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2014年9月18日木曜日

クーによる身体の欲動の噴出

ナチによる大量虐殺に加担したのは熱狂者でもサディストでも殺人狂でもない。自分の私生活の安全こそが何よりも大切な、ごく普通の家庭の父親達だ。彼らは年金や妻子の生活保障を確保するためには、人間の尊厳を犠牲にしてもちっとも構わなかったのだ。(ハンナ・アーレント)

ーーと、ツイッターにて拾ったのだが、何度か引用した中島義道の次の言葉はアーレントのパクリなんだな。

ナチスを最も熱心に支持したのは、公務員であり教師であり科学者であり実直な勤労者であった。当時の社会で最も真面目で清潔で勤勉な人々がヒトラーの演説に涙を流し、ユダヤ人という不真面目で不潔で怠惰な「寄生虫」に激しい嫌悪感を噴出させたのである。(『差別感情の哲学』中島義道)
魔女裁判で賛美歌を歌いながら「魔女」に薪を投じた人々、ヒトラー政権下で歓喜に酔いしれてユダヤ人絶滅演説を聞いた人々、彼らは極悪人ではなかった。むしろ驚くほど普通の人であった。つまり、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であった。(中島義道『差別感情の哲学』)

パクリというのは何の問題もない。もちろん自らの体験から出てきた言葉が尊いには決っているが。

耐え難いのは差異ではない。耐え難いのは、ある意味で差異がないことだ。サラエボには血に飢えたあやしげな「バルカン人」はいない。われわれ同様、あたりまえの市民がいるだけだ。この事実に十分目をとめたとたん、「われわれ」を「彼ら」から隔てる国境は、まったく恣意的なものであることが明らかになり、われわれは外部の観察者という安全な距離をあきらめざるをえなくなる。(ジジェク『快楽の転移』)


ーーというわけで、「自己批判精神」と「繊細な精神」を徹底的に欠いた「善良な市民」であるのだけはやめとけよ、なあ、おい!

…………

総統のピアニスト(ヒトラーのお気に入りだった)Elly Neyエリー・ナイのシューマンのEtudes Symphoniques, Variations Posthumes, No. 5に少し前びっくりして、彼女の他の録音をYouTubeでときどき聴いているのだが、わたくしには、ベートーヴェンの演奏はちょっと抵抗があるものが多い。

後期ベートーヴェンを、中期ベートーヴェンみたいにやられたら、オレの耳には我慢できないぜ、それがヒトラー好みだったら、趣味わるいな、やっぱりアイツ。もっともヒトラーが好んだワーグナーのオペラは,露骨にドイツ的な《マイスタージンガー》でも、東方の野蛮な遊牧民からドイツを防衛するために武器を取ることを訴える《ローエングリン》でもなくて、名誉や恩義などの象徴的義務にみちた日々の生活という昼を捨て去り、人を夜に埋没させて自己の死を恍惚として受容させる傾向をもつ《トリスタン》だったらしいが。

ところで、ヒトラーを「理解を超えた悪魔」として捉えるのではなく戦争神経症者(毒ガストラウマ)として捉えようとする立場もある。

第二次世界大戦におけるフランスの早期離脱には、第一次大戦の外傷神経症が軍をも市民をも侵していて、フランス人は外傷の再演に耐えられなかったという事態があるのではないか。フランス軍が初期にドイツ国内への進撃の機会を捨て、ドイツ国内への爆撃さえ禁止したこと、ポーランドを見殺しにした一年間の静かな対峙、その挙げ句の一ヶ月間の全面的戦線崩壊、パリ陥落、そして降伏である。両大戦間の間隔は二十年しかなく、また人口減少で青年の少ないフランスでは将軍はもちろん兵士にも再出征者が多かった。いや、戦争直前、チェコを犠牲にして英仏がヒトラーに屈したミュンヘン会議にも外傷が裏で働いていたかもしれない。

では、ドイツが好戦的だったのはどういうことか。敗戦ドイツの復員兵は、敗戦を否認して兵舎に住み、資本家に強要した金で擬似的兵営生活を続けており、その中にはヒトラーもいた。ヒトラーがユダヤ人をガスで殺したのは、第一次大戦の毒ガス負傷兵であった彼の、被害者が加害者となる例であるからだという推定もある。薬物中毒者だったヒトラーを戦争神経症者として再検討することは、彼を「理解を超えた悪魔」とするよりも科学的であると私は思う。「個々人ではなく戦争自体こそが犯罪学の対象となるべきである」(エランベルジェ)。(中井久夫 「トラウマとその治療経験」『徴候・記憶・外傷』所収 P88))

ーーで、何の話だったか?

エリー・ナイはシューマンがよい。すばらしくよい。




ひと月半ほど前、Schumann, Kinderszenen Op 15,Elly NeyがUPされており、昨晩気付いたのだが、これも、--上の演奏ほどではないがーー、とてもよい。





たまたま耳新しく聴いたのでことさら新鮮なのかもしれないが、今のわたくしには著名なハスキルやアルゲリッチの録音より、ずっと魅惑される(第十二曲Kind im Einschlummernの、やや速いテンポもいいなあ、ゆったりとした抒情過多の演奏きかされ過ぎだからなあ、--ところで、ゴダールの『映画史』の3Aでは、シューマンの「子供の情景」の二曲目が流れる。しばらくすると「ミス/クララ・ハスキル/と/一緒/に」との字幕がはいって、すぐに微笑したアルゲリッチの俯いた画像がCDの輪のなかに現われる、CDの上下には赤字で「エラー/マルタ・アルゲリッチ」と)。

エリー・ナイの演奏の魅惑は、ひょっとして打鍵(クー)によるところも大きいのではないか。

バルトは声について「きめ」(グラン)を間うたようにピアノについて「打つこと」(クー)を問う。

ルービンシュタインは打つことができない。許し難く凡庸な優等生アシュケナージはもちろん、時にすぱらしく重いピアニシモを聴かせる老練なブレンデル、そしておそらくポリーニさえ、打つことができないと言うべきだろう。

彼らは音楽の制度に余りにも見事に適合しているため、分節構造の内部のしかるベき位置に音を置いていくことしかできないのだ。

ナットやホロヴィッツは打つことを知っている。いや、打つというのは知ってできることでほない、彼らは音楽の制度から何ほどかずれているがゆえに、分節構造からはみ出るような音をどうしようもなく打ち出してしまうのである。(浅田彰『ヘルメスの音楽』

若い浅田彰ーー「ヘルメスの音楽」は1985年出版だから、28歳だなーー思い切ったこというねえ、アシュケナージやブレンデルはまだしも(ブレンデルだって、許し難く凡庸な優等生さ)、ポリーニさえ、打つことができないって言ってんだから。もちろんここで「敢えて」名前を外しているグールドは、クーのひとという評価に決まってるし(浅田彰の偏愛の対象だからな)、では「完璧主義者」のーー最近、老いのせいか人の名前を忘れることが多くなったよ、一分間ほど名が出てこないぜーーミケランジェリってのは、さあて、どういう評価してんだろ。ツイッターで音楽のこと書くなら、このくらいのこと書けよな、そこの若いの。ミケランジェリは、打つことができない、とかさ。

誤解されると困るから書いておくが、ステージで脳溢血で倒れた後の、ミケランジェリは、少なくとも完全にクーの人だぜ




ーーポリーニも脳溢血やるべきじゃないのかね

さて寄り道が長くなった。
ホロヴィッツはここでは脇にやり(Kinderszenenの話だぜ)、
イヴ・ナットの演奏を聴いてみよう。

まず、1930年の録音。




打つことにおいて身体の欲動が分節構造の只中に噴出する。だからといって、打つことを分節構造と双対をなす連続体の側に帰属させるようなことがあってはならない。

打つことはその両者の<間>であり境界点なのであって、打つ音のつらなりは連続体の側にも分節構造の側にも属さない独自のリズミックな運動体を形作るのである。

中沢新一は(「チベットのモーツァルト」の中で)連続体にポツンと点が打たれるときにもれる禅の笑いについて語っている。その点は連続体に属さないのと同様に分節構造にも属さず、あくまでも両者の<間>のパラドキシカルな場所にあってゆらめいている。ただそれだけのことが何ともいえずユーモラスな笑いを誘うのだ。

ひとたびそういう点のつらなったリズミックな運動体として世界をとらえることを知れば、硬直したニ元論や弁証法を持ち出す必要はさらになくなるだろう。バルトが「打つ音」と言うのも、まさにそのような点のことだと考えてよい。

半ば連続体に身をひたしつつそこからとび出そうとする点、自らのうちにずれや複数性を孕んだ点が、振動しながらつらなってレース模様を織りなしていくとき、そこに音楽が生まれる。(浅田 彰)

今のわたくしの耳には、次の1954年の録音よりも、上の1930年のほうが好ましい。そこではバルト=浅田彰のいう《打つことにおいて身体の欲動が分節構造の只中に噴出する》ことが目覚しい。





ーーホロヴィッツ、なんで外したんだって?
芸術家気取りのきみたち、ホロヴィッツきらいだろ、だからさ
「許し難く凡庸な優等生」をなんとかはずそうと
「不良」を気取っているそこの〈きみ〉もだよ

スヴャトスラフ・リヒテルBOT
(ホロヴィッツについて①)
……驚くべき人物、
それでいて不快極まりない、
それでいて卓越したうまさ(「音楽院」的な意味で)、
それでいて夢幻的な音色、という具合に何もかもが矛盾している。
何という才能!それでいて何という下卑た精神……。
(ホロヴィッツについて②)
これほどに気さくで、これほどに芸術家気質で、これほどに限界のある人物とは(いたずらっぽい笑い方を聞いてみよ、彼の姿を見よ)。
それでいて何という巨大な影響を若いピアニストたち(音楽家ではない)の感性に及ぼしたことか。
すべてがあまりにも不可思議だ……。
(ホロヴィッツについて③)
加えてあの「陰険な」ワンダ[ホロヴィッツ夫人]が、例のいわゆる「寛容」にして助力を惜しまぬ女性がいつも傍らに待機して、何事にも目を光らせている。
ほかに何と言ったらよいかわからない。(11月13日