名詞形」で括って批判する文が散見される。「名詞形」というのも、この人物の口癖である。

名詞形による人間の区切りを
前提にしたままの議論を許すな。
名詞形で区切られた存在を何でもかんでも擁護してメタな正当性を確保するのは、

名詞形で区切られた存在を自動的に排除・否定してメタな正当性を確保するのと、どこが違うのか?
どこもかしこも、名詞形を前提にした決め付けばかり。《差別》という問題について、原理的に思考できる人が一人もいません。

なぜ、己れの発話の名詞形による決め付けに<気づかないで>、平然と語り続けられていくのか。それはむしろ奇妙な感を抱く。《医師学者評論家は、一方的に誰かを《対象化》する権利があると思い込んでいる。》??? この「医師」も「学者」、あるいは「評論家」も名詞形による人間の区切りとは異なるなどとまさか言うまい。それともなにかジョークの一種なのだろうか?

序でに《原理的に思考できる人が一人もいません》などという文に当たってしまったが、なんというか、マジで批判(吟味)するのはもうやめておこう。きっとジョークがオレにはわからないだけなのだろう……。それとも極度の難聴者なのだろうか。

どこにいようと、彼が聴きとってしまうもの、彼が聴き取らずにいられなかったもの、それは、他の人々の、彼ら自身のことばづかいに対する難聴ぶりであった。彼は、彼らがみずからのことばづかいを聴きとらないありさまを聴きとっていた。(『彼自身によるロラン・バルト』)

もっともバルトはこの文のあと次のように続ける、《しかし彼自身はどうだったか。彼は、彼自身の難聴ぶりを聴き取ったことがないと言えるのか。彼は、みずからのことばづかいを聴き取るために苦心したのだが、その努力によって産出したものは、ただ、別のひとつの聴音場面、もうひとつの虚構にすぎなかった。》--誰もが自分自身の言葉にはいささかの難聴者ではあるだろう。だがそれにしても?


…………

人が何ごとかを語るのは、そのことが生起しつつある瞬間から視線をそらせるためである。(蓮實重彦『物語批判序説』)
人がかくも熱心に言葉をとり交し合って止まないのは、背後にさし迫った沈黙の深淵を忘れるためではなかったか? (浅田彰『構造と力』)

というわけで、<あなた>はなにを忘れようとしているのだろうか。この<あなた>は、もちろん<私>としてもよいし、<彼(女)>としてもよい。すなわち、ここからは一般論に近づけて書く。

以下のプルーストの文は、「芸術的なよろこび」をめぐっているが、なにも「芸術」でなくても、あるいはまたなにも「よろこび」でなくてもよい。あらゆる不快は《二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている》。われわれ自身の内部にのびていることから視線をそらすために、<あなた>は語る。<私>が不快なのは、社会のシステムのせいだ、自分は無実あり潔白である。<私>が不幸であったり病気であったのは、知の「制度」のせいなのだ、と。

人が芸術的なよろこびを求めるのは、芸術的なよろこびがあたえる印象のためであるのに、われわれは芸術的なよろこびのなかに身を置くときでも、まさしくその印象自体を、言葉に言いあらわしえないものとして、早急に放置しようとする。また、その印象自体の快感をそんなに深く知らなくてもただなんとなく快感を感じさせてくれものとか、会ってともに語ることが可能な他の愛好者たちにぜひこの快感をつたえたいと思わせてくれるものとかに、むすびつこうとする。それというのも、われわれはどうしても他の愛好者たちと自分との双方にとっておなじ一つの事柄を話題にしようとするからで、そのために自分だけに固有の印象の個人的な根源が断たれてしまうのである。われわれが、自然に、社会に、恋愛に、芸術そのものに、まったく欲得を離れた傍観者である場合も、あらゆる印象は、二重構造になっていて、なかばは対象の鞘におさまり、他の半分はわれわれ自身の内部にのびている。後者を知ることができるであろうのは自分だけなのだが、われわれは早まってこの部分を閑却してしまう。要は、この部分の印象にこそわれわれの精神を集中すべきであろう、ということなのである。それなのにわれわれは前者の半分のことしか考慮に入れない。その部分は外部であるから深められることがなく、したがってわれわれにどんな疲労を招く原因にもならないだろう。プルースト「見出された時」井上究一郎訳)

<あなた>は自身の内部にのびている苛立ちの原因を閑却するために、他人を批判を繰り返す、彼らはメタ言説ばかりで己れの言説の問い直しができていません。論じ直さなくてはなりません、やり直さなくてはなりません……。「問い直す」「論じ直す」「やり直す」などの語彙が反復される。すなわち背後にさし迫った己れの問い直しから視線をそらせるために(気付かないようにするために)。


人がなにを隠蔽しようとしているのかを窺うには、内容ではなく、言説の繰り返される形式を見るという方法もある。それは「行為」を見るとしてもよいかもしれない。

われわれはこういうことができようーー要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「想い出す」わけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」のである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復しているのである。(フロイト「想起、反復、徹底操作」人文書院 6)

ただ厄介なのは自分ではなかなか気づかず、他人のほうがより気づく場合があるということだ。

他者の「メタ私」は、また、それについての私の知あるいは無知は相対的なものであり、私の「メタ私」についての知あるいは無知とまったく同一のーーと私はあえていうーー水準のものである。しばしば、私の「メタ私」は、他者の「メタ私」よりもわからないのではないか。そうしてそのことがしばしば当人を生かしているのではないか。(中井久夫「世界における徴候と索引」より)

また、他人からそれを指摘されれば、たとえば「そんなことはないですよ」と否定する。

判断によって何事かを否定するとは、結局、「これが自分の一番抑圧したいものである」ということなのである。(フロイト「否定」)

まあこれは分析関係の場でないのであれば、多くの場合他人の指摘が見当はずれのこともあるだろうし、インターネットに書き込まれる言説に対して、このようにフロイトを援用するのは甚だしい越権行為であるにしろ、大切なのは反復される形式である。表現の仕方にときどき若干の相違はあるにしろ<あの人たちは気づいておられません>あるいは<問いなおさなくてはなりません>という形式的表現に収斂する言葉を<あなた>はしばしば反復する。そして自らの反復を気づいていないこと、そして己れを問い直す気配が窺われないのなら、その言葉は何を露顕しているのかはここまでの文脈からあらためて言うまでもない。いやここでは穏健に、この束の間の越権行為者はある種の錯覚に閉じ篭り得ることがある、とだけしておこう。

たとえば<あなた>のほどよい聡明さをもった「知」の習慣は次のように呟く。

たとえば、同じ不幸にさらされた信頼のおける仲間たちに向って、あなたの場合を些細に語って聞かせる。すると、たがいに慰めあうことで不幸は緩和され、連帯の輪が拡がってゆくだろう。あるいは、自分自身に向かって、その体験を書き記してみてはどうか。小説を書けなどとはいうまい。文学の既存のジャンルを越えて、奪われかすめとられたことの衝撃を幾重にも反芻しながら吟味し、言葉によってその欠落を埋めてみてはどうか。それが可能であれば、向う側から迫ってくる不幸の種子はその無限増殖をやめ、そればかりか、喪失や崩壊が招きよせるもろもろの醜悪さ、猥雑さ、といったものから自由になることができる。この自由への意志こそが健康というものだと「知」と習慣はつぶやき続ける。(蓮實重彦「健康という名の幻想」『表層批判宣言』所収)

この知の習慣が知の制度的思考というものなのであり、その習慣によって《もろもろの醜悪さ、猥雑さ、といったものから自由になることができる》とするのはたんなる錯覚であり幻想に過ぎない。


……フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

Freud, no doubt, was aware of this, since he did search for a more profound instance than that of repression, even though he conceived of it in similar terms as a so-called 'primary' repression. We do not repeat because we repress, we repress because we repeat. Moreover - which amounts to the same thing - we do not disguise because we repress, we repress because we disguise, and we disguise by virtue of the determinant centre of repetition.”Gilles Deleuze, Difference and Repetition”


 ーーところで、この<わたくし>はこのように書くことによってなにを隠蔽しようとしているのだろうか。

人は自分に似ているものをいやがるのがならわしであって、外部から見たわれわれ自身の欠点は、われわれをやりきれなくする。自分の欠点を正直にさらけだす年齢を過ぎて、たとえば、この上なく燃え上がる瞬間でもつめたい顔をするようになった人は、もしも誰かほかのもっと若い人かもっと正直な人かもっとまぬけな人が、おなじ欠点をさらけだしたとすると、こんどはその欠点を、以前にも増してどんなにかひどく忌みきらうことであろう! (プルースト「囚われの女」井上究一郎訳)

すなわち自己を語る一つの遠まわしの方法なのだろう。

……自己を語る一つの遠まわしの方法であるかのように、人が語るのはつねにそうした他人の欠点で、それは罪がゆるされるよろこびに告白するよろこびを加えるものなのだ。それにまた、われわれの性格を示す特徴につねに注意を向けているわれわれは、ほかの何にも増して、その点の注意を他人のなかに向けるように思われる。(プルースト「花咲く乙女たちのかげに」 Ⅱ 井上究一郎訳)

この文は、あくまで投壜通信である、そして、《海に投げ入れられた壜はいつも戻ってくる。》(ブランショ 投壜通信)