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2014年6月19日木曜日

「依怙贔屓」、あるいは「お前は才能がない」

長い間教師をしてきた私の結論は、依怙贔屓によってしか人は伸びないということです。私ははじめから自分は依怙贔屓でゆくと公言している。個々の学生の潜在的な素質が見えてきた段階からは、教育的な配慮を平等には振り撒かないということです。(蓮實重彦)

ツイッターで拾ったのだが、なんというか、ずばりと「真実」を語ってしまう元東大総長である。出典が不明であり前後関係はわからないので、あまりこうやって引用して、あれやこれやとは書きたくないのだが、捨てておくにはあまりにも「魅力的」な言葉すぎる。

いずれにせよ人はこうやって依怙贔屓をしたりされたりして生きてきている。たとえば母親が子供たちのひとりだけを依怙贔屓しないということがありうるだろうか、それは仮に内心だけであって、表面には出ないように努めていることが多いにしろ。依怙贔屓されることによって、その当人は素質をのばす。かつての嫡子制度をみよ。あれはすこぶる「健全な」依怙贔屓制度ではなかったか(たとえばエリートを育てるための)。

そもそも愛とは依怙贔屓、すなわち選別と排除の仕草ではないか。《愛しているときのわたしはいたって排他的になる》(フロイト『書簡集』)

もちろん制度的な依怙贔屓、すなわち差別システムは撤廃しなくてはならないというのは「統整的」理念には相違ない。だがジジェクは、自由主義的資本主義における制度的「差別」、格差システムが、人びとの怨恨の暴発を救っていると言う。「ヒエラルキー」の仕組みは、社会的下位者が、社会的上位者、特権者に屈辱感を抱かせないシステムとするのだ(これは『ツナミの小形而上学』で著者ジャン=ピエール・デュピュイの見解を参照にしているようだ)。

2005年十二月、新しく選ばれた英国保守党の党首デイヴィッド・キャメロンは、保守党を恵まれない人びとの擁護者に変えるつもりだと述べ、こう宣言した。「あらゆる政治にとっての試金石は、もてない者、すなわち社会の底辺にいる人びとに対して何ができるかということであるべきだ」。不平等が人間外の盲目的な力から生じたと考えれば、不平等を受け入れるのがずっと楽になる、と指摘したフリードリヒ・ハイエクですら、この点では正しかった。したがって、自由主義資本主義における成功あるいは失敗の「不合理性」の良い点は(市場は計り知れない運命の近代版だという古くからのモチーフを思い出そう)、そのおかげで私は自分の失敗(あるいは成功)を、「自分にふさわしくない」、偶然的なものだと見なせるということである。まさに資本主義の不正そのものが、資本主義のもっとも重要な特徴であり、これのおかげで、資本主義は大多数の人びとにとって許容できるものなのだ。(ジジェク『ラカンはこう読め!』)

フロイトは、「万人の平等こそ正義なり」という思想運動など抽象的なものだと言い放って、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能をあたえることによって種々の不正を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と書いている。ヒエラルキー制度がない社会では、あるいは名目的・心情的には「より平等な社会」(日本のような)では、自分の低いポジションは「自分にふさわしい」ものだということをいやがおうでも悟らされはしないか。

私自身、若いころ、貧乏の辛さを嫌というほど味わい、有産階級の冷淡さ・傲慢さを肌身に感じたことのある人間なのだから、財産の不平等およびそこから生まれるさまざまな結果を除去しようという運動にたいしてお前は理解も好意も持っていないのだなどという邪推は、よもや読者の心に萌すまい。もちろん、こうした運動の目標が、「万人の平等こそ正義なり」などという抽象的なものであるなら、さっそく次のような反論が起こるだろう。すなわち、「自然は、すべての人間に不平等きわまる肉体的素質と精神的才能をあたえることによって種々の不正を行っており、これにたいしてはなんとも救済の方法が無いではないか」と。(フロイト『文化への不満』人文書院 旧訳)

蓮實重彦の《個々の学生の潜在的な素質が見えてきた段階からは、教育的な配慮を平等には振り撒かない》という見解に対して、限られた高等教育におけるだけの話で小学校や中学校では、すくなくとも「建前」上、まかりならぬという人びともいるだろう。だが、フロイトの次の文を読んでみよう。若い頃から社会的「依怙贔屓」制度の練習を積んでおいたほうがよいのではないか、との見解として読めはしないか。

今日の教育は、若い人々がいずれは他人の攻撃欲動の対象にされるにちがいないのに、そのための心の準備をしてやらないという点で罪を犯している。若い人々をこれほど間違った心理学的オリエンテーションのまま人生に送りこむ今日の教育の態度は、極地探検に行こうという人間に装備として、夏服と上部イタリアの湖水地方の地図を与えるに等しい。そのさい、倫理の要求のある種の濫用が明白になる。すなわち、どんなきびしい倫理的要求を突きつけたにしても、教師のほうで、「自分自身が幸福になり、また他人を幸福にするためには、人間はこうでなければならない。けれども、人間はそうではないという覚悟はしておかねばならない」と言ってくれるなら、大した害にはならないだろう。ところが事実はそうではなくて、若い人々は、「他の人たちはみなこういう倫理的規則を守っているのだ。善人ばかりなのだ」と思いこまされている。そして、「だからお前もそういう人間にならなければならないのだ」ということになるのだ。(『文化への不満』)

もちろんこれらは「極論」かもしれない。だが「極論」によって初めて隠蔽されているものが見えてくる。

…………


ここで少し異なった文脈で語られる「お前は才能がない」との蓮實重彦の発言を抜き出そう。

蓮實)みんな、文学は教えられないというけど、文学の教育は可能なんです。日本では、文学教育のプロフェッショナルがいなかったというだけのことです。文学部系のアカデミズムがあまありにも弱体だったので、教育が機能しなかったのであり、そのうち、みんががあきらめちゃった。これは、不幸なことですよね。これが有効に機能していたら、いまの批評家の半分は批評家にならずにすんだと思う。自分の趣味とは関係なく、文学の名において、おまえは才能がないと言う人がいなかったんです。(蓮實重彦『闘争のエチカ』)

「おまえは才能がない」と指摘しない「優しく曖昧な」制度によって、不幸にも才能のない仕事を生涯つづけることになるなどということがありはしないか。早い時期に「才能がない」と指摘されれば、諦めて別のより才能を発揮できる仕事を見出すこともできるだろうし、逆に「才能がない」と言われても、諦めずに己れの好みや選択を継続するとき、そこに生じる「反撥」の力によって、大成する道が開かれるかもしれぬ。

もっとも、注意しなければならないのは、「才能がない」のと世間に受け入られる(たとえば流行作家になる)とは、まったく別の話であるということだ。才能がないために、よく売れることだってありうる、ましてや現在のようにファストフード的知的消費者ばかりが席巻しているなら、いっそうのこと。

ベルゴットのもっとも美しい文章は、実際に、読者に、自己へのより深い反省を要求したが、読者はそんなベルゴットよりも、単に書きかたがうまくなかったという理由でより深く見えた作家たちのほうを好むのであった。
(……)
批評は、何一つ新しい使命をもたらさない作家を、彼に先立った流派にたいする彼の横柄な口調、誇示的な軽蔑のゆえに、予言者として、祀りあげる。批評のこのような錯誤は、常習となっているから、作家が大衆によって判断されること(大衆にとって未知である探求の領野に芸術家がくわだてた事柄を、大衆が理解することも不可能でないとしての話だが)をむしろ好む傾向ともなるのであろう。というのも、大衆の本能的生活と大作家の才能とのあいだには、本職の批評家と皮相な駄弁や変わりやすい基準とのあいだより以上に、多くの相通じるものがあるからで、大作家の才能は、他のいっさいのものに命じられた沈黙のただなかで敬虔にききとられた本能、よく把握され、十分に仕上げられた本能にほかならないのである。(プルースト「見出された時」)

いずれにせよ、現在ではいっそうのこと、才能を持つことよりも人に知られた名前を持つことのほうが遥かに重要であるに相違ない。

ある証人の言葉が真実として受け入れられるには、 二つの条件が充たされていなけらばならない。 語られている事実が信じられるか否かというより以前に、まず、 その証人のあり方そのものが容認されていることが前提となる。 それに加えて、 語られている事実が、 すでにあたりに行き交っている物語の群と程よく調和しうるものかどうかが問題となろう。 いずれにせよ、 人びとによって信じられることになるのは、 言葉の意味している事実そのものではなく、 その説話論的な形態なのである。 あらかじめ存在している物語のコンテクストにどのようにおさまるかという点への配慮が、 物語の話者の留意すべきことがらなのだ。(蓮實重彦『凡庸な芸術家の肖像』)

ここで話をすこし前に戻せば、そもそも「才能がない」と言われて諦めてしまうこと自体が、「才能がない」証拠であるとすら言える。浅田彰は自ら「本当の才能がない」と自覚してしまったなどと、驚くべき「謙遜さ=巷間の書き手への嘲笑」とも受けとられない言葉を洩らしている。

浅田彰は西部すすむに《浅田さんがほとんど書かなくなったのは世界や人類を馬鹿にしてのことですか》と問われて、私は《いや単純に怠惰ゆえにです。しいていえば、矮小な範囲で物事が明晰に見えてしまう小利口かつ小器用な人間なので、おおいなる盲目をもてず、したがってどうしても書きたいという欲望ももてない。要するに、本当の才能がないということですね。書くことに選ばれる人間と、選ばれない人間がいるんで、僕は選ばれなかっただけですよ。と、今言ったことすべてが逃げ口上にすぎないということも、明晰に認識していますけど》と答えている (『批評空間』Ⅱ-16)。

だが、これは次のような発言をみても、額面通りとらえるべきなのだろう。

浅田:批評的立場を選んだからには、徹底して明晰であろうとすべきでしょう。僕は奇妙な形で文学にひかれています。妙に小器用で、他のジャンルのことはよく分かったような気がするのに、文学はどうしても隅々まで理解できない。ただ、そういう不可解なものを語るとき、それをまねるのではなく、明晰な理解可能性という、いわば貧しい領土にとどまって、ギリギリのところで書いていきたい。それが、自分にとって本当に分からないものの発見につながると思っていますから。

大江:浅田さんには「自分は単なる明晰にすぎない」という、つつましい自己規定があるんですね。明晰な判断力ではとらえきれないものがあって、それは明晰さより上のレベルだと思っていられる。天才というようなものが働くレベルというか。文学というあいまいな場所で生きている人間からすると、上等な誤解を受けている気がします・・・・・・(笑い)。

浅田:ところが不思議な転倒現象があるんです。戦後の文学界で最も明晰なのは三島由紀夫であり、明晰であるべき批評家たちが不透明に情念を語ることに終始したんですね。三島は、最初から作品の終わりが見え、そこから計算しつくされたやり方で作品を組み立てて、きらびやかであるだけいっそう空虚な言葉の結晶を残した。他方、小林秀雄の亜流の批評家たちは、作品をダシにおのれを語るばかりだった。二重の貧困です。(平成2年5月1日朝日新聞夕刊  対談 大江健三郎&浅田彰)

…………


※附記:大岡昇平「再会」より(青山二郎(Y 先生)の小林秀雄(X 先生))

私を除いて酔って来た。Y 先生が X 先生にからみ出した。

お前さんには才能がないね

「えっ」

と X 先生はどきっとしたような声を出した。先生は十何年来、日本の批評の最高の道を歩いたといわれている人である。その人に「才能がない」というのを聞いて、私もびっくりしてしまった。

「お前のやってることは、お魚を釣ることじゃねえ。釣る手附を見せてるだけだ。 (Y 先生は比喩で語るのが好きである)そおら、釣るぞ。どうだ、この手を見てろ。 (先生は身振りを始めた)ほおら、だんだん魚が上って来るぞ。どうじゃ、頭が見えたろう。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

しかし Y 先生は自分の比喩にそれほど自信がないらしく、ちょろちょろ眼を動かして、X先生の顔を窺いながら、身振りを進めている。

「遺憾ながら才能がない。だから糸が切れるんだよ」

X 先生がおとなしく聞いてるところを見ると、矢は当ったらしい。Y 先生は調子づいた。 「いいかあ、こら、みんな、見てろ。魚が上るぞ。象かも知れないぞ。大きな象か、小さな象か。水中に棲息すべきではない象、象が上って来るかも知れんぞ。ほら、鼻が見えたろ。途端、ぷつっ、糸が切れるんだよ」

「ひでえことをいうなよ。才能があるかないか知らないが、高い宿賃出してモツァルト書きに、伊東くんだりまで来てるんだよ」

「へっ、宿賃がなんだい。糸が切れちゃ元も子もねえさ。ぷつっ」

こうなると Y 先生は手がつけられない。私も昔は随分泣かされたものである。

私はいいが、驚いたことに、暗い蝋燭で照らされた X 先生の頬は、涙だか洟だか知らないが、濡れているようであった。私はますます驚いた。