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2014年5月20日火曜日

五月廿日 ジ・アザー・セックスは謎のままにして置きたい

「従軍慰安婦」問題に関する集会で必ず出てくる発言に、「自分もその場にいたら同じことをしたかもしれない」というのがある。若い世代の男性にも少なくないし、他の人権問題に専門的に関与している人からもある。男性の性欲の発露だから仕方がないという類の、この種のナイーブな性欲自然主義の正体は一体何なのだろうか。(大越愛子「「従軍慰安婦」問題のポリティックス」『批評空間』Ⅱ 11-1996)

ーーという文を少し前に読んで、続けて一万字程、ぐたぐたと文句を書いたのだが、どうもいけない。精神分析理論を使わないで、反論できないものか。いまはその「ぐたぐた」をカットして、別の「ぐたぐた」を書くことにする。

ところで、男性諸君! そこの清廉潔白かもしれない〈きみ〉は、 「自分もその場にいたら同じことをしたかもしれない」と言わないタイプだろうか? このように言わない健康な若い、いやまだ老境に達していない男性がどれほどいるものだろうか?

…………

古橋綾氏の「日本軍「慰安所」制度とセクシュアリティ── 日本軍将兵による「戦争体験記」に着目して ──」は、《セクシュアリティをめぐって特に女性やセクシュアル・マイノリティなどに関する研究は一定程度行われているが、男性のセクシュアリティについては語られることが少ない。(……)被害者を対象とする研究に重心がおかれ加害者を対象とする研究に深まりが見られない》という問題意識から書かれた論文である。

そこでは、さまざまな「加害者」の発言の豊富な引用を読むことができる。

フィリピンで大隊長を務めた長嶺秀雄は「作戦がひと段落したときなどは、性欲の処理に大変苦労するのは当然」だという認識を見せている。

マライ方面に従軍した直井正武は「戦争、とくに勝ち戦さには例外なく、性欲の暴走が起こる」 「理屈はどうあろうと、戦争と性欲とは、切っても切れない間柄である」 「性欲の処理は肉体と精神との調和剤で、戦争の潤滑油である。軍部が慰安所を必需品としたのも、戦争担当者としては当然と言える」

これらの兵士たちの発言文を引用して、古橋綾氏は、男たちの性欲自然主義を指摘する。あるいは《戦争によって他者を支配すること、性行為によって女性を支配することの同一性を見せてくれる》ともする。

あるいは次のような引用がある。

ニューギニア島にいた松本良男は、馴染みの由紀子という「慰安婦」について「戦闘でずたずたになった神経を休める、憩いの場として行くのであった。だから私にとって由紀子は、母親であり、姉であり、恋人であり、友人であった」 (松本 1989: 176)ラバウルで従軍したパイロットは「男女の仲は、たとえ明日をも知れぬ戦闘機パイロットとさすらいの慰安婦の間であっても、通じ合えるものがあった」 (第 204海軍航空隊 1987: 139)と書く。

この文を受けて次のように書かれることになる。

このような記述は、金銭的な理由であれ、または精神的な結びつきであれ、女性たちは「慰安所」で性の相手をすることを望んでいたという認識を示している。これはマッキノンの指摘のように、男性が女性を欲望した時、女性も同じように欲望しているとみなされるという構図だといえる。女性たちがそれをどう感じていたのか、ということは関係なしに男性側から女性たちの意志を想定しているわけである。これは女性たちへの攻撃性を隠蔽するもう一つの要素である。女性たちは性的に支配されたり攻撃されたりすることを望んでいると考えることで、 その行為の暴力性は薄れるように感じられる。 そのため、女性も自分と同じように欲望していると感じられる構図が必要なのである。しかし実際にはこの構図の中に女性の意志は含まれておらず、また含まれる必要性も感じられてはいない。

ここでもマッキンノンを持ち出して、やっぱり男側の浅墓な言い訳だわよ、などというふうに読める言葉が呟かれることになる(これがなかったらよい論文なのだが)。

ーーというわけで、こうやってメモして、何を言おうとするわけでもない。

ただいささか「精神分析」の入り口付近を往ったり来たりしている者としては、こう呟いておこう、女たちの男の性欲の甚だしい無理解とは、どこから来るのだろう、と。

精神分析は入り口に「女性というものを探し求めないものはここに入るべからず」と掲げる必要はありません。というのも、そこに入ったら幾何学者でもそれを探しもとめるのです。(ミレール「もう一人のラカン」)

男は男につごうのよい男像に頼って生きているのだろうし、女は女につごうのよい男像に頼って生きているのだが、やや違うところは、男のほうが女という〈他者〉を探し求めることが多いようではある(いや、ラカン派においては、--ああ精神分析はやめようと思ったのに、また口に出してしまったので、括弧つきにするがーー、〈他者〉とは〈女〉であり、女も男と同様、〈女〉を求めるのだ。すなわち誰も〈男〉など求めはしない、男の性欲なんてたかだか支配欲だよ、などと通俗ラカン派の斎藤環? ーーシツレイ! ーーの言葉を鵜呑みにして(『関係する女 支配する男』)、すませておけばよろしい、と)

万人はいくらか自分につごうのよい自己像に頼って生きているのである(Human being cannot endure very much reality ---T.S.Eliot)(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』P264)

逐語訳なら「人というものはあまりに大きな現実には堪えられない」となり、中井久夫の「超訳」とすることができるが、エリオットの『四つの四重奏』の「エピグラフ」に、ヘラクレイトスの《most people live as if they had a wisdom of their own.》とあり、この訳である、とすることもできる。

ーー男も女も自分のほうが賢いと思いつつ生きているのだろう。


中井久夫曰く、《私にはやはり、ジ・アザー・セックス、ジェンダーは謎のままにして置きたいですね。》(「「身体の多重性」をめぐる対談ーー鷲田清一とともに」『徴候・記憶・外傷』所収)

中井氏とともに《女>という他者は謎にしておきたい、というだけではすまされない、と思うことがないでもない。

ーーで繰り返せば、何が言いたいわけでもない……。

ところで、次のようなことをオッシャル「聡明」なはずのおばちゃんに対して、どうしたらいいのだろう、男性諸君!

性欲にはけ口が必要であるならば、ムラムラは自分で解消すればいい。相手のあるセックスをしたければ、相手の同意が必要なのは当たり前だろう。セックスは人間関係なのだから、関係をつくる努力をすればよい。(……)

カネまで払って男性がやりたい理由は、私には永遠の謎だ。男たちが変わるのに何世紀かかるかわからないが、この男の不気味さは男に解いてもらいたい。(上野千鶴子氏 売春は強姦商品化でキャバはセクハラ商品化

…………

It is striking how little attention has been paid to the drive and to sexuality in contemporary gender studies. (『Phallacies of binary reasoning: drive beyond gender 』 Paul Verhaeghe