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2014年8月5日火曜日

象徴的ファルスとしての「こけし」

まず前投稿「男なんざ光線とかいふもんだ」で冒頭に掲げた文の再掲からはじめる。

なにが起こるだろう、ごくふつうの男、すなわちすぐさまヤリたい男が、同じような女のヴァージョンーーいつでもどこでもベッドに直行タイプの女――に出逢ったら。この場合、男は即座に興味を失ってしまうだろうね。股間に萎れた尻尾を垂らして逃げ出しさえするかも。精神分析治療の場で、私はよくこんな分析主体(患者)を見出すんだ、すなわち性的な役割がシンプルに倒錯してしまった症例だ。男たちが、酷使されているとか、さらには虐待されて、物扱いやらヴァイブレーターになってしまっていると愚痴をいうのはごくふつうのことだよ。言い換えれば、彼は女たちがいうのと同じような不平を洩らすんだな。男たちは女の欲望と享楽をひどく怖れるのだ。だから科学的なターム“ニンフォマニア(色情狂)”まで創り出している。これは究極的にはVagina dentata(「有歯膣」)の神話の言い換えだね。 (Love in a Time of Loneliness  THREE ESSAYS ON DRIVE AND DESIRE  Paul Verhaeghe私訳)

そして、この文とは一見、まったく関係のないようにみえる文を続けることにする。


◆ジジェク『LESS THAN NOTHING』(2012)より。

ラカンの「〈女〉は存在しない」(la Femme n'existe pas)とは、どの経験上の生きた女もけっして〈大文字の彼女〉ではないという意味ではない。すなわち到達しがたい〈女〉の理想に沿って生きることができないということではない(経験的な「現実の」父が、象徴的機能、彼の〈名〉に沿って生きることができないというような)。経験上のどんな女と〈女〉を永遠に分離するギャップは、空虚な象徴的機能とその経験上の担い手の間のギャップとは同じものではないのだ。女における問題は、逆に、空虚な理想的象徴機能を定式化することが不可能だということであり、これがラカンが「〈女〉は存在しない」と断言したときに、言わんと意図したことなのである。不可能な〈女〉とは、象徴的フィクションではなく、幻想的な亡霊なのであり、その支えは対象aであって、S1ではないのだ。「〈女〉は存在しない」と同じ意味での「存在しない」人物とは、原初の享楽-の-父である(伝説の前エディプスの父、すなわち彼の集団のすべての女を独り占めした父)。こういうわけで、この父の地位は<女>の地位と相関的なのである。(私訳)

Lacan's “Woman doesn't exist” (la Femme n'existe pas) does not mean that no empirical, flesh‐and‐blood woman is ever “She,” that she cannot ever live up to the inaccessible ideal of Woman (in the way that the empirical, “real” father never lives up to his symbolic function, to his Name). The gap that forever separates any empirical woman from Woman is not the same as the gap between an empty symbolic function and its empirical bearer. The problem with woman is, on the contrary, that it is not possible to formulate her empty ideal‐symbolic function—this is what Lacan has in mind when he asserts that “Woman does not exist.” The impossible “Woman” is not a symbolic fiction, but again a fantasmatic specter whose support is objet a, not S1. The one who “does not exist” in the same sense as Woman does not exist is the primordial Father‐enjoyment (the mythic pre‐Oedipal father who had a monopoly over all women in his group), which is why his status is correlative to that of Woman.(zizek”LESS THAN NOTHING”)

ここに出てくる”the primordial Father‐enjoyment”、すなわち「原初の享楽の父」の説明を挙げておこう。

今日の世界が「<エディプス>の斜陽」(父性的な象徴権威の弱体化)の時代であると叫ばれるとき、その批判の内実が何を指しているのかを問えば、答えはまさに、「全体主義」国家の政治的<指導者>像から、自分の娘へのセクシャル・ハラスメントに手を汚す父親像まで、「原初の父」の論理に従って機能する人物像への回帰現象となるのである――それは、なぜか?「穏やかな顔」を覗かせる象徴の権威が機能不全に陥ってしまったとき、先細りする欲望が中途で頓挫する事態を回避する、つまり、本性的な欲望の不可能性を隠蔽する唯一の方法として残されているのは、欲望が達成できない根本原因を、原初の享楽者を意味する専制的な人物像に特定することなのだ。われわれが愉しむことができないのは、あの男が享楽の一切合切を独り占めしてしまうからに他ならないから、と……。(ジジェク『厄介なる主体』)

ここで、ジジェクは、「エディプスの父/原初の享楽の父」を対比させているが、ラカン派では、この剥き出しの権力としての「原初の享楽の父」の審級を、「母なる超自我」とも呼ぶ(参照:ナイーブなフェミニストたち、あるいは権威と権力)。


ジジェクの『LESS THAN NOTHING』における《不可能な〈女〉とは、象徴的フィクションではなく、幻想的な亡霊なのであり、その支えは対象aであって、S1ではないのだ》ーーこれは、S1が「エディプスの父」とすれば、対象aとしての「不可能な〈女〉」は、母なる超自我にかかわるはずだ。


リアルな(現実界的)超自我の側面(「享楽の父」、あるいは「母なる超自我」)をめぐって、ラカンの娘婿でもあるジャック・アラン=ミレールは次のように語っている。([PDF]The Archaic Maternal Superego-Leonardo S. Rodriguez - Jcfar.org

“The superego as senseless law is very close to the desire of the mother before that desire becomes metaphorised, and even dominated, by the name-of-the-father. The superego is close to the desire of the mother as a capricious whim without law.”

ようするに、「享楽の父」やら「母なる超自我」とは、欲望が隠喩化(象徴化)される以前の「父」の欲望の体現者なのであり、そこにあるのは、猥雑な、獰猛な、限度を弁えない、言語とは異質の、そしてNom-du-Père(父の名)を与り知らない超自我であり、無法の勝手気ままな「母」の欲望と近似する。そして象徴的権威の失墜の時代とは、この「享楽の父」やら「母なる超自我」の至上命令が席巻する時代ということになる。

「母なる超自我」をめぐっては、ウェブ上に田中純氏の「暗号的民主主義──ジェファソンの遺産」にもそのいくらかの説明がある。

ジジェクは、主人のシニフィアンが有する象徴的権威は、それが構造的な曖昧さを抱えた仮想的なものであるからこそ成立すると言う★一二。全能であるか不能であるかが決定しえないがゆえに、父は支配的な権威を帯びる。この決定不能性に依拠してはじめて、民主主義の主体は自らの単独性を維持することも可能となる。だが、サイバースペースにおいては象徴秩序の次元に幻想の次元が融合してしまい、共同体の法は明確なルールとなってすみずみまで透明化されてしまうために、主人のシニフィアンの仮想的な地位そのものが失われ、象徴的権威は成立しえなくなるのである。

このようなサイバースペースの主体は、ゲームの場である社会関係のなかで、複数の規則を操りながら、本来の象徴的任務ではなく、局面に応じてさまざまな役割を演じわける〈病理的ナルシスト〉にほかならない。〈病理的ナルシスト〉は「本来の象徴的同一化を含んでいる、自分を縛るような関わりはいっさい持とうとしない。彼は根源的に体制順応者でありながら、逆説的に、自分を無法者アウトローとして経験する」★一三。

 ジジェクがここで注意を促しているのは、病理的ナルシストにおいては、主人のシニフィアンの権威、言い換えれば父性的自我理想が失効することによって、はるかに強力で脅威的な母なる超自我の支配が招かれるという点だ。母なる超自我は享楽を禁止することなく強要し、正常な性的関係を妨害する。あらゆる個人がサイバースペースのなかで自由に自己を表現できるような民主主義的共同体は、むしろ逆に、猥雑な超自我的な法によって享楽を強制し、自己破壊的な不安によって脅かす抑圧的な社会でありうる★一四。

(……)もとより、このような象徴的権威の失墜と病理的ナルシストの出現は、サイバースペースの結果であると言うよりも、後期資本主義社会の現実であり、それが〈摩擦なき〉抽象的空間としてのサイバースペースを必要としたと言うべきだろう。この空間の内部では、主体の〈社会的ポジション〉という象徴的委託が失われるとともに、母なる超自我が暴走を始める。

ここでふたたびジジェクの『LESS THAN NOTHING』に戻る。「象徴的ファルス」のフェミニストたちの誤解(かつての? いやいまもほどんどそうであろう)を説く箇所である。

ラカンの「男根中心主義」のたいていの批判のトラブルは、一般的に、彼らは“ファルス”と/あるいは“去勢”を前-概念的な通念の隠喩的な方法で言及してしまうことだ。標準的なフェミニストの映画研究の内部では、たとえば男が女に向かって攻撃的に振舞うたびに、あるいは女に彼の権利を強く主張するたびに、彼の行動は“ファリック”であることを示していると確かに信じ込む。女がどうしようもない状況に追いやられ、詰め寄られ等々に陥れば、彼女の経験はたいていは“去勢される”を示すことになる。ここで失われているのは、まさに去勢のシニフィアンとしてのファルスのパラドックスである。もしわれわれが(象徴的)“ファルス”の権威を行使するなら、支払わなければならない代価は主体者(エージェント)の立場を放棄して、媒体としての役割――その媒体を通して<大他者>が行動し話すのだがーーその役割を承諾しなくてはならないのだ。シニフィアンとしてのファルスが象徴的権威のエージェントを示すかぎりにおいて、その決定的な特徴はそれゆえ次の事実にある。それは“私自身”、生きた主体の器官ではないのであり、“場”なのである。その場所に外部の権力が介入し、私の身体にそれ自身を刻印するのである。その場所において<大他者>が私を通して行動するのだ。要するに、ファルスがシニフィアンという事実が意味するのは、結局、構造的には身体なき器官ということである。私の身体からともかくも“切り離された”ものなのである。ファルスの決定的な特徴、その切離性は、わかりやすく目に見えるようになっているではないか、レスビアンのサドマゾ的実践で使用される人工的なプラスチック製のファルス(“ディドロ”)の使用によって。それは玩具として普及している。――その玩具、ファルスはその使用を男のような愚かな手合いに委ねるにはあまりにも深刻なものである。

The trouble with most criticisms of Lacan’s “phallocentrism” is that, as a rule, theyrefer to the “phallus” and/or “castration” in a pre‐conceptual, common‐sense metaphorical way: within standard feminist film‐studies, for example, every time a man behaves aggressively towards a woman or asserts his authority over her, one can be fairly sure his actions will be designated as “phallic”;every time a woman is framed, rendered helpless, cornered, and so forth, her experience will most likely be designated as “castrating.” What gets lost here is precisely the paradox of the phallus as the signifier of castration: if we are to assert our (symbolic) “phallic” authority, the price to be paid is that we have to renounce the position of agent and consent to function as the medium through which the big Other acts and speaks. Insofar as the phallus qua signifier designates the agency of symbolic authority, its crucial feature therefore resides in the fact that it is not “mine,” the organ of a living subject, but a place at which a foreign power intervenes and inscribes itself onto my body, a place at which the big Other acts through me—in short, the fact that the phallus is a signifier means above all that it is structurally an organ without a body, somehow “detached” from my body. This crucial feature of the phallus, its detachability, becomes clearly visible in the use of the plastic artificial phallus (“dildo”) in lesbian sadomasochistic practices, where it circulates as a plaything—the phallus is far too serious a thing for its use to be left to stupid creatures like men.42

ジジェクはブラスチック製のファルスとしてディドロを挙げているが、張り形の類がわが国は先進国なのかどうかは寡聞にして判然としないにしろ、日本には古来「こけし」というすぐれて古典的なファルスがある。



《苔清水湧きしたたり、/日の光透きしたたり、》(北原白秋)
この象徴的ファルスによって、こけし水湧きしたたり、日の光透きしたたるまでに悦楽に耽る道具であっただろう。





小間物屋 すぽすぽさせて 一本売り

かたい奥 さてはりかたは よく売れる

小間物屋 よっきよっきと 出して見せ

いぼ付きは 切らしましたと 小間物屋

ふとどきな 女房へのこを 二本もち

  ーーーー諧風末摘花」より






ーーなどとすこし探っていたら、鼈甲製張り型などというものがあり、これを見ると。中空になっており、かつてのコンドームのような使用法もなされたのではないか(これではオレのサイズには合いそうもないな、--と書いておくべきだろうか)。




ーーーーーShunga: sex and pleasure in Japanese art


ははあ、天狗の鼻をうっかり失念していた。






いずれにせよ、「肌触り」(咥え触り)はとてもよさそうで、まあなんという偉大なる亀頭芸術よ!






わたくしは老眼用に、鼈甲眼鏡がひとつあるのだが、濃いブラウンであって、鮮やかな黄色のタイプは手に入れがたい。だが当地には水牛の角の眼鏡フレームがあり(これもいまでは台湾商人が買い占めてしまってなかなか手に入らないが、十年ほどまえは比較的安く手に入った)、鼈甲ほどの美しさはないにしろ、慈しんで使っている。





ーーこれはウェブ上で拾った鼈甲眼鏡の画像だが、形状、色合いはまさにこのとおり。ただ肌ざわりがやや粗いのが玉に瑕ではある。


西洋にも古来から、たとえばキクラデス諸島の彫刻( 紀元前3300 - 2000年)というすばらしいものがある。これは母なる超自我と象徴的ファルスが合体したかのようなシロモノである。







わたくしのかつての知り合い(というか前妻なのだが)は、ルーヴルでキクラデス諸島の彫刻の模造品(みやげ物)を購入して(亀頭の形のあきらかなものでしかも疣つき)、ことある毎にその頭を撫ぜて、ひどく愛玩していたのをいまでもよく憶えている。。






もちろん、たとえば、かなまら祭り/金山神社などという由緒正しき象徴的ファルス祭りをわれわれも持っている。

巫女たちは長さ60cmほどの白木で男根をかたどった御神木を抱え、神明神社から田県神社まで2kmほどを練り歩く。(今年も始まるシンボル祭り



ーーーあまり巫女らしい巫女でないのはどうしたぐあいか?


ここでも、ジジェクの別の書から「象徴的ファルス」と「象徴的去勢」の説明を挙げておこう。

……私の直接的な心理的アイデンティティと象徴的アイデンティティ(私が<大文字の他者>にとって、あるいは<大文字の他者>において何者であるかを規定する、象徴的な仮面や称号)との間のこの落差が、ラカンのいう「象徴的去勢」であり、そのシニフィアンはファルス(男根)である。なぜラカンにとって、ファルスはたんなる授精のための器官ではなく、シニフィアンなのか。伝統的な即位式や任官式では、権力を象徴する物が、それを手に入れる主体を、権力の行使する立場に立たせる。王が手に錫杖をもち、王冠をかぶれば、彼の言葉は王の言葉として受け取られる。こうしたしるしは外的なものであり、私の本質の一部ではない。私はそれを身につける。それを身にまとって、権力を行使する。だからそれは、ありのままの私と私が行使する権力との落差(私は自分の機能のレベルでは完全ではない)を生み出すことによって、私を「去勢」する。これが悪名高い「象徴的去勢」の意味である。この去勢は、私が象徴的秩序に取り込まれ、象徴的な仮面あるいは称号を身にまとうという事実そのものによって起きる。去勢とは、ありのままの私と、私にある特定の地位と権威を与えてくれる象徴的称号との、落差のことである。この厳密な意味において、それは、権力の反対物などではけっしてなく、権力と同義である。その落差が私に権力を授ける。したがってわれわれはファルスを、私の存在の生命力をじかに表現する器官としてではなく、一種のしるし、王や裁判官がそのしるしを身につけるのと同じように私が身につける仮面である。ファルスはいわば身体なき器官であり、私はそれを身につけ、それは私の身体に付着するが、けっしてその器官的一部とはならず、ちぐはぐではみ出た人工装着物として永遠に目立ち続ける。(ジジェク『ラカンはこう読め!』鈴木晶訳 P64-65)