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2014年6月4日水曜日

過去を変えることは不可能であるという思い込み

@RichterBot: (ジャン=フィリップ・コラールのシューマン『ピアノソナタ第三番』を聴いて)
それまでのコラールは第一級のピアニストのように私には思われていた。
ところが聴き終わって残念ながら見解を改めた。(スヴャトスラフ・リヒテル)

おそらく誰にでもあるだろう
それまで信頼していた人物への評価が
あるひとつだけののきっかけで
積み木の山のように
がらがらと崩れてしまうということが。

たとえば映像作家のある作品にメロドラマの汚点を感じ
遡って振り返ると以前には気づかなかった
その甘さの汚点がしみのように拡がって見えて
チャオ! あなたはもう結構というのが。

ツイッターでの発話者にさえある
なかなかよい詩を引用しているではないか
いい趣味だな
と感じ入っていたところ
ひとつの自己陶酔に溺れたツイートで
ああこの人物の詩への愛はすべてがナルシシズムに由来している
そのように唐突に悟り
もう結構となるというのが。
むしろそのとき己れのメロドラマ性に気づかされ
いっそう倦厭するようになるということが。

 フロイトに「遡及性」という概念
Nachträglichkeit (retroactivity)があるが
遡及的に欠点が明らかになるということが
われわれの生にはふんだんにある。
もちろんそれも誤解であり得るし
遡及的に美点が明らかになることもある。


フロイトの遡及性は次のようなことだ。
「遡及的」な外傷という形で使われる
子供が最初にある性的な光景を目撃したとき、
そこには外傷的なものは何ひとつなかった
子どもはなんら衝撃を受けたわけでは毛頭なく
意味のよくわからない出来事として記憶に刻み込んだだけ。
だが後年性的な袋小路に遭遇して
子供は幼いときの記憶を引っ張り出し、
遡及的に外傷化されるというふうに。
内的なトラウマと言われるものは
オリジナルな外傷があるのではなくて
多くの場合、このような遡及的な外傷だと
フロイトはある時期から外傷論の見解を変更している。

ボルヘスのカフカ論や
エリオットの「伝統と個人的な才能」
ドゥルーズの「純粋過去」などとも
しばしば指摘されるが遡及性にかかわる
個人あるいは文化の歴史の過去が変わる
正確には「再構成」される

過去を変えることは可能であるとする
中井久夫の次の文はおそらく
フロイトやエリオットを参照しているはず。

過去を変えることは不可能であるという思い込みがある。しかし、過去が現在に持つ意味は絶えず変化する。現在に作用を及ぼしていない過去はないも同然であるとするならば、過去は現在の変化に応じて変化する。過去には暗い事件しかなかったと言っていた患者が、回復過程において楽しいといえる事件を思い出すことはその一例である。すべては、文脈(前後関係)が変化すれば変化する。(中井久夫「統合失調症の精神療法」『徴候・記憶・外傷』所収)

《フロイトの夢の研究に徴しても、老人の回想に照らしても、「現在との緊張における」という限定詞つきの意味での「個人的過去の総体」は一般に「人格」と呼んでいるものにほぼひとしい。》(中井久夫「「世界における索引と徴候」について」)

このように「現在との緊張関係における」という但し書きが必要なのだ
個人の過去、あるいは「人格」というものは。
他人や作品の評価も同じく。


…………

ボルヘスはカフカの先駆者として
「運動を否定するゼノンのパラドクス」
(たとえば『城』の運動の否定のパラドクス)
9世紀の作家、韓愈の麒麟にかんする寓意譚
キルケゴールの「中産階級的主題にもとづく宗教的寓話」
等々を挙げながら、次のように書く。

程度の違いこそあれ、カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然とあらわれているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。(……)
ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ。(ボルヘス「カフカの先駆者」)

決定的な「芸術家」とはこのように過去の総体を再構成する
過去を変えてしまう、未来を変えるだけではないのだ
そんな芸術家の作品に遭遇できることは稀であるにしろ。

あるいはエリオットの《過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない》。

一つの新しい芸術作品が創造された時に起ることは、それ以前にあった芸術作品のすべてにも、同時に起る。すでに存在している幾多の芸術作品はそれだけで、一つの抽象的な秩序をなしているのであり、それが新しい(本当の意味で新しい)芸術作品がその中に置かれることによって変更される。この秩序は、新しい芸術作品が現われる前にすでに出来上っているので、それで新しいものが入って来た後も秩序が破れずにいる為には、それまでの秩序全体がほんの少しばかりでも改められ、全体に対する一つ一つの芸術作品の関係や、比率や、価値などが修正されなければならないのであり、それが、古いものと新しいものとの相互間の順応ということなのである。そしてこの秩序の観念、このヨーロッパ文学、及び英国の文学というものの形態を認めるならば、現在が過去に倣うのと同様に過去が現在によって変更されるのを別に不思議に思うことはない。しかしこれを理解した詩人は多くの困難と、大きな責任を感じなければならないことになる。(エリオット「伝統と個人的な才能」吉田健一訳)

さらにはまた ドゥルーズ=プルーストの「純粋過去」。

紅茶に浸したマドレーヌを口に含んだ途端、それを誘い水にして、コンブレは、かつて生きられたためしがない光輝のなかで、まさにそうした純粋過去として再び出現する。(ドゥルーズ『差異と反復』p140)

《かつて現在であったためしがない純粋過去》、すなわち、

たとえばプルーストの『失われた時を求めて』において、語り手である<私>は、ある偶然の感覚性にともなって「本質的な意味では忘却していた過去」、コンブレで過ごした子供時代、その家や町や人びとが突如として生き生きと甦ってくるのを経験する。それはだから生き直すことである。しかしそれは人々が通常そう思っているように、なにか始原となるもの、オリジナルをなす出来事があって、それを同じように(あるいは類似したままに)繰り返すということではない。コンブレで過した子供時代は、実のところそのときそこで必ずしも生きられたのではなかった。むしろかなりの歳月がたったあとで、まったく新しいフォルムにおいて、その一つの真実のうちにーー現実世界においては等価物を持たなかった真実――のうちに生きられたのだ。すなわち再び生きられたのであり、かつまた同時に初めて生きられたのである。(ドゥルーズ『ニーチェ』の訳者あとがきにかえられた小論「ドゥルーズとニーチェ」より 湯浅博雄)

この「純粋過去」は中井久夫のよって「メタ記憶」と言い換えられる。
それが正確に合致する概念であるかどうかは別にして
おそらく「メタ記憶」のほうがわれわれには馴染みやすい言葉だろう。

マドレーヌや石段の窪みは「メタ記憶の総体としての〈メタ私〉」から特定の記憶を瞬時に呼び出し意識に現前させる一種の「索引 ‐鍵 indice-clef 」である(中井久夫「吉田城先生の『「失われた時を求めて」草稿研究』をめぐって ――プルースト/テクスト生成研究/精神医学」)

索引-鍵によって過去が再び生きられるのであり
しかも初めて生きられる過去なのであって、
ただたんに古くなっただけの過去(相対的過去)を
そのまま想起したのではない。
「現在との緊張関係における」過去なのである。

現在のあるささいな出来事が
潜在的でしかなかった過去を「遡及的に」構成しなおす
それが《再び生きられ、かつ初めて生きられる》ということだ。


ドゥルーズの「純粋過去」概念は、
「反復」概念にも大きくかかわる。

そこにはまず想起/反復という二項対立がある。

恋愛”においてある個体にこだわることは、その個体を単独性においてではなく、一般的なもの(イデア的なもの)のあらわれにおいてみることであるからだ、たとえばこの女しかいないと思いつめながら、また次に別の女にこの女こそと思いつめていくようなタイプがある。フロイトがいったように、この女への固執は、幼年期における母への固執の再現(想起)である。次々と相手を変えながら、そのつどこの女と思い込むようなタイプは、フロイトのいう「反復強迫」である。実は、反復強迫は、キルケゴールのいう反復ではなくて想起であり、同一的なものの再現なのである。ここには他者は存在しない。たんに、法則的(構造的)な再現(表象)があるだけだ。(柄谷行人『探求Ⅱ』)

この「想起」から抜け出て「反復」しなければならない。

同一的な規則を前方に想定するような行為は「想起」(キルケゴール)にほかならないが、そうでない行為、規則そのものを創りあげてしまうような行為は、「反復」または「永劫回帰」とよばれる。(同『探求Ⅱ』)

高橋悠治にひどく美しい「ふりむく」をめぐる文がある。

ふりむくことは回想にひたることではない。つかれを吹きとばす笑いのやさしさと、たたかいの意志をおもいだし、過去に歩みよるそれ以上の力で未来へ押しもどされるようなふりむき方をするのだ。 (高橋悠治『ロベルト・シューマン』

われわれは、過去に受身であり
かつそれに決定されている、
「自由意志」などないというスピノザの言う如く。
にもかかわらず「ふりむく」という行為によって
過去の座標軸そのものを変えることができる
高橋悠治の言葉はそのように読みたい。


確かに、われわれの愛は、母に対する感情を反復している。しかし、母に対する感情は、われわれ自身が経験したことのないそれとは別の愛をすでに反復しているのだ。…極限では、愛の経験は、全人類の愛の経験であり、そこに超越的な遺伝の流れが貫流している(ドゥルーズ『プルーストとシーニュ』)
反復されることになる最初の項などは、ありはしないのだ。だから、母親へのわたしたちの幼児期の愛は、他の女たちに対する他者の成人期の愛の反復なのである。(ドゥルーズ『差異と反復』)