このブログを検索

2014年6月26日木曜日

丸山真男とジジェクのシューマ

未定稿。かなり前書いたもので、もうすこし二つのシューマを関連づけたかったのだが、いまは保留。前回、ジジェクのフェティシズムモードをめぐる引用したこともあり、失念しないうちに暫定投稿(あまり読み返してもいないので、なにかピントはずれのことが書かれているかも)。

…………

まず、柄谷行人の「丸山真男とアソシエーショニズム (2006)」より、丸山真男の「個人析出のさまざまなパターン」における図式(シューマ)とその説明を掲げる。

丸山真男は、伝統的な社会(共同体)から個人が析出される(individuation) のパターンを考察した。日本の事例は、たとえば、テンニースのように、ゲマインシャフトに対するゲゼルシャフトとしては説明できないし、さらにリースマンのように、伝統志向に対して、内部志向と他人志向という二タイプをもってくることでも理解できない。そこで、丸山は、近代化とともに生じる個人の社会に対する態度を、結社形成的associativeと非結社形成的dissociativeというタテ軸と、政治的権威に対する求心的なcentripetal態度と遠心的なcentrifugalな態度というヨコ軸による座標において分析したのである。それは図のように四つのタイプになる。




簡単に説明すると、民主化した個人のタイプ(D)は集団的な政治活動に参加するタイプである。自立化した個人のタイプ(I)は、そこから自立するが、同時に、結社形成的である。民主化タイプが中央権力を通じる改革を志向するのに対して、自立化タイプは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。つぎに、私化した個人のタイプ(P)は、民主化タイプの正反対である。すなわち、Pは、政治活動の挫折から、それを拒否して私的な世界にひきこもるタイプである。さらに、Pと原子化したタイプ(A)の関係はつぎのようになる。

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。この隠遁性向は、社会制度の官僚制化の発展に対応する。(中略)原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(「個人析出のさまざまなパターン」『丸山真男集』第九巻p385)

つまり、私化した個人のタイプは政治参加しないが、原子化した個人のタイプは、「過政治化と完全な無関心」の間を往復する。

この四つのタイプについて、丸山は「ある人間が、四つのうちのある型に全面的かつ純粋に属し、生涯を通じて変わらないということは稀である」という。そして、それは社会全体についてもいえる。各社会は、こうした諸タイプの分布によって構成され、またその分布の度合いは文化的社会的条件によって異なるのである。丸山によれば、一般的に、近代化が内発的でゆっくり生じる場合、IとPの分布が多くなり、他方、後進国の近代化においては、DとAの分布が多くなる。

このように見ると、近代日本に特徴的なことは、伝統社会が残っているにもかかわらず、私化と原子化の「早発的な登場」があったこと、また、これらのタイプが圧倒的に多かったことである。といっても、丸山がそういうのは、一般的な図式にもとづいて日本のケースを見た結果ではない。その逆に、彼は日本の特異性から出発し、それを例外とせずに扱うことができるような普遍的な図式(シェーマ)を考案したのである。この論文はもともと英語で書かれた。それは、日本を一ケースとするかたちをとりながら、普遍的な理論を目指している。事実、この図式は一般的に近代について考えようとするときに不可欠である。たとえば、「近代的個人」や「近代的自我」というような言葉がしばしば使われるが、その意味はあいまいで、議論を混乱させるだけである。


次にジジェクの『ポストモダンの共産主義』より、症候モードとフェティッシュモードの図式を抽出する(ジジェク自身はこの図式を提示していないが、その記述から導き出したもの)。(参照:ジジェクによる政治的「症候/フェティシズム」モード



このように図式化してみれば、丸山真男のシューマとの類似性がある。とくに縦軸の「同一化」とは、「結社形成的」と言い換えられるし、「距離」とは、「非結社形成的」であるだろう。

横軸はどうか。ジジェクはの議論のポイントはフェティシズムモードである。

現代のいわゆる「ポストイデオロギー」の時代にあっては、イデオロギーはますます従来の「症候」モードとは反対の「フェティシズム」モードで機能する。

すなわちフェティシズムモードが主要な関心のため、従来型の「症候」(神経症型)については詳しく説明していないが、《暗黙の限界(自由/平等についての)がリベラルな平等主義の症候である》とはある。おそらくこの記述は、「リベラル」と「イデ批判」の両方に当てはまるだろう。すなわち「同一化」タイプも「距離」タイプも、自由と平等についての暗黙の限界は感じているはずだ、だが症候派はその事実を「抑圧」する。すなわち自由と平等の(限定的な)死を抑圧するのだが、その抑圧されたものは「症候」として回帰し復讐する。あるいは別の言い方をすれば、自由と平等の死を「知っていることを知らない」 “unknown knowns,”。だが、それらが症候派の行為や感情を決定している。

要するに被分析者は忘れられたもの、抑圧されたものからは何物も「思い出す」erinnernわけではなく、むしろそれを「行為にあらわす」 agierenのである、と。彼はそれを(言語的な)記憶として再生するのではなく、行為として再現する。彼はもちろん、自分がそれを反復していることを知らずに(行動的に)反復wiederholenしているのである。(フロイト『想起・反復・徹底操作』)


具体的になにを反復するのか、とは、はっきりしたことは言いづらいが、「無力感」「絶望感」などが、リベラルやらイデオロギー批判派を襲うということはあるに相違ない。

他方、フェティシストはどんな態度をとるのか。

最愛のひとの死の例をみてみよう。症候の場合、私はこの死を“抑圧”する。それについて考えないようにする。だが抑圧されたトラウマが症候として回帰する。フェティッシュの場合は、逆に、私は“理性的”には死を完全に受け入れる。にもかかわらずフェティシュな物ーー私にとって死の否認を取り入れるなにかの特徴――にしがみつく。この意味で、フェティシュは、私を苛酷な現実に対処させる頗る建設的な役割を果たす。フェティシストは自身の私的世界に没入する夢見る人ではない。彼らは徹底的な“リアリスト”である。もののあるがままを受け入れるのであり、というのはフェティシュな物にしがみついて、現実の全面的な影響を和らげることができるからだ。(ジジェク『ポストモダンの共産主義』私訳)

彼らは、自由と平等の(限定的な)死を完全に受け入れている。だが「自由」や「平等」のなにかの痕跡(フェティッシュ)にしがみつく(たとえば「私利私欲」の自由に)。

ジジェクは、ふたつのフェティシスト(大衆原理主義的フェティシストとシニカル・フェティシスト)について次のように書く。

◆大衆原理主義的(ポピュリズム・ファシズム的)フェティシスト
・拮抗と敵対の性質を併せ持つ偽りの帰属意識が伴う。

・「主体が『この世の不幸のもとはユダヤ人だ』と言うとき、ほんとうは『この世の不幸のもとは巨大資本だ』と言いたい」のだ。

・明示される「悪い」内容(反ユダヤ主義)が、内在する「よい」内容(階級闘争、搾取への反感)をおおい隠してしている。


◆許容的シニカル・フェティシスト
・偽りの普遍性が伴う。主体が自由や平等を主張する一方で、この形態自体が狭量な(金持ち、男性、特定の文化に属するものなど、特定の社会階層に特権を与える)性質を内包していることに気づいていない。

・「主体が『自由と平等』と言うとき、じつは『貿易の自由、法の前の平等』などを意味している。

・明示される「よい」内容(自由、平等)が、内在する「悪い」内容(階級その他の特権および排除)を隠蔽している。

…………

さて、このように見てくると、縦軸だけでなく、横軸の「フェティッシュ/症候」をも、丸山真男の「求心的/遠心的」と関連づけることができないわけではない。たとえば丸山真男は《政治的権威に対する求心的なcentripetal態度と遠心的なcentrifugalな態度》としているわけだが、ジジェクの「フェティッシュ/症候」を、自由・平等という理念にしがみつく態度と自由・平等の限定的死という抑圧されたものの回帰によって無力感に苛まれる態度とすれば。


もっとも個々のタイプをみてみると、相同的に扱うにはいささか無理がある。

民主化タイプが中央権力を通じる改革を志向するのに対して、自立化タイプは市民的自由の制度的保障に関心をもち、地方自治に熱心である。

この「民主化タイプ」を「原理的フェチ」とすることは困難であるし、「自立化タイプ」をそのままジジェクの「リベラル」とすることも難しい。

私化した個人は、原子化した個人と似ている(政治的に無関心である)が、前者では、関心が私的な事柄に局限される。後者では、浮動的である。前者は社会的実践からの隠遁であり、後者は逃走的である。

「私化タイプ」が政治的無関心であり「ひきこもり」であるなら、ジジェクの「イデオロギー批判派」をひきこもりの様相は示す場合もあるだろうが、政治的無関心とはしづらい。

「原子化タイプ」は逃走的とされるが、それをジジェクの「シニカル・フェチ」とするのはどうか。

原子化した個人は、ふつう公共の問題に対して無関心であるが、往々ほかならぬこの無関心が突如としてファナティックな政治参加に転化することがある。孤独と不安を逃れようと焦るまさにそのゆえに、このタイプは権威主義リーダーシップに全面的に帰依し、また国民共同体・人種文化の永遠不滅性といった観念に表現される神秘的「全体」のうちに没入する傾向をもつのである。(柄谷行人)

シニカル・フェチがファナティックな政治参加に転化することがあるだろうか。むしろ私化した個人のタイプがそうなりやすい傾向にあるのではないか。

私化した個人にとっては、たんなるデモでも大変な飛躍を意味する。もしデモに行くとすれば、原子化したタイプからなる群衆あるいは暴徒としてのみである。これは長続きしない。その後は、まったくデモがないということになる。それに対して、自立化した個人のタイプは、「個人と国家の間にある自主的集団」、つまり協同組合・労働組合その他の種々のアソシエーションに属しているから、逆に、個人としても強いのである。結社形成的な個人はむしろ、結社の中で形成されるものだ。一方、私化した個人は、政治的には脆弱であるほかない。(柄谷行人)


というわけで、まったくまとまりのない話になってしまったが、丸山真男の言うように、「ある人間が、四つのうちのある型に全面的かつ純粋に属し、生涯を通じて変わらないということは稀である」。しかも、時代はかつてのまがりなりにも「象徴的権威」のあった時代から、現在は「父なき時代」である。そしてインターネットの時代でもある。丸山モデルはよく整理されていて、かつ日本的な文脈では魅力溢れるが、やはりこの二十一世紀においては、ジジェクモデルがより汎用性が高いのではないか。

サイバースペースがもたらすのは、匿名の「原子化する個人」である。それは「結社形成的な個人」をもたらさない。もともとそのような個人が多いところでは、インターネットは結社形成を助長するように機能する可能性がある。しかし、日本のようなところでは、「原子化する個人」のタイプを増大させるだけである。一般的にいって、匿名状態で解放された欲望が政治と結びつくとき、排外的・差別的な運動に傾くことに注意しなければならない。(柄谷行人)