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2014年6月12日木曜日

二種類の反復ーー「反復強迫automaton」と「反復tuche」

フロイトのいう「反復強迫」…実は、反復強迫は、キルケゴールのいう反復ではなくて想起であり、同一的なものの再現なのである。ここには他者は存在しない。たんに、法則的(構造的)な再現(表象)があるだけだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

ポール・ヴェルハーゲによれば、フロイト自身二種類の反復を混同していると言う。一方は、シニフィアンの反復、自動装置automaton”――それは実は強迫なのであり、トラウマのリアルに対処するための反復努力でしかないと。他方で、リアルそのものの反復がある。それはシニフィアンの鎖が限界に達したとき現われる(テュケー tuchè)とされる。

It has to be said that Freud’s discussion of repetition and the repetition compulsion is rather confusing. This confusion is due to the fact that he mixes two kinds of repetition: the repetition of the signifier, the “automaton”, which is indeed compulsive when a trauma is concerned (hence the traumatic dreams) and is characterised by an attempt to cope with the Real of the trauma. On the other hand, there is the repetition of the Real as such, which time and again reappears in an ex-sistent way, where the chain of signifiers meets its limit. This is the tuchè. For a discussion of this, see Seminar XI, chapter 4. (Paul Verhaeghe ”Beyond Gender”)

automatonとtuchèは、以下にあるようにアリストテレス用語である (tuchèとtuchéが混在しているが、ウェブ上のいくつかの文献もそのようであり、わたくしのような寡聞のものには、tucheが無難だろう)。


◆Lacan SEMINAR XI Translated by ALAN SHERIDANより

First, the tuché, which we have borrowed, as I told you last time, from Aristotle, who uses it in his search for cause. We have translated it as encounter the the real. The real is beyond the automaton, the return, the coming-back, the insistence of the signs, by which we see ourselves governed by the pleasure principle. The real is that which always lies behind the automaton, and it is quite obvious, throughout Freud's research, that it is this that is the object of his concern.
Through the elucidation of what we call strategies, this is the figure that Aristotle's automaton assumes for us. Furthermore, it is by automatisme that we sometimes translate into French the Zwang of the Wiederholuagszwang, the compulsion to repeat.

快原則の此岸内、すなわち象徴界におけるシニフィアンの繰り返しが、反復強迫Wiederholuagszwangであり、automatonとされる。とすればフロイトの「自由連想」もautomatonであるだろう。

快原則の彼岸、すなわち快原則内の非-全体に外-存在ex-sistするものがtuchèと呼ばれ、リアルとの真の遭遇であり、どうやら真の「反復」とはこのことを言うらしい。とすれば、このテュケー tuchèはトラウマや欲動にもかかわってくる(もっとも上のヴェルハーゲの記述にあるように、トラウマに対処する象徴界における反復はautomatonなのだ。このあたりの見極めが難しい)。さらに欲動にかかわるのであれば、もちろん「享楽jouissance」にも関係する。

きみたちにフロイトの『性欲論三篇』を読み直すことを求める。というのはわたしはla dériveと命名したものについて再びその論を使うだろうから。すなわち欲動Triebを「享楽のdérive(drift)」と翻訳する。(ラカン セミネールⅩⅩ「アンコール」 私訳)

また「享楽」と言われるものもファリックジュイサンスであれば、これは象徴界の次元に属するというのが、ポール・ヴェルハーゲの解釈である。それはたとえばラカンの次の文からそう説かれる。

Phallic jouissance is the obstacle owing to which man does not come (n'arrive pas), I would say, to enjoy woman's body, precisely because what he enjoys is the jouissance of the organ.( LACAN S20)

現実界(すなわち快感原則の彼岸)にある享楽とは、jouissance of the body, non-phallic jouissance, the "other" jouissance, the "psychotic jouissance", "jouissance of the being" or "jouissance of the Other"などとラカンによって呼ばれている。

Automaton/tuchèをめぐっては、すぐさま「ふたつの無意識」につながるがいまはそれに触れるつもりはない(参照:症例ドラの象徴界/現実界(フロイト、ラカン)、あるいは「ふたつの無意識」(ヴェルハーゲ))。

…………

さて、いま思い出すままに書き記せば、Automaton/tuchèのそれぞれの反復は種々の変奏がある。システム/出来事の反復。記録/記憶の反復。情報/経験の反復など。

柄谷行人がマルクスの『『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』をめぐって語りつつ、反復するものは「構造」しかないというとき、構造、すなわちシステムなのだから、実質的には「想起」ということになる。

以前、次のような文を拾ったことがある(柄谷行人の「構造と反復」をめぐって)。

I believe that there is a repetition of history, and that it is possible to treat it scientifically. What is repeated is, to be sure, not an event but the structure, or the repetitive structure. Surprisingly, when a structure is repeated, the event often appears to be repeated as well. However, it is only the repetitive structure that can be repeated.》Kojin Karatani, "Revolution and Repetition"2008

 「歴史には反復がある。反復されるものは、出来事ではなく構造である」とされている。「驚くことに、構造が反復されれば、出来事がしばしば同じように反復されて現われる。しかしながら、反復されうるのはただ反復的構造なのだ」と。

おそらく肝要なのは、システムとしての構造が反復されても、そこから出来事が現われるということなのだろうが、いまは宙吊りのままにしておく。

出来事としての反復をめぐる柄谷行人の見解は、「自身で経験した事件の話し方」にいくらかメモがある。

…………

※附記

流通するのは、いつも要約のほうなんです。書物そのものは絶対に流通しない。ダーヴィンにしろマルクスにしろ、要約で流通しているにすぎません。要約というのは、共同体が容認する物語への翻訳ですよね。つまり、イメージのある差異に置き換えることです。これを僕は凡庸化というのだけれど、そこで、批評の可能性が消えてしまう。主義者が生まれるのは、そのためでしょう。書物というのは、流通しないけど反復される。ドゥルーズ的な意味での反復ですよね。そして要約そのものはその反復をいたるところで抑圧する。批評は、この抑圧への闘争でなければならない。(蓮實重彦発言『闘争のエチカ』 柄谷行人との対談集)
反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(……)反復のなかでこそ反復されるものが形成され、しかも隠されるのであって、そうした反復から分離あるいは抽象されるような反復されるものだとは、したがって何も存在しないのである。。擬装それ自身から抽象ないし推論されうるような反復は存在しないのだ。(ドゥルーズ『差異と反復』財津理訳)


《希望は腕の間をすり抜けていく可愛い娘である。想起は今ではもう役に立たない美しい老婦人である。反復は、けっしてあきることのない愛妻である。なぜなら、あきがくるのは新しいものだけだからである。古いものはけっしてあきることがない。》(キルケゴールーーツイッターBOTからだが、おそらくキルケゴールの『反復』からだろう。)

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(ドゥルーズ『探求Ⅱ』)

・ギリシア人は、あらゆる認識は追憶である、と教えたが、同じように新しい哲学は、全人生は反復である、と教えるだろう。

・反復を選んだ者だけが本当に生きるのである。

・反復は発見されなくてはならぬ新しい範疇である。(キルケゴール『反復』)

モネの最初の睡蓮こそが、他のすべての睡蓮を反復するのである。だからわたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりでの一般性と、特異(サンギュリエ)なものに関する普遍性としての反復を対立したものとみなすのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)
ここで私は混乱を避けるために言葉を定義することにしよう。まず一般性と普遍性を区別する。これらはほとんどつねに混同されている。したがって、個別性ー一般性という対と、単独性ー普遍性という対を区別しなければならない。たとえば、ドゥルーズは、キルケゴールの「反復」に関してこう述べている。《わたしたちは、個別的なものに関する一般性であるかぎりの一般性と、単独的なものに関する普遍性としての反復とを対立したものとみなす》(『差異と反復』。ドゥルーズは、個別性と一般性の結合は媒介あるいは運動を必要とするのに対して、単独性と普遍性の結合は直接(無媒介)的であるといっている。これは別の言い方でいえば、個別性と一般性は、特殊性によって媒介されるが、後者はそうではないということである。(柄谷行人『トランスクリティーク』p156)

ドゥルーズの反復が、想起や一般性でないのは、おそらく潜在的対象(対象=x)や暗き先触れprécurseur sombreにもかかわるのだろうが、ドゥルーズに疎いわたくしには詳しいことは判然としない。

それら二つの現在〔古い現在と現働的な現在〕が、もろもろの実在的(レエル)なものからなる系列のなかで可変的な間隔を置いて継起するということが真実であるとしても、それら二つの現在はむしろ、別の本性をもった潜在的対象に対して共存する二つの現実的な系列を形成しているのである。しかもその別の本性をもった潜在的対象は、それはそれでまた、それら二つの現実的な系列のなかで、たえず循環し遷移するのだ(たとえ、それぞれの系列のもろもろの位置や項や関係を実現する諸人物、つまり諸主体が、それらとしては依然、時間的に区別されているにしてもである)。反復は、ひとつの現在からもうひとつの現在へ向かって構成されるのではなく、むしろ、潜在的対象(対象=x)に即してそれら二つの現在が形成している共存的な二つの系列のあいだで構成されるのだ。(『差異と反復』)
雷は相異なる強度の落差で炸裂するが、その雷には、見えない、感じられない、暗き先触れprécurseur sombreが先行しており、これが予め、雷の走るべき経路を、だが背面において、あたかも窪みの状態で示すかのように、決定する。(『差異と反復』)

…………

※追記

◆ドゥルーズ『差異と反復』より
……フロイトは、疑いもなくそのことを知っていた。というのは、彼は抑圧の偽装よりもより深い証拠を探し求めていたからだ。もっとも彼はそれを“原”抑圧という似たような語彙にて考えていたが。われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ。さらに言えば、――それは結局は同じことだがーー我々は、抑圧するから偽装するのではない。偽装するから抑圧するのだ。そしてわれわれは反復の決定的な核心の力によって偽装する。(ドゥルーズ『差異と反復』英訳からの私訳)

Freud, no doubt, was aware of this, since he did search for a more profound instance than that of repression, even though he conceived of it in similar terms as a so-called 'primary' repression. We do not repeat because we repress, we repress because we repeat. Moreover - which amounts to the same thing - we do not disguise because we repress, we repress because we disguise, and we disguise by virtue of the determinant centre of repetition.

Slavoj Žižek: The Pure Differenceより
……ラカンにとって、反復は抑圧に先んずるものである。それはドゥルーズが簡潔に言っているのと同様である。《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)。次のようではないのだ、――最初に、トラウマの内容を抑圧し、それゆえトラウマを想起できなくなり、かつトラウマとの関係を明確化することができないから、そのトラウマの内容がわれわれに絶えずつき纏いつづけ、偽装した形で反復するーー、こうではないのだ。現実界(リアル)が極細の差異であるなら、反復(それはこの差異を作り上げるもの)は、原初的なものである。すなわち抑圧の卓越性が現れるのは、現実界から象徴化に抵抗する「物」への“具現化”としてであり、排除され、あるいは抑圧された現実界が、己を主張し反復するときに初めて抑圧は現れる。現実界は原初的には無である。だがそれは物をそれ自身からの分離する隙間なのであり、反復のずれ(微細な差異)なのである。(ジジェク『LESS THAN NOTHING』(私意訳)

……for Lacan, repetition precedes repression—or, as Deleuze put it succinctly: “We do not repeat because we repress, we repress because we repeat.”65 It is not that, first, we repress some traumatic content, and then, since we are unable to remember it and thus to clarify our relationship to it, this content continues to haunt us, repeating itself in disguised forms. If the Real is a minimal difference, then repetition (which establishes this difference) is primordial; the primacy of repression emerges with the “reification” of the Real into a Thing that resists symbolization—only then does it appear that the excluded or repressed Real insists and repeats itself. The Real is primordially nothing but the gap that separates a thing from itself, the gap of repetition.
注)この《われわれは、抑圧するから反復するのではない。反復するから抑圧するのだ》(『差異と反復』)の帰結は、反復と想起の関係の倒置を伴うことになる。フロイトの有名なモットー、“われわれは、想い出すことを出来ないことに反復を強いられる。”――この文は、次のように反転させるべきだ。すなわち、「われわれは、反復できないことに取り憑かれ記憶することを強いられる」。過去のトラウマから免れる方法は、そのトラウマを想起しないことではない。キルケゴール的な意味での反復を充分に行なうことが、過去のトラウマから免れる方法である。

65. The consequence of this also involves an inversion in the relationship between repetition and re‐memoration. Freud's famous motto “what we do not remember, we are compelled to repeat” should thus be reversed: what we are unable to repeat, we are haunted with and are compelled to memorize. The way to get rid of a past trauma is not to rememorize it, but to fully repeat it in the Kierkegaardian sense.


『差異と反復』からすこし長く引用されている記事にインターネット上にて行き当たったので、重ねて財津理氏の訳でやや長く附記しておこう。

わたしたちは、偽装が抑圧によって説明されるとは、とうてい考えることができない。反対に、反復が、それの決定原理の特徴的な遷移のおかげで必然的に偽装されているからこそ、抑圧が、諸現在の表象=再現前化に関わる帰結として産み出されるのである。そうしたことをフロイトは、抑圧という審級よりもさらに深い審級を追究していたときに気づいていた。もっとも彼は、そのさらに深い審級を、またもや同じ仕方でいわゆる〈「原」抑圧〉と考えてしまってはいたのだが。ひとは、抑圧するから反復するというのではなく、かえって反復するから抑圧するのである。また、結局は同じことだが、ひとは、抑圧するから偽装するのではなく、偽装するから抑圧するのであり、しかも反復を決定する焦点〔潜在的対象〕の力によって偽装するのだ。偽装は反復に対して二次的であるということはなく、それと同様に、反復が、究極的あるいは起源的なものと仮定された固定的な項〔古い現在〕に対して二次的であるということもない。なぜなら、古い現在と新しい現在という二つの現在が、共存する二つの系列を形成しており、しかも、それら二つのなかでかつ自己に対して遷移する潜在的対象に即して、それら二つの系列を形成しているのであってみれば、それら二つの系列のどちらが根源的でどちらが派生的だ、などと指示するわけにはいかないからである。それら二つの系列は、〔ラカン的な〕複雑な相互主体性のなかで、様々な項や様々な主体を巻き込んでおり、しかもそれら主体のそれぞれは、おのれの系列におけるおのれの役割とおのれの機能とを、おのれが潜在的対象に対して占めている非時間的な位置に負っているのである。この〔潜在的〕対象そのものに関して言うなら、それを究極的あるいは根源的な項として扱うのは、なおさら不可能なことである。もしそんなことをすれば、その対象が本性の底の底から忌み嫌う同一性と固定した場所を、その対象に引き渡すことになってしまうだろう。その対象がファルスと「同一化」されうるのは、ファルスが、ラカンの表現を用いるならば、あるべき場所につねに欠け、おのれの同一性において欠け、おのれの表象=再現前化において欠けているかぎりのことなのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)