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2014年7月15日火曜日

女たちによる「猥談」

さてフロイトやラカン嫌いのひとなら、すぐさま拒絶するだろう、「去勢」やら「ファルス」という言葉をふくんだ文の引用から始めてみよう。

(ラカンにとって)想像的去勢不安とは、〈大他者〉のファリックな欲望を満足させえないという不安を意味する。この不能により、この〈他者〉に無視されたり、さらには拒絶されたりする不安である。後者は二種類のジェンダーのヴァージョンに関係してくる。すなわち男は十分に(想像的)ファルスをもっていないことを怖れ、女は十分に想像的ファルスでないことを怖れる(ラカン 1956-57)。これは次の結果をもたらす。特徴ある男性的な“ギネスブック記録”ヒステリーへ、――より性的な意味に限定すれば、バイアグラへと。女性においては、われわれは“ミスワールド”ヒステリーに遭遇する、やがては形成外科手術の過剰を伴う。(私訳)

Imaginary castration anxiety involves an anxiety about being unable to satisfy the phallic desire of the Other and hence, being left or even rejected by this Other because of this inability. The latter receives two gender related versions : the man is afraid that he doesn't sufficiently have the (imaginary) phallus; the woman is afraid that she insufficiently is the imaginary phallus (Lacan, 1956-57). This leads to the characteristic masculine “ Guinness book of Records ” -hysteria, and –in a more restricted, sexual sense, to Viagra . In women , we encounter the “ Miss World ” -hysteria, eventually accompanied with excesses in plastic surgery. (“Sexuality in the Formation of the Subject”Paul Verhaeghe)


《男は十分に想像的ファルスをもっていない》ことの不安が、おそらく男の猥談を花盛りにするとすれば(性的経験/能力の誇示)、《女は十分に想像的ファルスでない》ことの不安は、いかに他者を惹きつけるかをめぐっている。胸の谷間からスカートや腰脇のスリット、あるいはミニスカやローライズなどもそれにかかわるのだろうし、「女子力」、「婚活」などの語彙群の氾濫は、女の猥談の気味合いがある。猥談というのに語弊があるならば、猥行為としてもよい。いずれにせよセクシュアリティにかかわる。この視点の光のもとでは、女性が猥談をすることは稀、というのは間違っている。


ここで小田嶋隆氏の名言を挿入しておこう(「あれは「女子力」のイベントだった」より)。

・「女子力」は、単に「男のコロがし方」を婉曲に表現しただけの言葉であったりする。

・「女子力」って自分で何かを成し遂げる能力じゃなくて、他人に何かをさせる(あるいはし てもらう)能力だよね。

・っていうか「女子力」って、「バカ男子動員力」みたいなもんだろ?

・女子力は女子の中では発揮できない。男子に囲まれている場所でしか機能しない。魚 の遊泳力が水の中でないと発揮できないのと一緒。


 …………

《男の幸福は、「われは欲する」である。女の幸福は、「かれは欲する」ということである》(ニーチェ『ツァラトゥストラ』手塚富雄訳)

男は自分の幻想の枠にフィットする女を欲望する。他方、女は自分の欲望をはるかに徹底的に男のなかに疎外する(男のなかに向ける)。女の欲望は男に欲望される対象になることである。すなわち男の幻想の枠にフィットすることであり、女は自身を、他者の眼を通して見ようとするのだ。“他者は彼女/私のなかになにを見ているのかしら?” という問いにたえまなく煩わせられている。しかしながら、女は、それと同時に、はるかにパートナーに依存することが少ないのだ。というのは彼女の究極的なパートナーは、他の人間、彼女の欲望の対象(男)ではなく、ギャップ自体、パートナーからの距離なのだから。そのギャップ自体に、女性の享楽の場所がある。(私訳)

a man directly desires a woman who fits the frame of his fantasy, while a woman alienates her desire much more thoroughly in a man—her desire is to be the object desired by man, to fit the frame of his fantasy, which is why she endeavors to look at herself through the other's eyes and is permanently bothered by the question “What do others see in her/me?” However,a woman is simultaneously much less dependent on her partner, since her ultimate partner is not the other human being, her object of desire (the man), but the gap itself, that distance from her partner in which the jouissance féminine is located.(Zizek『Less Than Nothing』)

ここにある、《女は……はるかにパートナーに依存することが少ないのだ》というジジェクの見解は、日本でもしばしば流通している「男性の恋愛は名前をつけて保存、女性の恋愛は上書き保存」という名言を説明してくれる。

ほかにも、《女の欲望は男に欲望される対象になることである》についてはこんな話がある。路上カフェに女性が座っているとする。目の前を男女のカップルが通りすぎる。すばらしくいい男だ。だが女性の場合、その男に魅惑されても、その男と一緒にいる女を観察することにいっそう時を費やす。

She may be attracted to the man, but will nonetheless spend more time looking at the woman who is with him.(Darian Leader

結局これらの話は、一九二〇年代から三〇年代にかけて活躍した名高い女流精神分析家で、フロイトの著作の翻訳者でもあるジョン・リヴィエールJoan Rivièreの論「仮装としての女性性Womanlinessas a Masquerade(1929)」のまわりをめぐっている。

男性を女性へと結びつける魅力について想像してみると、「仮装した人」として現れる方が優勢であることを我われは知っているからです。仮面の仲介を介してこそ男性と女性は疑問の余地なくもっとも激しく、もっとも情熱的に出会うことができるのです。(ラカン『セミネールⅩⅠ』)
女性が自分を見せびらかし、自分を欲望の対象として示すという事実は、女性を潜在的かつ密かな仕方でファルスと同一のものにし、その主体としての存在を、欲望されるファルス、《他者》の欲望のシニフィアンとして位置づけます。こうした存在のあり方は女性を、女性の仮装[mascarade]と呼ぶことのできるものの彼方に位置づけますが、それは、結局のところ、女性が示すその女性性のすべてが、ファルスのシニフィアンに対する深い同一化に結びついているからです。この同一化は、女性性ともっとも密接に結びついています。(ラカン「セミネールⅤ」)
どんなにポジティブな決定をしてみても、女性というのはひとつの本質だ、女性は「彼女自身だ」と定義してみても、結局のところ、女性が演技しているもの、女性が「他者にとって」どういう役割をもっているかという問題に引き戻されてしまう。なぜなら、「女性が男性以上の主体となるのは、まさに女性が本来の仮装の特徴を帯びているときだけ、女性の特徴が、すべて人工的に「装われている」ときだけだからである」。(エリザベス・ライト『ラカンとポストフェミニズム』)


…………

最後に、ラカン派におけるファンタジーのごく標準的な考え方を付記しておこう。


《The ultimate object of fantasy is the gaze itself》 Zizek

ラカン派によれば、究極的な幻想(ファンタジー)の対象とはまなざしそれ自体である。まなざし、すなわち欲望の対象-原因としての〈対象a〉ということになる。

《the ultimate fantasy is the fantasy of sexual relationship》(Zizek)

かつまた究極的な幻想とは、性関係の幻想である。ラカンによれば「性関係はない」のだから、このときのファンタジーとは、性関係があるように幻想するということになる。

《the fantasy is an attempt to give meaning to a part of the Real that resists to the Symbolic.》 (Paul Verhaeghe)

幻想とは象徴界に抵抗する現実界の部分に意味を与える試みであるなら、究極的なファンタジーとは、性関係がないという象徴界に、性関係があるという幻の想念を抱くことである。

ところで、幻想は欲望を上演する(ステージに上げる)。だがこの欲望とは誰の欲望なのか?

欲望の最初の問いは、「私は何を欲しているのか」という直接的な問いではなく、「他者は私から何を欲しているのか。彼らは私の中に何を見ているのか。彼ら他者にとって私は何者なのか」という問いである。幼児ですら関係の複雑なネットワークにどっぷり浸かっており、彼を取り巻く人びとの欲望にとって、触媒あるいは戦場の役割を演じている。父親、母親、兄弟、姉妹、おじ、おばが、彼のために戦いを繰り広げる。母親は息子の世話と通して、息子の父親にメッセージを送る、子どもはこの役割をじゅうぶん意識しているが、大人たちにとって自分がいかなる対象なのか、大人たちがどんなゲームを繰り広げているのかは、理解できない。この謎に答を与えるのが幻想である。どんな単純な幻想も、私が他者にとって何者であるのかを教えてくれる。どんなに単純な幻想の中にも、この幻想の相互主観的な性格を見てとることができる。たとえばフロイトは、苺のケーキを食べることを夢想する幼い娘の幻想を報告している。こうした例は、幻覚による欲望の直接的な満足を示す単純な例(彼女はケーキがほしかった。でももらえなかった。それでケーキの幻想に耽った)などではけっしてない。決定的な特徴は、幼い少女が、むしゃむしゃケーキを食べながら、自分のうれしそうな姿を見て両親がいかに満足しているかに気づいていたということである。苺のケーキを食べるという幻想が語っているのは、両親を満足させ、自分を両親の欲望の対象にするような(両親からもらったケーキを食べることを心から楽しんでいる自分の)アイデンティティを形成しようという、幼い少女の企てである。(ジジェク『ラカンはこう読め』)


では冒頭の文脈に戻って、男と女はいったいどうすればいいのか。《瓶ビールを抱いているカエル》の話がある。

二、三年前、イギリスのTVでビールの面白いCMが放映された。それはメルヘンによくある出会いから始まる。小川のほとりを歩いている少女がカエルを見て、そっと膝にのせ、キスをする。するともちろん醜いカエルはハンサムな若者に変身する。しかし、それで物語が終わったわけではない。若者は空腹を訴えるような眼差しで少女を見て、少女を引き寄せ、キスする。すると少女はビール瓶に変わり、若者は誇らしげにその瓶を掲げる。女性から見れば(キスで表現される)彼女の愛情がカエルをハンサムな男、つまりじゅうぶんにファロス的な存在に変える。男からすると、彼は女性を部分対象、つまり自分の欲望の原因に還元してしまう。この非対称ゆえに、性関係は存在しないのである。女とカエルか、男とビールか、そのどちらかなのである。絶対にありえないのは自然な美しい男女のカップルである。幻想においてこの理想的なカップルに相当するのは、瓶ビールを抱いているカエルだろう。この不釣り合いなイメージは、性関係の調和を保証するどころか、その滑稽な不調和を強調する。われわれは幻想に過剰に同一化するために、幻想はわれわれに対して強い拘束力をもっているが、右のことから、この拘束から逃れるにはどうすればよいかがわかる。同時に、同じ空間内で、両立しえない幻想の諸要素を一度に抱きしめてしまえばいいのだ。つまり、二人の主体のそれぞれが彼あるいは彼女自身の主観的幻想に浸かればいいのだ。少女は、じつは若者であるカエルについて幻想し、男のほうは、実は瓶ビールである少女について幻想すればいい。(『ラカンはこう読め!』ジジェク 鈴木晶訳p99~)

…………

※附記

いまはかつての話かもしれない。そして下手な猥談ばかりの時代になってしまったのかもしれないが、附記しておこう。

大人になった男が、ワイダンをするには、いろいろ理由がある。

 その一つは、それが、最も無難な話題であるためだ。男というものは、社会に出て、辛い生活をしながら生計を立てていかねばならない。そして、社会生活で、最も心を悩ますのは対人関係である。うっかりした話題を出すと、さしさわりが起る。ワイダンをやっていれば、無難である。下手なワイダンは困りものだが、巧みなワイダンに顔をしかめるのは、偽善者ということに、大人の世界ではなっている。

 それに、ワイダンというものは、じつはけっしてナマナマしいものではなく、これほど観念的なものはないといってもよいくらいのものだ。男と女のちがいの一つは、性について知ることが多くなればなるほど、女は肉体的になってゆくが、男は観念的になってゆくことだ。女は眼をつむってセックスの波間に溺れ込むようになるが、男はますます眼を見開いて観察し、そのことから刺激を得て、かろうじて性感を維持してゆく。(吉行淳之介「不作法紳士―男と女のおもてうら―」)

吉行淳之介は、中学生くらいの年齢における性の目覚めについて、男女間の著しい相違が何かといえば、それは男子中学生は盛んに好んで猥談をすることだとしている。あるいは、《猥談も出来ないような男は偽善者扱いをされるので皆男は酒を飲むと猥談に夢中になり抽象論議に夢中になる》とも。だが女たちも中学生のころから、別の「猥談=猥行」(仮装としての女)を実践しているのではないか。

自然的本性を熊手で無理やり追いだしても、それはかならずや戻ってやってくるだろう。(ホラティウス)